第16話 たまの名を 焼きて護らむ 紅の香
【黙の月──血に濡れた番契り、抗うほど甘美に絡みつく愛執の檻】
この血の契りは、決して絶てない。
微笑む君を包み、壊し、蜜毒のように深く沈めていく。
……いま、この文字を読んでいるあなたも、すでに。
倒錯愛×執着愛×番地獄×贖罪愛──血が絡め取る耽美幻想。
――息が、できない。
土気色の空に月はなく、けれど、どこかで風が、ひたりと肌を撫でていた。
(……ここは、どこや……)
楼蘭と共に闇を駆けていたはずの足が、ふいに沈んだ。
気づけば、そこは泉だった。
いや、泉のようでいて、底のない空虚だった。
どこにも、楼蘭の気配がなかった。
手を伸ばしても、声を放っても、何も返ってこない。
(……わたし、一人か?)
胸の奥に、冷たい何かが張りついた。
「違う」と言ってくれる存在の不在が、怖かった。
指先が、なにかを掴もうとしても、返るのは風と水ばかりやった。
楼蘭の香が、しない。
あの、柔らかくも鋭い刀の香気が、どこにも、ない。
魂の奥で、なにか、大事な綱がぷつりと切れたように感じた。
波紋ひとつ立たぬ水面。
周囲を囲むのは、異様なほど鮮やかなオアシスの光景。
椰子に似た木々、白砂のような土、そして――水。
その水が、あまりにも、透きとおっていた。
(――黄泉戸喫。飲んだら、戻れんようになる)
古の神話が脳裏を刺す。
伊弉冉神が戻れなくなった、冥府の水。
飲むな、触れるなと叫ぶのは、理性ではなく魂の方だった。
だが、喉が――乾く。骨の髄まで裂けそうに。
「……飲みたいのか?」
声が、した。
その瞬間、空気が変わった。
花でも、土でも、血でもない――“人為”の香が、ふいに鼻をかすめた。
「君は誰だ?」
少女の声。否、“少女を模した何か”だった。
空気を震わせず、耳の奥に直接届く。
それは声というより、命令音のようなもの。
「連れてきた影は、もういない。……切り離したよ。君の香だけが、欲しかったから」
背筋が痺れた。
楼蘭と、引き裂かれた――数秒もないあいだに。
それを、この女は「当然」のように言うた。
白い髪。赤い瞳。
整いすぎた顔。人間を模した“何か”。
その姿を目にした刹那、背骨が凍えた。
心臓が、まるで内側から削られるように縮こまる。
(やっぱり、知ってる)
身体が、先に震えていた。
けれど記憶は、思い出せなかった。
「……君の名前は?」
黙した。
その問いに答えてはいけない。
名を明かすな――魂を取られる。
直感が、そう告げていた。
女は笑い、冷たい湖面を踏みしめて近づいてくる。
「名乗らない。……利口だな。では問おう。汝、王たるに足るや?」
その足取りは、まるで重力の影響を受けていなかった。
「香も放てぬ未熟が、王を名乗るなど――甚だ滑稽」
「血を流したか? 魂を削ったか? 命を誰かに擲ったか?」
「それすらせぬまま、王面などと……」
その声が、一滴ずつ、志貴の精神を侵していく。
「“穢れ知らず”の王など、所詮は影法師。器にはなれぬ」
水面を裂いて伸ばされた指が、志貴の胸元を狙った――
「やめて」
反射的に、志貴は自らの指を噛んだ。
滲んだ血を、胸に塗る。
焼けるような痛みが奔る。
それでも、意識が――戻ってくる。
「……わたしは……」
視界の向こうで、白い女の肌がわずかに爛れた。
一滴の血が、それを焼いた。
“誰かに許される”んやなくて、
“わたしがわたしを選ぶ”んや――そう思えた。
“名を持つ”のは、縛られること。
けれど、“名乗る”ことは――
わたしが、わたしを赦すということや。
「……わたしは、宗像志貴や!」
震える声だった。けれど、確かに響いた。
“誰かに救われたい”なんて、甘えやった。
救われたと思うてたんは――
自分で、自分を赦した瞬間や。
「……この名と、この香で、“わたし”を赦したんは――わたしや!」
女の顔が引き攣った。
笑みは消え、憎悪とも悲哀ともつかぬ目で、志貴を睨む。
「……“梅の名”など、器にはなれぬ」
女の足元に、泉が赤黒く濁った。
「君もいずれ知る。――理の檻を超えた者だけが、真に王たりえる」
そして――泉全体が震え始めた。
水面が泡立ち、ねじれ、黄泉の門が音を立てて開き始める。
志貴は、歯を食いしばった。
(どうする……何が、正解なんや……)
血の炎も、布都御霊も、この空間では届かぬかもしれない。
だけど。
(それでも、わたしは――)
「帰る、戻る、そう決めたんや。絶対に!」
その声が落ちた瞬間、空間が――砕けた。
泉の水面が爆ぜた。
志貴の足元に広がっていた異界の空間が、ひしゃげ、捻れ、崩れていく。
反転するように地が裂け、闇が揺れた。
そこから現れた“それ”に、空気ごと魂が痺れる。
――ただの幻影ではない。空間そのものが応じていた。
穢れた千年王。器を壊し、理を裏切った、かつての“王”の残骸。
魂を宿しきれなかった“器”の、なれの果て。
志貴の眼前に、それは舞い降りた。
白い布に包まれ、人型に近く、だが決して“人”ではなかった。
骨と血管が透けるような輪郭。
目の奥には、淀みのような渦が見えた。
(これが……黄泉に巣食う、“落ちた王”)
志貴が喉の奥で震えを呑むより早く、風を割って楼蘭が前に出る。
「――退け。こいつは、俺の相手だ」
「来たか……“白”。面倒だね」
「やられっぱなしなわけ、ないだろ?」
沈黙の中、楼蘭の剣が、確かに鳴った。
だが、志貴はすぐに気づく。――刃に、香が乗っていない。
動きは速い。けれど、切先は虚空を裂くだけだった。
(……切れが、ない)
「楼蘭……!」
「来るな」
「でも、もう……無理、やろ……!」
志貴が手を伸ばすと、楼蘭は刹那、肩を震わせた。
異形の“王”が笑う。
「削られたな、“白”。もう、お前には香がない」
「黙れ」
――遅い。
次の瞬間、血飛沫が舞った。
異形の爪が、楼蘭の脇腹を裂く。
「楼蘭――!」
志貴が駆け寄る。その香が、ふっと揺れる。
だが、楼蘭は笑った。
「……志貴。平気だ。俺は、こんなもんじゃ折れん」
その香が――変わった。
志貴が、幼い頃に一度だけ感じたことのある、香。
(……楼蘭を、知っていた?)
それは、“過去の”楼蘭の香だった。
はっと息を呑んだ瞬間――
《志貴と同じ年頃の男の子だよ。仲良くできると良いね》
泰介の声が、脳裏に甦る。
父の稽古なんて辛くて、ちっとも嬉しくもなかったはずなのに、はしゃいでいた、あの可愛い男の子。
(……あの子やったんや。あの、はにかんだように照れて笑っていた……)
***
誇りでは、命は守れなかった。だから楼蘭は、捨てた。
月影に照らされた泰山の山道を、少女の格好をさせられた幼い楼蘭が、静かに歩いていた。
目を伏せ、誰の目にも映らぬように。
能力のある男と知れれば、殺される。
千年王として生まれながら、楼蘭は“私”と名乗り、声を細め、髪を長く垂らして、不出来のレッテルを背負って生かされた。
それが、両親の選んだ唯一の生存戦略だった。
「なぜ、偽るのですか?」
小さな楼蘭が問いかけたのは、灯籠の影に向かってだった。
誰にでもなく、それでも、誰かに。
そして、ある日。
楼蘭は両親に連れられ、一人の男と出会う。
宗像泰介。
彼は、ただ一言、楼蘭に言った。
「誰も見ていない。隠してるもん、全部出してかかっておいで」
その言葉が、楼蘭の7年をほどいた。
何かが崩れ、そして、解き放たれた。
封印が解かれたような一太刀が、夜の竹林を裂いた。
(……自由だ)
それは、初めて自分の魂で呼吸できた瞬間だった。
泰介のもとで稽古のいろはを学び、隠れて生き延びた十年。
そして訪れた、“血狩”の夜。
両親は身内の裏切りに遭い、囮とされ、大量の悪鬼に――原型もないほどになぶり殺された。
あのとき、楼蘭は叫んだ。
「もう、誰にも、奪わせない。――ここに、白の王・鴈楼蘭が立つ!」
***
現実に戻った楼蘭は、微笑みさえ浮かべていた。
過去を語りながら、香が――静かに戻っていた。
「千年王として、力で……恐怖で、統べるしか、道はなかった。……けど、俺は一度も後悔していない」
そう。何もかもを捨てて、彼は今、ここに立っている。
ーーとても……痛そうに、みえた。
志貴は、楼蘭の背に手を添えた。
「頑張りすぎやわ、きっと……」
――大丈夫。
宗像は敵じゃない。
それが伝われば……
それで良い、と、志貴は笑む。
「わたしの方が、まだマシ?」
志貴は、楼蘭の傷を指差した。
楼蘭が、ふっと息を吐く。
「……ほんと、お前は、ずるいな」
戦場に戻った香が、微かに強まる。
異形の“王”が呻いた。
「……穢れ知らずの、紅……」
「……無欠を手にしかけの、白……」
志貴が、前へ出る。
「未熟でもええ。わたしの魂は、誰かを守るために在る。たとえ、赦ししか持たんって言われても……」
指を噛み、血を滴らせる。
空間が震えた。
「わたしは、この名と、この香で。――だから、焼く」
香が、爆ぜた。
血が力となり、空間を――浄める。
だが、それでも――届かない。
最後の一撃が、足りない。
「……楼蘭」
振り返ると、楼蘭は片膝をついたまま、肩で息をしていた。
「終わらせるぞ。志貴――君が、“完全”でなくとも」
志貴もまた、限界に近づいていた。
心臓は激しく脈打ち、痛みは全身に波及している。
「良いことを教えてやる。冥府も、こんな奴らも――いちばん嫌がるのは、“君”だ」
楼蘭が、にやりと笑う。
「赦しの王、紅の千年王だけは……小さな芽のうちに、摘み取っておかないといけなかったんだ。……都合の悪い、“規格外”だから」
その言葉に、“汚れた王”が激しく反応した。
「……ああ、そうだ。“紅”だけは、何があろうとも、許されぬ。赦しなどという、理の否定を……!」
異形が叫ぶ。
「理に縋り、香を捨てた。魂を削り、器を空にした……それが我らの末路よ」
志貴の瞳が、静かに揺れる。
「理を否定してるんは、わたしやない。……わたしの理は、“命を守る”ためのもんや」
ぐらりと、異形の身体が揺れた。
楼蘭が背後から斬りつけた。
だが、それも浅い……。
だが次の瞬間、楼蘭の足がもつれた。
「楼蘭!」
「大丈夫……ちょっと、目が回っただけや……」
だが、次の瞬間。
「っ……!」
楼蘭の身体が崩れ落ちた。
ばたりと、地に伏した。
「楼蘭!!」
志貴もまた、布都御霊の力を制御しきれず、視界が歪む。
指先が痺れ、骨の奥にまで香が焼きつく。
胸を抑え、両膝をつく。
喉の奥から逆流する血を吐き出し、苦しげに咳き込む。
「……生身では、いくら千年王とて、どうにもならんな」
志貴が視線を上げた。
楼蘭までは、わずか数歩。
「白だけでも、片しておくとしよう……」
異形が迫る。
志貴は、歯を食いしばる。
――燃えろ。
血が爆ぜ、紅蓮の炎が立ちのぼる。
「未熟なくせに! ……殺してやる!!」
異形が叫ぶ。血の底から湧くような、獣の怒声。
ぎろりと、その目が志貴をとらえた。
(もう、あかんかもしれん。でも……)
楼蘭だけは――護る。
炎が異形の進行を阻むあいだに、志貴は立ち上がった。
楼蘭のもとへ。足の力が抜ける。
「起きて、楼蘭……」
身体を揺さぶり、声をかけ続ける。
意識のない身体を抱き起こし、力無い楼蘭の腕を自分の肩に回す。
(退かないと、でも……どこへ)
視界は、歪んでいた。
声にならない、声。
歯を食い縛り、楼蘭の身体を持ち上げた。
(わたししか……楼蘭を守れん)
口の中に溜まる血を吐きながら、一歩、また一歩。
爆ぜろ。爆ぜろ。
命じるたびに、炎が燃え上がる。
異形は、炎の壁の向こうから咆哮する。
志貴は、楼蘭を担ぎながら、なお歩く。
世界が暗くなる。
身体が限界を告げていた。
ばたりと、志貴は楼蘭の身体を庇うように倒れた。
血のしずくが土に滲み、紅梅の香が、花のように静かに立った。
志貴は地に伏したままで、瞼をもちあげようとする。
息が続かないほど、胸が苦しい。
震える指が、名を呼ぶ。
「……一心……」
「……わたしは、構わへん。壊れてええ、だから――楼蘭、たすけて」
その刹那。
世界が、二つに割れたような風鳴りが響いた。
闇が裂け、黒き衣が風と共に舞い込む。
仮面の奥から、冷たく、深い怒りを孕んだ声が、沈んだ空に落ちた。
「――誰が、お前を、壊していい、言うた?」
宗像一心だった。
影のような身ごなしで志貴を抱き上げ、その身を包み込む。
仮面の奥、見えぬ眼差しから立ちのぼる、圧倒的な“気配”。
「……志貴。もう、ええ。よう堪えたな」
「……一心……」
志貴の指が、彼の装束を掴む。
どろどろに汚れ、血に濡れた手を、一心は迷いなく握り返した。
その背後、別の風が起きる。
「間に合ったか。……こっちは任せろ」
時生が現れ、浅い息をしたままの楼蘭の身体を、そっと抱え上げる。
「こいつ……限界を越えたな」
「志貴もや。……よぉやった」
一心の声は、静かだったが、どこかに滲んでいた。
彼はそっと額を寄せ、志貴の頬に短い吐息を落とす。
そのとき。
空間の奥に、崩れかけた白い女が立つ。
赤い瞳。かつての“王”の残骸。
「忌々しい宗像の犬が来たか……」
幻影と化した女が、低く囁く。
「“梅の名”など、器にはなれぬ……」
その言葉に、一心は冷ややかに応えた。
「この器、名だけで語れると思うたんか?」
仮面をずらし、志貴の額に、そっと唇を落とす。
「お前のような出来損ないが、うちの梅を語れるとでも?……ありえんやろ」
女は嗤ったが、その身体はもう立てない。
志貴の血が、その魂を焼いた。
「……あれが、“赦しの香”か……、なるほど、強烈やな」
一心は志貴にちらりと目をやる。
「紅が生き残る?……どうやって?そんなものはない。……覚悟しておくことだ」
気味の悪い笑み。
異形の輪郭が崩れ、魂の一部が砕けていく。
「……宗像は、紅を失う。必ず……」
一心は、それに答えなかった。
「志貴は、息してる?」
「大丈夫や。……そっちは?」
「急いだ方がいい。……楼蘭の方が危ないかもしらん」
「退けるか?」
「あぁ、退ける」
一心と時生は、それ以上の言葉を交わさず、崩れゆく黄泉を背に、踵を返す。
二人の男に守られ、千年王たちは――退いた。
闇が、閉じた。
黄泉の水面に、紅の香だけが残されていた。
それは理を越え、血を越え、名を焼いて咲いた、紅の香だった。
ーー誰がために、名を選ぶか。誰がために、香を放つか。
その答えが、志貴の胸の奥で、静かに灯っていた。