第29話 黒花ひらく 赦しの檻に 君を囲いて(前編)
夜が明ける気配はなかった。
静寂は、まだ息をしていた。
道反を離れた志貴は、香炉のない空間にいた。
封域。
狼のもの。
外気も光も届かぬ、王のためだけに刻まれた、魂の檻。
火すらその輪郭を見せない、見えない結界。
その最奥。
ひんやりとした岩床の上に、志貴は身を沈めていた。
柔らかな絹布が幾重にも敷かれ、だがそれでも微かな冷気が皮膚を這っていた。
静かに火が焚かれている。炎は見えない。だが、確かに、部屋の奥で何かが小さく爆ぜる音がした。
桃の香。
甘く、やわらかく、熱にとろけるような香気が空気の層に溶けていた。
赦しを模す香ではない。魂を撫で、鎮め、何も考えさせないようにする──封のための焚香だった。
志貴の呼吸は浅い。
肩に汗が滲み、寝衣に張りついている。
けれど寒さは感じなかった。
むしろ、体の奥に、熱の名残が灯っていた。
──喰われた夜。
赦されたのではない。
愛されたのでもない。
ただ、甘く。
ただ、確かに。
誰にも触れさせたことのない領域を、一心に刻まれた。
彼の指が、唇が、喉が。
ひとつひとつ、思い出すたびに熱が走る。
その感触をなぞっただけで、呼吸が詰まりそうになった。
香が胸に満ちてゆく。
それは涙腺の奥にそっと触れて、じんわりと沁みた。
「……一心……」
名を呼ぶ声は、声にならなかった。
だが、たしかに唇はその名を結んだ。
──その時だった。
仮面が、魂の奥で“音”を立てた。
付けていないはずのそれが、どこかで軋んだような気配を残した。
罅の走った仮面。
香の濃度が微かに変わり、空気が一瞬だけ、よどんだように感じた。
(また……)
声にならぬ囁きが、魂に触れた。
『こちらの名を……呼べ。“こちら”の名を呼べば、皆を護ることができる』
誰かの声。
女とも男ともつかない。
狐の囁きではなかった。
もっと遠く、もっと深い“未来”の響きだった。
志貴は額を押さえる。
脈が耳に集まり、皮膚の下で不規則に打ち続けていた。
──何かが、侵入している。
──一心の封域に、何かが紛れ込んでいる。
(助けて……朔)
身を丸めて、何とかやりすごそうとした。
そのときだった。
心地よい温もりを持つ掌が、志貴の頬に触れた。
びくりと肩が震え、志貴は身を起こしかける。
「……だいじょうぶや。寝てて、かまわん」
一心の声だった。
夜よりも静かに、そこにいた。
湯の香をほんのりと纏っていた。
その髪はまだ濡れており、しずくがぽとりと志貴の頬に落ちた。
肌に落ちた雫は冷たく、だがそのすぐ後に触れる指先は温かい。
「まだ熱、あるな……。汗、びっしょりやな」
「へい……き、や」
声が低く、喉の奥でくぐもっている。
志貴は否を返そうとするが、言葉になるより先に指が耳のうしろをなぞった。
それだけで、言葉は霧散した。
「……湯に、行こうか」
志貴は、あっさりと頷いた。
一心のありように、どこか違和感があっても、それを言葉にする余力がなかった。
それよりも、自分の香のよどみから逃げ出したかった。
志貴の仮面を、一心がそっと遠ざける。
まるで元凶をとりのぞくような仕草。
志貴は言葉にしたかしらと首を傾げた。
『俺が朔や……志貴』
確かに、一心があの時つぶやいた。
朔は何でもわかってしまうのかもしれない。
一心に抱き上げられる。
腕の中は柔らかくも硬く、安堵と緊張が同時に胸を満たす。
封域の奥。
静かな水音だけが響く、泉へと向かう。
霧が立ちのぼる。
ぬるい湯気が肌を撫で、深く吸い込むと肺にほんのり桃の甘さが滲んだ。
「立てるか?」
頷いたものの、足に力が入らない。
一心が慌てて志貴の身体を支える。
「慣れた……、もう、立てるから大丈夫や」
そう言って一心の腕をそっと離れた。
背を向けてくれているのが、視線でわかった。
衣を解く。
湿り気を帯びた布が、わずかに肌にまとわりつく。
右の肩甲に浮かぶ痣──宗像の王の証──が、蒸気に濡れていた。
それを隠すように、志貴はそっと泉に沈んでゆく。
冷たくも熱くもない、ぬるま湯程度の泉──
その水が肌を包む。
耳の奥に、かすかな泡の音が響いていた。
──そして、岸辺。
黙って座していた一心の指が、志貴の首筋に触れる。
わずかに残る痕跡を、柔らかな布で拭い取った。
その指は、何も言わなかった。
ただ、すでにすべてが“動き出した”ことを告げていた。
「禁域の結界、そこら中で脆くなってる。回復したら……すぐ戻ろか。気になるんやろ?」
泉の水面が淡く揺れていた。
湯気がまるで呼吸するように、二人の間を往復している。
「うん……」
志貴の声はかすれていた。
肩まで泉に沈めたその身体は、湯気に濡れた黒髪を頬に垂らしている。
それでも、心は安らいでいた。
右の肩口に触れる風が、かすかにざらついていることにさえ気づかずに。
一心は何も言わない。
ただ黙って隣に座し、衣の裾をまくり、泉に指先を浸していた。
やがて、彼は志貴をそっと岸の上へ導き、衣で身体を包み込んだ。
ふらりとした身体を、いとも容易くすくいあげ、自分の膝に座らせる。
「おいで……」
乾いた布をふわりと肩に掛け、濡れた髪を指で梳かす。
その仕草には獣の粗さもなければ、威圧もない。
ただ、ひとりの男として、志貴に触れていた。
そして、桃の果肉を指先で掬い、志貴の唇に押し当てる。
「餌付けか……」
志貴が頬を膨らませて言うと、一心は笑いもせず、また次を差し出すだけ。
幼い頃からかわらない。
体調を崩してしまうと桃と一心の飴玉しか受けつけなくなる。
「痩せたな……」
一心の言葉に反論しようとしたが、志貴は血色のない腕に目を落として、やめた。
生気がない、まるで死にゆく身体のようだと思ったのだ。
日に日におかしい。
普通が普通にできない。
涙がこぼれ落ちる。
似たような繰り返しが数日続いている。
項垂れた志貴の頭の上に顎をのせて、一心が小さく息を吐いた。
「俺が、おる」
腰に回された腕があたたかい。
一心の温度はダメだと思う。
早くなりかけた呼吸が落ち着いていく。
「この"チグハグ"を取り戻せるタイミングはくるで、志貴」
志貴はどういうことかと問おうとした。
──その時だった。
音が、裂けた。
空間が、震えたのだ。
香炉もないはずの空間に、王玉の“共鳴”が走る。
鳴らぬはずの玉が、異界とつながる周波を鳴らした。
志貴の身体が、びくりと震える。
痛い。
心臓を握りつぶされたような不快な感覚。
香の色が、変わった。
血のように赤く。鉄の匂いを帯び、吐息に熱が滲む。
「志貴、俺の後ろへ──」
一心の声が鋭く変わる。
守護者としての声だった。
志貴の身体は脆い。
ただでなくとも、ここでは護り解いているようなもの。
最も清浄な状態で、穢れに触れるとしたら、弊害はこれまでの比じゃない。
ぱちんと指を鳴らして、一心が矛を呼び出した。
仮面をつけるそぶりがないことに、志貴は一瞬驚いた。
「一心……」
「志貴、よう聞け。ここに入る方法を知っている奴がおるとしたら、そいつらは”同じようなもの”ってことや」
状況がみえた。
視界がひらけたように。
水に濡れたままの髪から伝いおちてくる冷たいものが背をぬらし、ぞくりとする。
気配がまるで読めない。
確実にしのびよる何かがあるのに、つかみきれないのは何故。
「ここを汚すな」
一心の舌打ちがひびく。
彼の身体のむこうに何かがいる。
水音もないまま、泉の中央に“何か”が立っていた。
白い肌。白い衣。白い髪。
白い炎の気配が、じりじりとこの空間を焼き始めていた。
「やはり、ここにいたか……」
低く甘い、そして酷薄な声が泉に広がる。
志貴の首筋の産毛が逆立つ。
その声に、どこかで聞き覚えがあった。
だがすぐには、気づけなかった。
「君という器は、清浄すぎる。……腹が立つ」
白い炎の女が話しているのではない。
その声音は、“壮馬”だった。
一心が振り下ろされた刃をうけたのとほぼ同時だ。
片腕で志貴をかばいながら、一心は跳ねかえした。
空間が一度、反転したように思えた。
志貴の視界がぶれ、音がなくなった。
『護られ、奪われたことのない器なのだろう?』
言葉の棘が、皮膚を裂くように突き刺さる。
志貴の胸が、ひゅう、と音を立てて凹む。
水がはぜた。
白い炎の女が、音もなく志貴に手を伸ばした。
──いつから、そこにいた。
白い指。白い紋。魂の刻印。
志貴は無意識に手を伸ばそうとして──
一心に腕をつかまれ、引き離される。
「触ったらあかん!」
はっとして、志貴は見上げる。
一心の目は優しい。
大丈夫、息をしてというように。
その瞬間、影が裂けるように疾る。
「……させるか……ッ!」
一心は矛をふるい白い炎を遠ざける。
「唯一を護りながらでは、持ち前の才能も半減だな」
声ではなく、風の衝撃そのものだった。
壮馬の刃が煌き、一心の腹を裂いた。
肉が裂ける音が、生々しく泉に響く。
志貴の視界が、真っ赤に染まった。
「いっ……しん……!?」
声がかすれる。
恐怖でも悲しみでもなく、ただ“喪失の先触れ”として、魂が震えていた。
地に伏す一心の身体の下から、血が流れ、水面に染みていく。
赤が滲み、世界がゆがむ。
──動けない。
志貴は動けなかった。
魂が凍りついたように動けない。
一心の血の香り、表現できない恐怖。
慟哭に身体のバランスが崩れる。
そこへ、白い炎の女の指が、志貴の喉元へ滑り込む。
力を込められると、気道が悲鳴をあげる。
「"きみ"をちょうだい……。壮馬、コレが良いよ」
背に鈍い痛み。
白刀が、刺さる。
"神殺しの白刀"。
罪を犯した魂を生きたまま肉体から引き剥がす。
志貴は白刀の先端に目をやる。
切先から紅い流れが伝い落ちる。
「──────っ」
音のない悲鳴が、空気を裂く。
壮馬が白刀を抜き取る。
血が、一気に噴き出した。
桃の香をうわまわる、鉄の匂い。
志貴の足元に広がってゆく赤が、泉に流れ込み染める。
志貴の右肩が、内側から焼けた。
刃が触れたわけでもない。
それでも──皮膚が、肉が、骨が、魂が、
ひとつの“核”を押し出すように、脈動しはじめた。
血が沸き、香が反転する。
魂の奥に沈められていた“何か”が、裂け目から滲み出していた。
──それは《証》だった。
宗像の器の奥深くに封じられ、
志貴自身にも知られぬまま、ただ魂の座に灯り続けていた神核──
王玉。
燃え残った桃の香が、鉄に変わる。
吐息は熱を帯び、空間の輪郭が歪み、肌の上を赤い光が這った。
眼前に、それは浮かび上がった。
紅蓮の珠。
千年の理と、封じられた力の結晶。
触れてはならぬ、魂の環。
志貴は唐突に理解した。
奪われる──この核が奪われれば、何かが終わる。
けれど、動けなかった。
刃に貫かれた背が悲鳴をあげる。白い炎の女の指が喉元に這う。
壮馬は静かに笑んだ。
彼の指が、迷いもなく王玉に触れる。
それはまるで、誕生直後の命に触れる父のような手つきだった。
「……やっと、会えたな」
囁きは優しかった。
優しすぎて──ぞっとした。
壮馬の掌が、志貴の背に沈む。
そのまま、魂の座へと指を突き入れるように、彼は王玉をつかんだ。
志貴の全身が跳ねた。
脊髄が軋み、仮面が音を立てて罅割れる。
焼けるような痛みが、心臓から神経のすべてを焼き尽くす。
「……紛い物ではない本物。
よく抱えてきたな。……でも、これはもう相応しい者に戻すべきだ」
壮馬の眼差しは、哀しみに似た執着を宿していた。
「奪われるために生まれた器──
そうだろう、志貴」
王玉が引き抜かれる。
肉が裂け、魂が引き剥がされる。
それは悲鳴ではなかった。断罪だった。
紅い血が噴き出す。
仮面が、崩れ落ちる。
志貴の身体から、“理の鎖”が焼け砕けていく。
音が遠のき、時間すらひとつの夢のように撓んだ。
空気が震えた。
泉が反転する──王玉を持たない者は真冬の冷たさをもって迎えられる。
視界の端が揺れ、音が遠のき、時間すら巻き戻るようだった。
志貴の目が空を仰ぎ──
ただ、黙って泣いていた。
「……こんなにも綺麗なのに。また、限界は、来るのか……」
壮馬は、奪った王玉をゆっくりと持ち上げた。
その掌の中、赤い珠がまだ“拒むように”震えていた。
だが、彼はそれを優しく宥めるように、白い炎の女のほうへと差し出す。
──次の器へ。
そして、志貴の物語は、
ここでいったん──“終わる”。
……だが、それは“仕組まれた終幕”にすぎなかった。
夜は、まだ終わらない。