第21話 香を問ひし刃にして 我が名呼ぶなかれ
瞼の裏に、灯りがきらめく気配がした。
宗像の光とは違う。赤く、丸く、風に揺れながら、胸の奥へしずかに沈みこんでくる。嗅ぎなれない香が混じっていた。鉄、香木、焼けた蜜。たしかに熱を含んでいるのに、どこか冷たい。
気がついたとき、志貴の身体は、一心の腕に支えられていた。
足は地についていない。浮かぶように軽いのに、頭だけが澱のように重い。遠ざかる意識の縁で、衣擦れが耳を撫でた。歩いているのは一心で、志貴ではない。一心の息の拍は乱れず、腕に籠もる力も揺れない。
「……いっしん……」
自分で出したとは思えないほど掠れた声。喉の奥がじりじりと焼けている。
応えはなかった。一心は志貴の額に指先をあて、熱を量るようにすこし押した。言葉より、その触れ方の方が事情を語っている。
「こっちのほうが、熱が下がる。……ほんま、面倒な体質やな」
低く沈む声が、耳の殻の裏で揺れた。宗像で聞き慣れた響きより荒削りで、いつもとは違う深さを宿している。
志貴は瞬きをひとつ落とした。視界の端がほどけていき、息を呑む。
見たことのない景色が、目に飛び込んできた。
灯籠が幾つも重なって輪郭を滲ませ、下街の赤が昏い海のように広がっている。人々のざわめきが潮騒に似てくる。香と声が折り重なり、足下からゆらりと世界を揺らした。
意思とは無関係に、頭が一心の肩へ沈む。目は開けていたいのに、意識はたびたび傾いた。
「寝ててもええ。……着いたら起こしたるから」
筋の張った腕に抱えられながら、その声のやわらかな部分だけが胸に触れた。
一心の腕の中にいるのに、眠ってしまうのは惜しいとどこかで思う。それでも熱にぼやけた思考は、粘る力を長くは保てない。
ぼんやりしながらも、志貴は初めての場所へ目を向けた。時々、一心を見上げては、小さく息を呑む。
いつもの一心とは、まるで別の誰かのように見えた。
何度か目をこすっても、一心の髪が白銀に見える。もとから闇色に銀を散らしたような髪だったが、それとは違う。戸惑いながらそっと指先を伸ばし、髪を一筋、からめてみる。
指に触れた色は、間違いなく白銀だった。
志貴は慌てて目を閉じる。見てはならないものを見た気がして、唇をきゅっと結ぶ。
「さっきから、何、してんねん」
一心の声に、肩がびくりと震えた。
「……変装、できんの」
ようやく搾り出した問いに、一心はギョッとした表情をして、短く舌打ちした。志貴を片手で抱え直しながら、自分の髪を掴んで確かめる。どうやら予定外らしいと、志貴は胸の内でかすかに苦笑した。
「……これで、いけるか」
問われて見上げると、一心の髪は見慣れた闇に戻っていた。
しばらく歩き、路地の奥の奥へと進んだところで、一心は足を止めた。
「よし、着いた」
一心は志貴の身体をそっと下ろし、志貴の頭に黒いフードを深くかぶせた。自分も同じように、影をかぶる。
「店主はいるか」
古民家の玄関先に下がる暖簾を、一心が慣れた様子で持ち上げて入っていく。志貴はその背を見失うまいと、小走りで追った。
視界を埋めたのは、見たこともないほどの古書の山だった。
足をひとつ間違えれば、一心の背を見失う。先を歩く一心が指先で示した隙間を縫うようにして、山崩れを起こさぬよう慎重に店の奥へと辿り着く。
見知らぬ店の匂い。古い紙、乾いた墨、焦げ跡の残る板。鼻腔の奥をくすぐるその香に包まれながら、志貴は頭上まで積み上がった本の山を見上げた。
「全く、連絡もなく、誰なんだい……」
店の奥から面倒くさそうに現れた初老の男は、言葉の途中で絶句した。
一心は静かに笑い、当然のように店主の椅子に腰を下ろす。
「店主。見たい物があるんや。構わんよな」
店主は壊れた人形のように何度も頷いた。その様子に、志貴はどこか申し訳なさを覚える。
一心が手を伸ばすと、店主が筆と紙を差し出した。さらりと何かを書き記すと、机上に古文書が一冊、また一冊と現れる。
「二時間や」
席を外せと言外に告げる圧に、店主は慌てて路地の方へ駆け出し、暖簾をしまい込んだ。
「……色々、きいてみたいんやけど。ここ、たぶん、冥府やんね」
店主の服装も、空気も、宗像とはまるで違う。
「するどいやないか。せやけど、なんもかんもは後や」
一心はポンポンと膝を叩き、立ち尽くしている志貴を呼んだ。
「膝やで、一心……」
焦って抗議する声とは裏腹に、一心の様子は飄々としている。
「他に椅子ないやろ。俺も座りたいだけや。何か、問題あるんか」
膝の力が抜け、その場で四つん這いになる。情けなさが先に立つ間もなく、一心が椅子から立ち上がり、ひょいと志貴を抱え上げた。
気づけば、一心の膝の上に座らされている。志貴は借りてきた猫のように固まった。
「あんなぁ、志貴」
すぐ耳元で落とされた声に、変な音が喉から漏れた。驚きのあまり後頭部が一心の顎をしたたかに打つ。
「石頭め……さっさと読まんかい」
一心に拳骨をひとつ落とされて、ようやく志貴はひと心地ついた。
示された古文書は、触れれば崩れそうなほど古い。墨は薄れ、ところどころでは書き手の息づかいすら消えかけている。
志貴は一枚一枚を見つめた。
宗像の禁書だと、どこかで分かっている。胸がひとつだけ強く脈を打った。懐かしさとも恐れともつかぬざわめきが、腹の奥底に沈んでいく。
読めない文字も、不思議と嫌ではなかった。触れてはならない何かの匂いがする。触れたいという気持ちと、離れたいという気持ちが、同時に生まれる。
読み進めても、紅と黒に関する記述はない。破壊された禁域についての記載もない。
「……あちらで焼かれた物はこちらに来る。……つまり、ここに無いってことは」
思わずこぼれた声に、自分でもはっとする。顔を上げると、一心が学習したように身をわずかにのけぞらせた。
「まだ、どっかにあるんか」
「焼けば、こうやって冥府側から覗かれるんや。……焼くわけあらへん」
言葉が胸のどこかに落ちた。
望の言葉が、静かに裏返る。
「これで、よう分かったやろ」
一心の声は静かだった。責めも押しつけもない。ただそこにある声。志貴が紙へ指を伸ばすと、一心の手がその上からそっと重なった。熱の残る指が紙を裂かぬように。
息をひとつ吸う。それだけで疲れが胸元まで満ちてきて、声にはならない。
無音の二時間が過ぎ、暖簾の上がる気配がした。
「……くれぐれも、や」
一心が店主に短く言葉を落とす。一心の含みのある圧に店主は何度も頭を下げるばかりだった。
志貴はふたたび申し訳なさを覚え、丁寧に頭を下げようとしたが、一心に途中で襟首をつかまれ、そのまま引きずり出される。
外へ出ると、冥府の灯りはまだ腹を見せていた。屋台の湯気が白く立ちのぼり、甘い香辛料が風に運ばれてくる。
「冥府の下街……すごいな。温泉街みたいや」
思わず声が弾む。屋台へ駆け寄ろうとした瞬間、足が絡まった。
「まだ熱あるんや。……阿呆か」
一心の腕にまたすくい上げられ、志貴はそのまま抱えられた姿で、向こうの露店へ指を伸ばした。指先がふらつき、示したかったものから少し外れる。それでも一心は、指の先を確かめてから、微かに息を笑わせる。
瞼が落ちかけると、支える腕がわずかに強くなった。
志貴の指がかすかに触れた方へ、一心は迷いなく向かう。菓子も、串も、飲み物も、ひと通り買い揃えて、下街を見渡せる高台へと慣れた足取りで進んでいった。
「右奥に見えてるんが冥府の王宮群、左下が官吏府や」
志貴はゆっくりと視線を巡らせる。
この高台からの景色には、不思議と懐かしさが混じっていた。
一心は志貴を石段に下ろし、座らせると、その一段下の芝生の上に胡座をかいた。
「貸し切りやな」
何気なくこぼした志貴の言葉に、一心が小さく息を呑んだ気配がある。
「……まぁな。こんなとこ、誰も来んだけや」
一心は、志貴の呼吸に合わせるように、自分の拍を整えているようだった。
「甘いの、いけるか」
小さくちぎった蒸し菓子が唇に触れる。志貴は無意識に口を開いた。含んだ瞬間、甘さと香りが胸でほどけて広がる。
「……うま」
ただそれだけを言う。
そのひと言で、一心の肩がごくわずか沈み、張り詰めていたものがほどけた気配がした。頬に血が戻り、背の強ばりがゆるんでいく。
一心は志貴の食べ残しを自分の口に運び、次の菓子を差し出した。
「志貴が指さしたんや。全部、食え」
声音はやわらかいのに、笑い声はない。志貴が確かに息をしているかどうかだけを、繰り返し確かめている手つきだった。
一心は肉の串も気に入ったのか、次々と口に放り込む。
「なんや、志貴。これ、食いたいんか」
食べかけの串をひょいと志貴の口元へ持ってくる。必死で首を振る間もなく、肉が口の中へ押し込まれた。味は文句なくうまい。それより、一心の食べかけをそのまま受け取ってしまったことの方が、ずしりと胸に響く。
熱と衝撃が一度に押し寄せ、志貴はぱたりと石の上へ倒れ込んだ。
石の冷たさが背中から這い上がる。その瞬間、何かが脳裏をかすめた。心臓が激しく打ち、涙がこみ上げる。胸のどこかが、ここを知っていると告げていた。
「……ここ、知ってる」
言葉にした途端、ただの石段ではなく、磐座に似た気配が浮かび上がる。そう気づいたところで、急激な眠気が波のように押し寄せた。
まぶたが落ちかけるたび、一心の手がそっと支える。
「……眠気に、逆らわんでええ」
夜の底へ沈む声。志貴には、その言葉だけがはっきりと届いた。
志貴の意識は揺れながらも、一心の腕の中では、最後まで落ちきらなかった。
冥府の街の灯が遠ざかるにつれ、空気の匂いが変わっていった。
甘い香辛料の気配が薄れ、岩肌の冷えた匂いがじわじわと濃くなる。どこかで燃え尽きた香木の灰が、かすかに鼻の奥をかすめた。
一心の腕の中で、志貴の意識は揺れていた。
眠りに落ちきる前に、必ずどこかで持ち上げられる。揺れが心地よく、胸の拍も落ち着きつつあるのに、身体のどこかがまだ目を覚ましている。
やがて、石畳の響きが途絶えた。
足裏へ伝わっていた硬さがふっと消え、音そのものが薄くなる。世界の輪郭から、ひとつずつ色と温度が抜けていくような静けさだった。
一心が、歩みを止める。
「……志貴。降ろすで」
地面に足をついた瞬間、膝から力が抜けかけた。一心の手が肩と肘を支え、半歩だけ先へ導く。その一歩で、空気の質がまた変わった。
目の前に、ぽっかりと口を開けた空洞があった。
冥府との境界だというのに、風が吹かない。
音も、反響しない。息を吸っても、肺に届く前にどこかで薄まってしまうような場所だった。
「ここ……どこなん」
かろうじて出た声が、自分のものではないように小さく響く。
「道反の端や」
一心の声は低く落ちた。
「昔、禁域がひとつ死んだ場所や」
一心の言い回しに、胸の奥がひやりと冷える。
壊れたでも、失われたでもなく、死んだと口にしたからだ。
空洞の奥――黒曜石に似た岩の壁一面に、焼け焦げた模様が広がっていた。
炎が暴れた跡とは違う。
何かの理そのものがここで焼かれ、焦げて、こびりついたような痕。
志貴の右肩の紅が、皮膚の下でわずかに泡立つ。火が反応していると、身体の方が先に気づいた。胸の内で小さな痛みが鳴り、拍と拍のあいだが妙に長く感じられる。
「……ここで、何が」
言葉の先を探す前に、一心が口を開いた。
「王が、守り方を間違えたんや」
岩壁から目を離さぬまま、静かに続ける。
「禁域は壊れて、ここは祀られもせんまま放っとかれとる。“戒め”としてな」
志貴は、改めて周囲を見回した。
花ひとつ置かれていない。
誰かが膝をつき、手を合わせた跡もない。
墓でさえない。
名前のない死骸のように、ただ、そこにあったことだけが放置されている。
胸の奥の紅が、もう一度小さく揺れた。
ここに流れ着いた何かが、自分のなかの火と同じ系統のものだと、身体の底が勝手に頷いてしまう。
「……なんで、わたしに見せるん」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
一心はすぐには答えず、志貴の肩を抱いた。
引き寄せるというよりも、必要以上に踏み込ませまいとするような重さが、その腕にあった。
「宗像が“知らせん”と決めたんには、理由がある」
ぽつりと落ちる。
志貴の胸の内側が、ゆっくり軋んだ。
誰が、いつ、どこでそう決めたのか――そこまではまだわからない。それでも、自分だけが外に置かれてきたという感覚だけが、先に形を取る。
一心の声が、さらに深いところへ沈んだ。
「知識は武器になる。けどな、思い込みは害にしかならん。過去に縛られたら、王の喉に、いともたやすく刃が届いてまう」
岩壁の焦げ跡から視線が外せない。
自分と似たものが、ここで一度、焼け落ちている――そう告げられているように思えた。
「志貴が、過去と同じ道行ってしまわんように……“知らされんまま”守られてきたんや」
志貴は、一心の胸元を見上げた。
喉に何かがつかえて、声が出ない。
一心の指が、後頭へ回る。
ゆっくりと手のひらで押さえられ、その胸へと引き寄せられた。
「……志貴は志貴でええ」
短い一語一語が、熱を帯びて胸の奥底まで響いた。
「いちばん大事なんは、“ここにおる志貴”や。それが、宗像本家の方針や」
一心の香りが、ふっと広がった。
鉄の匂いと、冷えた岩の気配と、それでもどこかで温い体温が、胸の奥で溶け合う。
重かった何かが、少しだけ溶けていく。
「……けど、わたしのことや」
ようやく出た声は、小さいのに重かった。
「知らんなら知らんで怖いし、知りたいとも思う」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほどすっきりした。
知らされないことへの苛立ちと、知った先にあるかもしれない恐怖。その両方が、今の自分の足首を握っている。
一心は腕の中の志貴を見下ろし、ひとつ息を吐いた。
「……志貴が知るべきことは、俺が言う」
それだけは迷いなく、言い切る。
「けど時期は、俺が決める。お前の“喉”に刃が当たらんうちにな」
志貴は、言葉の代わりに一心の衣の裾をそっと握った。その布地の感触が、唯一確かな足場のように思えた。
一心の手が、こつこつと背を叩く。
慰めとも叱咤ともつかない、いつもの調子。
「遠出までしたんや。……また三日は寝込みやな」
わざとらしく嘆くような声色だった。
「ほんま、さぼるのお上手やわ」
からかうような言葉のくせに、支える腕の力だけは少しも抜けない。その矛盾が、志貴にはたまらなく嬉しかった。
志貴は、一心の胸に額を預けたまま、静かに息を吸う。
岩の冷たさと、焦げた理の匂いと、一心の体温が、ひとつの層になって肺に沈んでいく。
***
夜が落ちていた。
木霊の森の奥、人の気配が途絶えた窪地で、楼蘭は香炉に白い香をくべていた。湿りを含んだ土と苔の匂いに、焚きしめた香木の煙がゆっくりと重なる。
風がひと筋通り抜ける。その流れに乗って、別の香が紛れ込んだ。
人の足音。
草を踏み分ける音そのものよりも早く、香の輪郭が先に届く。
「……わざわざ、こんな静かな場所を、よう選んだもんやな」
振り向けば、一心がそこにいた。
仮面はつけていない。宗像の狼としての外套を脱ぎ捨てた顔は、冥府で見せるそれとも違う、余計なものを削ぎ落とした素顔だった。
「静かだから、よく聞こえるんだ。魂の声がね」
楼蘭は香炉の蓋を少し閉じ、ふと笑った。
「魂なんて、喋るかいな」
一心が肩をすくめる。その動きに、冗談とも本気ともつかない軽さが宿る。
けれど、胸の内へと届いてくる響きだけは、どうしたって軽くなりきらない。
「君の言葉には、“既に聞いた者”の響きがある」
楼蘭が目を細めると、一心は短く視線を伏せた。
狼の香が、わずかに揺らぐ。あれは“思い出そうとしている者”の揺れ方だ、と楼蘭は知っていた。何百年も、そういう魂と向き合ってきたような響きすらする。
この男は、やはり、ただの宗像ではない。
一度死を通り抜け、記憶だけを剝がされて戻ってきた――そんな匂いを帯びている。
「君の命を捧げる先が、王ではなく“呪い”になるかもしれない。……外野としては、見逃せないんでね。意味、わかる?」
やわらかく告げながら、香の流れを読む。
一心の香は、ほとんど揺れない。正しく理解している者の静けさだ。
「よう、わかってるわ」
ひと息で返された言葉に、楼蘭は思わず笑みを止めた。
「本当に……嫌になる。君は一体、何者?」
問いかけても、答えはきっと出てこないと分かっている。それでも、口にせずにはいられない。
風が梢を鳴らす。
一心は夜空を仰ぎ、星を見上げるように目を細めた。
「志貴さえ、よければそれでええやろ」
静かな声だった。けれど、その底にある執着の色は、楼蘭にははっきりと見えた。
王ではなく、ひとりの名にすべてを賭ける者の目だ。
「──ただの狼では収まらない、か」
「そうでもないけど?」
一心は笑っているが、その笑みに温度は乗らない。感情を削ぎ落とした笑みは、時に怒りよりも雄弁だ。
「……千年王は、例外だらけ。同じ道を歩むものはいない。けど、末路だけは、みんな一緒」
楼蘭は香炉の灰をひとすじ、指で払った。
白い煙が形を変えて揺れる。
「なぜだと思う?」
「時間が、腐るほどあるからやろ。……全部、壊したくなるんや」
即答に、楼蘭は息を呑んだ。
一心は、千年王たちが、何百年もかけて辿り着く答えを、ためらいなく口にした。
「──Veilmaker。……千年王たちが決して触れてはならない最奥の名を知ってる?」
一心のまなざしが、わずかに動く。
耳だけが、その名をしっかりと捉えた気配。
「……それが?」
「“真実に幕を引く者”。その名に目をつけられたら、自分の過去すら疑うことになる」
楼蘭は懐から一冊の古びた書物を出した。革装の表紙はひどく擦り切れ、綴じ糸のところで何度も修繕されている。
「Veilmakerは記憶を書き換える。……世界ごと、過去ごと、王の理すらも。この英国の黄泉使いが遺した禁書に、そう書かれている」
一心の目が、ページに刻まれた古い英字を追う。読めているのかどうかは分からない。それでも、その視線の質だけで、彼が“危険”を嗅ぎ取っていることは分かった。
楼蘭は書物を一心に差し出しかけ、ひらりと引いた。
「泰山の禁書、俺は門外不出にするつもりはない。だからこうして取引もできる。それくらい、命を賭けている」
「──何が望みや」
一心の声が少しだけ低くなる。
楼蘭は煙の向こうから、まっすぐに狼を見た。
「宗像の禁書。……燃やされたはずの、あれ。君は中身を知ってるね? ……これは、白の千年王としての正式な取引だ」
森の温度が、ひとつ下がる。
一心の香が、かすかにきしんだ。
「……それ、誰の差し金や?」
その問い方は、矛先を自分からそらすためのものではない。名指しする前に、すでにいくつかの候補を絞っている声音。
「残念ながら志貴ではないよ。……ねえ、公介さん?」
楼蘭は視線だけを森の影へ向けた。
闇が形を持ち、人の姿に変わる。
宗像公介が、木陰から歩み出てきた。
「そんな気がしたわ……」
一心のまなざしがわずかに伏せられる。
肩の線が、ほんの少しだけ緩んだ。警戒をゆるめたのではない。狼が、よく知る匂いを認めた時の緩みだった。
「……計画したのは、どっちや」
一心の声が落ちる。
問いは二人へ向けられていたが、実際は一人だけを見ている。
次の瞬間、一心の香が変わった。
夜の闇に紛れていた“別の色”が、ふっと表層へ浮かぶ。琥珀のような光が、瞳の底で揺れた。
「怒りな──俺や、俺やで……!」
楼蘭は思わず息を止める。
香の形が、一瞬だけ古いものと重なった。
千年王のそばに立つ者というにはあまりにもかけ離れた次元の香。死と再生の境目をくぐった千年王自身がまとうような匂いがする。
公介の額に、冷たい汗が浮かんでいる。ここまでは想定していたのだろうが、いざ一心のような男の牙がこちらを向いたとき、人はそう簡単に慣れない。
「まぁまぁ、ここに敵はいないんだから、やめようよ、ね」
楼蘭はそっと一心の肩を叩いた。
殺気を散らすための、わざとらしいほど軽い仕草。
「お前が大事にしてる禁書、もし、嘘ばっかりやったら、どうする? ……なぁ、一心」
公介の声には、見慣れない重みが乗っていた。
旧き友人を諫める声でも、宗像の現当主として命じる声でもない。もっと古い場所で結ばれた何かを、もう一度確かめるような響きだと、楼蘭は頬杖をついて見ていた。
Veilmaker。
真実を隠し、世界に幻を編む者。
その名を冠するものがもし千年王であったなら――宗像の理など、子どもの手をひねるより容易く書き換えられる。
「楼蘭に頼んだのは、完璧なまでに遮断できる結界が必要やったからや。……それくらい、目と耳がついて回ってる」
公介の言葉に、一心は何も返さない。
拳だけが、音もなく握られる。爪先が掌に食い込んでいるのが、楼蘭には手に取るように分かった。
「宗像にある禁書は、すべてが疑わしい。──だから、“ほんまに焼き払ってみるべきかもしれへん”」
楼蘭は、公介の言葉の含みに首を捻る。
焼き払う、という言葉が示しているのは、本の束だけではないような気がした。
公介が一歩近づき、一心の耳元へ口を寄せた。
囁かれた言葉の中身までは、楼蘭には届かない。けれど、その瞬間、一心の香がはっきりと変わる。
闇の底で眠っていた獣が、片目を開けたような気配。
瞳に獣の光が宿り、夜の香がひときわ濃くなる。
楼蘭は、寒気とも安堵ともつかぬものを胸に受け止めた。
これでようやく、盤面が動き出すのだろうと小さく息を吐いた。
「ただの狼ではない。ただの当主でもない。ただの泰山の守り手でもない。……どう組むべき?」
この二人はすでに、水面下で何度もやりとりを繰り返しているのだろうし、と楼蘭は香炉の灰を押さえ、目を閉じた。
千年王の末路がいつも同じであるならば――
その少し手前までは、外野の手で、好きにかき回しても構わないだろうしと、楼蘭は空を見上げた。
***
一心が珍しく外出した日、志貴は重い身体を引きずり起こして、自ら稽古を願い出ることにした。
庭を渡る風が、白砂の上をさらさらと撫でていた。
竹箒の音が遠くで鳴り、日差しは柔らかい。けれど、志貴の掌の中だけは、静かに汗ばむ。
木製の矛の柄が、皮膚に食い込んでいる。
握りをわずかでも緩めれば、たちまち隙になる。そんな気がして、指に力を込めた。
対するのは、穂積壮馬。
寡黙と冷えをまとった男が、庭の真ん中で矛を構えている。
矛と矛が打ち合わされるたび、乾いた音が庭に落ちる。
足運びも呼吸も乱れていないのに、胸のどこかがきしむようだった。
目の前の男から、香りがしない。
一心のそばには、いつだって獣と血の匂いがあった。
冬馬のそばでは、土と陽の匂いがした。
時生には、湯気と茶葉の香りがある。
公介には、紙と墨と鉄の匂いがある。
そのどれもが、その人がそこに“在る”という証のように志貴の鼻先を掠めるのに、壮馬の立つ場所だけが、すとんと穴のように空いていた。
そこに“何もない”という匂いが、かえって濃く漂う。
矛がぶつかるたび、志貴の手の中の紅がざわめく。
この空白を測れないまま、近づきすぎるのは危ういと、身体の方が先に知っている。
「……香がせえへん」
言葉がこぼれた瞬間、自分の声に志貴は驚いた。
壮馬の眉が、かすかに揺れる。
けれど、男はすぐに構えを解き、口元だけで笑う。
「香?……そんなこと、考える暇あるんか?」
軽口の形をしているのに、声の温度は冷たい。
ひたりと踏み込んでくる足運びに、志貴は思わず矛を握り直した。
そこに何があるのか分からないものに矛先を向けるのが、いちばん怖い。
矛を掲げ直したその瞬間、壮馬の気配がふっと消える。
消えたのではない。志貴の認識から、滑り落ちるように遠ざかった。
次に気づいたときには、男の手が首筋へ伸びていた。
「……傷がある。油断したな」
穏やかすぎる声が、耳のすぐそばで落ちる。
指先が皮膚に触れた刹那、背骨の奥で何かが跳ねた。
触れてはならない場所に、触れられたような感覚がせり上がってくる。
「触るなッ!」
張り裂けるような声が、庭に響く。
自分でも聞き覚えのない叫びだった。喉の奥のどこか、もっと奥深い場所から、勝手に飛び出してきた声。
壮馬の目が見開かれる。
笑みの形だけ残していた口元から、余裕の色が薄れた。
「……悪い。触る許しを、忘れていた」
壮馬は笑っているが、その笑みは整えられた仮面のようで、目の奥に走る焦りの線は隠しきれない。
志貴は壮馬を見据えた。
一歩、下がらせるつもりで視線を向ける。
壮馬が、静かに二歩、三歩と退いた。
庭の空気が変わる。
一触即発。
矛を振るう前から、身体のどこかがその言葉を知っている。
志貴の肩に、紅の熱が集まる。
そこから先へ踏み込めば、何かが戻らなくなる。そんな予感だけが、はっきりとした形を持って胸に居座っていた。
「志貴、お茶にしよう。軽くという約束のはずだ。やりすぎたら、午後の一心の稽古までもたないよ」
廊下の方から、時生の声が飛んできた。
湯呑をのせた盆を持つ気配が、庭の縁で立ち止まる。
張りつめていた糸が、そこでふっと緩んだ。
志貴は息を吐く。肺の奥にたまっていた霞のようなものが、少しだけ外へ出ていく。
「……嫌なもんは、嫌や」
声にすると、足の裏まで震えた。
壮馬の口元がわずかに歪む。
「すまん、すまん」
壮馬は目を閉じて告げた後、踵を返し、森の奥へと姿を消していく。
背に向かった風が、衣の裾を揺らす。
そこにもやはり、香りが残らない。
残された庭の空気の方が、むしろ湿りを帯びていた。
志貴は矛を下ろし、踵を返そうとして、腰が抜けた。
わずかに遅れて、身体中が震え出した。
「志貴?」
時生の後ろから現れた冬馬が異変に庭先へ駆け降りてくる。
息ができないほどのわけのわからない恐怖に身体が締め付けられていた。
冷や汗が顎を伝い、庭の砂へたまりを作っていく。
時生がお盆ごと投げ出したのか、茶器が盛大な音を立てて割れた音が響いた。
「冬馬、部屋へ」
大丈夫だと独りで立とうとした志貴を、冬馬が慌てて抱き上げた。
「ごめん、冬馬」
「いい、気にすんな」
志貴は奥歯を噛み締める。
怖い、助けてという言葉は冬馬にはさらせない。
一心がいないとわかっているのに、その姿を探してしまう。
冷や汗がさらに吹き出してくる。
「何や、どないした」
廊下を曲がった先から声がした。
「……一心!」
ほぼ悲鳴だったと自分でも思う声。
一心が慌てて、志貴を奪うように腕に抱いてくれる。
志貴は一心の首に腕を回したまま、しがみつくしかない。ひたすらに歯を食いしばるが、冷や汗は脂汗にかわり、震えはさらに加速する。
「すまん、2人とも、外してくれ」
一心が人払いしてくれたことはわかっていたが、やはり、声が出ない。
何度も背を撫でおろされても、志貴はしがみつく腕の力の抜き方がわからない。
流れ落ちていく汗が不快で仕方がない。
「……いや、やった」
ようやく絞り出せた声に、一心が小さく頷いた気がした。
「一心、あの……」
言葉半ばで、志貴は喉をせりあがってきたものに驚いた。たまらず吐き出したものは、鮮烈な赤だった。
一心の胸元まで真っ赤に染めてしまい、志貴はさらに慌てるが、声が出ない。
「大丈夫や。苦しかったら、吐いとけ……」
ゴボゴボと喉から溢れ出てくる赤に抵抗できない志貴は口元を袖でおさえながら、涙がこみあげてくる。
「時生、留守にする」
廊下の端で、志貴の長羽織を時生から受け取り、一心はそれで志貴を丸ごと隠してくれた。
どこへ向かうかはわからない。
志貴の意識はそこで途切れた。




