第17話 朔を呼びし 血と香とに 契る夜
【黙の月──血に濡れた番契り、抗うほど甘美に絡みつく愛執の檻】
この血の契りは、決して絶てない。
微笑む君を包み、壊し、蜜毒のように深く沈めていく。
……いま、この文字を読んでいるあなたも、すでに。
倒錯愛×執着愛×番地獄×贖罪愛──血が絡め取る耽美幻想。
ふわり、ふわり――
白の濃霧が、静かにわたしの視界を浸していく。
指先がぬるんだ水面をなぞるように、記憶の層が波紋を描いた。
(……これ、知ってる……)
額に、ぬくもり。
琥珀の声が名を呼ぶ。懐かしくて、苦しくて、愛しい声。
「……お父、さん……?」
霧のように浮かぶ輪郭の中、泰介がいた。
仮面は外れていた。
子どもの頃、夜の帳に絵本を読んでくれたときと同じ顔――
優しく笑う、宗像の当主の素顔。
その手が、わたしの右手を取った。
指先から体の芯へ、熱がすうっと流れ込んでいく。
「……ひ、ふ、み、よ……いつ……」
父の声をなぞると、不思議なほど滑らかに十種神宝の言霊が口をついて出た。
一二三四五六七八九十、布留部、由良由良止布留部。
右の指先から血が一滴、ぽたりと零れる。
(……痛く、ない)
夢か現か。感覚が曖昧なまま、泰介がやわらかく頷いた。
その血に、そっと息を吹きかけ、左胸をポンと弾くように合図する。
真似るように、志貴さんも指を胸に触れた。
次の瞬間、胸の奥――心臓のまわりに紅の文様が浮かび、走る。
それは“名”だった。志貴という魂を、香として刻む光。
(……思い出せって、言われた気がした)
胸の奥に深く沈む“何か”を掬うように、志貴は手を伸ばす。
すると、血の記憶から浮かび上がるように、かつての術式が蘇ってきた。
「……暗き闇を照らす尊き月よ、汝の光を吾が血潮に呼び覚ますことを許したまえ」
宗像の本家にだけ伝わる、召喚の言。
唱えた瞬間、右手に熱が宿った。骨まで震えるような烈しい熱。
夢の空間がきしみ、裂ける音が響く。
「応じ出でよ――布都御魂」
耳をつんざく雷鳴。世界がひび割れた。
掌に、ずしりと――鉄と神威の塊が、重く宿る。
千鳥十文字槍。
赤黒く脈打つ刃身が、呼吸するように熱を帯びていた。
「――そうや。これが、あの日、泰介さんの手にあったもんや……」
琥珀の瞳が、まっすぐに志貴を見ていた。
仮面をつけないその笑みは、どこまでも優しかった。
【君にプレゼントだ】
唇が、そう言った。
続く口の動きが、紡いだのは――
【サ】
【ク】
【オ】
【ヨ】
【ベ】
「……さく、を、よべ?」
サク――この響きを、志貴は知っている。
知っているのに、思い出せない。
記憶の奥に、薄い膜のような“封”がかかっている。
(……封じられてる?)
囁きが蘇る。
『いずれはすべてを君に返すと約束するから、今はごめんね』
それは、あの日の泰介の声だった。
志貴の耳元で――命と記憶を繋ぐように、語りかけた最後の言葉。
「返して。……泰介さん、約束やろ?」
叫んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
音もなく、熱もなく、ただ確かに“結界”が砕けた。
鈴の音が鳴った。
風が走った。
白い視界に、金属の鎖が砕ける音が響いた。
そして――風に乗って、語りが届いた。
(……昔、聞いた。黄泉使いには、かつて王がいた)
その王には、二柱の獣がついた。
一柱は理を統べる白の狼、
一柱は時を喰らう紅の狐――
月のはじまりと終わりを名に刻む、永き誓約の使い手。
王は自らが戦えぬことを知り、その魂を守り神たちに託した。
だが獣たちは言った。
「真の主の声にしか応じぬ」
それでも王は祈った。願った。命を削ってでも護りたいと。
獣たちは、三つの誓約を突きつけた。
――守り神は誰にも従わぬ。
――分身のみを預ける。
――主の命は守り神のものとする。
王はそのすべてを受け入れた。
そして、梅と桜の木を、それぞれに捧げた。
魂の香を繋ぐ木。
理の狼は、梅に宿り――月のはじまりを名に持つ。
その名は――
「朔」
目の奥が、ぱっと見開かれる。
血が巡る。体の奥まで、“理”が流れ込んでくる感覚。
泰介の声が、深く脳裏に響いた。
【朔を呼べ】
『名を口にして、君が真に選べば、必ず応えてくれるはずだ』
(……選ぶ?)
『香を選べ。選ぶという行為にこそ、王の意志が宿る』
『だが朔は、血の証を持つ者――王のみに応じる』
「……狐は違う。あの香は、わたしを溶かしてしまう」
『選んでいい。君なら、きっと間違えない』
(わたしが、わたしの意志で――)
「応じよ、吾が血に連なる友――朔!」
地が鳴る。
大地が裂けるような轟音。
紅の光が渦を巻き、空間が爆ぜた。
それは、吼えることなく現れた。
白でも銀でもない。月光を濃縮したような獣。
気配だけで空間が軋み、影がひれ伏す。
巨体が、志貴の影に重なるように立ちはだかった。
――狼。
『ようやくか。……阿呆が』
声が、懐かしかった。
どこか知っている響き。
魂の奥まで震わせるような声。
(朔……)
「わたしを、護って」
『理はお前の中にある。命、確かに受け取った。これより先、如何なる者も、お前の意志を越えては触れさせぬ』
王と、その守り神――
主と獣の契りが、今、完全な形で交わされた。
***
ふ、と、遠くで風鈴のような音がした気がした。
意識が、静かに浮かんでくる。
肌を撫でる空気の重みが、夢とは違う。
現実の匂い。木の床に残る冷たさ。
障子越しにゆれる梅の枝影。
(……ここは、道反やったわ)
そう思うより早く、胸元にふわりとした重みを感じた。
視線を落とす。
「……ちいさ……なってる……」
白銀の毛並みに、まるい耳。
掌にすっぽりと収まりそうな、ふわふわの小さな狼が、そこにいた。
さきほど夢で見た“理の狼”と、まぎれもなく同じ香があった。
けれど――その姿は、驚くほど小さく、柔らかい。
ぴく、と耳が動く。
狼は志貴を一瞥すると、低い声で唸った。
『……うるさい。眠りすぎた上に、語りすぎや』
しっぽで顔を隠すように、そっぽを向く。
耳の先が、ほんのり赤く見えるのは――気のせいやろか。
「……ちょっと、びっくりしただけやって」
「さっきまで、でっかくて神々しかったのに……急に、こんな……」
『どっちの姿も俺や。文句あるんか』
「こんなん、情緒の落差で人間一人殺せるって」
『知らんがな。勝手に死ぬな』
「……これ、巷では“ギャップ萌え”って言うらしいで。罪やわ」
『……調子乗るな。噛みつくぞ』
声はいつもの調子のはずなのに、どこかくぐもって聞こえた。
自分の身体の小ささに戸惑っているのか――ぎこちなさが滲んでいる。
志貴はそっと指先をのばしてみた。
ふわふわの毛並みが、指に触れるかどうかのところで――
ぺしっ。
しっぽが伸びてきて、軽く指先をはたかれた。
『許可した覚えはない』
「ケチ」
『だまれ、阿保』
……そう返されても、なぜか頬がゆるんだ。
このちぐはぐなやりとりが、今はとても、心地よい。
けれど。
(……なんやろ。体の奥が、ちょっと……変)
朔のぬくもりが触れている場所――そこから、静かに香がまわってくる。
風の匂いが、少し変わった気がした。
心臓の鼓動が、どこか“彼”の息づかいと重なっているような錯覚。
まるで、志貴の中に新しい“拍子”が刻まれはじめたみたいや。
「なあ、朔……」
『なんや』
「……あんた、わたしの“何”なん?」
不意に投げた言葉に、朔はしばし黙った。
風が、縁の梅をふるわせる音だけが、障子越しに届いた。
『獣や』
ようやく返ってきた言葉は、短かった。
(この命は、“誰かに与えられたもの”やない。
わたしが、“朔を選ぶ”って決めたんや――
わたしの香で、わたしの手で)
『お前が望んで、封を解いた“檻”や。
主の理を削らんよう、外から守る、檻』
「……檻って、どういう?」
『お前の“香”が、誰にも穢されんように閉じる檻。
それが俺や』
その声音がどこか遠く、けれど確かに、志貴を貫いた。
選んだのは、志貴だ。
あの夢の中で――ではない。
いま、目を覚ましたこの世界で。
この胸に息づく香も、この拍子も、すべてが証や。
(……ほんまに選んだんや、朔を。
わたしは、自分で……)
ほんの少し、胸が熱くなった。
怖さと誇らしさがまじる、不思議な感覚。
「……あんた、なんか偉そうやけど、ちいさいからな」
『うるさい。……お前が、あまりにぼろぼろの結果、
回復のため、こちとら、力使ってやってんやぞ』
「……なるほど。でも、“檻”が、こんな可愛くて大丈夫なん?」
『寝て起きたら、また変わる。気にすんな』
「……ああ、そっか」
笑いながら、そっと息を吐いた。
一心がいつか呼んでみせてくれた小さな狼は
もっと可愛い気配だった、と志貴は目をやる。
『聞こえてる。……悪かったな、お望み通りやなくて』
「聞こえてるんかーい……」
ほんの少しだけ、香が澄んでいく。
風が、志貴の胸を撫でていった。
そして、その風に乗って、ふっと言葉がこぼれた。
「なぁ、朔……」
「……ちょっと、聞いてくれるか?」
『……また、ろくでもない話やろ』
「……一心のこと、なんやけど」
耳がぴくり、と反応した。
けれど視線は合わせてこない。
ふいっと外を向いたまま、しっぽを巻いた。
『……ほらな、ろくでもない』
「最近……避けられてる気がすんねん」
「前より、目ぇ、合わせてくれへんようになったっていうか……」
朔は、布団のうえで丸くなった。
眠る準備か、話を聞く構えか、それはわからない。
「わたし、ずっと子どもやと思われてるんやろなって」
「……でも、もう違うって、言いたいのに……
言うたら、また呆れられそうで……」
風が止んだ。
静寂が降り、梅の枝がこつ、と何かに触れる音が聞こえた気がした。
『――知らん』
そっけない言葉が返ってきた。
『呆れられるからって、それ、終わりにできるんか?
……ただの、根性なしやないか』
「うるさいわ!……黒歴史祭の気持ちなんかわからんやろ?」
『なんやそれ……。そもそも、黄泉使いは変わり者の集合体や。
そういう生き物に囲まれて、俺らは契られてるんや。諦めろ』
「朔……」
『お前の阿呆は病気。治らんのだから、仕方ないやろ。
……せやけど、その阿呆を、誰かが大事にしてるかもしれんやろ』
それだけ言って、しっぽを伸ばし、顔を隠した。
けれどその言葉は、まるで心に触れるように、温かかった。
「……ありがとう、朔」
『お前は……勝手に喋って、勝手に楽になってるだけやろ』
「それでも、なんか、嬉しいんや」
朔は何も応えない。
「……せやけど、でっかい方が好みやけどな。かっこええし」
(こんな姿で甘えさせてくれるん、……あの人やったら、絶対せぇへんやろし)
『寝ろ。お前は考えすぎると、香が濁る』
「……濁っても、戻してくれるんやろ?」
返事はなかった。
けれど、ちいさな身体が胸元に寄り添ってきた。
体温だけが、静かに答えてくれた。
志貴は目を閉じる。
あたたかい息遣いが、胸の鼓動と重なって、
ゆっくりと眠りへと溶けていく。
(……ちいさな姿やのに……
なんで、こんなに安心するんやろ)
――このぬくもりは、志貴が選んだ。
香も、命も、檻ごと、志貴だけの王の証。
静かに、胸の奥で何かが満ちていく。
そんな気がして、わたしはそっと目を閉じた。
ーーそして、朝が来る。