表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/58

第24話 うたたねに 魂をまどひ 夜は明けず(後編)


 縁側の障子が、そっと風を吸うように開いていた。

 昼とも夜ともつかぬ薄明かりが庭を満たし、空気の底に沈む静けさが、紅の香煙に溶け込んでゆく。


 志貴は相変わらず、ひとりでそこにいた。

 香の間を抜け、冷えの残る木床の上へ膝を折っている。

 守られる王としての自分と、閉ざされた檻に置かれたままの自分とが、胸の奥でかすかな軋みを立てていた。


「……静かやな」


 独り言は、薄い風の膜に触れた途端に形を崩し、庭の方へ散っていった。


 その静寂をかすかな影が揺らす。

 爪の音も蹄の響きもない。ただ、柔らかな足裏が木床の節を撫でる気配だけが生まれる。


 狼がいた。


 白銀の毛並みは夜気を吸って淡く光り、琥珀の瞳が志貴を見上げている。

 神気を帯びた毛の流れは、風のない場でわずかに揺れていた。

 吐き出される息が香煙と交わり、空気の肌を静かに撓ませる。


「……朔、来てくれたんか」


 志貴が微笑むと、狼は喉を浅く鳴らした。

 響きは声ではなく、志貴の内側へ直接しみ込んでくる。


『外の瘴気が満ちている。部屋に戻れ』


 香の巡りのような滑らかさで響く声音が、志貴の魂の縁をそっと撫でた。


「冬馬は?」


『熊野へ向かった』


「一心は?」


『常に、お前の傍に』


 尾が短く揺れる。

 志貴は、胸に差した微かな痛みをごまかすように空を仰いだ。


 そのまま、朔へ近寄る。


 朔は尾の根を小さく震わせ、志貴の足取りを迎え入れていた。


 志貴は毛並みに掌を沈める。

 ほのあたたかな息の流れが皮膚へ触れ、胸の奥にこわばっていたものがわずかに緩んだ。

 顔を埋めると、毛の香りと香煙の甘さが重なり合い、遠い夜の記憶が微かに疼く。


「……こうしてると、落ち着くんや」


『甘えすぎだ。それに、慎みもない』


 言葉とは裏腹に、尾が志貴の背にそっと触れた。

 それは離れるなと告げる仕草でもあり、そこにおれと約束を結ぶような温度でもあった。


 志貴は微笑をひらき、静かに目を閉じる。


「……ありがとう」


 ふたりのあいだに残されたのは、しばらく静かな呼吸だけだった。


『志貴、部屋へ戻れ』


 朔の促しに、志貴は目を開く。


「なぁ、朔。わたしは、いつまで、こんな風に檻の中にいるんやろな」


 琥珀の瞳が澄んだまま志貴を射抜いた。


『王が穢れを抱けば、すべてが堕ちる。お前はまだ脆い』


「外を知らんままで、王やって言えるんか?」


『お前のかわりはいない』


 志貴は視線を落とす。


「置かれたまま、守られてるだけでええんやろか」


 問いは朔へ向けたというより、自分の胸奥へ投げ返したものに近かった。


 朔の耳がわずかに伏せられる。

 ほんの少しの迷いが、琥珀に影を落とした。


『お前が在ればそれでいい。それだけで、俺は足る』


 声音は澄んでいた。

 濁りのない純粋さだけが、偏執の輪郭を秘めている。


 志貴は、ふと思い出したように呟いた。


「あの望やったら、違う言い方……するやろな」


 その一言に、朔の尾が逆風を受けたように逆立った。

 琥珀の瞳は鋭さを帯びる。


『望の声は毒だ。耳を貸すな』


 低い響きが夜気を震わせた。

 朔は香煙を裂き、闇へ沈んでいく。


 残された志貴は、返すべき言葉を喉に残したまま立ち尽くした。


 紅の香煙がふわりと肩を包む。

 守られているのか、閉じ込められているのか。

 自分でも見分けのつかない静けさが、胸の奥へ重たく沈み込んでゆく。


 香袋を握る指先が、うっすらと汗ばむ。

 一心が調えた香は、たしかに守りのためのものだ。

 それでも、香の温度さえ檻の鍵のように思えた。


 廊下の向こうから人の気配だけが断続的に届く。

 武具が触れ合う硬い音。短く交わされる指示の声。

 そのどれにも、志貴の名は出てこない。


 静けさは守りの形を取ったまま志貴を締めつける。

 呼吸を浅くした覚えはないのに、胸の奥が湿った重さで満たされていった。


 このまま何も選ばないままで、王でいられるのか。

 問いがひとつ、輪郭を得る。


 香炉の火がわずかに揺れた。

 その揺れが、幼い頃の記憶を連れてくる。

 誰にも呼ばれぬまま縁側で夜を待ち続けたあの時間と、同じ静けさだった。


 思考はそこでほどけ切らない。

 ほどけきらずに絡みつくのは、外の結界ではなく、胸のうちに生まれた迷いそのものだった。


 香煙がふいに波を打つ。

 空気が水面のように撓み、紅の層がゆっくりと形を変えていく。


 志貴は顔を上げた。


 香の奥に、人影がひとつ立っていた。


 望だった。


 金の髪が夜光を含んで滑り、深い海の底を思わせる瞳が志貴を射抜く。

 獣と人とのあわいに漂うような輪郭に、性別の線は薄い。

 背後に幾重にも舞う尾が、香の煙を撓ませながら螺旋を描いていた。


 喉の奥で、かすかな声が擦れた。


「なんでや……」


 望は唇の端だけで笑みをつくる。


「それは、君が思うよりも私を拒んでいないからだよ」


 声は甘く低く、よく練られた香を思わせる滑らかさを帯びていた。


「心の奥に、問いたいものが生まれた瞬間、狼の檻は脆くなる。君が自分で作った、聞いてはならない問いという名の鍵が、少しだけ緩んだ」


 志貴は無意識に半歩引く。


「……近寄るな」


「以前なら、ここまで容易く近づくことすらできなかった。朔も形無しだね」


 望の瞳が愉しげに細まる。

 いつもは金色の奥に沈んでいる蒼が、今夜はその金を塗り潰していた。


「教えてあげようか。赦しとは裁くことではない。赦せぬものを抱え込む、その痛みごと飲み下す。それこそが赦しの本質」


 滑るような足取りで、望は志貴へ歩み寄る。

 香の煙がそのたび揺れて、紅と白のあいだに淡い濁りを孕んでいく。


「熊野は裂け、悪鬼は溢れ、冬馬も一心も、限界ぎりぎりのところで立ち続けている。君は、まだ何ひとつ選んでいない」


 志貴の視線がわずかに揺れた。


「君の迷いが、皆を苦しめている」


 望は言い切るだけで続けなかった。

 沈黙がひとつ落ち、香の層が薄く震える。


「朔は、君だけを守ろうとする」


 その声音は刃のように冷たく、志貴の胸へ触れずに斬り込む。


「私は、皆のために君を解き放つ」


 尾の先が、紅の煙を裂いた。

 甘美と残酷が同じ重さで混ざり合う、望らしい響きだった。


 望の指先が志貴の頬に触れた。

 指揮者が世界の調子を整えるときのように、迷いなくなぞる。


「私を選ぶなら、君自身の手で全てを選び直せる」


 柔らかな尾が霞のように志貴を包む。

 香の温度がひとしきり上がり、輪郭がほどけそうになる。


「何なんや……何が正解で、何が間違いなんかわからん」


 胸の奥からこぼれた言葉は、香煙よりも脆い。


 望はわざとらしいまでに慈しむように微笑んだ。


「境界など、最初から存在しない」


 白い掌が志貴の瞼を覆う。

 ゆっくりと、優しく、だが逃れられない圧で視界が押さえつけられる。

 光がひとつずつ消え、闇が静かに沈み込んでいった。


「さぁ、私を呼べば、すぐに楽になれる」


 耳元の囁きが、液体のように意識の奥へ沁みてゆく。


「知りたいことは、こちらにある。君が求める答えも、痛みを終わらせる術も全部だ」


 尾が螺旋を描き、志貴の両腕へ絡みついた。

 掌は瞼を覆ったまま、もう一方の手が首筋を撫で上げ、頸に沿って添えられる。

 締め付けは呼吸を奪う一歩手前で止まり、吐き出された息すら絡め取られ、望の指先へ吸い込まれていくようだった。


「瑞々しく、未完成で、脆い。朔が欲する理由もよくわかる」


 望の囁きが頬を掠める。


「私はね、君の色を別の色で塗り潰したいんだ。千年王は必要ない。ただ、宗像の王であれば、それでいいんだよ」


 志貴の喉が震えた。

 声になり切らない息が上がり、唇がゆっくりと開きかける。


「考えなくていい。何も決めなくていい。ただ、身を任せればいい。千年王の資格を失えば救われるのだから」


 望の声が、さらに低く沈んだ。


「私を選ぶのは罪ではない」


 その瞬間、香の空間を鋭い気配が断ち割った。


 結界の奥底に、清冽な刃の気配が貫いてくる。

 望の尾がわずかに軋み、支配の渦が一瞬だけ弾かれた。

 望の唇が志貴の首筋を掠め、吐息だけが甘く肌を撫でる。


「さすがに、容易くとはいかないか」


 志貴の耳許で、愛おしむような吐息がほどけた。


「知っていたかい。契りというものは、一方的にでも刻める」


 白く細い犬歯が、志貴の首筋をなぞる。

 熱が蕩けるように染み込みはじめる。


「このまま千年王に烙印を捧げよう」


 牙が肌へ触れかけたとき、低い声が結界の芯を裂いた。


「やめぇ」


 鋭く、押し殺した怒りを含んだ響きだった。


 黒衣が煙を裂き、狼の仮面を帯びぬまま、一心が踏み込んできた。

双眸はまっすぐ志貴を射抜いている。


 志貴の首筋を掠めていた気配がふっと引き、笑みを含んだ息遣いだけが肌に触れた。


「間に合ったのか、従兄殿」


 望の尾はなお志貴を絡め取り、指先は頬に添えられたままだった。


 一心はさらに一歩、間を詰める。


「離せ。志貴は千年王のまごうことなき王格。お前なんぞの導きは不用や」


 望は喉の奥で笑った。


「私を呼ぶ寸前だったのに?」


 志貴の喉が震え、小さな、しかし確かな声が漏れた。


「……いっしん……」


 志貴の呼び声に応えるように、一心は望の尾を掴む。

 絡みついていた尾の束をひとつひとつ軋ませながら剥がしてゆく。

 尾が引き剥がされるたび、香の濁りが薄れ、望の声に粘りが混じった。


「ああ、惜しかったのに。ほんの僅かで、千年王にならずに済んだのにね」


 望は名残惜しそうに蒼を細めた。


「次は、君が懇願しないと助けてあげない」


 甘く冷たい囁きだけを残し、瞼を押さえていた掌が離れる。

 霞んだ視界の向こうで、輪郭は霧の奥へと溶けていった。


 香の間に静寂が戻る。


 一心は、崩れかけた志貴の身体をそっと抱き留めた。

 志貴は力の抜けた重みを預け、かすれた声で呟く。


「……ごめんなさい……」


 謝罪とも懺悔ともつかない震えが胸で砕ける。

 一心はその震えごと抱き締めた。

 腕に込められた力は強く、それでも乱暴ではなかった。


「謝ることやあらへん」


 耳元で、低い声が落ちる。


 紅の香煙がふたたび立ちのぼる。

 さきほどまで檻のように思えた香の気配が、いまは辛うじてふたりを包む幕になっていた。


 志貴の睫毛に、わずかな涙の光が宿る。

 一心の胸に額を押しつけると、遠くで軋む禁域の気配が、ひとときだけ薄れた。


 夜はまだ明けない。

 それでも、抱き締められた腕の中にだけ、仄かな温度の行き先があった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
番契り 番地獄 狂愛 執着愛 奪愛 蜜毒 独占欲 贖罪愛 狂おしい愛 倒錯愛 契り地獄 奈落契り 血と魂 狼と少女 禁忌の契り 赦しは毒
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ