第32話 黄泉ゆらぐ 香もなき夜に 君を識りたり
夜は、自らの“名”を忘れていた。
けれど、そこに黎明の兆しはなかった。
香も炎も、いまは“理”の底で凍りついている。
宗像が因縁とする“白い炎の女”は、またなりをひそめていた。
──かつて、志貴の父・泰介と交戦した後と同じように。
公介は、千曳の岩の前に立ち、腕を組んだまま、しずかに息を吐く。
志貴が眠りについてから七日──封域は、かつての“結界”ではなく、“禁域”そのものへと変貌していた。
時の律動すら、ここでは足を止めている。
火も、香も、光さえも──志貴の眠りに合わせるように、まばたきひとつ許さぬ静寂に染まっていた。
夜が、香の名さえ──“志貴”という存在そのものさえ、もう受け容れようとしない。
だが、あれほど騒がしかった境界は、嘘のように鎮まりかえっていた。
悪鬼の跋扈も通常通りで、大物の流出もない。
「……こんなこと、できるとしたら、志貴しかおらへんな」
それは、苦笑とも祈りともつかぬ呟きだった。
公介は、志貴が最後に身に纏っていた王装束を手にして、目を閉じたまま、息を吐く。
一心が、故意に置いていったのだろう。
しきりに“似合わない”と口にしていた彼らしい行動だ。
「俺らにとっては、これが“神隠し”でしかないわ、一心……」
──一心が、何をトリガーとしたのか。
その確信だけが残り、詳細は闇のままだ。
公介と楼蘭でさえ、壮馬が離反者だとは読めなかった。
あまりにも巧妙で、常に後手に回らざるを得なかった。
「志貴やな……」
一心の判断基準は、志貴の思考と反応にある。
一瞬の表情の揺らぎすら見逃さない。
だったら、言えよ……。
──時生は良い迷惑の大怪我だ。
「……完璧にやりとげると決めたなら、志貴以外の命なんか、気にせんわ、あいつ」
一心が“志貴のため以外に動かない”と宣言した時、公介はそれを承知した。
「……時生には、詫びなあかんな。
あいつの好物、なんやったか……」
敵側に回らないと確信していたのは、公介自身と楼蘭のみ。
それ以外には、すべてを明かすことすらできなかった。
咲貴や冬馬には、これからも“漏らせないことだらけ”だ。
「……黙って待ってくれるような、良心的な敵方やったらええんやけどな」
苦笑のまま、王装束を強く抱きしめる。
「……志貴の名を、奪わせてたまるか」
──喉の奥で、名を焼いた。
咽が裂けようとも叫べない。
それでも、志貴の“名”だけは、誰にも渡さぬと──
魂が、先に叫んでいた。
嗚咽ではない。叫びでもない。
“この名は、俺の中でだけは──絶対に死なせん”
そう、胸骨の奥で吼えた。
禁域の、その静けさの奥で、確かに何かが喪われはじめていた。
志貴の残した香の流れが断たれ、名が消えかけている。
その異変に最初に気づいたのは──公介だった。
「……気配が、消えすぎや」
呟いたその声に、誰も答えなかった。
***
宗像の本邸は冷えたまま。
香炉の火も揺れない。
時生は黙って茶を淹れていた。
首や腕の包帯が痛々しい。
「公介さん、飲みます?」
室内には、志貴が最後に残した桃の香が、いまだ微かに漂っていた。
まるで、それだけが彼女の“証”のように。
時生は、向かいにいた冬馬にも、そっと湯呑みを差し出した。
冬馬は苛立ちを隠さず、湯呑みを握りしめたまま、言葉を吐き捨てた。
「この七日間、あの2人から接触がない。……中枢の側近に何の連絡もよこさないなんて、ありえない!」
その言葉に、公介はわずかに目を伏せた。
──すでに、“知らせ”が届いていたからだ。
ほんの、数時間前のことだった。
月影の庭に、風のような足取りで現れたのは──黒き神狼だった。
ヨルノミコト。
一心が神格の代行として遣わした、無声の使者。
「……おまえか」
『そのまま、聴いて。……"志貴"の名は沈黙の裡にてのみ語られる』
公介は直立のまま息を止める。
黒狼の瞳は誰も映さない。ただ“命”だけを運ぶ。
『百日。──そのあいだ、理の底より戻ることはない』
──百日。
返しかけた言葉を、公介は喉の奥で噛み殺す。
『志貴様の魂はいま、“赦し”の理により、最深に沈んでおられます。……主──一心様は申されました。その静寂を破る者あれば、主が敵味方の区別なく牙を向ける、と』
「あいつ、ほんまにやるからな……」
一心らしい言葉に背筋が冷える。
「だがな、志貴の名が……薄れかけている。俺たちが忘れてしまえば──」
名は、世界に刻まれてこそ“在る”とされる。
呼ばれぬ名は、やがて忘却に沈む。
『だからこそ、お伝えにまいりました。
“志貴”の名を今、刻めるのは──あなた方、のみ』
その声音は低く、凪いでいた。
最大で二。最小で二。
それが、一心の“いつもの伝達”だ。
──笑うべきか、でも……笑えんわ。
「……百日は、でかいな。……“もたせろ”ってことか?」
唇を噛む。
名を護る──それが彼に課された、“次の試練”だった。
──志貴は、戦っている。
その眠りは、赦しという名の理を、その身にもう一度受け入れるため。
この世界の理を、自己欺瞞で操作する存在に抗うための“再生”である。
「わかってるやろうが……簡単なことやないぞ? 向こうからすれば、今は“攻め時”や」
ヨルノミコトは何も言わなかった。
ただ、じっと公介を見据える。言葉以上の圧。
──志貴をまた、危険にさらすのか?
そう言われた気がして、公介は目を伏せた。
「……わかった、わかった!やってみよう。……ただな、叔父の目から見れば、姪はどっちも“まだ”子供やぞ? 一心には……咲貴を立たせてみる、と伝えてくれ」
──けれど、それはつまり、咲貴に“王格"を降ろすということだ。
世界は、ひとつの理に、ふたつの“名”を許さない。
志貴が沈めば──咲貴が“名”を得た瞬間、その理は志貴から流出する。
それが“上書き”の真意。
忘れられた王は、存在すら否定される。
それを──"百日間限定"で強制執行するのだから、いたたまれない。
これに、どういう意味があるのか、咲貴にはまだわかるまい。
ヨルノミコトは納得したのか、風の中へと姿を消した。
「全く、志貴以外にはほんま、容赦ないな……。まぁ、想定内ではあったが……」
──伝令が来た時点で、俺の頭の中は、すでに見透かされていたわけか……。
公介は、空気が抜けるような深い溜息をついた。
***
ほぼ同刻、泰山──。
楼蘭は水鏡の前で香を見つめていた。
風のざわめきと共に、黒狼が現れる。
「ようやく来たね」
『我が主の命により、参りました。……お伝えしても?』
「……構わないよ」
『こちらは百日は出せない。“アレ”を叩き起こして、壁にでもせよ、と』
「“アレ”ね……まあ、察しはつく。──本当は、もう少し眠らせておきたかったんだけど」
楼蘭は苦笑を浮かべながら、頬を押さえた。
「百日とは……ずいぶん気合いが入ってるね。あの男、今の千年王が僕だけって知ってるくせに……本当に悪趣味だよ」
『お伝えせよと、名指しされた方は──あなたと、公介の二名のみです』
その言葉に、楼蘭は目を細め、沈黙の時を置いた。
「……本当に、“契約”は成功したんだね?」
──楼蘭も、かつて三十日だけ眠った。
あれは“千年王”としての始まりだった。
魂の基軸を据えるための儀礼……いや、“再構成”と呼んだ方が近いかもしれない。
そのときに支えてくれたのが、公介であり──
あの男、一心だった。
当時、楼蘭は宗像に返せないほどの恩義があると思っていた。
だが今ならわかる。
あれは、志貴のために必要な未来を、先回りして学んでいた時間だったのだ。
……やれやれ、気づいた時にはもう遅い。
周到というより──罪深い。
あの男たちは、いつもそうだ。
『滞りなく』
「良かった。……でもひとつだけ、聞かせて。なぜ百日もかかる?」
『主は、“根こそぎいく”とだけ……』
その言葉に、楼蘭は肩をすくめて笑った。
「輪廻にまで踏み込むつもりか……。あの男らしい、徹底だ」
ヨルノミコトは答えない。
沈黙が、そのまま肯定だった。
「この僕でさえ、これだけの傷を負った。──この百日という時は、──神であれ人であれ、対価を払わずには通れない」
楼蘭は、包帯を巻かれた腕を見せる。
「こちらに来れば対処できるけど……冥府から外れた“奴ら”の目は、宗像へ向かうかもしれない」
深く息を吐き、
厄介事ばかりだとぼやきながら、
楼蘭は、桃を丁寧に布で包む。
「……桃、いるだろう? 持っていきなよ」
『感謝いたします』
「天使みたいだな、僕……悪魔の使者に土産をもたせるとは」
黒狼は何も言わず、口に包みをくわえて軽く頭を下げる。
風が吹き込む。音もなく、姿は夜に溶けた。
"名”を忘れた夜に、ただひとすじの香だけが──志貴という理の痕を、この世に、そっと、結びとどめていた。