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第35話 灯らぬ火に 望を結びて


 出雲は、宗像の霊域のちょうど中間にあたる地だった。かつて志貴が日常を送っていた場所のはずなのに、ここへ来ると、生活の匂いが先に立ち上がらない。残るのは地の硬さと、息の通り道の冷えだけだ。


 咲貴はその中心に立っていた。


 名は道反。名の通り、還らぬはずの道から、無数の命が引き返された地だと伝わる。死と理の境を知る王のみが、ここへ座すことを許された。


 宗像の王が座すとされる御座所の一つ。今上である志貴が心臓と定めた場所。けれどこの地を心臓とする王は、宗像の歴史のなかでも数えるほどしかいない。


 理由は、立っているだけで皮膚が理解してしまう。


 道反は、最も深く禁域と接している。足元の土の下に脈がある。鼓動と呼べるほどの音はないのに、踏みしめた重みが遅れて返ってくる。黄泉の底と繋がっているとすら言われるのは、たぶん誇張ではない。ここでは、見えないものが先に触れてくる。


「強くなければ、ここを御座にはできない、か」


 咲貴は呟き、そっと膝をついた。膝が畳ではなく土に触れるだけで、身体の中の熱が居場所を失う。座すという行為が、ただの姿勢ではなく、理へ身を沈める手順だとわかる。


 この地に、かつて志貴が立っていたという記憶の残り香があった。


 志貴はここで、誰にも言えぬ夜を越えた。香の奥に、わずかに塩を帯びた気配が残っている。涙の塩ではない。息が乾き、声が削られた夜の名残だ。その記憶の記憶が、静かに地へ沈んでいた。


 以前のような道反の拒絶の気配は薄れ、代わりに、余韻だけが辺りを包んでいた。押し返すのではなく、ただ残る。残ることで、かえって逃げ場がなくなる。


 志貴が使っていた香炉が傍らにあった。土埃を被り、金属は鈍く曇っている。咲貴は手を伸ばし、指先でわずかに触れた。


 触れた瞬間、世界が裏返った。


 視界が白く反転し、光ではなく、白い面そのものが迫ってくる。まぶしさではない。視界の意味が奪われる。身体の内側が燃えるように熱くなり、熱が皮膚へ出る前に骨へ噛みつく。


 喉が鳴る。息を吸おうとして、吸えない。胸が自分のものではないみたいに固く縮む。


 次に気づいたとき、咲貴は地に倒れていた。頬の横に畳の匂いがあり、冷えた布の感触が頬骨を支えている。道反の土ではない。室内へ運ばれたのだと、鼻の奥が遅れて知らせた。


「目、覚めたかい?」


 襖が開く音とともに、柔らかくも棘を含んだ声が落ちる。時生だった。湯気の立つ湯呑を持ち、眉をわずかにひそめている。怒っているのではなく、間に合うように叱っている顔だ。


「いきなりあんなものに触るからだよ。馬鹿なの?」


 咲貴は目を細め、差し出された湯呑に視線を落とした。中の液体が、うっすら赤い。湯気に混じる匂いが、甘さのない鉄を連れてくる。


 息が詰まる。喉の奥が勝手に乾く。


「これ、まさか」


「そう、冬馬の血だ」


 手が震え、湯呑を取り落としかけた。時生がすっと手を伸ばし、落ちる前に支える。動作は静かで、容赦がない。こぼしている時間がないという手つきだった。


「宗像はこうする。倒れたら、立つためのものを入れる。それだけだ」


 時生の声は柔らかい。だが言葉が、咲貴の外側へ置かれていく。慰めの温度ではなく、処置の温度だ。


「志貴が、いつも口にしていた飴。あれも」


 咲貴の言葉に、時生は目を伏せ、困ったように笑った。笑いは短く、すぐ消える。


「彼女専用の補助だよ。あれに手を出しちゃいけない理由、ようやくわかったみたいだね」


 湯呑を咲貴の手に戻し、時生は膝を正した。畳に座る動きが、戦の家の人間のそれだった。ためらいがない。


「宗像本家は、他の家とは、扱うものが全く違うんだ」


 時生は視線を落としながら言う。術も香も命も、すべて同じ皿へ載せる。その上で、優先されるのは間に合うこと。ただそれだけ。


 時生の湯呑を持つ手が、微かに揺れる。


「回復に時間なんて、かけられない。それが常に最前線へ出る家で生きるってことだよ」


 一拍、沈黙が落ちる。


「穂積の冬馬ですら、驚いていた。……まぁ、仕方ないか。君は当面、冬馬の血で立つことになる」


 咲貴は湯呑を見つめたまま、言葉を失った。


 自分が誰かを食らっている感覚が、どこかに残る。飲み込めば容易く立てる。それが正しいと頭が知っていても、身体の奥の嫌悪が反射みたいに跳ねる。


 そっと湯呑を盆の上へ戻し、目を伏せた。


「こんなやり方、私はしたくない」


 低く落とした声に、時生はすぐには返さなかった。長い沈黙のまま、畳を一歩滑らせる。盆を手に取り、ふと顔を上げて咲貴を見た。湯気が一度、細く歪んだ向こうにいる時生は笑っていなかった。


「ひとつだけ、お願いがある」


 声の調子が変わった。穏やかさが削られ、芯だけが残る。言葉が咲貴の胸の奥へ真っ直ぐ刺さった。


「あの子は、もう限界まで削られてきた。せめて、君だけは、志貴の前で、そんな顔を見せないでやってくれ。あの子は、それがないともう生きていけないのだから」


 盆が静かに畳へ置かれる音が、咲貴の耳に重く響いた。


「……好きにしなよ」


 時生の背が襖の向こうに消えていく。歩みは荒くないのに、畳の目だけが軋んだ。


 やってしまった、と咲貴は唇を噛んだ。


「私は、まだ宗像として半人前なのに」


 たったひとつの拒絶が、誰かの信頼を壊す。その壊れ方が、宗像では予想以上に速い。それを思い知った気がした。


 時生が去ったあとの空間に、咲貴という名がまだ馴染まず、宙を彷徨っている。名が浮くと、身体も浮く。浮いたままでは、すぐ折れる。


 赤い飴しか喉を通らないという志貴に、握り飯を押しつけた自分の手の温度だけが、いまになって戻ってくる。あのとき志貴の喉が詰まった理由が胸へ落ちた瞬間、咲貴はふいに息ができなくなった。


 そのとき、空気が逆巻いた。


 志貴とは違う、名のざわめき。香でも火でもない。皮膚の内側を掻くような存在感が、咲貴の魂をかすめた。


「宗像の当たり前は、お気にめさないようだね」


 振り返る間もなく、視界に金色が差し込む。金の髪。風もないのに揺れている。蒼い瞳。気配が、ない。気づけば男の指先が、咲貴の首元にまで届いていた。


「それに、君の朔は不良品かな」


 指先が首筋にかかる。掴まれるでもなく、撫でるでもない。ただ触れているだけで、息が止まりそうになる。皮膚が冷える。冷えの奥で、熱が逆に跳ねる。


「あるいは、途轍もなく、寛容らしい」


 声は冷笑と甘やかしが混じっていた。禍々しさはない。けれど得体が知れない。男がそこにいるだけで、空間の密度が変わっていく。


 男は咲貴の前にあぐらをかき、悠然と座り込んだ。畳に座るという行為だけで、この場を自分の縄張りへ塗り替える。


「こんな調子では、半日も保たずに首を落とされてしまうよ」


 男は咲貴の頬に手を添え、指先で静かに撫でた。柔らかい動作なのに、逃げ道が消える。


「志貴なら、血を吐くほど嫌がる行為も。君は平気なんだね。本当に、才能がある。いや、順応性が高いと言うべきかな」


 咲貴はわずかに眉をひそめた。平気なはずがない。けれど咲貴の頬は動かない。その動かなさを、男は撫でるように弄ぶ。


 男の指が宙を動き、煙のようなものが立ちのぼる。香ではない。焼けてもいないのに、煤の気配だけが滑り込む。やがて空中にひとつの字が浮かび上がった。


 咲貴は思わず、それを読み上げた。


「望」


 男が目を細め、口角をゆるめる。


「ほう。これを望と読める目を持っているとは」


 玩具を見つけた子どものように笑う。笑いの奥に、底がない。


「なるほど。宗像の双子は、やはり面白い」


 宗像の双子という言葉が落ちた瞬間、咲貴の背骨の奥が冷えた。冗談めいた調子なのに、封を指でなぞられたみたいに肌が粟立つ。


「強い王は必ず双子。王格がひとりで耐えきれないほどの高みへ向かうとき、最初から器を二つ整える。宗像はそう信じている」


 望は、咲貴の内側のどこが動くか確かめている。


「泰介と公介が生まれたときも、一度は期待しただろう。もしかしたら、と。けれどね」


 声音がわずかに落ちた。


「女の双子だけは、いわくつきだ」


 言われたくなかった言葉を、正確な角度で刺された。息を吸い損ね、胸の奥がきしむ。


 高みにあった姉が弑され、妹が王座についた。封じの記録に残るのは、それだけだ。理由も、血も、名も、そこで途切れている。残るのは封だけだ。


 そして、その妹を支援したがために、津島は宗像と対等になり得なくなった。本来なら第二王家として立ってもおかしくなかった家が、いまは家臣の並びへ落ちた。援けた者が沈み、封じられた物語は、いつもその形で終わる。


 だから咲貴は、双子という言葉を祝詞として受け取れない。


 望はその沈黙を噛みしめるように笑う。


「君は、知っている顔をするね」


 咲貴は視線を逸らさなかった。答えれば、封じの記録に自分の息が混ざる。混ざった瞬間、その禁忌が、いまの自分へ繋がってしまう。


「名が望ってことでいいの?」


 望は指先で煙を払う。字が崩れ、淡く散った。


「好きに呼べばいい。もっとも、それが本当の名かどうかは、君次第だけどね」


 声音は人とも獣ともつかない。けれど、どこか懐かしさすら孕んでいた。懐かしさが危うい。懐かしいものは、油断を連れてくる。


「君の父親、泰介は、私を使っていた。状況は、君とまったく同じだった。志貴が控えている以上、自分が壊れても仕方がない状況だった。君と、似ているだろう」


 父の名が出た瞬間、咲貴の胸の底で、別の痛みが立ち上がった。


 公介の顔が浮かぶ。泰山の封域で、あの男が咲貴に向けた視線の置き方。優しいふりをした冷えではない。家の当主としての冷えでもない。志貴のために咲貴を使うしかない、と決めた者の目だった。


 咲貴はあの目を見たとき、理解した。


 公介は本当は、自分を宗像の王に据えたくない。王にして、宗像が回ってしまうことがかえって危ない。志貴の帰り道が、咲貴という現実に塗り潰される。それを公介は恐れている。


 恐れているから、咲貴を一季の王と呼んだ。王だと呼びながら、期限を名に混ぜた。期限があるかぎり、志貴の座は死なない。咲貴はその線引きを、ぬるく笑う余裕もなく受け取った。


 自分は、代用品ではない。代用品にされる瞬間が一番残酷だ。だから咲貴は、代用品として完成しないように、わざと欠けたまま立とうとした。欠けたままなら、志貴の帰り道を塞がない。


 その欠けを、いま目の前の男が嗅ぎ当てている。


 咲貴は拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、痛みが現実を呼び戻す。


「父さんが?」


「君の記憶にある彼は、優しかっただろうね。でも、あの男は使えるものは何でも使う。志貴を守るためならば、どんな毒も、自ら取り込む」


 望は指で宙をなぞる。浮かび上がる紋様。香の制御陣だった。線が空気を切り、空間が一瞬だけ締まる。締まった瞬間に、呼吸が浅くなる。


「百日を越えたければ、選択肢は限られている。血を受け入れ、私の干渉を赦す。その代わり、助けてあげよう」


 咲貴は目を伏せ、吐息をひとつ落とした。息を深くしない。深くすると、熱が暴れる。崩れない分だけ吸い、崩れない分だけ吐く。


「干渉を赦す代わりに、条件を出す。私が望む見返りは、ひとつだけ」


 望の目が、わずかに細められた。


「言ってみるがいい」


「志貴に、干渉しないこと」


 沈黙が落ちる。落ちた沈黙の重みで、畳が軋むように感じる。


 そのあと、望は目を見開き、喉の奥でくつくつと笑い出した。


「ほんとうに、親子だな」


 笑いは昔話を懐かしむようで、だからこそ薄気味悪い。


「泰介も、同じことを言った。志貴には、触れるな、とね」


 声に、ほんの少しだけ寂しさが滲んだ。寂しさが滲むぶん、過去に深く触れているのがわかる。


「志貴には、触れさせない盾が常にあった。泰介、一心、そして今は、君か」


 望は小さく息を吐く。吐息が畳を冷やし、空間の隅が暗くなる。


「いいだろう。君が眠らない限りは、志貴に干渉しない。これは言の葉の誓い。魂を縛る契約になる」


 咲貴は指先に歯を立てる前に、一瞬だけ視線を落とした。


 幼い頃、山道に紫の花が咲いていた。濃い色で、形が整っていて、風に揺れるたび、目を引く花だった。


 志貴は足を止め、屈みこんだ。指先で花弁を撫で、息を吸った。


「きれい」


 その声には、疑いがなかった。ただ、きれいだと思ったことを、そのまま口にしただけの声だった。


 咲貴は、トリカブトという花の名を知っていたから、言わなかった。


 代わりに、一歩前へ出て、靴で踏み潰した。


 紫が土に滲み、形が崩れる。志貴が息を呑んだ。


「なんで」


「毒だよ」


 それだけ言った。花の名は出さなかった。名を与えれば、志貴は覚えてしまう。


 志貴は、帰り道、何度も振り返ったが、咲貴は一度も振り返らなかった。


 あのときから、わかっていた。


 志貴は、きれいなものだと生かす。咲貴は、危ないものだと潰す。どちらが正しいかではない。ただ、歩き方が違う。


 咲貴は視線を上げ、望を見た。


 志貴が拒むものに、志貴より先に手を伸ばす。嫌でも踏む。踏んだ足で、帰り道を空ける。それが自分の役目だと、どこかでずっと思っていた。


 咲貴は指先に歯を立て、血を滲ませた。滲んだ赤を掌に押しつけ、手を差し出す。


 望もまた自らの掌に血を滲ませ、静かに手を重ねた。


 空気が変わった。志貴の灯が香る空間に、まるで別の匂いが滑り込んでくる。火ではない。赦しでもない。染み込むような毒。けれど、その毒は咲貴にとって、なぜか温かった。温さが怖い。温い毒は、身体に住みつく。


「後悔するかもしれないよ」


「そっちこそ」


 咲貴は微かに口元を上げた。笑いではない。折れないための形だ。


「私は志貴と違って、頑丈なんだから」


 望の指が額に触れた瞬間、香ではない匂いが咲貴の内奥に広がった。志貴の香が灯りなら、それは影に染みる毒。焦げつくような苦味。けれど、その苦味こそが、いまの咲貴を正気に引き戻していた。


「その言葉、しばらく忘れないでおくよ」


***


 襖紙が、湿りをひとつ、吐いた。


 わずかな紙鳴り。音は小さいのに、部屋の匂いのほうが先に崩れる。畳の草いきれが引き、乾いた紙が前へ出る。焦げきらない煤が、息の通り道だけを薄く撫でた。冬馬の足裏に残っていた人のぬくもりがほどけ、喉の奥だけが先に冷える。


 敵意はない。殺気もない。


 それでも、このままここに居続けたら、自分の立つ場所が奪われる。足裏がそう告げた。畳の目が、いつもより細い。沈むはずの体重が沈み切らず、わずかに浮く。浮いたぶん、場のほうが先に座り直してくる。


 冬馬の舌の裏に、理由のない苦味がにじんだ。喉が勝手に鳴り、唾がうまく飲み込めない。けれど身体は動く。考えるより早く、膝が浮く。浮いたその起点を、何かが無造作に潰した。


 公介の手だった。


 握り締めるでも、捻じ伏せるでもない。背の筋に沿って置かれた圧が、肩の角度をほんの少し変え、立ち上がるための力だけをほどく。


 冬馬の怒りも決意も、そのまま畳の上に置き去りにされた。足は前へ出たがるのに、腰が追いつかない。身体の中の衝動だけが居場所を失って軋む。


 その扱いが、胸の奥を静かに裂いた。


 朔という重役を引き受けたはずの身体が、易々と止まる。宗像の当主が手を出せば止まる。その現実は価値を否定しない代わりに、存在の限界を冷たく刻む。もし一心だったら、という思考が浮かびかけ、冬馬は舌の裏で噛み殺した。比べた瞬間に、立てない理由が完成してしまうからだ。


 冬馬はただ、志貴の香にも折れにくい性質を持っていただけだ。その稀さで抜擢された朔ゆえに、いまこの掌ひとつで止められている。


「待て」


 公介の声は低く、熱がない。怒鳴らないのは情けではなく段取りだ。大きな音は、向こうのものに息を与える。


 冬馬の視線が襖に吸い寄せられる。紙の白さが薄く、向こうの気配が透けるように感じる。止めねばならないと胸が叫ぶより先に、止める猶予が消えかけていることを、皮膚が先に知っていた。


「止めるんやろ」


 声が外へ出る前に削れ、自分の声が自分のものではないみたいに軽い。公介は首を振らず、代わりに指の圧をわずかに増やした。冬馬の膝が畳へ縫い付けられる。痛みが命令の代わりになる。命令の方がまだ楽だと思った瞬間、腹の底が苦くなった。


 そのとき、襖の向こうで、畳を指先がゆっくりなぞる音がした。


 爪ではない。指腹が畳の目を確かめるように滑る。遠慮もなく、躊躇もなく、確かめるという名の占有が静かに進む。触れられているのは畳のはずなのに、冬馬の思考の縁が撫でられていく。背筋に汗が浮いた。場を取られた、と息だけで理解する。そこに座った瞬間から、あれは部屋の主になれる。


「止めたら、咲貴が死ぬ」


 公介が言った。声音に焦りがないから、冬馬には逃げ場がない。咲貴が死ぬ。その言葉で視界が狭くなり、咲貴の顔が浮かび、次に志貴の横顔が浮かび、二つが同じ線で結ばれてしまう。


「狐やぞ」


 喉が乾き、言葉が短くなる。長く言えば、向こうの冷たさが言葉の芯を抜く。


「わかってる」


 返事が早い。早いということは、もう決めているということだ。


 公介の指は迷わない。毒だと知っている手つきのまま、段取りだけを先に終わらせる。冬馬の呼吸が乱れる前に、乱れる順番ごと押し潰していく。止めるべきだと胸が言い終わる前に、止めるための手がもう置かれている。


「志貴が……吐くほど嫌がった」


 冬馬は続けたかった。嫌がったのは弱いからではない、守るべき理由があるのだと叫びたかった。だが、その理由を支えていたものが何だったかが、今さら胸に落ちる。志貴は拒む。拒みながら王として立つ。拒む声が折れないのは、傍に立つ存在がいるからだ。一心という、止めようのない半身が、拒絶を孤独にしないからだ。


 咲貴の背後には、その強度がない。


 冬馬は、畳へ縫い止められた自分の膝でそれを思い知った。ここで止まるという事実が、そのまま咲貴の孤独を証明してしまう。自分ひとりでは足りないから、もう一つを入れるしかない。毒だと知ったまま、毒を立てるしかない。


「お前は、どちら側や」


 公介の声が、さらに低く落ちた。


「狐を使うなと、お前が言えるんか」


 冬馬の呼吸が詰まる。言えるはずがない。言えば咲貴は止まる。止まれば百日は崩れる。崩れた先にあるのは、咲貴の失脚ではなく、志貴の帰り道が塞がる未来だと、冬馬は骨の奥でわかってしまう。


「一心には、止めるなんて手段そのものが通じん。けどお前は、俺の手ひとつで止まる」


 言葉が、冬馬の膝をさらに深く畳へ押し沈めた。守るために動けるはずだった場所で、守るために動けない証拠だけが積み上がっていく。


「お前がほんまに護りたいのは誰や」


 公介の手が、冬馬の肩をもう一段だけ下げた。立ち上がれない角度へ、わざと落とす。逃げるための姿勢まで奪う。宗像の当主がその気になれば、朔の動きを消せる。その一点が、冬馬が単独で立てない理由を、言葉より重く示していた。


「百日保たんかったら、どうなるか、わかるな」


 冬馬は否定できなかった。守らねばならないのは咲貴だ。だが守るために動けば、志貴の帰り道が毒で塞がれる。止めたいのに、止める手が志貴を殺す。咲貴を救うための動きが、志貴の方へ毒を招く。その矛盾が胸の内側で膨らみ、息をするたび痛む。守る相手を間違えていないのに、守り方を選べない。


「泥を飲め」


 襖の向こうで、畳がきしむ。座る音が、もう一度。


 その音は、咲貴のものではない。咲貴が座す音はもっと重い。必死を隠すために静かになる。これは違う。余裕の音だ。自分の場所だと確信した者の所作だ。冬馬は叫びたかった。襖を開け、咲貴の前に身体を差し込み、毒だと言ってやりたかった。だが声を出せば咲貴が振り向く。振り向いた瞬間、咲貴の名の端を撫でて奪うか、もっと近い匂いを辿って志貴へ向かうかもしれない。


「動いたら、あかん」


 公介の声が、さらに低くなる。冬馬の呼吸が詰まる。深く吸えば、向こうのものが胸の奥へ潜り込む。


「お前が飛び込んだら、契約は破れる」


 破れるという語の硬さが、冬馬の歯を軋ませた。


「破れたら、ほんまに志貴を護れんぞ」


 言い直しは容赦ではなく、釘だ。冬馬の中で、最後の抵抗が折れていく音がした。折れていくのは意志ではない。守るために選べる道そのものだ。


「冬馬、すまんな」


 公介の声が落ちる。謝罪は本物だ。だが本物であるほど、判断が変わらないことがわかる。


 次の瞬間、冬馬の身体が崩れた。畳に落ちる音は鈍く、息がぶつかる音が遅れてくる。骨が畳に受け止められる感触が遠い。自分の重さが、自分のものではなくなる。


 落ちる前に公介に抱きとめられた。腕の温度は慰めではない。現実の温度だ。現実は優しくない。


 意識が遠のくなか、冬馬の喉の奥で言葉にならない息が鳴った。


 志貴の帰り道だけは、閉じないように。


 願いは声にならず、口の中の熱と一緒に沈んでいった。


***


 その夜、咲貴は香のぬくもりに身を沈めるように、そっと目を閉じた。


 額に残る痕跡は、志貴の香とはまるで違っていた。毒で、影で、香に似て非なるもの。けれど咲貴の名は、それを受け入れた。灯として受け入れたのではない。灯にするしかないものとして、受け取って抱えたのだ。


 胸の奥でひとつ、言葉が折れる。冬馬は来なかった、と。


 それが責めでも疑いでもないことを、畳の冷えが先に教える。指先を畳に置くと、目の間に沈むはずの熱が沈まない。代わりに、襖の紙だけが乾いていく。誰も立てた覚えのない余白が、部屋の端に増える。増えた余白が、咲貴の呼吸を薄くした。


 間に合うほうへ寄せた動きほど、音が出ない。畳も、襖も、息も。音が出ないぶん、あとから刺さる。刺さったと気づいたときには、もう選び直せない。


 咲貴は指先で胸を一度だけ叩いた。音を立てるためではない。名を身体へ落とし、散らさないための所作だった。


「百の夜、何が何でも越えないと」


 毒から生まれた灯であっても構わない。構わないと決めなければ、すぐ折れる。志貴の帰り道を、いまの自分が塞がずに、百日を渡り切るために。


「それしか、できないんだ」


 声は低く、喉の奥で掠れた。掠れの向こうで、香がそっと震える。志貴の香ではない。けれど確かに、咲貴の名が、ここに在った。

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