第31話 うつし世に 久方の檻 まどろむ君
──夜ではない。
けれど、朝とも呼べぬ。
香も、時も、名もない。
ただ、そこは“檻”だった。
封域。
かつては“狼の檻”と呼ばれたこの場所も、
今はただ、志貴という理のためだけに閉じている。
炎は見えない。
けれど、部屋の奥で──桃の香だけが、確かに爆ぜていた。
志貴は、眠っていた。
千年の黄泉を継ぐ魂──その器の調律が、ようやくはじまった。
薄衣に包まれた身体は静かで、まるで今にも解けてしまいそうだった。
一心は、その寝顔から目を逸らせなかった。
「……志貴。俺は、もう間違えへん」
声は届かない。
それでも言葉を捧げる。
絹に包まれた身へ、ゆっくり手を伸ばす。
衝動のままに──腰を沈めたら、二度と止まれへん気がして。
一心は、志貴から手を離した。
「お前がここにおるのに、抱かれへんとか、これ拷問やろ」
そう呟いて、ほんの少しだけ、苦しげに笑った。
抱きたい。
触れたい。
唇も、指も、心も──なにもかも。
いま目の前の女に沈めてしまいたい。
こんな激情があることを、志貴は知らないだろう。
数日前、志貴を噛んだ。
あれを“戦略”と呼ぶには、あまりに──情が濃すぎた。
そう言い聞かせなければ、狂ってしまいそうだった。
けれど、本当は違った。
ただ噛む、それだけだったはずなのに。
──やりすぎたのだ。
……覚えていた。悦ばせ方も、落とし方も、彼女の癖のすべてを。
志貴にとっては初めてでも、
一心にとっては“続き”だった。
温度も、啼き声も、指の絡め方も。
忘れたはずの記憶が、全部、焼き戻った。
神格にある娘に欲を抱く──
それが、どれほどの咎か、わかっていた。
けれど、理を喰う獣に成り下がってもいいと思った。
ただ、一度だけ、思いきり抱きしめたかった。
けれど、それでも止めた。
愛しているからではない。
その衝動が、どれほど取り返しのつかない“罪”になるかを知っていたからだ。
「お前がおらん世界は……つまらん」
重さなど感じない。
魂は、千年の旅を経ても、こうしてまた自分の腕の中にある。
だが、それが苦しい。
「お前はええ夢みなあかんで……」
悪夢なら幾度となくみる。
これは夢──けれど、何度繰り返しても“現”として胸に刻まれていく。
志貴の息遣いが聞こえる。
血の香が、まだ鼻腔に残っている。
頼んでなどいないのに、
まるで古いフィルム映画を繰り返し見せられる。
──これは、彼女の記憶か、自分の記憶か。
それとも、もっと遠い“前の千年”の出来事か。
『あなたは黙って立ち去るだけで良い』
『私を“愛している”というのが真実なら……できるはず』
何もみず、何もするな。
それが一番の願いだと笑っていた。
『望まない巡りと廻りは”私を壊す”
永訣となるより、他に何がある?』
あぁダメだと思った。
自死は最大の罪となるだろう。
それをあえて課して、彼女は廻りを捨てる。
『私に、刃を引かせぬための言葉を、あなたは、まだ見つけていない。
……この先も見つからない。それで良かったのに、……何故、来たの』
資格を廃された器が暴力的な力をおさめきれず、
身を焼く苦しみは想像を絶することだろう。
一人、静かに、隠れて、
誰にも見せることなく、何も知らないが故に、
自身の手で首を落とそうという。
“もう千年王ではない”から首を落とさずとも逝ける。
そう言えば、彼女の何かは変わるだろうか。
『そこで、もう止まって……。わかるはず』
──首を己の力で落とし切るなど、出来やしない。
キィ……と、刃が軋む。
声にもならぬ吐息が、喉を震わせた。
紅が一筋、肌を裂いて──静かに、流れ出す。
刹那。
この腕は、彼女の背中をそっと包み込む。
震える肩を、指先がなぞる。
手が──刃に添えられる。
抵抗は、ない。
止めなかったのではない。
止められなかったのでもない。
彼女が赦した。だから──間に合ってしまった。
白刃が、ゆっくりと深く滑る。
それを“止めず”、ただ添えた手に力をこめた。
彼女が罪を背負わぬように。
千年王として、その死を“与えた”。
呼吸が凪ぎ、目が交錯する。
触れた刹那、魂の何かが──ふっと、溶けた。
安堵と共に、どうしてそんな目をするのか、と。
どうして、そんなに"愛してる"が伝わってきてしまうのか、と。
業ある縁であろうと、受け入れる。
──そう言った気がする。
彼女の身体が崩れ落ち、
その返り血を浴びながら、愛してるが間に合わなかったと、俯いた。
あぁ、彼女は奪われた。
彼女を追い詰めた奴らと──“俺”の手によって。
見ろ。穢れてなどいるものか。
その血から、可愛らしい神が生まれ落ちてくるではないか。
「止まれ、止まれ、止まれ!」
千年王なら、首が落ちなければ。
流れゆく紅を止めさえできたら、取り戻せる。
黄泉がえりをと叫び、傷口を塞いでみても──何も変わらなかった。
「千年王ではなくなっていると……知っていたはずだ」
だから、黄泉がえりは、ない。
夢から覚めるたびに、嘔吐する。
生々しい感覚と、責め立ててくる恐怖。
忘れたかった。
あの日の声も、死も、匂いも。
唯一が朽ちたあの夜を、“無用”と投げ捨てたかった。
──だが。
巡り廻る魂は、次の器にすら、同じ光を宿す。
気づいてしまう。
声の端、瞳の揺らぎ、仕草の間。
すべてが、記憶より痛い。
見つけたくなんかなかった。
隠せるものなら、全部隠したかった。
でも──一度、目が合えば終わり。
焼かれてまう。
愛する魂が廻りついた相手を、すぐに見つけてしまえる。
そんなのは祝福などではない。
呪いだと、一心は思う。
気づいたのは、いつだったか。
可愛いくて仕方のない従妹。
膝の上で眠りたいとせがむ従妹。
泣いているかもしれないと、気になって探すようになった。
熱があると、そばにいてやらないといけないと思った。
──瞳の奥に紋様があると知り、わかってしまった。
どうして、この子だけが残されたのか。
“志貴”だけが、前の千年を連れて生まれてきたのかもしれない。
狼になれると気づいた時より、魂は震えた。
宗像の森で、“大きな犬さん”として遊び相手をしながら、
稽古場では従兄布団をやらされた。
丁寧に、丁寧に、護ってきたのだ。
「愛してるを、超えてもてるから……なんやろな、これは……」
志貴の回復に要するのは、百日。
たった百日。
千年にくらべれば、瞬きほどもないだろう。
だが──一秒たりとも離れたくなかった。
小さな気配が跳ねる。
八雷。
志貴の血から生まれた、八つのまがつ神。
そのひとり──ぴょんと跳ねた子が、志貴の髪をちょいと引っ張る。
「……こら」
一心は軽く指で弾いた。
八雷はふぎゃ、と鳴いて、布の中へ逃げ込む。
「志貴様、ずっと囲って……封域って、ずるいな」
「ずっと一緒にいられるなんて、わたしたちには無理なのに」
肩には雷の紋が浮かび、足元には雲のような泡が巻いていた。
その瞳は紅蓮で、鼻をぴくぴくと動かしながら一心をにらむ。
「またお前か。……うるさいねん」
一心は無表情で言い放つが、舌打ちはしなかった。
代わりに、志貴の枕元に置かれた桃の実を一つ取り、
ひょいと子雷へ投げる。
「……やるわ。せやから、もう黙っとけ」
「え、ありがとう!やさ……いや、違うし!
ワタシ、志貴様の味方やし! 一心きらいやし!」
そう言いながらも、桃を両手で抱え、嬉しそうに抱きしめる八雷。
一心はそんな姿を見ながら、ふう、と一つ息を吐いた。
「……これも全部、お前らにやるわ。
志貴のために煮た桃や。返せとは言わへんけど、大事にせえよ」
梅の紋様のある黒塗りの漆器を指でさすと、八雷達が群がってくる。
「……志貴様、大事すぎて、溶けるで?」
「……それが狙いや」
八雷が硬直した。
「……ほんまに冗談、やんな?」
「──冗談やと思っとけ」
「へ、えぇ……?」
一心の指先ではじかれ、そのまま香炉の上でくるりと丸まる。
「触んなーっ! いっしん、なんでまた触る! ゆるさんでっ!」
もう一匹が叫ぶ。
「うるさい」
ぺし、と軽く撫でつけるように叩く。
八雷はしゅるりと火の玉に戻り、ぷかぷかと浮かんだ。
それでも、志貴のそばから離れようとはしなかった。
「八雷って、まがつ神のくせに──何の禍々しさもあらへんやん」
と、一心は微笑んだ。
「志貴の血から生まれたまがつ神なら……
祓えるわけ、あらへんな……」
その時、泉の香が立った。
ヨルノミコト。
静かに現れ、結界の外で控えている。
「……今夜もお預かりしても、よろしいでしょうか。すぐにお返しできます」
「いっときやって、わかってる。
でもな──預けるなんて、本当はしとうない。ずっと抱いてたい」
「はい。それが一心様の護りの手でございますね」
一心は目を閉じる。
「俺が……こう、してもうたのに、な……」
囁くような声に、ヨルノミコトは目を伏せた。
その腕の中で、志貴はまだ目を開けない。
かつては膝に座らせると拗ねた。
桃を食べさせると、恥ずかしいと頬を染めた。
今はどうだ。目もあけず、声も、ない。
ワガママでいい。
怒鳴ってくれてもいい。
志貴──どうしたらいいんや。
わかってる。
これが最善。これが最速。
けれど、それでも。
もう、起きてくれと──起こしてしまいたくなる。
「志貴……」
そっと抱き寄せた瞬間、胸に焼きついた痛みが甦る。
あの夜の痛みが、まだこの身体に残っている気がした。
王玉を抜かせた。
その必要があった。
でも、志貴が痛みを得るのはわかってたのに──
志貴が叫んだあの瞬間、俺は目を閉じた。
今でも吐きそうになるくらい、強烈な後悔がくる。
泉の水が、ひたりと志貴の足元を浸す。
タカオノカミ。クラミツハノカミ。
静かに、神が二柱現れ、両の腕をのばして待っている。
八雷のひとりが、不安そうに揺れた。
「だいじょうぶや」
一心は低く言った。
「俺以上に、志貴を護れる奴なんか、おらへん」
だから預ける。
だから今だけ手放す。
志貴のために、魂鎮めをする。
一心は自らの腕を爪で割いた。
溢れた血を口に含み、志貴の唇へと落とす。
──契りはまだ続いている。
彼女が目を開けば、それだけでまた始まる。
でも、今は眠らせる必要がある。
一心は、自分を言い聞かせるように目を伏せた。
「一心様、外の動きをお知らせしても?」
「……いらん」
「壮馬とあの白い炎の女が、妹様を──」
「いらん言うてるやろ!」
あの男と、あの女。
咲貴を狙う者たちが、もう動いてる。
そんなことは、とうに予想の範疇だから聞くまでもない。
ぴしゃりと断ったその声に、八雷が小さく「うぇー」と唸った。
「一秒たりとも離れたくない」と言いきった彼の頬を、
八雷がぺしりと叩く。
「ずっと一緒やと反則やん。志貴様と1時間も離れられへんやろ?」
「ほんま、あんた、溶けるわ」
「だまれ! 祓うぞ!」
八雷は慌てて、姿を消していく。
ヨルノミコトは、肩を震わせて笑いを堪えていた。
「お前も、笑うな!」
ヨルノミコトもびくりとして、子狼に戻ってしまう。
魂は巡り、廻る。
本当に、愛とか、単純な言葉で語れる縁ではなくなってしまっていた。
“すべてを捧げる”とかいう言葉でも、軽い。
例える言葉なんてない。
「失うのはもう、ごめんや。
何をしてでも、それだけは、避けたい……」
それが、彼の赦し。
それが、彼の執着。
一心は静かに、再び志貴の髪を撫でた。
「この腕は、黄泉津の理に反してでも、お前を抱いて離さない」
それが──“善”でなかろうと。
かまうものか。
この千年を継ぐ者が、どんな理を壊そうとも、
この腕だけは、決して離しはしない。
その罪が、たとえ地獄で吠えるものでも──構わない。
この血が穢れてもかまわない。
魂が命ずるなら、理など喰い破ってやる。
志貴を柔らかく生かせるためだけに、この血を流す。
この腕に縋るあの子が、また笑うのなら──
それだけを神としよう。
──どんな神を敵にまわしても、構わない。
「頼む……」
一心は、志貴を水神たちに委ねた。
そして、岸でまた一人待つ時間がくる。
ヨルノミコトがそのそばにちょこんと座って、一心を見上げていた。
「公介さんには百日かかる、と。
……楼蘭には“アレ”叩き起こして壁にせぇとも伝えてこい」
『やはり、出られませんか?
あなたがお出になれば、あらかた片がつくのでは?
少しの中座であれば、ここは問題ありませんが……』
「出るわけないやろ」
『出過ぎたことを申しました。……お伝えしてまいります。
帰りに泰山の桃を少し分けていただこうかと。
志貴様、お好きですから……」
音もなく、ヨルノミコトは姿を消した。
一心は、ふうと息を吐いて、水面に目をやる。
「壮馬さんなら、俺のいないこの隙にしかけるやろな。
このタイミングしかもうないやろ……。
だけど、宗像には狐も狸も残ってるからな」
──化かし合いは、これからだ。
一心は、ゆっくりと目をつむる。
唯一の休息時間がきた。
八雷がその背に羽織を掛けてやるが、
それに気づかないほど深い眠りだった。
***
夜はまだ明けぬ。
けれど、その気配だけは、うっすらと結界の向こうから滲み始めていた。
「……やっぱり、俺が寝とる場合やなかったな」
一心は身じろぎし、羽織を整える。
その肩を、八雷のひとりがちょん、と小さくつついた。
「志貴様のこと、大好きなんやろ? さわりすぎやけど」
「……見てたんか、あれ」
「うん。全部」
八雷の子が、にこりともせず言う。
声に咎めはないが、責めもない。
ただ、そこに“知っている”という事実があるだけだった。
「じゃあ……言わんといてや。志貴に」
「わかってるよ。でも……」
その“でも”の続きを、八雷は言わなかった。
代わりに、志貴の眠る布の端をちょいちょいと直し、その香を指先に留める。
「ねえ、一心。志貴様が全部思い出してしまったら、どうするん?」
「──全部、抱き締めるだけや」
即答だった。
迷いのない声に、八雷はまた無言で何かを納得するように瞬きを繰り返した。
「そっか……じゃあ、がんばって。私たちも、護るから」
「頼りにしとる」
そう応えてから、一心はふと空を見上げた。
結界の外、泉の光がわずかに揺れている。
「……咲貴やな」
「うん。あの子、来てる。ほら──」
香りはもう、ここまで届いていた。
一心は、ほんのわずかに息を呑んだ。
……気づいてしまった。
あの子もまた、“器”になりつつある。
志貴と同じ香り。
あの桃の焔が、咲貴の肌にも、ほんのかすかに、宿りはじめていた。
“器”として選ばれた少女──
白い炎の女の魂をめぐる、第二の歪みがはじまりかけていた。
「こうなることなんか、わかってたはずや。……俺は悪魔かもしらんな」
静かに拳を握る。
白い炎の女の従者も、狐も──今度は咲貴に狙いを定めている。
一心が志貴を護ったように、咲貴の未来も守られねばならない。
だが、宗像の連中は護れるだろうか。
「百日で外がどうなることか……それでも、変わらんけどな」
この封域は誰も踏み込ませない。
優先順位は明確だからだ。
八雷が言った。
「志貴様の香りが、咲貴様にもあるから、きっとここがわかるんや」
「──志貴の理。咲貴にも、もう、入りはじめとるな」
封印の強度をあげる。
誰であれ、近づけないと決めたから。
あの白い炎の女──登貴。
かつての輝ける者の名で、あの男は呼んだ。
ヨルノミコトの耳は、それを聞き取っていた。
「面倒な相手でしかないわなぁ、あの2人は……」
咲貴の魂と重なるように、ゆっくり。
けど確実に接触をはじめていることだろう。
──魂を“取り戻そう”としている、白い炎の女──登貴が。
一心の声が、かすかに揺れた。
「王玉を手にしたなら、次の手は──」
言いかけた声を、泉の波がさらった。
……そのまつげが揺れたとき。
泉の底に、神の息吹が返った。
気のせいか──
それとも、“あの子”がまた目を覚まそうとしているのか。
仄かに、桃の香が濃くなった。
志貴の中で、また炎が目を覚まそうとしている──
志貴がまだ目覚めぬその間に。
咲貴という名の“第二の夜”が、音もなく燃えはじめていた。
同じ香。
同じ炎。
けれど、灯すものは、違った。