第2話 疼きても 忘れぬ声の痕
【黙の月──血に濡れた番契り、抗うほど甘美に絡みつく愛執の檻】
この血の契りは、決して絶てない。
微笑む君を包み、壊し、蜜毒のように深く沈めていく。
……いま、この文字を読んでいるあなたも、すでに。
倒錯愛×執着愛×番地獄×贖罪愛──血が絡め取る耽美幻想。
「あの声なしには、この力は応えない――」
王の痣を持つ少女・宗像志貴は、それをまだ“呪い”と呼べなかった。
右肩が疼くのは、決まってあの夜のことを思い出すとき。
稽古で骨を折られ、意識が朦朧としていた夜――
誰かに抱きかかえられた。
冷たい床。仄暗い灯り。肩に触れた温度だけが、妙に鮮明だった。
それが指だったのか、唇だったのか。
今となっては確かめようもない。
だが、不思議と忘れられない。
夢だったとしても、あれはたしかに、志貴の一部になっていた。
薄曇りの空の下、宗像邸の縁側に、志貴はぽつんと座っていた。
その瞳は遠くの雲を追っていたが、どこか焦点が定まらない。
右手には、紅玉のような飴がひとつ。
和紙を丁寧に剥がし、舌の上に転がすと、ほのかに柘榴の香りが広がった。
透ける紅色は、血の色に似ていた。懐かしくて、少し哀しい味がした。
舌の奥が、微かに疼く。――右肩にも、同じような疼きがあった。
あの夜、一心に抱きかかえられたとき、肩に感じた温度の記憶。
ずっと、そこに在る。
奇妙なことに、痣が疼くのは、いつもあの夜のことを思い出すときだけだ。
右肩に浮かぶ、王の証。
それはただの痣ではなかった。
宗像の血の奥底に眠る千年の記憶――
王として在る者だけが刻まれる、名残の徴。
痛みではなく、呼ばれるように。
その痣は、志貴に“記憶ごと疼く”ことを教えた。
志貴は、その感覚をかき消すように、そっと肩に触れた。
飴を転がしながら、何かを噛み締めるように唇を閉じる。
庭木が揺れて、葉擦れの音が縁側をさらう。
隣に座る男は黙したまま、志貴の横顔を見ていた。
宗像公介――冷静で、どこか寂しげな瞳が、彼女の頬の動きすら見逃さぬように静かだった。
やがて、志貴がぽつりと漏らした。
「……一心に、会いたいな」
その声は、風に紛れるほどに小さく、けれど芯を持っていた。
それは願いか、祈りか、それともただの独り言か。
だが、公介にはわかっていた。
その一言が、志貴のすべてだったことを。
――まだ、あの頃のままか。
思考は、まだ彼の背を追っていた。
三年前へと、遡るように。
志貴が十三歳で黄泉使いに登録されたとき、世間は冷ややかだった。
術も矛も不出来。狩果もなければ精神力も頼りない。
だが、ただ一つ、“王の痣”が彼女の肩に現れたというだけで、宗像はその身を受け入れた。
誰もが不安を抱え、誰もが口を閉ざした。
そんな志貴に与えられた初の指導役は――宗像一心だった。
宗像の柱。泰介亡き後の空席を一手に背負った男。
190を超す長身に、冷めた眼差し。
言葉は少なく、いつもふざけたような笑みを浮かべていた。
けれど、戦場に立つその姿は別人だった。
斬撃が舞う。音すら残さず敵を屠る。
動作に乱れはなく、無駄すら美しかった。
その背は、剣より鋭く、月より静かだった。
志貴は、その背中に目を奪われた。
怖さより先に、ただ、魅入られた。
初めてその背を見たとき――心のどこかで、思った。
「あんなふうになりたい」と。
一心はよく、和紙に包んだ紅い飴をくれた。
無言で、投げるように。ポケットに入れられることもあった。
口調は辛辣だった。
「その動き、百年早い」
「力いらんとこで入れすぎ。身体の無駄遣いや」
「そんなんで俺に勝てるつもりか?」
けれど、意識を失ったときだけ、彼は驚くほど静かだった。
触れる手はやわらかく、頬の血を拭うときは、まるで壊れ物に触れるようだった。
そのことを知っているのは、志貴だけだった。
志貴は、そのことを誰にも言わなかった。
言いたくなかった。
それは、彼女にとって唯一の“秘密”だったからだ。
そして、ある夜。志貴はまた倒れ、血と汗に塗れていた。
任務帰り。
闇に巣食う瘴気が強すぎた。志貴の実力では足りなかった。
気づけば、誰かに背負われていた。
その香りは、いつかの夏と同じだった。
「また俺の背、借りてばっかやな」
誰の前でも本気を出さぬその男が、志貴の体温を奪わぬよう、そっと額を撫でていた――ような気がした。
動きが鈍いままの志貴の四肢。
見る見かねた一心が無言で志貴の血を拭き、マントを脱がせた。
本当は動けたけれど、動きたくなかった。
これが志貴にできた、唯一の悪戯みたいなものだった。
動けるだろと睨みつける一心に、志貴は舌を出すだけだ。
志貴の顔に傷がないことを確認し、一心はいつものように飴をひとつ、枕元に置いた。
その名を、志貴が呼ぶと、一心はため息まじりに振り向いた。
「……なんや。まだ俺に、世話させる気ぃか?」
それだけだった。
だが、志貴にとっては、その時間こそが世界だった。
そうして始まった一年。
それは地獄のように厳しくて、けれど至福のように満ちた日々だった。
毎朝はやく叩き起こされ、筋肉痛のまま稽古場へ。
叱られ、打たれ、転ばされ、鼻血を出して、また起きて。
本当に無茶苦茶でしかなかった。
それでも――一心のいる現場に、立てるのが嬉しかった。
背中越しに命を守られながら、
一歩だけでも、その背に近づこうとしていた。
志貴の視界には、いつも一心の背中があった。
そして、その背がある限り、自分は“役に立てる気がした”。
だが、一年がすぎた頃、何の前触れもなく、一心は宗像邸に姿を見せなくなった。
ルーキーイヤーが終了しただけのこと。
志貴は、灯を失ったように、力を出せなくなった。
理由は簡単だった。
一心が、もう隣にいない。それだけで、心も身体も、ぽっかり空白になった。
何をしても、届かない。誰に守られても、満たされない。
志貴には、たったひとつの「正解」が消えてしまったのだ。
志貴は思った。
伽藍堂だ、何も無い――と。
志貴の力は、あれから確かに強くなった。
だが、それは自然な成長とは違う。
どこか、不自然に整いすぎていた。
決められた条件が揃ったときにだけ開く、誰かの設計図のように。
――誰が、仕組んだのか。
志貴が何者かの“声”を必要としないと、術が発動できないように。
力を引き出す代わりに、代償を刻むように。
決して他者に渡せぬよう、己の痕跡を、志貴の内側に焼きつけるように。
「封じたものは、同時に鍵にもなる」
宗像の古い記録に、そう書かれていた。
志貴は無意識に空を見上げていた。
灰色の雲。そのさらに奥に、透けるような白い光。
届かない何か。ずっと背中を追い続けている何か。
「……一心に、会いたいな」
その声は、胸の奥に棲みついていた。
風のざわめきと共に、それは浮上する。
“壊したいものがあるなら、壊せばええ。でも、お前に手ェ出す奴は――俺が殺す。”
骨の奥に、血のなかに、痣の下に――あの声がいた。
志貴の指先が、無意識に右肩へと伸びる。
疼きは、まだ消えていない。
けれど、もう痛みではなかった。
それはまるで――誰かの名残のように、やさしかった。
その夜、志貴は深く眠った。
夢のなかで、再び“あの声”を聞いた。
熱のような低音。傷跡をなぞるような響き。
優しさと狂気が、同じ温度で、志貴を包んだ。
それは夢ではなかったのかもしれない。
志貴の中の“何か”が、確かに応えていた。
“壊れてもええ。せやけど、お前は……俺の中で壊れたら、それでええ”
目覚めても、志貴はしばらく動けなかった。
その言葉の余韻が、肌に絡まり、胸の奥に残っていた。