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第23話 うたたねに 魂をまどひ 夜は明けず(前編)


 霊峰白山。


 雪を被った峰が、夜と朝のあいだで息を潜めていた。

 積もった祈りと、封じられた魂の重みをそのまま抱えたまま、山はただ静かに、凍てた気配だけを放っている。


 王の理は、まだこの地に眠っている。

 最奥、禁書の残り香が沈んでいるその下で、きしむような微かな揺れが、少しずつ広がりはじめていた。


 公介は、雪を踏みしめて進む。

 靴裏から立ちのぼる冷気は、本来なら、赦しと和合を司る白山比咩の穏やかな調べを伝えてくるはずだった。


 けれど、その調律はわずかに乱れている。

 整っていたはずの均衡が、細く、軋んでいた。


 熊野、厳島、高千穂、阿蘇。名を挙げた先から順に、禁域が少しずつ削られていく。


 封じた瘴気は、縫い目の隙間から滲み出る。

 繕えば別のところが裂け、塞いだ端からまた傷が広がっていく。


 誰かが、物語そのものを終わらせたがっているとしか思えないほどだ、と公介は目を伏せた。


「……誰の企みや」


 吐いた息と一緒にこぼした独り言を、風がすぐ攫っていった。


 Veilmaker、あるいは、歴史の因果を背負っている誰かか。

 理を覆そうとする手は、もはや一つだけではないことに、唇を噛む。


 公介は胸元から、一冊の小さな冊子を抜き出した。

 《王の理 裏記録アポクリファ》は宗像ですら封じてきた禁忌の書だ。


「ひっくり返すには、相当な痛みが要るんやろうな」


 白山の結界が、また新たに、どこかでかすかに軋む。

 その音が、耳の奥でくぐもった笑い声になって響いた。


 それでも、王の理までは揺るいではいない。

 香の間に閉ざされ、未熟な赦しの灯火だけを頼りに、あの小さな掌で耐えているはず、と公介は天を仰いだ。


 誰も、外の軋みを、まっすぐには伝えないままでいることは、いずれにせよ、志貴を傷つける。それが、わかっていても、公介は志貴への開示を認めなかった。


「勝ち筋がみえるまでの我慢比べやな」




 ***


 昼とも夜ともつかぬ薄明かりが、障子越しにゆらゆらと揺れていた。

 志貴は独り、薄紅の香煙の中に座っている。


 焚かれている香は、間違っていないはずだった。

 一心が、ほとんど毎晩、眠る前に調合をやり直してくれている。

 香木の高さも、蜜の加減も、宗像で調えていたものより、むしろ繊細なくらいだ。


 それでも、胸の奥には薄い膜のような焦りが貼りついたままだった。


 透明な氷が、仮面の裏側からじわじわと広がっていくみたいな感覚だ。

 痛いほど冷たいわけでも、なにかを突き刺されるわけでもないのに、いつのまにか心臓の辺りまで、薄い霜が追いついてきている。


稽古場を出て、香の間へ戻る細い回廊の途中だった。

 段差をひとつ降りただけで、ふくらはぎに鈍い痛みが走る。

 力が入りにくいわけでも、怪我をしたわけでもない。ただ、足裏に重しを結びつけられたみたいに、次の一歩を踏み出すまでに半拍ぶんの間が生まれる。


「こんなん、前はなかったのに……」


 袖の中で拳を握れば、関節がわずかに軋む。

 香煙を吸い込みすぎたときに出る鈍さにも似ていて、それなのに拍だけがどこか外側で泳いでいる。


 香の間の戸に触れたとき、ようやく息がひとつ落ち着いた。

 その落ち着きが、どこか他人のものみたいに感じられて、志貴はほんの少しだけ眉を寄せた。


「日に日に……悪くなってる気がする」


 朝、時生や冬馬と型を合わせた。

 今日も、ただそれだけの、軽い鍛錬のはずだったのに、終わる頃には身体がじんと重くなっている。

 少し前なら、一晩寝れば消えていたはずの疲労が、一日、二日と、身体のどこかに居座り続けた。


 香の巡りも、わずかに遅い。

 仮面を外したとき、指先からするりと色が引く。

 やはり、血の温度も、以前とは違っている。


 道反の結界の外へ出るのは、いつも他の誰かだ。


 名前を呼ばれるのは、一心で、冬馬で、公介で、宗像の古い黄泉使いたち。


 泰山からの使いの声も、熊野からの急ぎの文も、障子一枚向こう側で飛び交っているのに、志貴だけは、その輪の中に置かれない。


「志貴は、外に出したらあかん」


 そんな断片を、廊下の向こうで一度だけ耳にした。

 誰の声か確かめようと襖を開けたときには、話の続きはもうどこにもなくて、薄く伸びた香の残りだけが、空気の上に残っていた。


 志貴は瞼を伏せ、香炉の炎の揺れをじっと見つめる。


一心は任務は現場だけではないから、宗像の王の格たる力を磨けと言う。

 ならば、その格たる力とは、どう育てれば良いのか、と志貴は眉を寄せるほかない。


 爆発的に増殖した悪鬼は、今もどこかしこで暴れている。

 少なくとも、公介たちはそう判断して動いているはずだ。


 王は、ただ赦しの理を抱えて座っていればいいのか。

 香を焚いて、祈りだけを送っていれば務めを果たしたことになるのか。


 稽古場の土を踏むしかできない志貴自身が、道反の外を見ないまま、王だと呼ばれている。


 香炉の芯が、細く揺れた。

 紅に淡い濁りを含んだ炎が、くゆりくゆりと撓っている。


「……これは修行なんか、遮断なんか……どっちやろな」


 声に出してみても、答えは出ない。


 廊下の方から、武具の触れ合う乾いた音と、人の声が流れてくる。

 冥府から使いが来たらしいという話も、泰山の結界が揺れているという噂も、みんな、障子の外を通り過ぎていく。


 冬馬も、一心も、外へ出ていく回数が増えた。

 時生も、壮馬も、以前より長く姿を消すようになってきている。


 志貴だけが、香の間に置かれていた。


 道反の結界の縁をかすめるように、意識を外へ伸ばしてみる。

 遠いところで、土と潮と血の匂いが、薄く混じり合っているのがわかる気がした。


 けれど、その先は霞がかったように掴めない。

 望の囁きも、千年王になり損ねたあの女の気配も、現れない。


香炉の底に残っている火種みたいに、自分の居場所が掴めない。

 そう思った瞬間、障子の向こうから、一心の低い声が漏れた。


「そんな身体では、足手纏いになるだけや」


 誰かに告げているのか、それとも声だけを志貴に投げているのか。聞き分けることができない。


 抑えた激情の揺らぎが、胸に貼りついていた薄い膜を、ふたたび震わせる。


 志貴は俯くしかできない。

 香煙だけが、静かに輪郭を滲ませていく。


廊下の向こうで、さらに衣の擦れる音がした。

志貴は恐る恐る障子から顔を覗かせた。


中庭を挟んだ先には一心が背を向けて立っていた。

 狼の仮面はつけず、ただ帯の具合を直している。その横に、冬馬が寄る。


「行くで、冬馬」


「あいよ」


 ふたりのやり取りは、それだけだった。

 冬馬の足音は軽く、一心の足音はほとんど響かない。

 志貴が声をかけようと息を吸った瞬間には、もうふたりの背中は角を曲がっていた。


 香袋がひとつ、部屋の前の廊下にぽつりと置かれている。

 一心が置いていったものだと気づくのに、少しだけ時間がかかった。


 拾い上げようとして、膝がわずかに笑う。

 指先が震えて、香袋の端をつまむのに余分な力が要った。


 それでも、声は、結局、出なかった。


 道反の結界内で、風が急に荒れた。

 外へ出ていく二人に向けて開いた空気の道が、またすぐ閉じてしまう。


 志貴のいる場所だけが、ゆっくりと静けさへ戻っていった。



 ***



年甲斐もなく、不貞寝をするほかない志貴は、丁寧に整えられた布団を嫌い、畳に転がっていた。


「入るよ」


志貴の返答を待たずに、障子が、音もなく滑る。


「楼蘭、……なんで、ここに」


 多忙の渦中にあるはずの楼蘭が、香の間へ姿を現した。


「……体調は、戻りつつあるの?」


 薄雪を踏むような静かな声だった。

 志貴は少しだけ姿勢を正して、笑みを浮かべる。


「あと少しで戻るとは思うんやけど……」


 言葉にすると、その方へ近づける気がする。

 実際には、稽古のたびに回復までの時間が延びているのだとしても。


 香煙は穏やかに揺れている。

 けれど、楼蘭の眼は、その奥に透けている濁りを見逃してはくれないことを志貴もわかっていた。


 現実、治癒は思うほど進んでいない。だからこそ、志貴はうまく笑えなくなった。


「香は、よく保たれているように見えるけど?」


「一心が、丁寧に調えてくれてるからや」


 稽古で倒れ込んだ夜には、香の配合がわずかに変わる。

 鉄の匂いを薄めて、梅と蜜の甘さを少しだけ増した調合。

 それはたしかに、香の表面をなめらかにはする。

 けれど、香の芯に入ったひびは、そのままだ。


「冥府から使者が来たんだろ?」


 楼蘭の口から、道反の外の話がぽろりと落ちる。

 他の誰も、詳しいことは話してくれない。

 志貴は視線を伏せ、唇を噛んだ。


「……なるほど、過保護もここまで来たら、地獄だな」


 室内の温度が、ほんの少しだけ下がった気がした。

 胸の奥に、鈍い痛みがじわりと滲む。


「まぁ、冥府は当てにしない方が賢いから、気にする必要もないけどね」


 冥府の使者が軒先で数名落命したと聞きかじった頃から、道反は目に見えて慌ただしくなった。

 けれど、その慌ただしさは、香の間の内側までは届かない。

 廊下の向こうで風だけが荒れ、ここには整えられた香と、静かな時間だけが置かれていた。


「志貴、一心さんに借りたいものがあるから、また後で来るね」


 楼蘭はすっと立ち上がり、柔らかく去っていく。

 袖に残る白山の冷気の匂いだけが、外の世界が動いていることを、志貴の鼻先へそっと知らせた。



 ***



 細い回廊の一角で、一心は楼蘭が出てくるのを待っていた。

 狼の仮面は帯びず、黙したまま、こちらへ歩いてくる楼蘭を見つめ返す。


「……楼蘭、ちょっとええか?」


「俺も、訊きたいことがある」


 楼蘭の声は穏やかだったが、その奥に冷えた刃の気配がある。


「志貴の治癒が滞っているのは、どうして? 力は貸したはずだ」


 一心は即答出来なかった。

 ほんの一瞬だけ、目の奥の色が揺れる。


「……身体に馴染まんもんは、吸収に時間が要るだけや」


「それは、方便か、真実のどちら?」


 楼蘭の微笑の奥で、観察者の眼光が細く光る。


「……お前の想像通りや」


 稽古のあと、志貴は息が上がったまま、なかなか拍を戻せない。

 香を焚き直して、仮面を外しても、脈の速さが落ち着くまでに以前の倍はかかっている。

 一心は、それをいちばん近くで見てきた。


「泰山の結界も揺れている。宗像が崩れれば、共倒れどころじゃない。理解してるよね?」


 王を守れば、他のどこかが崩れる。

 王を外へ出せば、その王自身が、ひび割れた足場の上に立つことになる。


「宗像は……優しさで王を殺すのか?」


 楼蘭の問いが、香の間の方角へと静かに落ちた。


 王をここから出さないことが守りなのか、絞めつけなのか。

 志貴自身には、どちらとも説明されていない。


 一心は奥歯を強く噛み締める。


 稽古ひとつで、何日も引きずる身体。

 そんな状態で、熊野や泰山の前に立たせたら、帰ってこれなくなる。


喉まで上がってきた言葉を、一心は呑み込んだ。外界の破滅と、道反の王とを天秤にかける視線が、そのまま闇の方へ流れていった。


「すまんが、出せん」


 吐き出せたのは、それだけだった。


 楼蘭は、一瞬だけ目を伏せる。


「誤解するなよ。俺は、出せとは言ってない。ただ、宗像志貴は色の号を持つ千年王だろ。その王格を、あんな子ウサギみたいに扱って、どうするんだって言いたいだけだ」

 

楼蘭は胸の前で腕を組み、一心を正面から睨みつけた。



「それにな……あんた、志貴が絡むと急に鈍くなる」


 楼蘭は一歩詰め寄り、一心の胸板を指先でつついた。


「この図体で、その甘さは反則だろ。見てると腹が立つ」


小柄である自分に舌打ちしながら、楼蘭は引き返していく。


「千年王って生き物が、どんな物か、わかってるなら、……あんた達のやり方は間違いだ」


楼蘭は振り返ることもせずに、吐き捨てた。


「……痛いところを、ずけずけと」


一心は楼蘭の背を見送りながら、苦笑いした。


「千年王って生き物がどんな物か、わかってるからこそ、……悪者になっても、動かさんのや」


一心は髪を掻き上げながら、つぶやいた。





 ***


 熊野、禁域の最深。


 闇が、裂けた。


 封結の結界が、幾重にも砕けていく音が山肌に伝わり、瘴気とも濁流ともつかない禍々しい霧が、底から吹き上がる。


 渦を巻く瘴霧は、赤黒い斑紋を撒き散らしながら空を汚していった。


 這い出してくるのは、名も持たない悪鬼たちだ。


 砕けた角。割れた面。濡羽色にぬめる皮膚。

 裂けた腹から臓腑が垂れ、幾本もの脚が泥をつかんで離さない。

 低く擦れる呻き声が、群れの奥からにじんでくる。


「……崩れたか」


 公介は、低く呟いた。


 黒衣は結界に守られ、瘴霧をはじいて揺れない。

 裾がわずかに風を含み、結界の光が布の端に薄く映る。


 両脇では、津島の黄泉使いたちが次々と封結紋を編み上げていた。

 それでも、侵蝕の速さの方が勝っている。


「宗像の王は何をしている!」


 怒号が、誰かれの喉から飛ぶ。



「熊野が抜けるぞ!」


「なぜ志貴が出てこないのだ!」



 公介は答えない。

 掌に浮かべた薄氷の護符が、淡く脈打っている。

 そこには、稽古場での志貴の拍の乱れが、微かな残響のように刻まれていた。


「宗像志貴は理を守るのが務めや」


 公介の低い声が、結界の芯を貫く。


「非難する暇があるなら、少しは役に立ってみせろや」


 公介の結晶符が虚空へ舞い上がる。

 光脈が瞬く間につながり、螺旋状の輪が瘴気を絡め取った。

 悪鬼たちがその中でもつれ合い、呻く。

 けれど、それだけでは足りない。


 奥で蠢いている闇は、まだ形を変えようとしている。


「……猶予は、僅かってか」


 公介の眼差しの奥に、珍しく焦りがちらりと滲んだ。


 その瞬間、瘴霧が、ふいに静まる。


 双環陣の中心に、白銀の尾が一本、するりと現れた。


「……来よったか」


 狐だ。

 夜の帳をそのまままとったような姿で、金の髪が風もないのにゆらりと揺れる。

 深い海の底のような蒼を宿した金の瞳が、結界の内側をひと目で射抜いた。


 男とも女ともつかぬ、中性的な輪郭。

 妖しい美しさを宿した尾が、幾重にも背後で絡み、ゆるやかに波を打っている。


「宗像の頭脳殿。相変わらず理屈ばかり積み上げて、この様かい?」


 狐は甘やかに笑った。

 その笑みの奥に、底の見えない虚無の影が沈んでいる。


 公介は沈黙を守る。

 掌の護符だけが、かすかな鼓動を打ち続けていた。


「名もない御霊を、なぜ救う?」


 狐は、滑るように前へ出る。

 足もとの瘴霧が、縁を避けるようにしぼんでいった。


「自業自得で滅ぶ命に、理を与え続けて何になるというのか。赦せばまた溢れ、繰り返すのみ。ただ地獄を深くするだけだよ」


 毒のように甘い声が、公介の耳を撫でる。


「これが地獄だよ、公介。赦しなど欺瞞だ。そうは思わない?」


「……思わん」


 公介は静かに答えた。

 声は揺れず、芯だけがそこにある。


「赦すいうのは、生かすことや。命に名を与えて、形にして、流れんよう繋ぎとめる。それが宗像本家の理や」


 狐は微笑を深めた。

 不可思議な金色の瞳が愉しげに細められる。


「ならば、こう問おう」


 狐の囁きが、さらに低く沈む。


「己の嗜好で選び、他者が傷つくのを看過してもなお、理は成り立つのか。王のみを守ることは、誰かを切り捨てることではないのか、と」


 狐の吐息が、封結陣の軸を撫でた。


 光が揺れ、瘴霧がふたたび押し上がる。

 双環陣が、きしむような音を立てた。


「未熟な王は赦しに溺れる。赦せぬものまで赦そうとすれば、また、底へ堕ちゆくのみ」


 狐は果実をかじる前のように唇を開く。


「その堕ちる姿を、見たいのかい?」


 公介は耳を貸さない。短く息を整え、護符を掲げた。


「遠慮しとく」


 杭を打つように、短く言い捨てる。


「可愛い姪を駒にされて、悦に入る叔父になりたくはない」


 狐は愉快そうに唇を吊り上げ、わずかに首を傾げた。


「その手前勝手な甘さが、次に誰を殺すか、楽しみに見届けさせてもらうよ。王は必ず、選ばされる。赦しは呪いへ転じる。それも、君がいちばん望まないやり方で、ね」


 輪郭が薄れ、狐の姿は霧の中へ溶けていく。


 残されたのは、沈黙より重い選択の刻だけだった。


 螺旋封結の光輪が軋み、瘴霧のうねりが、ふたたび静かに広がりはじめていた。


護符の冷たさの奥で、焚き火の前で瓶を抱えていた志貴の横顔が、ひとときだけ胸をかすめた。

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