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第20話 我が名を 呼ぶは夢か 現し世か


昼の光が、白い障子を透かしてゆらいでいた。

風がひと筋通り抜けるたび、紙の面に落ちた影が薄く揺れ、畳に四角い光のきざはしを落とす。


軋む音ひとつ立たない宗像の稽古場には、志貴の呼吸だけがあった。


吸って、止めて、吐く。

胸の奥で刻む拍を、痣のあたりと合わせるように数える。右の肩に宿った紅の痣は、皮膚の下で別の生き物のようにじんわりと熱を持ち、ときおり、自分とは合わぬ拍で脈を打った。


紅の王の痣を与えられながら、術も矛も、まだ思うようには制せない半端な器。

器だけ先に据えられて、中身がどこかで足踏みしている。そんな感覚が、骨の内側にまで沁みついている。


「……壱ノ型、風花の宴」


舌の上で転がした言葉を、志貴はそっと空気へ解き放った。

名を呼んだ刹那、稽古場の空気の輪郭が、ふっと変わる。


畳の上を滑る足裏の感触。柄を握る掌に、熱がひと筋走る。目には見えぬ花弁が舞いあがり、指先から撒かれた火種が、その軌跡ごと焼き締めてゆくようだった。


ほんのわずか、心臓の拍が逸れる。

それだけで、火が跳ねた。


ぱしり、と乾いた音がして、稽古着の袖が裂ける。頬をかすめた熱が遅れて痛みに変わり、その痛みを境に、足から力が抜けた。膝が崩れ、畳が間近に迫る。


「……また、あかんか」


吐き出した声は、自分のものとは思えないくらい細く掠れていた。


数えきれないほど繰り返してきた型だ。

教わった通りに身体を運んでいるはずなのに、王の火は心の震えひとつで牙をむく。

わずかな迷い、わずかな恐れ。そうしたもの全部を嗅ぎつけては、真っ先に襲いかかってくる獣のようだった。


型は、身体のどこかまでは沁みてきた。

けれど、呼吸が追いつかない。

拵えだけ立派な器を肩に載せられて、中身はまだ半分ほども入ってこない。自分で自分をそうなじることにも慣れた。その言葉の棘が、毎日毎日、胸のいちばん柔らかい場所にじわりと沈んでいった。


脳裏のどこかで、一心の姿が浮かんでは、すぐ水面の泡みたいに消える。

波風のない穏やかな笑みと、その奥に時折のぞく手の届かない冷たさ。

何かあればすぐに抱きとめてくれるはずの腕なのに、こちらからは遠く、指先が触れる直前で遠ざかってゆくような背中。


一心に嘘をついた。

それだけはどうしても誤魔化せない。

喉の奥に、火とは別種の熱が重く溜まっている。


罰だ。そこまで言葉にしてしまえば簡単だったが、声にはならなかった。

負った覚えのない傷が、呼吸の隙間ごとに疼くようだった。


「……またか」


いつのまにか、志貴は仰向けになっていた。

天井の梁がぼやけて見え、その輪郭がゆっくりと遠のく。

きっと、また熱が上がる。

そこまで考えかけて、思考の輪郭がふっと崩れた。


「ちっとも、前に進まん……」


身に宿る力を少しでも使えば、三日は眠り込む。

器の脆さが、いつもあとになって身体を叩きつけてくる。


遠くで、風鈴の音がした。

夏の名残を引きとめるような、細い音。

涼やかなその響きが、耳の奥でほどけながら、眠りへの境目をなぞってゆく。


まどろみの縁で、志貴はそれを見た。


紅蓮の光。

白い炎。

焼ける匂いと、押し殺した泣き声。


金属どうしが打ち合う硬い音が闇の中に連なり、その一撃ごとに胸の拍が吊り上げられる。

踏みしめる床板の震えが、そのまま心臓の底に届いてきた。


胸の奥がきしむ。見覚えのない光景のはずなのに、足場だけは知っているような心許なさがあった。


引き上げられるように、志貴は瞼を開いた。


見知らぬ楼閣が目の前に広がっていた。


白木の柱が霧の中に何本も立ち、紅を塗った欄干が、薄い霞の中で遠くまで延びている。欄干の下には海があり、深い霧に沈んだ水面が、うす墨色にうねっていた。


ここは宗像ではない。

香の層が違う。

潮と冷えた香木の匂いが混じり合い、宗像の土と梅の匂いとは別の拍を刻んでいた。


志貴は、自分の意識が、別の誰かの身体に据えられているのを、はっきりと感じた。

腕をわずかに動かすと、筋肉の重みが違う。

重心の置き方も、歩幅の感覚も、自分とは合わない。

それでも、肩にのしかかる責任の重さだけは、どこか覚えのある形をしていた。


手の中に、冷たい重さがあった。

視線を落とせば、柄のない刃が握られている。白く細い指が、ぎゅっとそれを握り締めていた。指の隙間から、ひとすじの血がこぼれ、刀身を薄く染めている。


走らなければならない。

どこかへ向かわねばならない。

けれど、思考は行き先を知らなかった。


胸の奥だけが、わかっていた。

懐かしさと切なさをないまぜにした感情が、波のように押し寄せては引いてゆく。


誰かが、待っている。

自分が護らねばならない誰かが。


その感覚は、今の志貴の願いとぴたりと重なっていた。


「……私にだけ、退路がないというわけか」


唇からこぼれた声は、自分のものなのに、自分ではない響きをふくんでいた。

この身体の本当の声だと、志貴は直感する。

舌に残る言葉の癖も、息の運びも、知らない。


霧の向こう、回廊の奥に人影が立っていた。

風に揺れる長い髪は、陽を含んだ金の色をしているように見えた。

やさしく笑っているような気配と、遠くで獣が喉を鳴らす気配がかすかに重なる。

耳に届いた声は、あの獣の声に、どこか似ていた。


「獣は、私の意志では動かぬ。あなたこそ、それを知っているはずだ」


胸ごと皮を剥がされるみたいな拒絶。

それでも、霧の向こうの誰かは、微笑を崩さない。


君は冷徹であるべきだった、と声が言う。


そんなことは言われなくても知っている、とこの身体のどこかが反発する。

志貴自身の心も、その痛みの形なら、よく知っていた。


「私は、ただ、護りたかっただけだ」


握った刃が、静かに首へ持ち上げられる。

紅の光が走り、檻がひとつ崩れ、血が奔り、方陣が地を染めた。


愚かな判断だ、と誰かが吐き捨てる。

それが君の誇りを守るとは到底思えないけれど、と。


近くと遠くのあいだで揺れる声が、霧の厚みといっしょに、少しずつ遠のいてゆく。


白い霧が深くなり、視界が閉じてゆく。

音が消えかかる刹那、名前を呼ぶ声がした。




「志貴! おい、しっかりせぇ!」




現の空気が、荒い波みたいに肺へなだれ込む。

喉が勝手に大きく息を吸い込み、からからに乾いていた胸が痛みを取り戻す。


目の前に、冬馬と一心の顔があった。

冷や汗に濡れた額に、柔らかい布がそっと触れる。

一心の指先が、慣れた手つきで髪をよけ、汗を拭っていく。


「……夢、やったんか」


自分の声がひどく遠く聞こえ、耳鳴りがする。

慌てて、首に手をやる。肌はなめらかで、血の気も通っている。傷などどこにもない。

それでも、さっき刃を当てた場所だけが、じんと熱を持っていた。


夢が残した熱と、嘘の熱が胸の奥で重なっている。

そこに、何か別のものが目を覚ましつつある気がした。


「……ほんまに、夢、なんやろか」


声にしてみても、胸の奥で別の名がうごめく。

誰かの人生から剥がれ落ちた断片が、たまたまここへ流れ着いた。そう思えば納まりはつくのに、どこかで首を縦に振りきれない。

さっきの身体は自分ではない。

それなのに、刃が落ちたときの重みと熱は、確かに自分のものだった。


首を斬って命を絶つ。

その選び方だけは、絶対に自分には許されないと知っている。


王が自ら途切れたとき、その穴はただの不在では終わらない。

削れたぶんを埋めようとして、理そのものが周りから少しずつ削り取りに来る。そんな像が、喉の裏側に張りついて離れなかった。


「志貴、聞いてるんか」


一心の低い声が、耳の奥でようやく輪郭を取り戻した。


「お前の息の世話までできんわ」


背をぽんと叩かれ、志貴ははっとする。

息を止めていた自覚がなかった。

一気に胸が苦しくなり、咳がこみ上げてくる。


「ちゃんと呼吸せぇ」


あの夜から、一心は志貴に手を伸ばすことさえ避けているように見えていた。

いま、久しぶりに肩をさすられ、その温もりに胸のどこかがほどけた。

ほどけたところから、じわじわと水がにじみ出す。

気づけば、視界が涙で滲んでいた。


冥府からの使いの言葉も、望の笑みも、一心についた嘘も、全部ひとつの塊になって胸の内側を押し広げてくる。


「……ごめん」


何に対する詫びなのか、自分でも言い切れない。

それでも、一心にはきっと届いてしまうだろうと、そういう確信だけがあった。


一心の手が頭に触れ、そっと撫でる。

それで終わりだと言わんばかりに、稽古はここまで、と短く告げて身を引いた。


冬馬が隣へ腰を下ろす。

差し出されたペットボトルを受け取り、志貴はわずかに揺れる水面を見つめた。

冷えた水が喉を滑り落ちる感覚が、さっきまでの熱と奇妙に馴染む。


一心が自分の羽織を肩に掛けてくる。

身体を冷やすなという言葉を、香りと布の重みだけで伝えてきた。


冬馬が、ため息ともつかない息を吐いてつぶやく。


「白昼夢とかで片づけられるもんちゃうな」


志貴はペットボトルを握りしめたまま、口を開いた。


「白木の柱に、紅の欄干、霧に沈んだ海の上。

 そこで、首を斬って命を絶った王。……宗像に、そんな場所と王、おるんか」


見たものを、ひとつずつ拾い上げるように言葉にする。


問いかけた瞬間、そばにいる二人の気配が変わった。

空気の密度がわずかに重くなり、目を合わせることが難しくなる。

言葉で答えられてはいないのに、身体だけが答えを知ってしまう。


「……自分が、どれだけ何も知らんか、思い知らされたわ」


自分で言って、自分で驚いた。

口にする前から、胸のどこかでそう思っていたのだろう。

意図して、知らされてこなかった。

そこまで思い至ったところで、胸の内側が冷える。


「わたしと、同じようなもんが、罪を犯したことがあるんやろ」


喉の奥からするりと抜けてきた言葉を、自分の耳が追いかける。

誰かに教えられた覚えはない。

けれど、そうとしか考えられない。その実感だけが、深いところで静かに頷いていた。


「同じになりかねんから、伏せられてるんやな」


そこまで言うと、稽古場の空気がさらに静まり返った。


志貴は羽織の裾を握りしめ、指先の震えを布地に押しつける。

それから、ゆっくりと立ち上がった。

膝はまだ覚束ない。

けれど、視線だけはまっすぐ前へ向ける。

二人の顔を見る。

ただ、それだけのことだった。


「なんて顔しとるんや。……まるで、わたしのこと、信じきれんみたいや」


言い切れた手応えはなかった。

言葉を出した瞬間、足の裏から血の気が抜けてゆく。


さっき見た白い楼閣の霧が、まだ身体のどこかにまとわりついている。

その重さに背骨を押されるように、志貴はもう一度、片膝を畳についた。

ひやりとした木の香りが、足元から立ちのぼる。

ふと、稽古場の隅々まで視線を走らせる。


望がいない。

さっきまでどこかの影に潜んでいたはずの気配が、すっかり掻き消えていた。


望が真実を語るとは限らない。

けれど、この心がどう潰れるかなんて少しも考えずに、嘘まみれの言葉の中に真実の欠片をねじ込んでくる。

そういう奴だと分かっているからこそ、気配が途切れていることが、かえって落ち着かなかった。


志貴は、一心を見上げた。


いつも隣で歩幅を合わせ、けれど決して踏み込みすぎない。

影のように傍にい続けて、静かに守ることだけを選ぶ。


一心は、間違いなく言わない。

その確信が、ひどく哀しかった。


「また、何も言えんようになる」


それが声になっていたとは、自分でも気づいていなかった。

唇の内側を噛んだ瞬間、じわりと鉄の味が広がる。

視界の端が暗くなり、意識が深いところへ滑り落ちていった。




***




「……ようも、毎度こんな落ち方するわ」


冬馬は、腕の中の志貴の重みを少し持ち替えた。

眠りに落ちた身体は軽く見えて、その実、全身で力を抜いて預けられているぶんだけ、骨にじかに届く重さがあった。


稽古場の空気が、さっきまでと別物になっている。

言葉をひとつ間違えば、そのまま裂け目に足を取られそうな薄さと張り詰め方だった。


志貴の寝息は浅く、しかし整っている。

冬馬はその小さな上下に自分の呼吸を合わせながら、一心の横顔を盗み見た。


「なぁ、志貴が、知りたさに狐の方へ手ぇ伸ばすようになる前にさ……」


言い出す場所を探るみたいに、慎重に言葉を選んだ。その先を、一心の声が断ち切った。


「わかっとる」


短いひと言だったが、冬馬は思わず息を呑んだ。

一心が、声を荒げるのを初めて聞いた。


一心の香がわずかに軋む。

それでも、腕の中の志貴を支える手つきだけは、驚くほど静かで、やさしかった。


「俺はさ。志貴のそばにいて補えって、そう言われて育った。それが、穂積の役目やって。爺さんから、物心つく前からずっとそう教え込まれとった」


冬馬の声に、自分でも知らない掠れが混じる。

志貴に向けられる視線の重さ、守るためと称して押しつけられる理。そのどれもが、過去の紅の記憶に根を張っている。


紅は長くはもたない。

歴史が先にそう決めてしまっている。


「紅はもたん。……そんなこと、志貴が知って、何の得がある」


一心は冬馬を見ようとしない。

視線はひたすら、志貴の睫の影へ落ちている。

視線を離した途端、火の気配がふっと消えてしまうとでも思っているかのようだった。


「でも、宗像本家の徹底した情報封鎖は……たぶん、もう限界や」


冬馬は、志貴の髪に指先を通し、汗に貼りついた房をそっと払った。

十七年ものあいだ、志貴は知らないままに置かれてきた。


「宗像の双子に、紅の王。これだけで、宗像だけやない。冥府も泰山もざわついてる。……ここらで、言うてやった方が、まだマシかもしれんやろ?」


拗ねたような響きが、自然と声に混じる。

ようやく一心が視線を上げた。


「こっちかて、流れってもんがあるんや」


一心は苛立ちを隠そうともしなかった。


「わかる。わかるけどさ!」


冬馬は自分の髪をざりと掻き上げ、吐き出すようにそう言うと、稽古場の隅で空気がわずかに揺れた気がした。


志貴の唇の端に、うっすら血が滲んでいる。

一心は袖でそれをそっと拭った。

その動きだけはいつもの癖のまま、迷いがない。


「いっそ、ここから何がどう転がるか、見てみるんも手かもしれんけどな」


一心がゆっくりと立ち上がる。

志貴を抱いた腕に、少し力がこめられる。

志貴は相変わらず、浅いけれど確かな寝息を立てていた。


冬馬は足裏で畳を確かめる。

何かがもう元へは戻らんと、皮膚の表面が先に察していた。


「誰の思惑かわかるまで、泳がすってことか。志貴が危ないやろ」


「危ないんは、手ぇ出す方や。志貴は、そう簡単に殺すことができん」


条件が整わん限りと、その先を、一心は口にしなかった。

冬馬は喉の奥で言葉を噛み潰す。


志貴の心はどうなるのかと言いかけて、冬馬は飲み込んだ。

その言葉だけは、今出してしまえば戻れなくなると知っていた。


一心が、志貴の額に唇を落とした。

そこに宿る熱はただひとつ、護るという意志だけだった。


志貴の鍵を握っているのは、この男だ。

そして、その意味をいちばんよく知っているのも、この男自身だ。


「冬馬、まだ動いたらあかんで」


「わかった」


稽古場の戸を開けると、外の風が頬を撫でた。

その中に、別の香りが混じっている。


木犀でも、梅でもない。

もっと鋭く、皮膚の奥へまっすぐ染み込んでくる匂い。


ここに居たのだと、冬馬にも分かった。

一心の香とぶつかり合いながら、なお薄く尾を引いている。


庭先の枝に凭れるように、細い影が立っていた。金の瞳が、一心の視線と絡み合う。


「やれるもんなら、やってみぃ」


一心は、露骨なまでの威嚇を込めて声を投げた。

香が低く唸り、目には見えない毛並みが逆立つ。


「よく言うよ」


狐は、ひどく軽い声音で笑う。

その笑みに混じるのが、愉悦なのか苛立ちなのか、冬馬には判じがたい。


「そんな心まで抱え込むからさ。君はいつも、肝心の一手が遅い」


「黙れ、……望」


一心が、狐をその名で呼んだ。

その一語で、冬馬は景色が変わったように感じた。


名を呼ばれた瞬間、狐のまとう気配が荒く揺れる。

空気がひときわ冷たくなり、複数の細い気配が、刃になって迸った。


氷を削ったような白い光が、音もなく放たれる。

冬馬の目には、ただ空気が歪んだようにしか見えなかったが、肌は確かに刃としてそれを認識した。


一心が、足を一歩、強く踏み鳴らす。

足裏から広がった何かが、目に見えぬ壁となって立ち上がり、氷の気配はその手前で細かく砕け散った。


狐と一心が睨み合う。

庭の真ん中に、短い沈黙が張りつめる。


冬馬は息を潜めるしかなかった。

ふたりのあいだに踏み込めば、それだけで裂け目になると、本能が告げていた。


「行くで、冬馬」


一心が背を向ける。

冬馬は一心の腕の中の志貴の呼吸を確かめ、自分もその背を追った。


すれ違いざま、狐の香りがかすかに鼻を掠める。

そこに含まれた興味と悪戯の配分が、妙に腹立たしかった。


「……一心。まさかな」


誰に言うでもなく、冬馬は胸の奥でつぶやいた。


ざわめく。それは恐怖ではない。

高鳴りに近い。


王の獣は誇り高い。

同格でない者が名を呼ぶことなど、許さない。

冬馬には、生涯口にしてはならない名だと、幼い頃、何度も叩き込まれてきた。


一心が、何でもないことのようにその名を口にした。

その呼び方は、禁をあっさり踏み越えるものだった。


だとしたら、答えはひとつしかない。


宗像本家にとって、最強の護りは狐ではない。

王が護りを選ぶのではなく、護りの側が王を選ぶ。

だから、宗像本家の仮面には狼の意匠が刻まれている。

狼に選ばれ、安寧をもたらせと、古くからの願いが染みついている。


「……志貴は、やっぱり王なんやな。格が、違うわ」


ぽつりとこぼれた言葉に、一心は振り返らなかった。

ただ、腕の中の志貴を抱え直し、肩越しに庭の方へ一度だけ気配を投げる。


風が、裾を撫でて通り過ぎた。

その撫で方が、尾でそっと志貴をあやす仕草に似ていると、冬馬は思った。


白木の楼閣も、霧に沈む海も、紅の欄干も、どこかで、この宗像の地と一本の細い管でつながっている気がした。

穂積がかつて手を貸し、無理やり切り離したはずの場所。

その名も言えぬ歴史が、小さな火種となり、胸の奥のどこかで静かに息をしていた。

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