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第27話 白珠は 散りてとどまる 霧の檻

第27話 白珠は 散りてとどまる 霧の檻


 


泰山の夜は、白い霧に沈んでいた。


月光は淡く滲み、幾重にも重なる杉の梢を静かに撫でてゆく。森を満たす香は、微かに冷えた樹皮の匂いと、かすかな桂花の甘みを孕んでいた。結界の内側、黄泉使いたちは静かに息をひそめ、その中心に鴈楼蘭はひとり佇んでいた。


緋色の髪が夜気に揺れるたび、衣擦れもなく、ただ霧とともに溶けてゆく。眼差しは遠くを捉えている。ゆるやかな緊張が、空間のひだを撫でていた。


足音が近づいていた。踏みしめる音は一つ、また一つと増え、やがて四つの影が霧の帳を裂いて現れ出る。


春。夏。秋。冬。


冥府直属の執行部隊──《春夏秋冬》。

いや、本来の役割を逸脱した、蠱毒の狂気を宿す集団。

能力欲しさに身内を捕食し、選別の底で生き残った異端の四人。


各々が異なる理の色彩を纏い、楼蘭を包囲する。

春の女は薄桃の振袖を風に泳がせ、夏の男は青黒き焔を拳に宿す。秋の童子は紅葉のような瞳を煌めかせ、冬の翁は氷を帯びた長杖を静かに地へ突いた。


四方から重なる異能の圧は、静かなる圧迫となり、夜の結界にわずかな軋みを生じさせる。


「──鴈楼蘭殿」


春が口を開いた。薄紅の唇は微笑んでいるが、声色には一片の情もなかった。


「冥府規律に照らし、君の行動に違反の疑いが認められた」


「宗像への不当干渉、負傷者の匿い、各領域の不可侵の理を乱す恐れがあると認定された」


夏が続ける声は、低く熱を孕んでいた。


楼蘭は静かに首を傾げ、細い微笑を浮かべる。


「──そうか。随分と重い言葉を用意してきたね」


声は柔らかくも、奥底にかすかな諧謔の熱が滲んでいた。


「僕はただ、泰山の黄泉使いたちを護っているに過ぎないよ。客人の保護もまた、同じ。隣人から依頼を受けたのだから、それが王たる責務というもののはずだし……そもそも“共闘”を禁じられてはいないはずだけれど」


秋が童子の細い指をくるりと回し、紅葉の霧を漂わせる。


「その客人こそが──理を揺るがす種子であるとすれば?」


冬の翁が低く呻くように続けた。


「とりわけ──宗像の王器に連なる少女。双子の妹を、君が今、庇護しているのだろう。あれほど純度の高い血脈──王の核に最も近い存在。──我らにとっては、極めて魅力的な標本だ」


その声音には僅かに、飢えを滲ませた欲望の色が浮かぶ。


楼蘭の睫がわずかに伏せられた。霧は静かに旋回し、淡い銀の環を描いてゆく。


(──なるほど、狙いはそこか)


(宗像の王の双子、最も純粋な血脈。──喉から手が出るほど欲しいというわけか)


「それにしても……知りすぎているな」


(影の意志か。名を告げぬ“それ”──。他に考えようがない)


誰も名を口にしない。それを口にすれば、存在がかたちを得るのを、彼ら自身が最も恐れている。だが、気配は確かに滲み出している。ここにも──濃く、重く。


楼蘭はひとつ息をついた。胸の奥に淡く揺れるのは、白梅の香。澄み、なお仄かに冷たい、冬の香り。


(やはり──宗像の“王”の傍にいるのか)


(冥府とて所詮は掌の上……だが)


(確かなのは一つ。標的は志貴。彼女を支援されては困るのだ。だから、僕を封じに来た──それだけの話だろう)


唇の端がわずかに上がる。思考の内は冴え、霧の向こうに別の夜の景色が滲んだ。


「──冥府も忙しいことだね。まだ泰山が焼けてもいないのに、随分せっかちだ」


春夏秋冬の誰もが、わずかに眉を寄せる。


楼蘭は微笑を保ったまま、袖の奥で静かに指を重ねた。


「──四人で、足りるのかな? ……僕は色の名を持つ千年王だよ?」


淡く、空間が震えた。霧が鳴り、結界の紋様が天へ浮かび上がる。銀白の渦が緩やかに巻き、隠された負傷者たちが完全に視界から消えてゆく。残るはただ、楼蘭と冥府の四人だけ。


霧は密度を増し、音を呑み、世界の縁を歪めていく。静寂の底に、淡い脈動が響いた。


「さあ、おいで」


囁くように、誘う声はなおも穏やかだった。


「蠱毒の異能など所詮は喰うことで得た力だろう?足元にも及ばないことを教えてあげる。──泰山にも、客人にも、指は触れさせない」


春夏秋冬が同時に動いた。風が裂け、焔が奔り、紅葉の刃が飛び、氷柱が雨のように降り注ぐ。異能の嵐が楼蘭を包み込んだ刹那──その姿は霧とともに消え、音もなく位置を変える。


白衣の裾がゆるやかに翻り、夜霧の中へ溶けていく。静寂が一瞬だけ支配した後、再び雷光が闇を裂く。楼蘭の瞳はその只中にあった。


(──志貴。君もまた、千年王の系譜を継ぐのなら──)


(耐えてみせろ。君が継ぐべき王の理は、今まさに試されている)


霧は濃く、夜は深く、けれど泰山の王はなおも微笑を絶やさず、冥府の棘を静かに握り潰してゆく。




***



熊野禁域の奥、夜の空間は既にねじれはじめていた。


濃密な霧と腐臭のような湿り気が地を這い、無数の悪鬼が低く唸りながら群れている。黄泉の底から引きずり出された異形たちは、血肉を求める本能のまま、冬馬を取り囲んでいた。


彼の手には、穂積伝統の蛇刃鉤矛があった。


黒地に赤の波紋が走るその長柄武器は、蛇のように緩やかなうねりを持つ刃が中心を走り、両側には鉤状の刃が突き出していた。絡め取り、斬り裂き、引き倒す──黄泉使いの執行人としての冬馬の技量と執念が凝縮された異形の武器。


薙ぐたびに、波打つ刃が悪鬼の喉元を裂き、鉤がその身体を絡めて捻じ切った。鈍い咆哮とともに、黒紫の体液が土を叩き、鉄の匂いが霧に混じって広がる。


(──きりがない)


冬馬の額に、薄く汗が滲む。刃の動きはなおも鋭利だが、悪鬼は倒れても倒れても湧き出す。香の層が重く淀み、背後の封結紋がかすんで見えた。


(ここを抜かれたら──封印がもたん)


封じ印は公介が繰り返し施してきた封結の最後の楔。ここが破られれば、熊野そのものが崩落する。


呻くように息を吐き、蛇刃鉤矛を翻した冬馬は、次の群れへ踏み込んだ。波打つ刃が悪鬼の関節を断ち、鉤が脚を攫うたびに、断末魔の叫びが霧の奥へ消えていく。


(……穂積の血は執行のためにある、か)


一瞬、かつて父に叩き込まれた言葉が脳裏をかすめた。死を断ち、死を操り、理を守るための血──黄泉使いの核たる理念。

だが。


(……俺は、たぶん、志貴のために斬ってるよな)


物心つく前から、志貴とは一緒だった。稽古も昼寝も食事も、何もかもだ。

志貴が稽古が嫌だと泣けば、機嫌をとり、稽古場へ向かった。

腹が減ったといえば、冬馬の母が作る菓子を差し出した。

昼寝は──思い出したくもない。


(一番の屈辱や……)


眠れないと泣きながら志貴が向かった先は、稽古終わりの一心の足元だった。


『僕がおるやん!』


幼い冬馬が声を上げると、志貴は小さく首を横に振り、一心の膝へと静かに身を預けていった。

一心は面倒くさそうにしながらも、志貴の小さな身体に自分の羽織をそっとかけてやる。


『なんや、冬馬。お前も寝るか?』


余裕の滲むその声に、幼心は圧倒的な敗北感と屈辱を覚えた。


『寝ぇへんわ!』


今でも苦く笑ってしまう。


「……なんで、こんな時にまで思い出すんや」


牙を剥く悪鬼の間を穿ちながら、刃の重みを支え直す。


(あいつが王になるなら──俺は、その下で全てを潰す。……結局、それだけなんやけど)


 


だが──そのとき。


霧の奥から、異様な存在が現れる。


悪鬼──だが、それは他の群れとは異質だった。


人の形を保ち、二本の脚でゆったりと歩み出る。痩せた長身に、焦げ茶の着物のような布を纏い、白濁した双眸が笑った。


「──なあ、お前、……その矛、穂積か?」


口から流暢な言葉が紡がれた。悪鬼にはあり得ぬはずの、ねじれた知性が滲んでいた。


「ここまでよく斬ってくれたもんやな。けど──」


口元が裂けるように歪み、無数の舌が蠢く。ぞっとするほど滑らかに。


「こっから先は、ちょっと違う遊びをせえへん?」


言葉の終わりと同時に、その腕が蛇のように伸びた。

冬馬は反射的に蛇刃鉤矛を捌く。

波打つ刃が絡みつく腕を切り裂き、鉤が肉をえぐり取る。だが、異形の膂力は凄まじかった。震動が骨に響き、足元がわずかに沈む。


(……強い)


喉の奥で唸りながら、踏み止まった。後退はできない。ここで押し返さねば封印が破られる。


(退がるわけにはいかん。まだ──まだやれる)


再び体勢を低く取り、蛇刃鉤矛の長い柄を軸に斬り上げたその瞬間──霧が割れた。


“白”が、そこに立っていた。


白い炎の女。


静かに揺らめく青白い光を纏い、無音のまま出現していた。髪は長く、指先まで透けるような淡い光に包まれ、その双眸は夜の底を覗いていた。


時が凍りついたようだった。

悪鬼の群れさえも、動きを止めた。先刻まで喋っていた異形も呻き声を漏らし、地に伏した──いや、一瞬で燃え尽きた。


冬馬の呼吸が途切れた。背筋が凍り、足が竦む。


志貴が二度対峙したという“化け物”。あの公介が腕を失った相手。格が違いすぎる。


(──ここまで、か)


薄氷を踏むように僅かな震えが足先から這い上がる。蛇刃鉤矛を握る指先が、無意識に強ばっていた。


だが、白い炎の女は動かなかった。むしろ──わずかに、首を傾けていた。

まるで、何かを確かめるように。

彼女の視線が、冬馬の内奥を静かに辿っていく。


ゆっくりと指が伸び、冬馬の喉元に触れた。柔らかな冷たさが、肌の上をなぞる。


白い炎の女は、そのまま微かに目を細め、優しく微笑んだ。


「──そうか。これは……いけないね」


囁くような声は、淡く、穏やかだった。


彼女は静かに手を引くと、踊るように背を向け、光の尾を引きながら霧の奥へ消えていった。

まるで、最初から何もなかったかのように。


残された冬馬は、ただ呆然と立ち尽くすばかりだった。

動悸が収まらない。

理解が追いつかない。



なぜ、今──殺されなかったのか。



背後で、重い衣擦れの音がわずかに響いた。

振り返ると、公介が静かに佇んでいた。

眉間に僅かな皺を刻みながら、その一部始終を黙して見届けていた。


その双眸の奥には、冷静な分析と、わずかな既視感のような色が滲んでいた。


 


***



道反の結界は、今もなお微かな呻きをあげていた。


本来ならば、黄泉使いが幾重にも施した封結の術式が、この境を静かに満たしているはずだった。

だが今は──悪鬼の群れが断続的に蠢き、薄闇の中でぬめるように香を濁している。


時生は静かに息を吐きながら、巡回路を進んでいた。


左手に重ねた結界印を撫で、ひび割れた紋様を上書きしてゆく。破綻した層を繕い、理の穴を埋め戻す。小さな綻びは、次の崩壊の芽になる。その理を、何度繰り返してきたことだろう。


その背に負うのは──《清嵐抑矛》。


宗像家でも特に均衡維持を司る調停者のために誂えられた、静かな矛。

蒼銀に艶消しされた直刃の穂先に、両側を控えめに飾る双翼の抑え板。

絡め取らず、斬り伏せず、相手の力をそっと逸らし、流して抑え込むための形状。

柄はやや長く、穂先の揺らぎがわずかに風のように舞っていた。


(……これほどまでに結界が侵されたのは、四百年ぶりとか……。そりゃ、最高会が紛糾するわけか)


淡く滲む思考の奥に、冷たい現実が横たわる。


宗像の王は、代々にわたり盤石の選択をしてきた。

狐の名を呼び、半身を得る──その形で、結界は保たれてきた。


狐は悪ではない。ただ、必要な機構だった。

二つの理を並べることで、黄泉の裂け目は沈静化してきた。

それを志貴は──拒絶した。


あの子は、生理的に狐を嫌った。

一心や公介は「仕方ない」と飲み込んだ。

だが。


(……僕たちは知ってる)


志貴が選んだのは、五百年どころか千年単位で現れていなかった存在──狼。

あの理外の半身。


(狐と狼。両方取れば理は安定する。けれど──)


志貴は選ばなかった。選べなかった。あるいは、選ぶ以前の問題だったのかもしれない。


時生はふっと息を吐いた。


瞬間、辺りの香が裂けた。


「何が起きた?」


時生の反応は決して遅くなかった。

だが、それを上回る侵入者だった。


──粘稠性のある、白い炎。


視界の端から迫るように現れたそれは、熱の奔流ではなく、静謐な侵食だった。

空気がゆっくりと飴のように歪み、重たく広がる高熱が、じわじわと皮膚を焦がしてゆく。


時生は咄嗟に清嵐抑矛を握り、結界膜を張り直した。

双翼の抑え板が淡い蒼銀の光を反射し、迫る熱を僅かに流し逸らす。

だが──限界は早い。


白い炎の中心に、女が立っていた。


対峙したのは二度目。

志貴と楼蘭のクラスで敗北しかけた絵面を思い出す。


揺らめく淡い髪、青白い光を纏う薄衣の輪郭。

双眸は感情の色を宿さず、ただ静かに時生を見つめていた。


(──まずい)


反射的に身体を後退させた。

だが白い炎は時空そのものを呑み込み、足場を溶かしてゆく。

結界膜が次々に焼き斬られていく。


蛇のように絡みつく炎の舌が、時生の左肩を掠めた。

衣が焼け落ち、皮膚がじゅっと焼けた音を立てる。


「……っ!」


牙を食いしばり、清嵐抑矛を翻す。

静かな双翼は攻撃ではなく、迫る炎の角度を逸らし、絡み付く熱線を捻じ切る。

流し、外し、封じる──時生本来の間合いを保つための動作。


だが──限界は近い。


白い炎の女はわずかに首を傾け、指先を伸ばす。

その軌跡を追うように炎が踊る。


(速い──やはり、格が違う)


首筋へ迫る炎刃を紙一重で躱し、時生は必死に距離を取った。

だがその次の瞬間──視界が真っ白に染まった。


刃が喉元を撫でていた。



(……ここまでか)



死が目前に迫ったその瞬間だった。


白い炎の女の動きが──止まる。


視界の奥、白い炎の女の背後。

もう一つの影があった。

よく見知った男の姿。


だが、彼は、彼女を襲わない。

彼女は、彼を──襲わなかった。


時生の中に、理解が流れ込んだ。



(僕は、ここで死ぬ。けど──志貴が危ない)



最後の力を振り絞り、倒れ込みながら右手を伸ばした。

伝えねばならない。


「公介さん……!」


直後、空間が裂けた。


次元がめくれあがるように、空間そのものが引き絞られた。

時空の断面がひとつ、音もなく口を開き──公介の指が静かに現れた。


彼は無言のまま時生の手を掴み、そのまま熊野の結界層へと引き摺り込んだ。

移動ではない。理そのものを引き寄せ、現実の順序を短縮させた。


空間が閉じた直後、時生の視界が暗転する。


「……梅が、欠けた」


それだけを告げて、意識が落ちた。


わずかな静寂の中に、断ち切られた呼吸の余韻が残る。


微かな歪みの底で、公介は時生の身体を支えたまま、薄く眉を寄せる。

指先にまだ残る理の余熱が、じりじりと皮膚を焦がしていた。


「時生──聞こえるか」


時生が、これほどまで、してやられるとしたら、もう考えられるのは一人しかいない。


低く、静かに──だが、かすかに滲んだ焦燥と憂慮。

静謐な彼の声音に、わずかな乱れが生じていた。


「……必ず間に合わせる」


そう呟くと、蒼銀の結界層を撫でるように展開し、時空の裂け目をさらに奥深くへ押し進める。

その先は──志貴の領域。王の檻の中心へと続いていく。


 


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