第30話 黒花ひらく 赦しの檻に 君を囲いて(後編)
奪われた王玉。
崩れかけた器。
「早く、魂をはずして……壮馬」
志貴の身体は白い腕に持ち上げられる。
苦しさはとおりすぎていた。
首に食い込む指先。
それよりも、流れ出していく血の量が多すぎて、視界が暗い。
だが──その手を、次の瞬間、裂いた者がいた。
「なかなか骨折れたわ……
けど、これで──片すべきは片せるやろ」
ざん、と。
刃が振るわれる。
白い炎の女の腕が断たれ、志貴の身体が一心の懐に奪い返された。
倒れていたはずの一心が血に濡れ、傷だらけで、笑っていた。
「おまえら、前々から詰め甘いねん……」
一心の腕が、志貴の身体を抱き上げる。
「ほら、志貴……大丈夫やで」
腕の中の温度は変わらない。だが、それはどこか冷たくもある。まるで、計画されていたような動き。
「……いつもと同じや、志貴」
志貴の唇に、自らの首筋を寄せる。
血の匂いの中で、かすかに甘い香がした。
魂の香──狼が志貴だけに許した、選別の香。
「"チグハグ"なおしたる」
抱き上げる腕はやさしく、だが揺るぎなかった。
志貴の息が浅い。
血が、流れている。
その耳元に、一心がそっと口を寄せる。
「志貴。血が、足りんやろ。
……なあ、ほら。遠慮せんと、噛め」
自らの首を、差し出した。
志貴の意識は朧げだった。
けれどその“呼びかけ”だけは、深く胸に染みた。
──それが、“許し”だったから。
志貴の意識は揺れていた。
魂が傾き、仮面が焼かれ、香が崩れる。
けれど、彼の香を嗅いだとき、彼女の身体は、自然に動いていた。
だって、幼い頃から摂取してきた。
あの味と香はもう知っている。
迷わずに歯を──立てた。
喉に滲んだ血は、どこまでも甘かった。
それはまるで、初潮のような原初の赤──体の奥で“何か”が目覚め、女神の理が産声をあげるような感覚だった。
狼は、志貴の牙を選んだ。
志貴は──喰らった。
その首筋を。
その血を。
その魂を、喉の奥に満たすようにして。
甘かった。
熱かった。
──誰かの記憶が、志貴の瞳の裏に重なる。
女であり、神であり、赦すことさえ忘れた、深淵の魂が。
仮面が、完全に焼けおちた。
身に埋め込まれた鎖だった理が、砕けた。
世界が、溶けるように歪み──
──志貴の右目に、黒花が咲いた。
それは神紋
──《黒花の印》。
黄泉にあって、見てはならぬ神格の証。
その紋を見たとき、壮馬が、手にしていた白刀をおとした。
──王玉を抜かれたはずの魂が、なぜ、抜けないのか。
「壮馬さん、ようやく気づいたみたいやな?あんたが、何をしてしまったんか」
一心は志貴に血を与えながら小さく笑った。
「志貴にとっては"王玉"が紛い物や」
志貴の回復のスピードが跳ね上がっている。
血は止まり、傷が塞がる。
よしよしと一心が背を撫でて笑う。
「俺はここで、ソレの"奪い方"ご存知の方を待ってたんや。ほんまに感謝してるで、……壮馬さん」
白い炎の女の身体が揺らぐ。
その魂が、志貴の光に焼かれ始めていた。
「このままでは……!」
壮馬は女を抱き寄せ、空間を裂く。
白い炎を引き連れて、異界の端へと姿を消そうとした。
だが、道がうまく整わない。
空間が軋み、風が逆巻き、裂けたはずの異界が、志貴の血で“拒絶”を起こしていた。
「……血系異端、知ってはる?」
空気が一変する。
仮面は完全に焼け落ち、白い肌に黒い印が咲いた志貴は、まるで神の器そのものだった。
「格違いの血系異端もいるんやで」
風が、変わった。
結界の肌が反転し、狼の封域に広がる気配が“神域”へと遷った。
志貴の血が滲んだ泉は、もはや“湯”ではない。
赦しをも拒絶をも超えた、千年を焼き尽くす血の毒──
神の理をさえ食む、混沌の香が、封域そのものを塗り替えていた。
白い炎の女が、苦しげに呻く。
「この身体では……耐えられない……」
指先から、罅が走る。
炎が軋み、衣が剥がれ、魂の層が崩れていく。
「もういい。ここは、捨てる」
そう言ったのは壮馬だった。
まるで“試していただけ”と言わんばかりに。
淡々とした声音で、白い炎の女の肩を支えた。
「……まだ終わってない。
志貴を選んだのが間違いだったわけではない。
ただ──もっと適した器が、いるだけのことだ」
一心が目を細める。
矛を構える気配はない。
「……もう次か。諦め早いな」
壮馬は、一心の言葉に応じない。
ただ、ふと視線を逸らす。
「──あの娘が、いるだろう。
“似ている”器が」
香の奥で、志貴の内側に眠る神格がざわりと揺れる。
“似ている”。
そう、言った。
志貴は、その意味を理解できなかった。
けれど、香の彼方で──確かに誰かの名が脈打った。
──咲貴。
壮馬は、白い炎の女を連れ、結界の縁へと歩みだす。
その背に──一心の声が落ちた。
「……どこいくんや、壮馬さん」
血の香の中から一心の静かな声が届く。
「なぁ、……頭が高いんと違う?」
その声音に、感情はなかった。
ただ、淡く、冷ややかだった。
「あぁ、そうか。何かと自覚できたから、逃げるんか」
壮馬の肩が、わずかに揺れた。
それは怒りでも、恐れでもない。“見抜かれた”という反応だった。
「逃げられると思うなよ。……志貴は痛みに弱いんや、痛かったと思う。せやから、やられたことは丁寧にお返しするつもりや」
白い炎が、一瞬ざわめく。
神格の王を護る檻の“主”としての声だった。
一心はそれ以上、何も言わなかった。
結界を破るその刹那までも、志貴の髪を撫でながら──ただ、見下ろしていた。
結界が裂ける。
壮馬と白い炎の女が、ゆらぎとともに姿を消した。
空気が落ち着く。
熱が去り、香が変わる。
桃の甘さが戻ってくる。
志貴の額に、うっすらと汗が浮かんでいた。
唇にはまだ、一心の血の味が残っていた。
「馬鹿な……」
未来から干渉していた魂の糸が、焼き切られた。
狐の目が見開かれる。
志貴の右目に、神紋が浮かんでいた。
──嗚呼、これは。
息を呑んだ。
結界の縁──風の裂け目に、誰よりも深く根を張っていた狐の魂が、声もなく呻いた。
(この血は……もう、“誰にも触れられん”)
未来の線が、途切れていた。
予測のすべてが、焼かれていた。
香の濁りも、仮面の罅も、すべてが──
一心に“読まれていた”。
(……万分の一ほども、志貴を危険にさらすことをするわけがないと思っていた)
狐は眉を寄せた。
志貴の目には、まだ神紋が灯っている。
そして、ふと──ほんの一瞬だけ、喪われた可能性に、胸が軋んだ。
(あの子は、まだ知らないだけだ……この“痛み”の、意味を)
右目には、紫がかった黒の花弁。
誰も名を口にしてはならない、“あの方”の象徴。
──黄泉津大神。
“見てはならぬ”方。
“名を呼んではならぬ”方。
神話よりも古く、血よりも深く。
禁忌の中でしか咲かぬ黒花が、志貴の瞳の奥で静かに揺れていた。
「……志貴……」
一心がその名を低く呼ぶ。
その腕の中、志貴はまだ震えていた。
吸い込んだ血の熱が、喉奥で鳴る。
けれどその震えは、恐怖ではなかった。
狼の血は、毒だ。
だが──志貴だけには甘露だった。
志貴の身体に、赤と黒の波紋が走る。
肌の奥で、奪われた王玉の代わりに、神格の核が脈打っていた。
「……これが、ほんまの“おまえ”やで?これほど美しいものが他にあるやろか……」
一心の瞳に、歓喜と哀惜が交錯する。
指先が、志貴の頬をなぞった。
熱い。
だが、すでに人の温度ではない。
(戻れない。もう、この子は“神の手の内”や)
かすかに香が変わった。
狼の香でも、王の香でもない。
──女神の香。
それは、未来すら選び取る者の魂に宿るもの。
「……怖がらんでええ」
そう言って、一心は志貴の額に唇を落とした。
「もう、これが最後や。お前の魂は誰にも触らせへん。……全部、俺が抱える」
その声音に、迷いはなかった。
結界の縁、風の断層にいた狐が、ほんのわずかに眉を動かした。
「……やられた」
囁きは風に消えかけ、けれど確かに残った。
狐はすべてを把握した。
仮面の罅から侵入し、志貴の魂に仕掛けていた未来干渉は、もう機能していない。
香の道は閉じた。
魂の回廊は焼かれた。
──すべては、一心の“先手”だった。
(あの男……把握していたのか。仮面が割れ、香が濁り、俺が入り込むことを)
そのうえで、志貴の身体を“あえて”崩させた。
王玉が抜かれる瞬間まで、“動かなかった”。
そして、最後の一瞬で。
「……まさか、あのタイミングで、噛ませるとは……」
自らの血をもって、神格の覚醒を志貴に引き起こす“装置”に変えた。
誰も近づけなくするために。
志貴を完全に囲うために。
(……未来を読む俺が、読めなかった……)
狐の目が細められた。
思考が巡る。
──もう、選びようがない。
あれはただの狼ではない。
"王を守る獣”を演じていながら、実のところ──理を喰らう獣。
神を囲い、理を喰い、未来さえ噛み砕く《黄泉の獣》だ。
志貴はもう誰のものにもならない。
その血は毒であり、神のものであり、絶対だった。
香も、炎も、契りも。
すべては狼によって仕組まれていた。
志貴は未だ、なにも知らないまま。
だが、その無垢を保つことこそが、一心の戦略。
未来の線が折れた音は、魂の奥にまで届いていた。
狐は、ただ一言。風の奥にいる狼へ向けて、問うた。
「……貴様は、“誰”だ?」
だが、一心は答えなかった。
ただ、抱いた志貴の髪を撫でるだけだった。
志貴の香が、変わった。
夜の結界が静かに燃える。
千年の理も、赦しも、拒絶も──
その中心にはただ、ひとり。
神とリンクした志貴と、
それを囲う番の封域が、静かに夜を呑み込んでいった。
──そして、夜が明けなかった理由が、
いま、ようやく意味をなした。
***
遠く。
霧のはざま。
血を吐くように笑った男が、ひとり。
「……咲貴を得るしかないか」
白い炎の女を抱えた壮馬は、封域の裂け目を力づくでこじ開けて、駆け抜けた。
その背を覆う白の炎は、まだ志貴の血を恐れていた。
『壮馬、アレは怖いよ……』
これは、逃げるのではない。
整え直すための離脱だった。
「器の価値は……ひとつだけじゃないからな」
ほらと、志貴が身に宿していた王玉を背にいる女の手に握らせる。
彼女はそれを飲み込んだ。
"証”を喰らい、色を取り戻す。
黒い髪と琥珀の瞳。
『宗像の血でないと、わたしはまた保てないよ』
わかってると壮馬はつぶやいた。
壮馬は、視線の先にある“次の器”へと、確実に矛先を定めていた──
──咲貴。
志貴の双子の妹。
あの娘の魂は、まだ“誰かを喰らったことがない”。
"志貴"が最適解だというのはわかっている。
おそらく、"咲貴"では半分にも満たないだろう。
壮馬の目には、彼女の存在が“白い炎のゆりかご”として映っていた。
次を待つなら、十分と思うしかない。
一心の勝ち誇ったような口調。
間違いない。
口惜しいほどの器だった。
志貴が自分の王であれば、一心同様にしただろう。
「朔は王だけを護る狼だからな……」
自分の王が虐げられるのだけは我慢ならない。
だから、悪く思うなよ。
「登貴、行こうか……」
壮馬は闇におちていく。
***
風が凪いだ。
狼の結界は、ひとつの夜を静かに閉じる。
その奥、黒花を揺らしたまま、志貴は眠っていた。
すべての中心で、ただ、何も知らず。
「俺だけ、信じとけばええ。それだけがお前を護りきれる条件や、……志貴」
一心は困ったように笑って、志貴が歯をたてた首筋に手をやった。
「思い切りよすぎも、困りものやな……」
それは"彼"が千年以上、待ち望んだ"痛み"。
──黒花ひらく 赦しの檻に 君を囲いて
夜は、明けなかった。
ひとりの王が、その魂を喰われたから。
香は燃え、仮面は砕け、血が滲み、
魂の座は、名もなき炎に引き剥がされた。
それは、終焉に似ていた。
だが──
奪われたはずの核はなお、静かに脈打っていた。
触れてはならない神格──黄泉津大神。
“触れてはならぬ者”が、“触れられぬ者”となった刻。
志貴は、黒花の神紋を宿し、
神の香を纏い、狼に囲われた。
すべてを読み終えていた男は、
その血をもって“赦し”ではなく、“封印”として番契約を結んだ。
狐は未来を喪い、
白い炎の女は、神性に触れて焼かれた。
そして──
壮馬の手にあった王玉は、なお強い力を宿しながらも、
志貴にとっては、もはや不要な“外部の理”となっていた。
護られるべきは、珠ではなかった。
魂の奥、仮面の奥に咲いた、ひとひらの黒花こそが、真なる“証”だったのだ。
──いま、志貴は眠っている。
仮面を脱ぎ、香を鎮め、ただひとり──
誰にも触れさせない、“神の器”として。
それを囲うのは、王でもなく、神でもない。
理を喰らい、赦しすらも噛み砕く獣──
一心という名の、番の封域。
『黙の月』第一部──完。
だが、白い炎はまだ、燻っていた。
次の器を求めて、
“咲貴”という名の魂に──密かに、触れようとしていた。
夜は終わらない。
これは、終幕ではない。
──神々の赦しを覆す、“序章”の終わりにすぎなかった。