第14話 香を喰らふ 黄泉にて交ふ 二つの王(前編)
――魂が、夢を見ていた。
白く、深く、香のない闇を、ただ落ちていく途中で。
ふと、ひとすじのぬくもりが、志貴の頬を撫でた。
湿り気を帯びた土の匂い。雨あがりの苔の吐息。熾火のくゆる煙の尾。
けれどそれは、記憶でもなく、現でもない。
魂が、魂として感じた――最奥の風。
(……嗅いだことがある)
まどろみのなか、やわらかな毛並みがそっと頬をかすめた。
ふかふかとした白い子狼が、胸元に寄り添っている。
ぬくもりがある。呼吸がある。鼓動が、ゆっくりと伝わってくる。
(……あったかい……)
志貴の表情が、かすかにほどけた。
ふるえる指先が、その毛並みに触れようと伸びる。
「……一心……」
その名を、夢が知っていた。魂が、忘れていなかった。
そのぬくもりを抱きしめようとした、ほんの一瞬。
――風が、止まった。
すとん、と、音もなく地が抜ける。
香が、ふっと、消える。
子狼の姿が、ひかりの粒になって、ほどけていく。
視界がざわりと崩れ、黒が雪崩れこむように満ちていった。
世界が、落ちた。
――冷たい。ひどく、ひどく、冷たい。
――“魂の夢”が、終わった。
*
目をひらいたとき、そこにあったのは、夢ではなかった。
石の壁。裂けた大地。雪と灰の混ざる空気。
冷気が肌を刺し、肺にまで氷の棘が突き刺さる。
まつげに霜が降りた音が、ぴき、と、はっきり聞こえた。
「……ここ……は……?」
喉が、凍った砂利を飲み込むように痛む。
息は白く、唇の皮は裂け、血の味すらしない。
肩をすくめ、腰をかかえるようにして、ぎこちなく立ち上がる。
関節が、凍てついてばらばらになったように痛む。
(……また、来てしもたんや……黄泉に)
崖の底。香のない、世界の断絶。
それでも志貴は、息を吐いた。肩で笑う。
「……あかん、これ、体感マイナス百度やろ。寒いん通り越して、まもなく終了のお知らせやん……」
吐息が氷の音を立てる。小さく、かすれた笑いが喉の奥で溶けた。
「……はは……志貴、アホやな……保健室なんか行かんかったら、こんなとこ来ずに済んだんちがいます?……」
風も返事をしない。
崖の谷間、香を奪い、魂を喰らう――黄泉の層。
(……ここでは、“名”が喰われる)
(“志貴”を忘れたら、それで終いや)
志貴は、唇を割れるほどに噛みしめた。
震える手を見下ろし、ゆっくりと息を吸い込む。
膝をつき、両手で岩を支える。
喉が詰まり、声はかすれたが、それでも叫ぶ。
「――わたしは、“名”を持って堕ちたんや! 宗像志貴や!!」
岩壁が鳴った。雪がふるりと震える。
……返事はない。けれど、この名は確かに、この地に刻まれた。
(……奪わせへん。“志貴”も、“あの香”も)
だが、その決意を裂くように――
“においのなさ”が、迫ってきた。
(……来た)
(悪鬼や)
風が細かく震える。
香も音も色も持たない“空白”が、皮膚の裏を撫でてくる。
志貴は、ごくりと唾をのんだ。
「……丸腰や。仮面も、香も、矛も、なんもない」
声が笑いかけて震える。
「魂の皮一枚で、黄泉のど真ん中とか……ほんま、舐めてんな。でもな――」
ぐっと胸に手をあてる。
ふるえる指を握りしめ、自分の心臓を確かめた。
「ひとつだけある。“帰る場所の香”」
「“狼”がおらんでも、香がなくても、わたしは志貴や」
「魂は、忘れてへん。大丈夫や」
目を細め、肩を落とす。
だがその瞳には、ゆらがぬ火が宿っていた。
「絶対、喰わせへん。誰にも、何にも」
「魂、裸でも、二回目やらせてもろてます!」
「――舐めんなよ、黄泉……!」
名をつぶやいた、その瞬間。
足元の雪が、ふるり、と、揺れた。
香の名に、黄泉の底が応えた。
ざわめきが生まれ、魂が、その名を守った。
志貴は、凍てつく空間で、足を踏みしめる。
「……一心、聞こえてるやろ。わたし、帰るで。……“この香”が、一心の場所やろ?」
――絶対に、あのぬくもりの場所へ。
魂が名を叫び、黄泉がざわめく。
帰るべき香はまだ遠く――獣のいない世界で、志貴はひとり、立っていた。
***
踏み出した雪の下で、骨が軋んだ。
その微音さえ、黄泉の沈黙が吸い込んでいった。
志貴は、唇をきつく噛みながら、薄氷を踏みしめて歩を進めた。
裂けた白の地層。その先にあるのは、色をなくした空。
音のない風。触れた皮膚から“生”だけを奪うような冷気。
この黄泉の階層では、息をしても、吐いた白ささえ映らない。
――それでも、確かに“何か”が近づいてきていた。
悪鬼ではない。
風の渦でもない。
もっと、人に似た“輪郭”。
志貴は、凍りついた袖の雪を払うように、低く呟いた。
「……来るなら来い。わたしは、“志”を抱いて、ここに立ってるんやから!」
声は、霞のように散った。
それでも、鼓膜ではなく、“魂”の耳に届くように、言葉を置いた。
と――
“気配”が、影を連れて姿を結んだ。
「……誰?」
その声は、風にすら触れず、静かに溶けていった。
けれど、その響きに、志貴の背筋がひたりと震えた。
そこにいたのは――
志貴と同じ背格好、けれど性別すら曖昧な、どこか“描かれた”ような存在。
黒地に紅の龍を織り込んだ中華風の羽織。
紅玉のように巻かれた髪が、風に触れて、ふわりと揺れた。
まつげの奥、澄んだアメジストの瞳がまっすぐ志貴を捉えていた。
(……人?)
無意識に、一歩、足が引いた。
だがその瞬間――
香が、ふっと鼻腔を撫でた。
(……香?)
この死の階で、香など――あるはずがない。
なのに、確かにそれは“人の香”だった。
「……人間?」
問う声は、震えていた。が、視線は逸らさなかった。
相手もまた、まばたきもせず、志貴を見返していた。
「生きてるよ。君も生きてる?違うなら……今、斬るけど?」
「物騒な挨拶やな……」
志貴は、かすかに口元をゆるめた。
張りつめていた沈黙に、微かな温度が射す。
雪がひとつ、地に触れて、ほとんど聞こえない音を立てた。
「あんた、日本人?」
「君は、中国人?」
「……京都生まれやし。れっきとした日本人や」
「こっちは正真正銘の中国人。……ん?まてよ。なんで……言葉、通じるんだ?」
「そっちこそ。……なんでこんな自然に喋れてんの」
ふたりは無意識に、同時に空を見上げた。
灰色の天井は、変わらず無音だったが――
たしかに今、魂の波長だけが、かすかに交わった。
(……道反の宗像)
(……泰山の鴈)
名乗らずとも、どこかで“血”が互いを識っていた。
ふたりの視線が、沈黙のまま、重なった。
しばしの沈黙ののち、志貴が名を口にした。
「宗像志貴や」
「鴈楼蘭。……先に言っとくけど、“男”だから、一応」
「……は?」
まばたきが追いつかない。
志貴の目が泳ぎ、顔が赤らむのを、自分でも制御できなかった。
楼蘭は、微笑した。
それは慣れた反応に対するもの――けれど、どこか仮面じみていた。
「慣れてるんだ、そういう反応。君が普通だよ」
その笑みに滲んだ“孤独”に、志貴の胸が、なぜかちくりと痛んだ。
「ほんまに、人……なんやな?」
この温度が幻じゃないと、どこかで確かめたかった。
「もちろん。……君も、だろ?」
「……まあ……せやな。たぶん、まだ」
志貴はようやく、背から力を抜いた。
楼蘭もまた、静かに息を吐いた。
「なんで、こんなとこにおるん?」
「冥府に喧嘩売った。で、落とされた。君は?」
「保健室、行っただけや」
「……はは、それはすごい。物語にするには最高の導入だね」
「宗像では、それが日常茶飯事なんや。運命の歯車、どこで噛んでくるかわからへん」
楼蘭が声をあげて笑う。その音が、黄泉にさざ波を立てたように聞こえた。
「君の香から察するに――王族。中央の、それも核だろ?」
志貴の眉が、ぴくりと動いた。
「……よう知っとるな。あんたこそ、ずいぶん余裕あるやんか」
「慣れてるだけ。……ここ、もう長いから」
その一言に、志貴の睫毛がわずかに伏せた。
黄泉で“長い”という時間。それが、どれほどの重みかを、志貴も知っていた。
「……あんた、“王”なん?」
それは、相手への問いであり、自分への応答でもあった。
「君も、そうなんだろ?」
志貴は、ゆっくりと、うなずいた。
瞳を伏せ、雪に沈むように吐息を落とす。
「……名前、名乗るってことは、帰る気あるってことやな」
「当然だよ。やられたらやり返す主義なんでね。僕のことは楼蘭って呼んで」
「わたしは志貴でええよ。さて、楼蘭、どうする?囲まれてるよ、たぶん。……帰るまでが、王やろ?」
そう言って笑った志貴の表情に、ようやく“ぬくもり”が宿った。
その笑みに応えるように、楼蘭の目元がやわらかくほころんだ。
「……いいね、それ。気に入ったよ」
黄泉の底で、“名前”という灯火が、ふたりを結んだ。
言葉でも、香でもなく。
魂の温度だけで、ふたりは確かに出逢った。
空から、雪がひとひら落ちる。ふたりのあいだ、静かに吸いこまれるように。
瞳が、静かに交わった。音もなく、それだけが、確かな合図のように。
“はじめまして”というひとことが、ふたりの魂に、そっと滲んでいく。
それが、たとえ刹那の邂逅だったとしても――いつか、魂の奥で再び呼び合う日が来る。
その予感だけが、たしかに残っていた。