第19話 赦しを乞ひし夜に、君は在らず
――夜が、ひとつの命を伴って降りた。
血の祈りと、呪いの赦しを纏って。
その女は、冥府より来た影――滅びの香をまとう、終わりの使者。
白き装束はすでに黒く染まり、身体にはいくつもの裂傷が走る。
歩いているのが不思議なほど、血の気は失せていた。
泉のほとり。志貴は一人、修練の呼吸を整えていた。
その視界の端に、ふと女の姿が映る。
「……誰?」
問いに応じた声は、細く、けれど確かに届いた。
「……紅の王に、赦しを乞いに来ました」
女の額には、冥府の紋――黄泉とは異なる理を歩む者の証。
――ありえない、と志貴は息を止めた。
道反、それも浄化の泉に部外者が入ることはあり得ない。
化け物か、幻か。あるいは――
手に炎を灯した志貴に、女は悲鳴をあげ、地に伏した。
「伏して、お願いいたします!」
勢いに、志貴は思わず息を呑んだ。
傷だらけのまま、額を土に押し付ける女。
その必死さだけは、よくわかった。
「ありえない訪問だという自覚は、あるのですか?」
「……はい」
か細くも、確かに返された声。
どうやってここまで来た――と問う志貴の声に、女の叫びがかぶさる。
「お願いです……紅の王。あなたが赦さない限り、黒の千年王は……生まれもしない。永遠に、出てこれない……!」
「紅が拒む限り……この理は、閉じたままなのです……!」
――それは、まるで呪詛のようだった。
「……意味が、わからへん」
志貴の声がかすれる。
風が凪ぎ、夜の沈黙がふたりを包む。
「……赦せって、言うけど……」
(わたしが、誰かを赦したことがある? 赦されたことが?)
視界が知らず霞んでいた。
「冥府では今、悪鬼を狩る力を持ちません。
かつての四隊――春夏秋冬は清き理を失い、戦に狂い、もはや何も守れない……」
「だから、何を……」
――なぜ、それを宗像に託す。
「黒の千年王さえ在れば、制せます。
どうか……お願いです、紅の王。呪いを、赦しを……」
女は血を吐きながらも伏したまま、顔を上げなかった。
その目にあるのは、涙ではなく――絶望。
「春の長も、秋の参も……冥府でもっとも理に近いとされた者たちが、裂かれ、喰まれ、“力”にされていった……」
「喰む……? 身内同士が……?」
「喰うことで、異能を継ぐのです。
私は、春の隊の参でした」
志貴は言葉を失った。
女は繰り返す――赦しを、と。
「……それは、ほんまに、わたしがせなあかんことなん?」
「あなたにしか、できません。宗像にしか。
黒が生まれぬ限り、冥府は理なき者たちに呑まれます。
宗像とて、無事では済まない……だから……」
女の目の焦点があっていない。
蝋人形のように、血の気がない肌。
「あんた……ちょっ!」
このままでは、目の前の命が消える。
無意識に伸ばした手が、女の傷口にふれた瞬間――
紅の光が、やわらかく灯った。
炎が、花のように咲いた。
灼き尽くすはずの紅が、肉を閉じ、血を呼び戻してゆく。
それは、命を撫でるような赦しの光。
志貴は、息を呑んだ。
「……こんなん……知らん……
焼くことしか、できへんはずやのに……」
そのとき、木々の陰から視線。
いつの間にか、狐が泉のそばに立っていた。
「……まあ、奇妙なこと。
焼くだけしか能のない紅が、癒しを齎すなんて」
笑みを浮かべつつ、金の瞳の奥は読めぬまま。
「その力、どこで習ったの?」
「知らん……やったことも、ない……」
「じゃあ、誰が教えたの? 魂かしら、それとも血?」
さらにもうひとつ、茂みの奥で揺れる気配――壮馬だった。
彼は声を発さず、志貴の背を静かに見つめていた。
(……治癒の炎? そんなもん、白の系譜にしか……)
狐は女の顔をわざとらしく覗きこんだ。
「……冥府が宗像に願うなんて、道理が通らないなぁ」
狐の口元が吊り上がる。
「宗像が冥府を救う義理がある?
こちらには、何の得もないのに」
志貴が口を開こうとした瞬間、女がかすれた声で割り込む。
「……私は……紅を信じてきた……だから、ここに来た」
その目に浮かんだのは、決意。
「でも、どうして……黒は生まれへんの?
こちらが赦さないからって……」
「……冥府の禁書は、やかれました。
記された詳細は、何ひとつ残っていません」
「それで、なんで……? 確証もないのに……」
「黒が紅を弑した記録は、宗像にもあるはず!」
ーー禁書は触れてはならない。
ーー禁書は第一級管理の古文書になり、手を出すにはそれなりの覚悟がいる。
「宗像は何故……ご存知ないのか」
女の声に
志貴の心臓が跳ねた。
だが、それ以上は聞けなかった。
女はそれだけを言い残し、ついに意識を手放す。
泉の向こうとこちらで、狐と壮馬が一瞬だけ視線を交わしていたが……
志貴は、気づかなかった。
秘密の暴露に対する制裁があろうなどと……
⸻
朝が来るより早く、女は冷たくなっていた。
その死は、凄惨だった。
喉を――噛み切られていた。
志貴が目を離したのは、ほんの数分。
そのわずかの隙に、彼女は――息をしていなかった。
(気配も、足音も、匂いも、なかった)
志貴は、まだぬくもりの残る身体に触れた。
けれど、そこに命があるはずもなく――
「……なんで、や」
その問いは、誰に向けたものだったか。
志貴自身も、分からなかった。
「誰が……やった?」
「さぁね……」
狐は壁に凭れ、笑っていた。
「喋った時点で、運命は決まってたんだよ。
冥府の秘密を抱えた口は、赦されない。どこであれ、ね」
誰の声だったのか。志貴の記憶には、声だけが残った。
せせら笑う狐の周囲に、紅の煙がゆらりと立ちのぼる。
「悪鬼を狩る能もない冥府の使いが、たったひとりで来た。
死ぬのは、自然なことだよ」
その声に、同情も憐憫もなかった。
「ほんまに……自然なこと、なん?」
「僕を責めるのは筋違いさ。……甘かったのは、誰だろうね?
こうなる可能性なんて、最初からあったはずじゃないか」
志貴の指先が、微かに震えた。
だが、追う言葉は出てこなかった。
「宗像の禁書に、彼女が言うたような記述はあるん?」
「残念ながら、禁書は焼け落ちたよ。……口伝だけ」
残念だと肩をすくめて見せる狐と志貴は、静かに睨み合う。
都合良く、何かに化かされている気がした。
志貴は遺体へと視線を落とした。
上半身を抱き起こし、そっと目を伏せる。
蘇る記憶――あの夜。穂積の爺様を炎で送った夜。
彼女もまた、冥府で誰かにとっての“主”だったのかもしれない。
――丁重に扱われるべきだ。
自然と、唇が動く。
「吾が血族の志士よ、暗き道を遠ざけ、晴れた道を行くことを、紅の王が赦す。
汝の務めを、此処に解く」
言霊が空気を染めた。
掌から、あの夜と同じ炎が灯る――けれど、今回はやわらかく。
優しい、紅の花のような光。
女の身体を包んだ炎は、静かに、灰へと還していく。
風がそっと吹き抜け、空へ舞う灰を、志貴の目が見送った。
⸻
「……何があったんや」
背後から、声。
一心だった。
志貴はびくりと肩を揺らし、振り返る。
「なんで、冥府の服きとる奴が、道反におる?」
「……よう、わからん。聞く前に、亡くなった」
嘘だった。志貴は知っていた。
だが、なぜか言えなかった。
「……志貴、今のは……」
――一心には嘘つけないはずの志貴が、……嘘をついた。
その事実が、心臓を素手で掴まれたように痛かった。
一心は、それ以上を問わなかった。
けれど、その目には――怒りと衝撃、そして何より、深い“悲しみ”が滲んでいた。
くすくす笑う狐が、屋根の上に飛び上がる。
「ねえ、志貴。知りたい? 君が何者で、黒がなぜ生まれないのか」
囁くような声。
「何も知らないってことは、無力と同意だね……」
志貴がわずかに、狐の方へ視線を向けた――それは、無意識。
それだけで、心臓が軋む。
一心は、拳を握りしめた。
(……志貴が、あいつを見るだけで、俺の中の“何か”が壊れていく)
(頼む、志貴に何も言わんといてくれ……。まだ、“ここ”にいてくれ)
「……そっちを見るな」
一心の声が低く唸る。
志貴が、誰かに名を呼ばれることが――怖い。
「一心?」
志貴が振り向く。
一心の手が、彼女の袖をわずかに掴んでいた。
はっとして手を放し、何でもないと背を向ける。
狐は笑みの奥に何かを隠しながら、踵を返し、去っていく。
(まったく……。君たち、“赦す”だの、“赦されぬ”だの。
誰に言わされてるんだか。――千年前から、筋書きは書き終えてるのに)
⸻
一心が去り、狐も消えた泉のほとり。
志貴は、一人しゃがみ込む。
「頭がパンクしそうや……」
死んで可哀想とは思うが、涙は出なかった。
(彼女がここへ辿り着いたのは、奇跡や。
誰かが……導いたに決まってる)
『梅以外を信じてはいけません……』
彼女から耳打ちされた言葉が、胸の奥をざわつかせている。
罠かもしれない……。
冷たい汗が背を滑り落ちる。
これはもう、“白い炎”だけの問題では済まない。
明らかに
――何かが、おかしい。
紅と黒。宗像と冥府。狐と狼。そして、志貴と一心。
紅と黒のあわいに、赦しと破滅がゆるやかに溶けてゆく。
名もなき理の涯で、志貴はただ、次の一歩を待たされていた。
――まるで、“赦しそのもの”に、裁かれるかのように。