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第18話 たまの名を いま一度 己が足で


障子の向こうに、人の気配が満ちていた。


志貴が目を覚ました時、朝の光が静かに窓の端に差し込んでいた。


ほんのりと梅の香が残る。庭の片隅に一本の古木が、風にゆらめいていた。


隣にいたはずの狼は、もういなかった。


ふと懐に触れると、掌にかすかな白い毛が残されていた。


白い毛が、胸に触れた。

ほんのりとーー風の記憶がした



(……おらんのか)



声に出さずとも、名を呼べば、また来てくれる。


そんな確信と、ぽっかりとした寂しさが、胸の内でせめぎあっていた。


 


布団からゆっくりと身を起こす。


足元に、まだ少し痺れが残っていた。


そのとき――


 


「そろそろ、顔出しに来る頃やろ。あのねたろべえ」


 


障子越しに、気だるげな京言葉が聞こえた。



(一心だ。……一心がおる!)



慌てて立ち上がる。

襖を開けると、縁側に三人の男がいた。


宗像一心。穂積壮馬。そして宗像時生。


黄泉の鬼たち。黄泉使い最強の影法師たち。


 


「やっと起きたか、志貴」



時生が茶を差し出しながら、やわらかく笑う。

その微笑みは、遠い春の日のように穏やかだった。


 


「……寝すぎたみたい」


「寝てなきゃ、死んでた」


時生が冗談めかして言いながら、志貴の手首を軽くとった。

そこにあったはずの穢れは、きれいに消えていた。


 


「……穢れ、取ってくれたの?」


 


「ちゃんと“祓った”よ。……僕、そういうの得意だから」


 


「ありがとう」


息に混じるような小さな声。

その音には、感謝と罪責と、いくつもの感情が溶けていた。


 


自分で何かを為したわけじゃない。

まともに戦えたとも言えない。

結局、命を繋いでくれたのは、この人たちだった。


けれど――


それでも、ここに“生きている”。


その実感が、胸の奥で、ゆっくりと灯をともす。


志貴は縁側に腰を下ろし、三人の姿を見渡した。


 


壮馬は、いつも通りだらしなく寝そべり、煎餅をかじっていた。

時生は茶を煎れ直しており、

一心は背を伸ばし、黙って空を見上げていた。


 


(……この人ら、ほんまに鬼なんか?)


気づけば、声に出していた。


 


「なんで、そんなに普通なん?」


「……あ?」


 


一心が、ゆっくりとこちらを向いた。

その目は、淡く揺れていた。

笑っているのに、どこか切なげで、けれど、あたたかい。


 


「黄泉の鬼って、もっと……冷たくて、怖くて……ピリピリしてるもんやと思ってた。けど、みんな……、ゆるいといいますか」


 


「まあ、こわーく見せといた方が何かと都合ええんや」


壮馬が、肩を竦める。


「俺らは“見られない”存在や。影や。……ほんまのことなんか、知ってもらわんで構わんし、忘れてもらってなんぼ」


 


「……でも、背負ってるもん、えぐすぎるやろ」



禁域は通常の黄泉使いなら、3日と待たずに遺体にかわる場所。

それを護る役割は異次元とまで言われている。




「そらまあ、なあ。気色悪い悪鬼が夜になったらわいてくるからな」


 


壮馬が茶をすすり、はははと笑った。


 


「けどな、志貴。俺らは“寿命を返上して”、冥府に預けただけ。別に死んだわけやない」


 


「……返上、って」


 


その言葉に、心臓がひやりと締めつけられる。


 


壮馬の言葉に、時生が続けた。


 


「“死なない代わりに、死ねない”存在。それが僕たちだよ」


 


「生に干渉するには、冥府を通さなあかん。けど、それを超えるには、こっち――此岸に半身を残さな。そうやって鬼になる。黄泉の理を超える“器”としての契約や」


今度は一心が続いた。




「……見てみぃ」


 


一心が、庭の奥を指差した。


そこには、三本の木が並んでいた。


梅ではない。桜でもない。

――橘の木だった。


 


「……梅ちがうん?」


 


「違うね」



時生が言う。




「禁域に仕える者の木は、梅でも、桜でもない。橘や。“非時香菓”って書いて、“ときじくのかくのこのみ”や。不老長寿、永遠の象徴。つまり――“死ねぬ者”」


 


「……死ねへん、って……」


 


「そう。老けへん。枯れへん。緑のまんまや。ずっと」


 


「――橘の木みたいにな。時の流れを拒むように、あの葉は、ただ静かに在り続ける。……それだけのことや」


壮馬があっけらかんと言う。



その言葉に、時生が一瞬、視線を伏せた。

何かを語らずに飲み込む、その横顔が、ひどく遠かった。


 


「……誰でも、なれるん?」


 


「無理やろな」



一心が、ぽつりと答えた。



「“強いもん”しか、なれへん。“枯れない”ってのは、逆に言えば、“死ねない”ってことやからな」


「せやから俺らがなる。それだけや」


 


志貴の手が、きゅっと袖を握った。


 


この人は――宗像の後継だった。

わたしが生まれたから、その座を譲った。

わたしがいなければ、一心は人間のまま生きてたんや。


 


「……わたしのせいやんか……、わたしが宗像に生まれたせいで……全部、変わってしもたんやろ? 一心の生き方も、宗像の後継も。…ぜんぶ。ほんまは、わたしなんか、おらん方が……」


声が震えた。

うまく顔を上げられない。


 


「は?」


 


「わたしが宗像本家に生まれたせいで……一心が、“人間やめた”ってことやろ?」


 


一瞬、空気が凍る。


だが、一心は何も言わなかった。


 


代わりに、時生がやさしく笑った。


 


「違うよ、志貴。君が宗像に生まれようが、生まれまいが――一心は、選ばれてる」


 


「……そ。そういうこと」


一心がきっぱりと断言する。


 


「……俺は“器”やない。せやけど、“誰かを守る刃”にはなれる。……それが、俺の道や」



志貴の視界が滲んだ。

泣いていい理由が、ようやくもらえた気がした。


(……でも、そうじゃないって、ちゃんと伝えてもらえた)


それだけで、胸の奥の、深く凍っていた何かが、ゆるやかにほどけていく気がした。



ほんまは、わたしのせいやと、叫びたかった。


けど、その言葉は、胸の奥で溶けていった。


 


「……阿呆やな」



 


ぽん、と頭に触れる手があった。

子どもをあやすような、一心の優しい手。

けれど、誰よりも、強い手だった。


 


(……この手が、あのとき、わたしを護ってくれたんや)




庭の橘が風に揺れる。橘は枯れない。


禁域を支える鬼たち”は、死ねぬまま、今日も此岸の影で息をしている。


その木の下、志貴は静かに目を伏せた。


けれど、ふと風が止まると同時に、胸の奥で何かが疼いた。



……認められなかったあの香は、まだ胸の底に、名前もなく沈んだまま。


それは、夜の底で囁いた誰かの声と共に――今も、消えきっていない。


まるで、名もない傷が、ずっと胸の奥に残っているような


ーーそれを認めるには、もう少しだけ、時間が要る気がした。




***




志貴が目覚める数日前。


夜の道反は、息をひそめていた。


竹林がかすかに鳴り、岩窟の奥で、風が喉を鳴らすように呻いていた。


古びた縁側に、足音がふたつ。ごく軽やかに、踏みしめるように。


廊下の奥にある座敷。

ふすまの内側に、灯の気配があった。


その前に立ち止まった壮年の男が、そっと息を吐く。


「……入っても、ええか?」


返事はない。


けれど、ふすまの向こうから、ごく微かに香が揺れた。


蘇芳に似た、けれど底に白檀を帯びる香り――

それは、香というより、記憶の底に棲みつく血の薫りだった。


魂に染みて、抜けない。

──“千年王”と呼ばれる楼蘭の香。


「邪魔するで」


宗像公介は、ふすまを開けて静かに足を踏み入れる。


室内には、床几に背を預けて座るひとりの少年。


頬にまだ熱の痕が残り、片腕には包帯が巻かれていた。


灯籠の灯がゆらりと揺れ、傷ついた王の影を映していた。


「今回は派手にやられたな。……戻れんほどやられた理由をきいてもええか?」


楼蘭はため息をもらす。


「想像の範疇なのでは? 冥府にたてついたら、入り口も出口も封鎖された」


「相変わらずやな、泰山の連中は……」


「今回ばかりは甘かったよ。次はもっとうまくやる。回復したら、制裁を加えに戻るつもり」


「おお怖……気をつけなあかんぞ。志貴以外、お前を見つけられる奴はおらん。……確実に、次はないぞ。志貴のお目付け役──あの狼──が出してくれへんぞ」


公介は苦笑いだ。


楼蘭はわざとらしく肩をすくめてみせた。


「頼まれてた古文書、受け取れた? ……目を盗むのは骨が折れるから、簡単に依頼してこないでね、公介さん」


「受け取り場所がハードだったわ、楼蘭くん」


「それくらいは乗り越えてくんなきゃ。こっちは第一級の禁書を裁可なく、出してるんだから」


「そりゃそうか……。はい、コレ。ご希望の生ショコラ」


包を手に渡してやると、楼蘭はニコニコした。


「公介さんのが一番うまいんだよね。定期便してくんない?」


「禁書がコレで済むなら、2年くらいは毎月送ってやるわ」


公介は楼蘭の横にすわる。


「お前、やっぱり回復早いな」


「まぁね。……案外、脆いんだね。“宗像の王って子”はさ」


楼蘭は、薄い声でつぶやく。


その言葉に、とくに皮肉はなかった。ただ、疲れていただけ。

魂の底から。


「よう、助けてくれたな……志貴を」


「それ、……皮肉? 俺を助けるために送り込んだのに。……ま、どう送り込まれたのかは、まだ少し気になるけど」


「そりゃ、泰介ご自慢のとんでもない仕掛けがあっただけや。……わかるやろ?」


「察してはいるけど……一歩間違えば、命取りだったかもしれないよ。

もう少し探ってからじゃないと、間違いが起きてからじゃ……ね」


「お前からみて、アレ、どうみえた?」


「喰ってるんじゃないかなと思ってる。

でも、それが明確にわからないから、決定打がうてるかどうか、躊躇した。

……で、こんなだよ」


楼蘭が腕の傷をみせる。


「俺の特性上、本来はこんなに受けないんだけど……。それがコレだから、判然としない」


「助言、ありがとうな」


――練り直すわ、と公介は立ち上がる。


「あそこは“息する”ための場所じゃないよ」


しばらく沈黙が流れた。


その間、楼蘭は何も言わず、窓の外を見ていた。

誰かの帰りを待つような、あるいは、誰かをもう見ないようにするような。


「……見たんやろ。あの子の闘い方」


公介がぽつりと問うた。


楼蘭は、答えなかった。


けれど、目が、わずかに揺れた。


「あの子は、まだ“全部”知らへん。

せやけど、俺は……あの子に、それを全部背負わせる気にはなれへん」


「……じゃあ、誰が背負う? ……公介さん? それとも、噂に聞く最強さん?」


その問いに、公介はふっと笑う。


けれどその笑みは、どこか痛みを飲み込んだものだった。


「俺は“盾”や。背負うとか、口にするだけの格がない。

せやけど、あの子が選ぶ“未来”だけは、間違えさせへん。

それが俺の役や」


楼蘭はしばらく目を閉じ、ゆっくりと一度だけうなずいた。


それは、同意でも否定でもない。

互いの傷を知った上で選ぶ、黙契のようなものだった。


「……あの場にひとつだけ、馴染まない香があったんだ。

甘いのに、焦げくさい、狐の尾のような残り香が、空気の底に張りついてた」


――志貴はだませても、俺はだませない、

と楼蘭はつぶやいた。


「思うよりさらに構えておいた方がいい……」


「わかった。ありがとな」


ふすまが閉じる。


廊下に戻った公介は、しばらく足を止めた。


――少し離れた座敷。


そこでは、志貴が眠っていた。


乱れた黒髪が、月明かりの下で微かに揺れていた。


そっと近づき、しゃがみこむ。


──誰かが手を引いてやらな、この子は、自分の価値まで見失ってまう。


せやけど、強い子や。

だからこそ、今だけは俺が。


手をのばすと、寝乱れた髪の一筋を指先でなぞった。


「まだ、お前に全部を渡すには早すぎる。

せやけど――いつか、きっと。

お前が、自分の手で選びとるんや。

そのときまで、俺が全部、抱えておいたる」


静かな声だった。


まるで子守唄のような、何の力も込めない言葉。


けれど、その手つきだけは、誰よりも、父のようだった。


「よう眠っとる。……ええ子や」

(――この子が、誰にも奪われずに、笑えるようになる日まで)


最後に髪を撫で、そっと立ち上がる。


そして――


その場から、香すら残さず、姿を消した。

 


***




 翌朝。

 道反の山に、けたたましい声が突き刺さった。

 朝霧を揺らすように、冬馬の怒鳴り声が響いた。


 


「おーい! ええ加減、誰か出てくる気ぃあるか?」


 


 障子を開けると、土間に立っていたのは見知った少年――


 


「……冬馬?」


 


 振り返ったその少年は、見慣れたボストンバッグを片手に、どこか疲れた顔で仁王立ちしていた。


 


「志貴、起きてるなら受け取れ!」


 


 ぽい、と投げられたのは、志貴の着替えと洗面道具の包み。

 志貴があまりの重さに受け取りそこね、足元でひどい音がした。


 


「“これ着てこそ女の子です”って騒ぎながら、ひと袋に何着詰める気やねん……殺す気か」


 


「……咲貴ちゃん、あいかわらずやな……」


 


「あの鬼軍団の許可なく来てんのやから、ここ来るまで、どんな地獄の道のりかわかるやろうに……とにかく詰めてたで」


 


 冬馬は汗まみれだ。

 確かに、幾重にもかけられている結界をくぐらねばならないのは難儀。招かれてないなら、尚更。

 志貴は苦笑いだ。


 


 志貴がボストンバッグをもとうとして、顔をしかめた。


 


「貸せ、運んだるわ」


 


 冬馬がそれをひょいと持ち上げ、居間まで長い廊下を歩く。

 細いのに、どこに力あるんだと、志貴は無言になる。


 


 居間にたどりついた冬馬は標的をみつける。

 自分の荷物から紙袋を取り出し、ぶっきらぼうに言った。


 


「……親父、これ。お袋から」


 


 縁側に寝転がっていた壮馬が、ちらりとその袋を見て、鼻を鳴らした。


 


「いらん。置いとけ」


 


「捨てるぞ?」


 


「……置いとけって言うてるやろが、阿呆」


 


 まったく。

 男親子というのは、どこまでも不器用で、素直じゃない。


 


 志貴はそのやりとりを久しぶりに見たような気がして、なんだか胸が温かくなっていた。


 


「……なぁ、冬馬」


「ん?」


「わたし、どれくらい、黄泉におったん?」


 


 冬馬の顔が、一瞬だけ曇る。

 けれど、すぐにいつもの調子に戻ったように見えた。


 


「お前、自覚ないのか?」


「……三日とか?」


「お前な、そりゃ“黄泉の体感時間”やろ。地上では一ヶ月。で、道反で寝て三週間。あわせてほぼ二ヶ月」


 


「え……」


 


 志貴は愕然とした。


 


「今はもう初夏やぞ。田んぼに水、入っとるわ。

お前が寝てる間に、世間は進んでんねん」


 


「じゃあ、もう“入院二ヶ月”扱いなん……?」


 


「その辺はお前の爺さんがうまいことやっとる。あっちのことは任せといたらええ。……まぁ、志貴が無事ってだけで、皆ほっとしてたけどな」


 


 その時。


 


「なーんの連絡もせんまま、よぉ潜ってきたなぁ?冬馬くんよ……ええ度胸してはるわ」


 


 あの京都訛り。

 一心が、腕を組んで立っていた。


 その隣に時生。背後には壮馬が、既に木刀を担いで立っている。


 


「おーこわ」


 


 冬馬が肩をすくめた。


 


「おい志貴。お前、なんか言うてくれる? あの人たちに。こっちは“強制召集”されて、この待遇の悪さや」


 


 どうにも雲行きがあやしい。

 志貴は口元がひきつりそうになる。


 


「……あの、一心さん?」


「なんや?」


「まだ、回復してへんのやけど……」


 


 志貴は察した。

 宗像本家の“あれ”だ。



【立てば訓練、食えば出陣】


 


「そんなん関係あるわけない。お前、立ててるし、食えてる。……いけるわなぁ、志貴」


 


 一心がニヒヒヒと笑った。


 


「宗像本家はとちったら、どうなるんやったか、覚えてはる?」



「死ぬ気で鍛え直す……でしたっけ?」



「ご名答や。お前、宗像なんやから、ちゃんと襟正そうな。そうせな、ーー次こそ、誰か死ぬ」


 


 一心の言葉は冷たくも、どこか“必死”だった。


 


 冬馬が一歩前に出る。


 


「ってことで、志貴。お前と俺、今日から訓練やってさ」


 


「……もはや……決定事項かい」


 


「うん。俺も一心に“半殺し枠”で呼ばれてる。“連帯責任”って、何やねん……バディってだけで半殺しコースとか、ほんま貧乏くじやで」


 


 冬馬は空を見上げるように視線をそらした。


 


「また倒れる……やん? あかんやん……」


「もうやるしかないわ、志貴」


 


 冬馬が手を差し出した。拳を、ぶつけ合う形で。


 


「やるっきゃないやろ、な?」


 


 志貴は、一瞬だけためらった。

 けれど――手を伸ばした。


 


 拳と拳が、軽く、ぶつかる。

 乾いた音が、夏の始まりの空に跳ねた。


 


 その瞬間、一心がにやりと笑う。


 


「ほな、始めよか。半殺しの訓練をな」


 


* * *


 


 朝の光が、山の木々の間をぬけて差し込んでいた。

 道反の山に、小鳥の声と、水のせせらぎが戻っていた。


 


 稽古は3日目。

 昨日は午後からの記憶がない。いつ寝たかもわからない。


 


 志貴は、縁側に腰を下ろしていた。

 まだ少し、体の芯が重い。けれど、もう、起き上がれる。


 


 目を閉じると、暗闇の中で手を伸ばした夜が蘇る。

 戦場のようだった。けれど、ひとつだけ、はっきり覚えている。


 


 ――楼蘭の背中だ。


 


 自分をかばい、前に出たあの痩身が、

 血に濡れてもなお、まっすぐに立っていた。


 


「……あんなふうになるまで、ボロボロになってまで、一緒に戦ってくれる奴なんて……」


 


 ぽつりと、志貴はつぶやいた。


 


「……ほかにおらへん」


 


 その言葉に、背後で草履の音がした。


 


「……そういうの、大事にしたらええと思うわ」


 


 振り返れば、冬馬だった。

 手には冷えたおにぎりと、お茶の入った水筒を抱えている。


 


「……おはよう」


「朝メシ、冷めたぞ。……動くなら食っとけ」


 


 素っ気ないが、それなりに優しい。

 冬馬は志貴の隣に腰を下ろし、おにぎりを差し出した。


 


「……そういや、お前、知らんやろ?」


「なにを?」


「お前があの場に送られたの、楼蘭くんとやらを助けるためや」


 


「……えっ?」


 


 志貴は思わず、おにぎりを落としそうになる。


 


「マジや。お前なら王同士で引き合うから見つかるやろうって。

 ……でも、予想以上のトラブル起きて計画は全部ぐちゃぐちゃになったって、公介さんから聞いたで」


 


「公介さんに逢えたん? ……私はあわれんかった」


 


 志貴は、ただ目を伏せた。

 あの夜、救われたと思っていたのは、自分の方だった。


 けれど、ほんとうは――

 自分が、あの人を救うために呼ばれたのだ。


 


 胸の奥に、熱いものがふくらんだ。


 


「……楼蘭、いつ帰ったんやろ」


「こっちにきて、1週間くらいで泰山に戻ったらしいわ。

 身体はギリギリ持ってたみたいやから、しばらくは大人しくするって話し」


「……そっか」


「また会えるって。……お前の“香”、あいつも受け取ってる。忘れるわけないやろ」


 


 あの夜、香が確かに交わった。

 名も、声も、痛みも、魂の奥で溶け合った気がする。


 


 志貴は小さく息を吐く。


 


「楼蘭は友達になったとおもて、ええんかな?」


 


「ええやろ」


 


 冬馬は、短く言った。


 


「それだけのこと、お前はした。あいつも、した。それで十分や――背中預けられる奴なんて、そうおらんやろ」


 


「うん。……そうやな」


 


 そこへ、一心が現れた。

 木刀を肩に担ぎ、静かに志貴を見下ろす。


 


「飯、食うたら来い。稽古つけたる」


「……また、もたんかもしらん」


「知っとる。せやけど、それでもや」


 


 一心の言葉は淡々としていた。

 けれど、志貴は、その目の奥にある焦燥に気づいた。


 


「……どうして、そこまで急ぐん?」


 


「お前の封印、もう解けてる。身体能力も、底上げされてる。

 本来なら“使わせたくない”けどな。けど、待ったなしの相手は元・千年王。

 ……何もせんままじゃ、蹂躙されるだけや」


 


 冬馬も立ち上がる。


 


「食われるくらいなら、食い返すくらいの気概がいるやろ。

 ほら、先ずは食べな。……俺が先に稽古つけてもらうから、な?」


 


 志貴は、拳を握った。

 胸の中に、まだ拭えぬ恐怖がある。けれど、その奥に、確かな意志が芽生えていた。


 


「……やる。ちゃんと、戦えるようにならんとな」


 


 志貴が、そう口にしたときだった。




 一心が、ふと、空を仰いだ。


 ──香が澄みすぎている。


 空気が、まるで“誰かに見られている”ように、張りつめていた。


 


 誰にも言わなかったが――

 あまりにも、情報が漏れすぎていた。


 


 楼蘭と志貴の接触。

 香の断絶。

 冥府側の反応速度。


 


 誰かが、内側から情報を流している。


 


 壮馬か。

 時生か。

 あるいは――公介か。


 


 三人のうち、誰かが、異なる意志をもち……

 志貴を“見ている”。


 


 そんな気がしてならなかった。


 


 だが、それを口にするには、まだ早い。


 


「……いくで?」


 


 訓練場に歩き出す一心の背を追う。

 志貴は、そっと腰を浮かせ、足を地につけた。


 その足は、もう、かつての自分のものではない。


 自分の足で、いま一度、立つということを――確かめるように。


 




 夏の陽が、山の端から顔を出した。


 その朝、香も陽も志貴を照らしていた。


──物語は、ここからだった。


それは、ただ生き延びるためでなく、“自分の意思で”歩む物語。

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