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第14話 香を喰らふ 黄泉にて交ふ 二つの王(前編)


――魂が、夢を見ていた。


白く、深く、香のない闇を、ただ落ちていく途中で。


ふと、ひとすじのぬくもりが、志貴の頬を撫でた。


 


湿り気を帯びた土の匂い。雨あがりの苔の吐息。熾火のくゆる煙の尾。


けれどそれは、記憶でもなく、現でもない。


魂が、魂として感じた――最奥の風。


 


(……嗅いだことがある)


 


まどろみのなか、やわらかな毛並みがそっと頬をかすめた。


ふかふかとした白い子狼が、胸元に寄り添っている。


ぬくもりがある。呼吸がある。鼓動が、ゆっくりと伝わってくる。


(……あったかい……)


 


志貴の表情が、かすかにほどけた。


ふるえる指先が、その毛並みに触れようと伸びる。


 


「……一心……」


 


その名を、夢が知っていた。魂が、忘れていなかった。


そのぬくもりを抱きしめようとした、ほんの一瞬。


 


――風が、止まった。


 


すとん、と、音もなく地が抜ける。


香が、ふっと、消える。


子狼の姿が、ひかりの粒になって、ほどけていく。


視界がざわりと崩れ、黒が雪崩れこむように満ちていった。


 


世界が、落ちた。


――冷たい。ひどく、ひどく、冷たい。


 


――“魂の夢”が、終わった。


 



 


目をひらいたとき、そこにあったのは、夢ではなかった。


 


石の壁。裂けた大地。雪と灰の混ざる空気。


冷気が肌を刺し、肺にまで氷の棘が突き刺さる。


 


まつげに霜が降りた音が、ぴき、と、はっきり聞こえた。


 


「……ここ……は……?」


 


喉が、凍った砂利を飲み込むように痛む。


息は白く、唇の皮は裂け、血の味すらしない。


 


肩をすくめ、腰をかかえるようにして、ぎこちなく立ち上がる。


関節が、凍てついてばらばらになったように痛む。


 


(……また、来てしもたんや……黄泉に)


 


崖の底。香のない、世界の断絶。


 


それでも志貴は、息を吐いた。肩で笑う。


 


「……あかん、これ、体感マイナス百度やろ。寒いん通り越して、まもなく終了のお知らせやん……」


 


吐息が氷の音を立てる。小さく、かすれた笑いが喉の奥で溶けた。


 


「……はは……志貴、アホやな……保健室なんか行かんかったら、こんなとこ来ずに済んだんちがいます?……」


 


風も返事をしない。


崖の谷間、香を奪い、魂を喰らう――黄泉の層。


 


(……ここでは、“名”が喰われる)


(“志貴”を忘れたら、それで終いや)


 


志貴は、唇を割れるほどに噛みしめた。


震える手を見下ろし、ゆっくりと息を吸い込む。


 


膝をつき、両手で岩を支える。


喉が詰まり、声はかすれたが、それでも叫ぶ。


 


「――わたしは、“名”を持って堕ちたんや! 宗像志貴や!!」


 


岩壁が鳴った。雪がふるりと震える。


……返事はない。けれど、この名は確かに、この地に刻まれた。


 


(……奪わせへん。“志貴”も、“あの香”も)


 


だが、その決意を裂くように――


“においのなさ”が、迫ってきた。


 


(……来た)


(悪鬼や)


 


風が細かく震える。


香も音も色も持たない“空白”が、皮膚の裏を撫でてくる。


 


志貴は、ごくりと唾をのんだ。


 


「……丸腰や。仮面も、香も、矛も、なんもない」


 


声が笑いかけて震える。


 


「魂の皮一枚で、黄泉のど真ん中とか……ほんま、舐めてんな。でもな――」


 


ぐっと胸に手をあてる。


ふるえる指を握りしめ、自分の心臓を確かめた。


 


「ひとつだけある。“帰る場所の香”」


 


「“狼”がおらんでも、香がなくても、わたしは志貴や」


「魂は、忘れてへん。大丈夫や」


 


目を細め、肩を落とす。


だがその瞳には、ゆらがぬ火が宿っていた。


 


「絶対、喰わせへん。誰にも、何にも」


「魂、裸でも、二回目やらせてもろてます!」


「――舐めんなよ、黄泉……!」


 


名をつぶやいた、その瞬間。


足元の雪が、ふるり、と、揺れた。


 


香の名に、黄泉の底が応えた。


ざわめきが生まれ、魂が、その名を守った。


 


志貴は、凍てつく空間で、足を踏みしめる。


 


「……一心、聞こえてるやろ。わたし、帰るで。……“この香”が、一心の場所やろ?」


 


――絶対に、あのぬくもりの場所へ。


 


魂が名を叫び、黄泉がざわめく。

帰るべき香はまだ遠く――獣のいない世界で、志貴はひとり、立っていた。






***





踏み出した雪の下で、骨が軋んだ。


その微音さえ、黄泉の沈黙が吸い込んでいった。




志貴は、唇をきつく噛みながら、薄氷を踏みしめて歩を進めた。


 


裂けた白の地層。その先にあるのは、色をなくした空。


音のない風。触れた皮膚から“生”だけを奪うような冷気。


 


この黄泉の階層では、息をしても、吐いた白ささえ映らない。


――それでも、確かに“何か”が近づいてきていた。


 


悪鬼ではない。


風の渦でもない。


もっと、人に似た“輪郭”。


 


志貴は、凍りついた袖の雪を払うように、低く呟いた。


 

「……来るなら来い。わたしは、“志”を抱いて、ここに立ってるんやから!」



 


声は、霞のように散った。


それでも、鼓膜ではなく、“魂”の耳に届くように、言葉を置いた。


 


と――


“気配”が、影を連れて姿を結んだ。


 


「……誰?」


 


その声は、風にすら触れず、静かに溶けていった。


けれど、その響きに、志貴の背筋がひたりと震えた。


 


そこにいたのは――


志貴と同じ背格好、けれど性別すら曖昧な、どこか“描かれた”ような存在。


 


黒地に紅の龍を織り込んだ中華風の羽織。


紅玉のように巻かれた髪が、風に触れて、ふわりと揺れた。



まつげの奥、澄んだアメジストの瞳がまっすぐ志貴を捉えていた。


 


(……人?)


 


無意識に、一歩、足が引いた。


だがその瞬間――


香が、ふっと鼻腔を撫でた。


 


(……香?)


 


この死の階で、香など――あるはずがない。


なのに、確かにそれは“人の香”だった。


 


「……人間?」


 


問う声は、震えていた。が、視線は逸らさなかった。


相手もまた、まばたきもせず、志貴を見返していた。


 


「生きてるよ。君も生きてる?違うなら……今、斬るけど?」


 


「物騒な挨拶やな……」


 


志貴は、かすかに口元をゆるめた。


張りつめていた沈黙に、微かな温度が射す。



雪がひとつ、地に触れて、ほとんど聞こえない音を立てた。




「あんた、日本人?」


「君は、中国人?」


「……京都生まれやし。れっきとした日本人や」


「こっちは正真正銘の中国人。……ん?まてよ。なんで……言葉、通じるんだ?」


 


「そっちこそ。……なんでこんな自然に喋れてんの」


 


ふたりは無意識に、同時に空を見上げた。


灰色の天井は、変わらず無音だったが――


たしかに今、魂の波長だけが、かすかに交わった。


 


(……道反ちがえしの宗像)


(……泰山たいざんの鴈)


 


名乗らずとも、どこかで“血”が互いを識っていた。



ふたりの視線が、沈黙のまま、重なった。



しばしの沈黙ののち、志貴が名を口にした。


 


「宗像志貴や」


 


「鴈楼蘭。……先に言っとくけど、“男”だから、一応」


 


「……は?」


 


まばたきが追いつかない。


志貴の目が泳ぎ、顔が赤らむのを、自分でも制御できなかった。


 


楼蘭は、微笑した。


それは慣れた反応に対するもの――けれど、どこか仮面じみていた。


 


「慣れてるんだ、そういう反応。君が普通だよ」


 


その笑みに滲んだ“孤独”に、志貴の胸が、なぜかちくりと痛んだ。


 


「ほんまに、人……なんやな?」


この温度が幻じゃないと、どこかで確かめたかった。




「もちろん。……君も、だろ?」


 


「……まあ……せやな。たぶん、まだ」


 


志貴はようやく、背から力を抜いた。


楼蘭もまた、静かに息を吐いた。


 


「なんで、こんなとこにおるん?」


 


「冥府に喧嘩売った。で、落とされた。君は?」


 


「保健室、行っただけや」


 


「……はは、それはすごい。物語にするには最高の導入だね」


 


「宗像では、それが日常茶飯事なんや。運命の歯車、どこで噛んでくるかわからへん」


 


楼蘭が声をあげて笑う。その音が、黄泉にさざ波を立てたように聞こえた。


 


「君の香から察するに――王族。中央の、それも核だろ?」


 


志貴の眉が、ぴくりと動いた。


 


「……よう知っとるな。あんたこそ、ずいぶん余裕あるやんか」


 


「慣れてるだけ。……ここ、もう長いから」


 


その一言に、志貴の睫毛がわずかに伏せた。


黄泉で“長い”という時間。それが、どれほどの重みかを、志貴も知っていた。


 


「……あんた、“王”なん?」


 


それは、相手への問いであり、自分への応答でもあった。


 


「君も、そうなんだろ?」


 


志貴は、ゆっくりと、うなずいた。


瞳を伏せ、雪に沈むように吐息を落とす。


 


「……名前、名乗るってことは、帰る気あるってことやな」


 


「当然だよ。やられたらやり返す主義なんでね。僕のことは楼蘭って呼んで」


 


「わたしは志貴でええよ。さて、楼蘭、どうする?囲まれてるよ、たぶん。……帰るまでが、王やろ?」


 


そう言って笑った志貴の表情に、ようやく“ぬくもり”が宿った。


 


その笑みに応えるように、楼蘭の目元がやわらかくほころんだ。


 


「……いいね、それ。気に入ったよ」


 


黄泉の底で、“名前”という灯火が、ふたりを結んだ。


言葉でも、香でもなく。


魂の温度だけで、ふたりは確かに出逢った。


空から、雪がひとひら落ちる。ふたりのあいだ、静かに吸いこまれるように。



瞳が、静かに交わった。音もなく、それだけが、確かな合図のように。


“はじめまして”というひとことが、ふたりの魂に、そっと滲んでいく。




それが、たとえ刹那の邂逅だったとしても――いつか、魂の奥で再び呼び合う日が来る。


その予感だけが、たしかに残っていた。


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