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第15話 香を喰らふ 黄泉にて交ふ 二つの王(後編)



 ――雪が、剥がれ落ちていた。


 ひとひら、またひとひら。


 どこまでも音もなく、灰色の空から、沈黙だけが降り積もる。


 


 (……足が、もつれる)


 


 志貴は、冷えた指先をじっと見つめた。


 気温も感覚も、もうわからない。


 ただ、肩で息をしながら、ぎこちなく歩いている。


 


 (……どんくさいな、わたし。ほんまに)


 


 脚も手も、凍えたまま動かない。


 足場は不安定で、呼吸は薄く、思考が霞む。


 その隣で、風を切る音がした。


 


「避けろ!」


 


 反射的に体が引かれた。


 紅の影が横を駆け、次の瞬間には三日月の刃が悪鬼の首筋を断ち切っていた。


 


「……本当に宗像か? 君……」


 


 肩越しに振り返った楼蘭の目は、驚きと、訝しみと、何よりも“疑念”に満ちていた。


 


 構えも踏み方もなってない。


 戦闘のセンスも鈍いし、気配も、読めていない。


 ――宗像って、もっと“洗練”された一族じゃなかったか。


 


 志貴は、答えなかった。


 ただ黙って、苦笑いする。


 顔色がすこぶる蒼く、雪の上に片膝をついて、肩で息をする。


 


「危ないっ……」


 


「……なに、してっ……!」


 


 楼蘭の目が、微かに見開かれる。


 悪鬼の動きを察するより先に――志貴が動いていた。


 ふらついた楼蘭の肩に、無言で腕を回し、後ろから迫る影に身を晒す。


 


 刹那。


 爪が志貴の背を裂く音が、重く響いた。


 


「志貴……!」


 


 その名を叫んだのは楼蘭の方だった。


 彼の手が志貴の腕をつかむが、志貴はその手を振り払うでもなく、静かに言った。


 


「……あんたの方が、怪我してるやろ……」


 


 肩が裂けてもなお、声はぶれない。


 むしろ、楼蘭の姿を見て、心底ほっとしたように笑った。


 


(……あかん、なんやろ、これ。思うより先に動いてるかもしらん)


 


 志貴の身体が勝手をする。


 理由はわからなかった。ただ、本能が、彼を守れと言っていた。


 


 宗像は、強い者が弱い者を守る。


 それが、“当たり前”。


 


「離れてて……」


 


 だから、志貴は動く。


 最も濃い“宗像”だから。


 


「どうして、忘れてられたんや……」


 


 鼻腔をくすぐるのは、血の香。


 それは――“父の香”。


 


 そして、声が降ってきた。


 


「呼んでごらん。

 ただし、“狼”はまだ早いよ。

 でも――王には、“刃”がある」


 


 志貴の瞳が深く、揺らめいた。


 香の記憶。血の記憶。名の記憶。


 全てが、魂の奥から甦る。


 


 自分の血が、地に落ちた。


 その一点が、世界を変えた。


 


「志貴、宗像は“こうするんだよ”」


 


 亡き泰介の微笑みと詠唱。


 指先の仕草まで鮮明に蘇る。


 血を滲ませ、静かに解除する動作。


 


「さぁ、これはプレゼントだよ。

……君は、誰なんだい?」


 


「わたしは……宗像志貴。

 王の名を、受け継ぐ者――!」

 


 宗像泰介の意志を継いだ娘。


 駆け出しそうな息を止めて、志貴は指を足元に向けた。


 


 雪の下から、“矛”が呼応した。


 それを感じとる。


 


 布都御霊――父から託された、王の刃。


 


 ――血が、目を覚ました。


 


 志貴の血が、雪を染める。


 けれどその赤は、恐怖や痛みではなく、“名”を呼ぶための合図だった。


 


 志貴の指が、今度は頭上へ。


 ゆっくりと空を裂いた。


 


 裂けた空間から、音が漏れる。


 やいばを研ぐような音。神域に触れるような響き。


 


「……その香」


 


 え、と楼蘭が顔をあげた。


 


 楼蘭の瞳に、わずかな揺れが走った。


 志貴のまわりの空間が、熱を帯びる。


 冷気に閉ざされていたはずの世界に、熱が、灯った。


 


 そして――


 


 凍てつく大地を裂いて、紅の刃が噴き出した。


 まるで、世界の底から“王”が芽吹いたかのように。


 


 黄金に透ける十字の穂先。


 紅と白の火紋を巻き、王の痣と同じ“梅”の刻印を背に宿す。


 それは――布都御霊。


 


「……なんだよ、それ……火を、素手で? 馬鹿か、お前……」


(いや、違う。馬鹿なんかじゃない――あれは、“そういう奴”なんだ)


 


 楼蘭の声が、風にかき消されていった。


 


 志貴は、両の掌で刃を包み込むように持ち上げた。


 


 火のように、光のように、魂を伝い、魂にきざまれる。


 


 志貴は静かに言った。


 


「――燃えて。

 この魂ごと、名を焼きつけて」


 


 “名”が、刃に宿った。


 志貴の魂が、その一言で火に変わった。


 世界が、呼吸を止めた。


 


 次の瞬間――あたり一面が、爆ぜた。


 


 音もなく。風もなく。ただ、光だけが。


 王の香を帯びた炎が、悪鬼の軍勢を一掃する。


 


 爆風。


 氷と闇が溶け、地を焼くほどの火柱が、幾重にも走った。


 


 無音の後の、轟音。


 


 楼蘭は目を覆った。


 だがそれでも、焼かれるような熱と匂いが全身を覆っていた。


 


「……馬鹿だろ、

 なんで――あの火の中に立てるんだよ」


 


 地鳴りが響く。空が軋む。


 だが志貴は、何ひとつ制御していなかった。


 ただ、“燃える”と命じただけ。


 それだけで、この空間全てが応えた。


 


 その中心に立つ志貴の影が、かすかに揺れていた。


 


 蟻のようにわいてくる悪鬼のざわめきが、空気をかき乱していた。


 


 香のないこの層で、“喰う”という本能だけが、漂っていた。


 


 だが――そこにひとつだけ、確かな“におい”があった。


 


 志貴の血がもつ香。


 魂の芯に眠っていた“王”の記憶が、吹き上がっている。


 


 千鳥十字槍――布都御魂の穂先が、わずかに唸った。


 


「……苦しいんやな」


 


 志貴の呟きは、風にすら乗らない。


 けれど、悪鬼の群れがぴたりと動きを止めた。


 


「喰いたくて、そうなったんやない。……わかるで」


 


 彼らのなかに宿る、泣き声のような“名残”が、聞こえる気がした。


 


「でも、もうやめとき……」


 


 穂先を、前へ。


 赤く光った槍が、雪の地を踏み鳴らす。


 


「もう、楽になってええ」


 


 次の瞬間。


 志貴の身体が、香の奔流をまとって動いた。


 


 白と紅。


 冷たい雪と、血のような光。


 


 それは“刃”の動きでありながら、まるで祈りのような所作だった。



 


 穂先が滑るたび、空気が裂ける。


 刃の音すら響かないこの場所で――


 その動きだけが、確かに“命”の証だった。


 


 悪鬼の一体が、ふっと散った。


 香もなく、血もなく、ただ空へ帰るように。


 


 志貴が刃を振るうたびに、瞳を伏せていた。


 斬ることが正しいのか、未だわからないまま。


 


 けれど、逃げなかった。


 


「痛いなら、叫んだらええ」

「苦しいなら、訴えてええ」

「わたしが、聞くから」


 


 言葉と香のあいだにあるもの。


 “魂の名残”をすくいあげるように、志貴は刃をふるった。


 


 傷だらけの身。穢れに蝕まれはじめた魂。


 火力が大きすぎる。魂が、ついてこられない。


 


「ダメだ!」


 


 楼蘭が駆けた。


 砂を蹴り、風を割き、志貴のもとへ。


 


「おい、止めろ! これ以上やったら、君が……!」


 


 だが志貴は、振り返らなかった。


 


 ふっと微笑んで、火のなかに立っていた。


 守れるなら、それでいいとでも言うように。


 


 裂けた右肩には、王の痣が灯っていた。


 見たこともない紅の痣。


 


 白い肌に、紅の花が咲いた。蔦のような痕が、右頬から指先にまで絡みつく。


 


 紅の焔に包まれながら、


 志貴は確かに――“王”の名を、刃に刻んだ。


 


 その刃が通った地には、雪すら、もう積もらなかった。


 


 ――雪が、焼けていた。

 赤く、名残の香だけを残して。


 


 白かったはずの地表が、煤けて、ひび割れ、赤く染まっていた。


 


 空も大地も、焔の名残を映している。


 まるで、志貴の放った“火”が、この世界の座標そのものをずらしたかのようだった。


 


 楼蘭は、立ち尽くしていた。


 言葉が、出なかった。


 


 焦げた雪の匂い。焼け残った骨。灼けた風の味。


 


 それらすべてが――宗像志貴という火の記憶になっていた。


 


(……これを、“王”と呼べってか……)


 


 問いかけは、魂の奥で疼いた。


 楼蘭の喉が鳴る。


 


 ついさっきまで、どんくさくて、斬られ役にしか見えなかった少女。


 


 だがいま、あの子は――楼蘭という存在を守るために、世界を焼いていた。


 


(宗像は、こんな奴を“隠しもつ”のか……)


 


 楼蘭の首筋を冷や汗がすべりおちた。


 


(でも、何かが……おかしい)


 


 志貴の戦い方には、何かが“欠けていた”。


 


「そうか、……“守り”がないのか」


 


 矛盾。


 攻撃は届くのに、なぜか防御の術は一切ない。


 


(ノーガード? いや――違う)


(“知らない”んだ。どう守るのかを――たぶん、誰にも教えられずに、ここまできた)


(宗像は、あれを“壊さないように”守ってきたのか……)


 


 強すぎるがゆえに、防御を必要としなかった。


 あまりにも偏った“才能”。


 


 だが、楼蘭が本当に息を呑んだのは――そこではなかった。


 


(……穢れに、弱い)


 


 香が一瞬、濁った。


 そのとき、志貴の魂が“ひりついた”。


 


 ほんのわずかだったが、確かに魂が揺らいだ。


 


(危うい。……脆い)


(あの力は、バランスを欠いている)


 


 けれど、その矛盾こそに、楼蘭は戦慄する。


 


 同じ千年王。


 だが、これはもう“同格”ではない。


 


(あれは……紅や)


 


 紅の千年王。


 宗像の“中心”に眠る、桁違いの存在。


 


(宗像は、あえてあれを“軌道修正”しなかったのか)


(なんてやり方だ……)


 


 寒気が背を這う。


 楼蘭の手が、かすかに震えていた。


 


 一番、不向きな人間に、一番やばいものを――天が与えた。


 そのアンバランスを、“普通”に包んで育てた宗像。


 


 本能が囁く。


 「敵にしてはいけない」

 「侵してはならない」


 


 それは理屈ではなく、魂の嗅覚が認めていた。



 


「それだけか?……ちがう」


 


 なぜか、志貴に初対面から嫌な感じがしなかった理由が、腑に落ちた。


 


(この子は……愛されて育ってきた)


 


 毒も、策略も、刷り込まれずに。


 素直であるよう、守られてきた。


 


 “守られた千年王”。


 それは、楼蘭にとって最も遠い存在だった。


 


(……俺とは、違いすぎる)


 


 笑いが、喉で詰まる。


 自嘲するように息を吐いた。


 


 けれど、志貴の立つ姿を見ているうちに――


 不思議と、温度が宿っていく。


 


 志貴がこちらを振り返った。


 傷だらけの身体。王の痣。未熟な刃。


 


 でもその目は――まっすぐ“生”を向いていた。


 


「――楼蘭、無事?」


 


 その言葉に、楼蘭の喉が詰まった。


 火を放った直後の第一声が、それだった。


 


(……なあ、神様)


(俺は、どうして……宗像に生まれなかったんだろう)


 


 心の底から、そう思った。


 


 誰かのために笑って。


 世界を焼いてまで、誰かを守れて。


 


 そんな王になれるなら、すべてをやり直してもいいと思った。


 


 ――宗像に、生まれたかった。


 


 その声は、出なかった。


 けれど魂が、静かにそう呟いていた。


 


 かつて、泰介に救われた幼い日。


 


 誰もよせつけず、ハリネズミのようだった楼蘭に泰介が言っていた。


 


「志貴と楼蘭は、同じで、違う。

 たぶん、これが一番わかる表現かな?

 逢えばわかる。

 気にいるよ、きっと。

 君達は、友達になれる」


 


「たしかに」


 


 楼蘭は笑った。


 苦いような、あたたかいような、そんな笑みだった。


 


 涙が出た。


 火の熱で乾く前に、もう一滴、零れた。


 


 でもそれは、痛みじゃなかった。


 


 この子の香が、自分を赦した。


 この子の火が、自分の魂を溶かした。


 


 この子を、裏切れない。


 この子となら、戦える。


 この子となら、生きていたい。


 


 ……だから。


 


「次は、俺の番だ」


 


 楼蘭は、剣も力も持っていない。


 


 いや、持っていても、いまはもう動けない。


 


 ――志貴の闘いを見て、魂が反応していた。


 


 その強さに、“信頼”が芽生えていた。


 


 楼蘭は、ふらりと歩み寄った。


 


 その足取りはふらついていた。


 もはや戦える状態ではない。


 


 


 黄泉の底で、魂と魂が、契った。


 


 言葉ではなく。契約でもなく。


 ただ、火と香の記憶だけが、ふたりを結んだ。


 


 それが、いつかこの世界を変えると知るのは、まだ先の話。


 


 


 けれどたしかに、いま――


 


 志貴と楼蘭は、“王と王”として、出逢っていた。


 


 ――いずれ、世界を裁く二柱として。


 


 



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