第28話 紅の契りに 沈みゆく 君を喰らふ夜
夜が、息を潜めていた。
宗像の奥、道反の座──
封じの結界は静かに軋み、赤黒く濁った香が空間を満たしている。
赦しでも拒絶でもない。
名もなき飢えが、沈黙の底で胎動し、じわじわと世界を蝕みはじめていた。
志貴は、結界の最奥に座していた。
千曳の岩のさらに奥──黄泉との境界を、血で織り直す術式が息づいていた。
王の正装は肌に重く、冷たい銀の装飾が鎖骨に沈み込む。
幾重にも巻かれた衣がわずかな衣擦れを響かせ、静けさに溶け、闇の絹に吸われていった。
仮面の内側──
白い花弁のような亀裂がじわじわと広がり、右肩の痣は脈打つたび熱を帯びる。
──わたしの中で、何かが変わりはじめている。
結界はまだ辛うじて形を保つ。
けれど、底のほう──志貴の内と外の両方で、不穏の染みが静かに広がりはじめていた。
志貴が最奥の結界へ向かうたび、
庭先に集う黄泉使いたちの視線が突き刺さる。
多くは期待と信頼のまなざし──けれど、志貴にとっては苦い重荷だった。
──それでも、わたしは王として、ここにいる。
ただ一人。
一心だけが、この正装を「似合わん」と言い続けてきた。
「また行くんか?」
結界に向かう支度を整えた志貴に、一心が声をかける。
言葉より、声の湿度が高い。
「それしか……やることないやろ?」
“王らしきもの”──
何もしなければ格好がつかぬ。その含みに、一心は鼻で笑った。
「俺、それなりに忙しいつもりやけど?」
今度は志貴がため息をつく。
「ひとりで行ける。子どもやあるまいし……」
一心はわずかに首を傾げ、志貴を指差して呟く──
「子どもやん」
志貴がむっとして睨むと、一心はわざとらしく両手を上げて降参の仕草を見せた。
「なら、今日もお守り、持ってけ」
指笛が鳴ると、子狼が足元に現れた。
くるりと志貴の裾を回り、尻尾を振る。
志貴は身を屈め、子狼を抱き上げる。
柔らかな体温が腕に収まると、不思議と胸の奥が落ち着いた。
一心が子狼の首根っこをつまみあげる。
「……何してはるんや?」
子狼は脱力し、視線を逸らした。
志貴は苦笑しながら取り返し、抱き直す。
「わたしが構わん言うてる。問題あらへんやろ」
「お好きにどうぞ。……なんかあったら、こいつを投げつけて逃げろ」
「こんな可愛いものは投げたりせぇへん」
背後で一心の小さな舌打ちが響いた。
志貴は微笑を浮かべたまま、最奥へと消えていった。
背後には、夜の湿った風がかすかに流れ込み──闇が、そっとその影を呑み込んだ。
***
夜の帳が下りる直前、庭先の闇に足音が落ちた。
屋根の上にいた気配が、静かに地を踏む。
壮馬が偵察から戻ってきたらしい。
「時生と、連絡が取れん」
低く淡々と告げる声に、一心は顔も向けぬまま答えた。
「……次から次へと。ほんま飽きんことやで」
「現世で、魂剥離が広がってる。生者が悪鬼に囓られ、黄泉使いも制御が効かん。結界も軋み始めてる」
一心の眼が細められた。
背には、湿った夜気がまとわりつく。
「それは、誰の見解?」
都市部では連鎖する突然死。
意識を失ったまま戻らぬ者たち。
冥府の飽和と、漏れ出す死の気配が現世に溢れていた。
黄泉使いたちの手には、もはや理論が追いつかない。
歯止め役が壊れはじめた先に、何が出てくるのか──
「──冥府の底が膨れ、捌ききれぬ魂が溢れ出し、溺れている──
万国共通の見解みたいだが?」
「そうかて、俺らにどうしろ言うんや?」
一心の声は投げやりに聞こえたが、それだけではなかった。
その奥に、もっと重い何かが蠢いていた。
「……白い炎の女は、これを繰り返してきたんと違うか?」
「何?」
壮馬の声がわずかに沈む。
「生者の器に、こぼれた魂を纏わせ、別の名を与えて。……冥府の管理が崩れる隙を突いて」
一心は鼻で笑った。
「ようできたストーリーやで。誰が手引きしてはるんか、興味あるわ」
「……さあな。知ったこっちゃない」
しばしの沈黙が落ちた。
虫の音が庭先に漂う。
「……で、お前はどうするのか、聞いているつもりだが?」
ようやく壮馬が問い返すと、一心は低く息を吐いた。
「──どうもせぇへんけど?道反の最奥まで届かんのなら、俺には関係あらへん」
壮馬は眉をひそめた。
一心は振り返らず、そのまま静かに歩き出す。
──冥府も、現世も、知らない。
護るのは、志貴ひとりだけ。
それこそ、他に気取られるつもりなどない。
明確な行動理念は微塵もぶれはしない。
ただ、と一心は足を止めた。
「おもろないことは、片さなあかんわなぁ」
この状況が志貴を悩ますことは明白だった。
まかり間違えて、狐に肌を晒されるとしたら──もう我慢も臨界点。
「三度目は、ありえへんな」
志貴の香は、日ごとに甘く、一心の骨の奥まで滲み込んでくる。
守護などでは、もはや足りぬと渇望するほどに。
(志貴にはもう教えてやるべきやろな──俺が、朔やと)
「自分で"思考させない"ようにしといて、これか?俺も堪え性がないわ」
狐を選ぶなど、ありえぬことだとわからせるべきだ。
一心はゆっくりと手を見つめた。
狐に好き放題されるのは終わりだ。
喰われる前に──俺が喰う。
狐に”契られる”前に、俺が契る。
狼の牙で、志貴に刻む。
拒まぬなら──もう止まる理由がない。
そう、一心は腹の底で決めた。
***
夜半──
志貴の部屋には、甘美な気配が、室内の奥までゆるやかに沈み、淡い苦みを潜ませながら香りを張り詰めていく──
その香が、志貴の呼吸をゆるやかに絡め取っていた。
正装を脱ぎかけたまま、志貴はその場に座り込んでいた。
幾重にも重なった衣が畳に崩れ、指先に滑る感触がやわらかく湿っている。
息苦しさに襟元を無理にこじ開け、裸の首筋が月光に淡く照らされた。
──狐の力を、借りるべきなんやろか……?
声にならぬ呟きが、胸の奥で濁る。
現世の異変は、冥府の飽和を越えはじめていた。
狐は言った──「君の守り手は教えてくれないだろう」と。
その通りだった。
(──あの狐なら、答えをくれるのかもしれん。甘い声で、優しく誘って……全部、預けろって囁くんやろう。)
(……けど、預けたら終いや。戻られへん。わたしの奥の奥まで、呑み込まれてしまう。)
(それでも──もし、一心が……おらんようになったら……)
志貴は膝を抱えたまま、かすかに唇を噛んだ。
「……どちらもうまく使えんわたしは……狐の言うとおり、やっぱり、バランスが悪いんやろな……」
その独り言は、襖の外にいた一心の耳に届いていた。
一心の胸奥で、最後の何かが静かに切れた。
「一心?」
一心の気配が襖越しに張りつめていた。
呼吸音一つないその佇まいに、志貴の背筋がわずかに粟立つ。
(……何か、怒ってる?)
襖が音もなく滑った瞬間、志貴の胸奥が跳ねた。
月光を背負った一心の影が、静かに志貴の全身を呑み込み、闇と溶け合ってゆく──
「──一心?」
志貴は脱ぎかけの羽織を慌てて手繰り寄せ、立ち上がる。
だが一心は何も言わず、唇に指を添えた。
──声、出すな。
その仕草だけで、志貴の呼吸が止まる。
空気の質が、いつもの部屋とはまるで違っていた。
「な、何?……なんか、変やで?」
肺の奥まで、濃密な香が満ちる。
甘さの奥にほろ苦さが潜み、神経の奥をじわじわと絡め取っていく──
「今夜の香──違うやろ?」
低く甘い囁きが、耳奥に滴り落ちた。
志貴の背筋が跳ね、肌が泡立つように粟立つ。
「調合を変えた。痛みにも効くらしいで──お前、これから要るからな」
「どういう……意味? 一心、ほんまに何なん……?」
志貴の声が震える。
落ち着こうと深く吸い込んだ瞬間──肺奥に異変が走る。
「な、何や……これ……」
瞼が重く、ふわりと意識が浮きはじめた。
体内を巡る熱が、じわじわと感覚を狂わせていく。
「──お前、俺のこと、好きすぎて病気や思うてたんやけど。……俺の間違いか?」
囁きは唐突だった。
志貴は息を詰め、顔を紅潮させる。
目を逸らそうとしたが、顎を掴まれて引き戻された。
「志貴。俺は、いつでも背を向けられるんやで?──どうする?」
無意識に志貴の手が伸びる。
一心の胸元の布地を縋るように掴んだ。
一心は静かに笑った。
「──掴んではるけど。これ、何?……どう受け取ってもええの?」
そっと手を外し、壁に封じる。
滑る指先に、わずかな爪の圧が沈み、志貴の手首を拘束していく。
「狐──この頭の中から追い出せ」
一心の声が一気に低くなる。
志貴の喉が震えたが、もう言葉は出ない。
「──狐なんかに晒すくらいやったら、全部、俺に晒せ」
顎を固定されたまま、志貴の唇に一心の手のひらがそっと当てられる。
その上に──静かに唇が落ちた。
直接ではない。
けれど、全身を甘い熱が貫いた。
(……こんなん、ありえへんやろ……)
志貴の膝が崩れ、畳に沈む。
一心は抱き起こさず、ただ甘く見下ろしていた。
「あれ? どないしたん?」
耳朶へ滴る囁き。
その低い声が、志貴の神経をじわじわと痺れさせていく。
ゆっくりと後頭部を撫でながら、志貴の身体をさらに畳へ沈める。
正装が一枚ずつ剥がれてゆく。
衣擦れが微かに重なり合い、淡い香がまた一層満ちた。
「──この服、気に入らんわ。……ほんま、不自由やなぁ」
銀飾りが畳に転がり、月光に照らされた鎖骨が露わになった。
志貴の肌がびくりと震え、浅い吐息が漏れる。
「──これくらいせんと、お前、わからんやろ?」
甘い囁きとともに、一心は志貴の鎖骨へ唇を這わせた。
舌先がわずかに骨の凹凸を撫で、微かな水音が肌を滑る。
「あ……っ」
志貴の喉が甘く跳ねる。
濡れた吐息が皮膚に乗り、熱と冷たさが交錯しながら微細に震えていった。
「逃げてみるか?」
耳元に滴るような囁き。
一心の手が志貴の腰骨を掴み、背筋を撫で、爪先が軽く肌を這い上がる。
志貴は息を呑み、身体を強張らせた。
「逃げるなら──今が最後や」
けれど身体は、もう動かない。
逃げ道がないのではない。
逃げ方がわからなくなっていた──甘美な混乱に絡め取られて。
一心の手のひらが頬を撫で、志貴の心臓がさらに早まる。
「……わから、へん……」
志貴の細い声が震えたその瞬間──
一心の唇はさらに滑った。
鎖骨から胸元へ。
触れそうで触れぬ絶妙な距離で唇が彷徨い、舌先が乳尖をわずかに掠めた。
微かな水音。濡れた熱が志貴の奥へ染み込んでゆく。
志貴の意識は霞の底にふわりと沈み、微かな甘い波紋にゆるやかに揺らめいていった。
甘い霧が脳髄を撫で─
「あ──! や……めて……っ」
声とは裏腹に、志貴の身体はびくびくと甘く跳ねる。
拒絶も抗いもできず──
「やめる?……ほんまに?──ないやろ」
一心の囁きが、さらに湿りを帯びた。
「──怖いんか?」
「……一心が、わからん……」
「──阿呆やな、お前は」
一心の唇は柔らかく滑り続ける。
腹部を這い、再び鎖骨へと戻る。
舌が円を描くように水滴を舐め上げ、志貴の身体は小刻みに震えた。
酩酊感が志貴の全身を満たし、熱が脳まで染み出していく。
「もう、ええか……」
(──これ以上、志貴を迷わせへん。もう、俺が全部引き受けたる)
「──今度は、ほんまのやつや」
その囁きと共に──狼の牙が、ゆるやかに志貴の白肌へ沈んでいく。
「あ──あああっ……!」
鋭い痛みが弾け、志貴の背が仰け反る。
牙は肉を深く噛み破り、溢れ出す血を狼の舌先が甘く絡め取った。
「──や……痛い……!」
けれど一心は牙を緩めず、さらに深く、確実に食い込ませる。
滴り落ちた血は月光に赤黒く滲み、鉄の匂いの奥に仄かな甘美を溶かしながら──紅の契りが、志貴の魂へ深く刻み込まれてゆく。
「あ……れ……?」
痛みの奥に、奇妙な甘さが混じり始める。
意識が霞むたび、身体がわずかに弛緩し、蕩けの層が幾重にも積み重なっていく。
──もう痛くない。
──でも……これは何?
全身の力が抜け、一心の腕に自然と身を預けていった。
「──これが噛む、や。狐と──できるんか?」
志貴は弱々しく首を横に振った。
涙を滲ませ、かすれ声で答える。
「……無理……や」
一心の嗤いが、耳奥に甘く滴った。
「──せやろ。最初から、わかっとったくせに──」
優しく頬を撫で、顎を掬い、喉元を愛撫する。
「──お前を喰う代わりに。お前を護る。
これが──俺らの契りや」
一心は、ふわりと崩れた志貴を抱き締める。
「……もう逃げられん。逃がさん。俺の牙は、離さへん」
耳奥に甘く囁きながら、一心の息が志貴の首筋に熱を染み込ませた。
志貴の思考は、完全に崩れていった。
甘い熱に包まれ、蕩け落ちてゆく。
「……一心が、朔なら……よかったのに……」
無意識に零れた呟き。
一心の指先が微かに震え──けれど、そっと撫で直した。
「──お前、ほんまに……色々と面倒やな」
その瞬間、志貴の腕が自然と一心の首に絡みつく。
全身を預け、完全に崩れていった。
「……一心、どこにも行かんで……」
「──殺す気か、お前は……」
一心は甘く溜息を吐きながら、志貴の身体を搔き抱いた。
衣擦れの音が、夜の静寂に艶やかに響く。
一心は静かに志貴を抱き上げ、月光の中でその体温を確かめた。
(──もう誰にも指を触れさせへん。志貴は、俺が隠す)
「志貴──お前は、もう俺の番や。狼の牙で、護ったる」
その囁きに、志貴はふわりと微笑んだ──すべてを委ねるように。
「……あのさ、一心、阿呆みたいにねむい」
「ほんま、際どいわ。……抑えきいてる俺に──感謝せぇよ」
影がゆっくりと夜へ溶けていく。
結界の奥では、静かに崩壊の音が始まっていた。
冥府は呻き、狐の影が遠くで嗤っている。
遠く、千曳の岩が微かに唸る。
赦しも拒絶も──すでに意味を成さぬ歪みが、底から滲み出していた。
狐の気配が、遠くでかすかに揺れた。けれど、その残響すら──狼の影に、静かに溶け沈んでゆく。
一心にとって、それらはどれもあまりに些末なことだった。
志貴の耳元に最後の囁きが落ちる。
「──お前を隠すなら、俺に勝てる奴なんかおらへん。志貴は、俺だけのもんや」