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第3話 仮面落つ 春の夜のごと儚く(前編)


その日は、ただの任務のはずだった。


けれど、風の匂いが違っていた。


夕暮れの山肌を撫でる空気には、湿った苔と、微かに焦げたような血の気配が混じっていた。


冬馬は、封符を地に押し当てながら、構成式の流れを指先でなぞる。術式は正確だった。だが、胸の奥では、別の感覚がざらついていた。


「志貴、体調は?」


振り向かずに、声をかける。


視線を向けるより先に、背後から小さな頷きが返ってきた。冬馬は、それ以上は何も言わなかった。きっと、それが一番いいと知っていた。


だが。


「……で、明日の英語、どこまでやってんの?」


間を持たせるように、言葉を投げる。


案の定、志貴は眉をひそめた。


「……今それ訊く? あんた、今がどういう状況か分かってる?」


「分かってるから訊いてんねん。こういうときって、課題のこと思い出すやろ?」


ふっと肩越しに笑いかける。黒の任務装束が風を孕み、背中を静かになぞった。


志貴の通う女子高でも話題にされているらしい。身長は178。涼しげな目元に、均整の取れた体躯。目立ちすぎず、けれど目を引く。けれど、彼女にとって冬馬は、ただの“冬馬”だった。


生まれたときから、一緒にいた。


稽古も、試験も、病も、失敗も。

志貴の泣き顔も、笑い顔も、誰より多く見てきた。


だからこそ。


「……昨日の数学の課題プリント、全部バツだったじゃない。あんなの、解いたうちに入らない」


「チョコつけたやん。あれでチャラやろ?」


「何そのシステム。英語の課題写すのに、特濃コーヒー牛乳まで付けてるの、私だけだと思う」


「“特濃”は正義。俺の好み、ちゃんと覚えてるあたり、お前は優秀や」


志貴はぷいと顔を背ける。その口元に、かすかに笑みが滲んだ。


……その笑みを見るたび、冬馬は思ってしまう。


(このままずっと、こうしていられたらよかったのに)


(……どうしてやろな。俺の隣じゃ、届かへんのやな、あいつには)


志貴が王の痣を持つと知るまでは、当然、縁談は自分に来ると思っていた。


宗像と穂積――血筋も家格も釣り合っている。誰よりも傍にいた自負もある。


けれど、彼女の目は、最初から別の誰かを映していた。


従兄の宗像一心。


誰も寄せつけない、“本物”の宗像。狼の仮面を被った男。


泰介が死んだ夜。志貴が暴走した、最初の夜。


冬馬は、あの夜の全てを知らない。


覚えているのはただ、崩れた屋敷の奥――血まみれの仮面の男が、志貴を抱きしめていた光景だけだった。志貴は泣きながら、声もなく震えていた。


それからだ。彼女の目が、どこか遠くを見つめるようになったのは。


――届かない背中に、憧れではなく、焼かれるような眼差しを向けるようになったのは。


(それでも、俺が守る)


封符に視線を戻す。指先に込めた力が、ほんのわずか震えた。


この任務は、“確認”だ。


志貴がバディとして続けられるか。

それとも――交代になるか。


冬馬には、上級任務への推薦がかかっている。

次に組むのは、特級任務区分にいる誰かになるだろう。


宗像一心と並ぶ“器”としての道の入り口に彼は立っている。


けれど、今隣にいるのは志貴だった。

レベルが見合わないと陰口を叩かれたバディ。

志貴の良さなどわからんくせにと苛立ったこともあった。


未熟で、不安定で、けれど――誰より、真っ直ぐに前を向こうとする少女。


その右肩が、もう疼き始めているのを、冬馬は感じていた。


それは、何度も繰り返された光景。


痣が応じるとき、志貴はいつも、何かを失いそうな顔をする。


そして今回――それが“最後”になる可能性もある。


「もし暴れたら、お前の判断で止めろ」


そう言ったのは、宗像公介だった。


冬馬は頷いた。止めるという言葉の意味を、問い返さずに。


――けれど、自分だけは、志貴の“最後”にはなりたくなかった。


風が吹く。


志貴が、そっと右肩を押さえた。


熱でも、痛みでもない。

何かが、内側から目を覚まそうとする、兆し。


志貴はまだ、それを“体調不良”だと思っている。


けれど、その肩の奥で――なにかが、笑っている。


自分の意思ではない、もっと底のほうから湧き上がる“声”が、静かに、確かに目を覚ましつつあった。


その無防備な横顔を、冬馬は見つめた。


(……最後まで、俺が見届ける)


もう、あいつの隣に立つのは――俺じゃないとしても。


それは、祈るような決意だった。


そして――その静かな覚悟に呼応するように。


森の気配が、変わった。


音もなく、空気の層が反転する。

深いところで、“何か”がこちらを見ている。


冬馬は、無意識に志貴の前に出た。


「……来るぞ」


封符が、かすかに軋む。

その瞬間、山の陰がゆっくりと形を変え、こちらへ滲み出てきた。


白かった。


あまりにも、白かった。


白の衣。白の髪。白の肌。そして、白の“火”。


それは光でも、燃焼でもなかった。

ただ、“拒絶”の形をして、空間を侵してくる。


「なっ……!」


言葉が途切れた。冬馬の喉が、思考より先に凍る。


志貴もまた、動けていない。視線を逸らせずにいる。


(あれは、違う)


悪鬼でも、瘴気でもない。

もっと深く、古く、忌まわしい“なにか”。


「志貴、下がれ!」


叫ぶ。とっさに身体を動かそうとした。


だが、白が跳ねた。


時間が、音が、色彩が――軋みながら剥がれていく。


冬馬は、本能で動いた。


「志貴っ!」


その背を庇うように、腕を広げる。

それが先か、白い炎が跳んできたのが先か――


胸に、何かが“抜けた”。


痛みはなかった。

ただ、血が蒸気になって、視界が紅く染まる。


意識が薄れていく中、誰かの気配が降りてきた。


「伏せろッ!」


仮面の男ではない。もっと近い、身内の声――


宗像公介だった。


結界を踏み越えて飛び込んできた彼が、志貴を庇い、そのまま“白”にぶつかっていく。


爆ぜた。空気が焼ける。


公介の左腕が、砕けた。


だが、公介は倒れなかった。


「……志貴、動くな……!」


歯を食いしばる音が聞こえる。

左手の血を滴らせながら、右手で懐から何かを取り出す。


冬馬は、霞む視界の中で、それを見た。


“禁符”だった。


宗像の現当主しか扱えない、緊急召喚の最終手段。


(まさか……本当に、呼ぶのか……)


公介は、血に濡れた指で符を折る。


「宗像一心」


その名が、空気を震わせた。


「長の名で命ず――来い」


符が燃え落ちる。


風が逆巻き、空間が裂けた。


世界の縫い目が破けるような音がした。

何かが、重力とは違う圧で、そこに“降りてきた”。


冬馬は、ただその場で倒れながら、知っていた。


(来る――)


志貴の“本当の隣”が。

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