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第13話 誰がために 名を喚びしや 香の底


――まどろみの中に、香りが差した。


 


湿り気を帯びた土の匂い。雨あがりの苔の吐息。残り火が、静かにくゆるような香。


懐かしいのに、どこか怖い。


けれど、確かに――“あの人”の気配が、そこにいた。


 


志貴は、ゆるやかに目をひらいた。


天井はなかった。木々の枝。こぼれる光。


頬を撫でたのは、風ではなく、誰かの手のぬくもり。


 


「……ここ、どこ」


 


声が、かすれていた。


隣に、ふかふかとした毛並み。


子狼だった。ちいさく、息をたしかにしていた。


 


「……可愛い……」


 


そっと触れた。あたたかかった。


それだけで、胸がじんとする。


 


「……一心……」


 


泉。血。香。狼。


記憶が、ゆるやかに魂の底から立ちのぼる。


抱きついた、自分の手の感触が、まだ残っていた。


 


(――でも、なんで……)


 


眠い。重たい。


けれど、確かに思い出した。


あの夜は、十日前に交わされた“約束の夜”だった。


 


(忘れとった……)


(あたし、あんなにも、願ってたのに)


 


「……あかん!」


 


跳ね起きた身体に、布団が滑る。


その瞬間――ふすまの音がした。


 


「お、起きたか。志貴」


 


黒羽織をふわりと揺らして、そこにいたのは一心だった。


少し湿った眼差しで、真っ直ぐに見下ろしてくる。


 


「……おはよう」


 


「目ぇ覚ました記念に、一発な。……忘れとった罰や」


 


その笑みに、ぞくっとする。


優しさと皮肉のあわい。仮面が剥がれ、素の狼が覗いた気がした。


 


「……え?」


 


「お前、忘れてたやろ。俺の伝言。十日後に来るってやつ」


 


「なんで……わかったん……」


 


「見てたら、わかるやろ」


 


一心は、やわらかく笑った。


 


「それより……痛覚ないんか? デコピン、決まったで。赤いわ、おでこ」


 


「なっ!」


 


志貴は、おでこを押さえた。


あたたかくて、くやしかった。


額に残るそのぬくもりが、どうか、ずっと消えなければいいと――そう思った。


 


「……志貴、悪いけど、予定変更や。……お前、出雲行きな」


 


その一言だけを残して、一心は背を向けた。


 


「ちょ、ちょっと待って!」


 


志貴は、あわてて布団をはねる。けれど、足元が崩れた。


 


「……ぐっ」


 


布団の匂いが、懐かしいのに、遠い。


 


「アホかお前、まだ早い。ねとき」


 


一心の手が肩を掴み、そっと押し戻された。


 


「……だって……!」


 


言い訳を探す志貴に、一心はふっと目を細める。


 


「用事、邪魔せんとって」


 


「どこ行くん……?」


 


「……内緒や。着替えるから、バイバイな」


 


ふり返った一心の背後には、私服姿の冬馬。


 


「伝言、忘れてた罪や。留守番決定。出立準備、整うまでな」


 


「そんなの、聞いてない……!」


 


「湯豆腐、食いたなってん」


 


その言葉に、息が詰まった。


 


――そんな理由で来る人じゃない。


志貴は、わかっていた。


彼が何かを、隠していることだけは。


 


「これから冬馬と湯豆腐。今の志貴は、よう食わんやろ」


 


「……っ」


 


踵を返す背に、志貴は言葉を飲んだ。


掴みかけた手を、指先だけで止める。


ほんとうに、忘れていたのだ。


冬馬の言葉――「十日後に、一心、来るで」


 


――なのに。


 


「……最低や……」


志貴は、まだ温もりの残る布団の中で、小さく震えた指を唇に寄せた。


(……でも、一心は、責めんかった。あたしのこと、責めんかった)




――だからこそ、苦しかった。あの夜の約束も、傷も、香りも、私だけのものになっていく。


誰も責めず、誰も止めず――ただ私だけが、置いていかれる。


 


湯豆腐なんて、やっぱりどう考えてもありえない。


そう思った。けれど――


(……湯豆腐なんて、仮面や)



一心は、優しさという仮面で、自分を檻にしている。

それは、わたしを守るため――わたしを、閉じ込めるため。


だから、一層、苦しくなる。


 


「やっぱり行くやろ……一心おって、ついていかんとか、なしや……」


 


ようやく身支度を終えた志貴は、ふらつく足を引きずりながら、廊下へと出た。


中庭の向こう。一心、冬馬、そして咲貴の姿が見える。


 


「……咲貴……?」


 


声は届かなかった。


代わりに、風にのって、彼らの会話が耳を打つ。



 


「――だから言いました。私が言う方がマシだったから」


 


咲貴の声だった。尖っているのに、どこか震えていた。


 


「他の誰かに言わせるくらいなら、私が。志貴に言い返されることを信じて、あえてです」


 


「志貴は、わかってる」


 


一心の声が、低く、芯をもって響く。


 


「君が、志貴の“王”の誇りを信じた上で、心無い言葉を投げたってことは……よう、わかってるんと違うか?」


 


沈黙。咲貴は視線を伏せたまま、何も言わない。


 


「他の阿保が煽るよりは、百倍マシやったけどな」


 


冬馬が軽く口を挟む。空気がすこし緩む。


 


「でも、もしほんまに“こっち側”に立つつもりやったら、証明してもらおか」


 


冬馬の声が、ふいに硬くなる。


 


「冬馬の言うとおりや。そやな、狐派が多数の津島で、“アレ”を監視せぇ。できるの、君しかおらへん。ーー君は志貴の妹なんやろ?」


 


「……それって」


 


「それで、もし嘘が炙り出されたら、君が“咎人”。それ相応の措置をとる。それだけや」


 


一心は、穏やかに、けれどおそろしく冷たく笑った。


 


咲貴の吐息が、ふと、こぼれる。


 


「私は、宗像に敵対する気はない。ただ……津島は、数で宗像の四倍。押さえ込むには、こちらにも覚悟がいるのよ」


 


「覚悟はこっちも同じや」


 


一心の声音が、すうっと沈む。


 


「宗像に唾吐いといて、“なかったこと”に? ……ないやろ。甘いな、咲貴。ーー津島には、“誠意”見せてもらわな」


 


あまりの鋭さに、冬馬がまた割って入る。


 


「今回のことは、咲貴から事前に聞いてたんや。俺は……もう、許したってと思ってる」


 


「へぇ。穂積もグルかいな」


 


一心が、からかうように細めた目で、冬馬を睨む。


 


「グルやったら、本家に根回しなんかせんわ。津島との仲介なんて、俺には損しかないやろ」


 


吐き捨てるように言い切った冬馬の頭に、ぽん、と手が置かれる。


 


「次はないで。血が近うても、お前は“津島”の子や。……忘れんな」


 


その言葉に、咲貴がふっと顔を上げた。


 


「狐を止められるのは、私しかいない。だから――やる。妹としても、津島の者としても」


 


そう言って、咲貴はすっと背を伸ばし、ふすまを開けた。


 


(――あ)


 


視線がぶつかる。

ぽんと肩をたたかれた。


咲貴はひと呼吸おいて、ただそれだけを置いて通り過ぎた。


その髪の揺れが、自分と同じだと思った。


――私たちは、血で結ばれている。王と、その妹として。



 


志貴は、その場に立ち尽くしていた。


すると、背後から声が届いた。


 


「どないした? 湯豆腐、いきたいんか?」


 


一心だった。先ほどの冷徹さに蓋をするような、いつもの調子で。


 


「……行きたい、かもしれへん」


 


「しゃーなしやな」


 


そう言って、ふたりの背中が並ぶ。


冬馬は、何も言わず歩き出した。けれどその横顔は深く曇り、何かをずっと考えているようだった。


 


「……一心」


 


「覚えとけ。宗像はな、“ひいたら負け”や」


 


その言葉に、志貴は小さく頷いた。


 


「言うとくけどな、公介さんはもっとえぐいからな?」


 


冬馬がぼそりとつぶやく。


 


「この人、まだ穏健派や。……公介さんの“贈り物”、明日には津島に届くやろ。死にたくなるくらい、笑えるで」


 


その言葉に、一心が、からからと笑った。


けれど――志貴には、それが冗談には聞こえなかった。


 


 


湯豆腐は、出汁の染みた老舗の味。

美食家が唸る逸品。なのに、どれだけ口に運んでも――味が、しなかった。


香りも、ぬくもりも、なにひとつ、心に届かない。



遠ざかるように笑う一心の横顔に、どこか――

濡れた毛並みの、狼の気配が見えた気がした。


 


そうだ。


後継にあんな言葉を浴びせられて、宗像の大人たちが黙っているはずがない。


気づくべきだった。


それを忘れていたのは、自分だ。


 


箸を止めた指先に、罪悪感だけがまとわりついていた。


 


宗像は、やられたら返す。


それが息づかい。優しさでも、矜持でも、牙でも――構わない。


ただ、それが、“宗像”という名の呼吸。


 


忘れようとしても、身体が覚えている。


そう、教えられてきた。


“王”である前に――宗像の娘であると。





***

 


――その夜、志貴は夢を見なかった。


香りも色もなく、ただ白い。


風もなければ、音もない。


寝返りすら打たぬまま、朝が来た。


 


 


空は、絹のように晴れていた。


校門を抜ける足元には、陽の光がすべっていた。


 


けれど、胸の奥はざらついていた。






ーー誰も、“行ってきます"すら言わんと、置いていくんや。






早朝に一心と冬馬は出ていった。

時生に学校行ってみたらと言われて今がある。





「落ち着かない……」





ふとした拍子に、誰かの視線を感じたような――それでいて、誰の気配もしなかったような。


 


(……ほんまに、日常に戻ったんやろか)


 


昨日の咲貴との会話、一心の沈黙。


湯豆腐の味が、どうしても思い出せなかった。


 


教室の扉を開けても、誰の顔もぼやけて見える。



 


志貴は、肩からカーディガンをかけたまま、机に突っ伏した。


出雲行きの準備の合間ーー体調不良という名の、仮面をかぶった。


出雲へ向かうための、長い休みに入る前の口実だった。


 

教室でのざわめきは、遠く、白く、にごっていた。


香が、薄い。

一心の香が――ここには、ない。


 


(……ここ、きらいや)


 


志貴は、制服の袖を握りしめた。

どこにも、あの人の香がなかった。


日常のざわめきも、同級生の声も、皆、無臭だった。

教室という空間が、ただの音と光の器に思えた。


 


感じるのは、ただ――どこかで、あの香が“狙っている”という気配だけ。


 


狐。


志貴は、直感でそれを察知した。

望の香。

甘く、優しく、でも――どこか、濡れて冷たい。


心の奥を、やわらかく縛りつけてくるような香り。


 


(こんなとこ、おったら、やばい)


 


一心のいない場所。

香の届かない空間。

そこに現れるのは、“選ばせようとする者”だ。


志貴は、静かに立ち上がった。


(……あそこなら、まだ“来る”)


一心の香は届かへん。でも、せめて――“何かが来る場所”なら、見届けられる。


あの静けさは、きっと嵐の前や。だからこそ、そこで待つしかない。


わかっていた。


保健室は“狙われる側”が行く場所。



それでも、足がそちらへ向いていた。


喧騒を背に、志貴は、まるで“待つように”、保健室へと向かった。



 


保健室は、静かだった。

白いカーテンが窓辺で揺れ、淡く透ける光が床に落ちていた。

ベッドの上には、誰もいない。


 


扉を閉めた瞬間、空気が変わった。

気づけば――香が、なかった。


 


(……あれ?)


 


狐の香が、ない。

あの、甘く粘る匂いが――どこにも、ない。


 


それは、安心だった。

……はずなのに、不安が、皮膚の内側を撫でてくる。


 


(なんで……なんもないん?)


 


志貴は、そっとベッドに腰を下ろした。

制服の襟をゆるめ、胸元に風を通す。

けれど――


 


何も香らなかった。


 


狼の香も、

狐の香も――ない。


ただ、からっぽ。


まるで、この部屋だけが、“香”という記憶から抜け落ちているようだった。


 


無臭。





それは、無音よりも怖い。

“魂がここにはない”という、世界からの拒絶。


 


「……こわい」


 


思わず、呟いた。


けれど、その声すら、沈んで消えた。


まるで、空間そのものが声を呑み込んでしまうみたいに。


 


ベッドの下。

床板の隙間。

ほんのわずかに、影が滲んでいた。


 


(なんで……こんな)


 


ふと、足元から冷気が這い上がった。


志貴は立ち上がろうとした。

けれど、次の瞬間、身体がすとんと沈んだ。


足の裏が、音もなく、抜け落ちる。


 


「っ……!」


 


掴むものが、ない。

香も、気配も、どこにもない。


 


――その瞬間、ふいに蘇った。




あの冬の日。

公介に「修行や」と言われて、

十五分だけ落とされた、“底の記憶”。


 


白い息。

張り詰めた空気。

揺れる灯。

“それ”の底で見た、黒い湖のような何か。


 


あのときは、すぐに戻された。

一心の声が、すぐ上から、呼んでくれた。


 


けれど今は――


 


(……おらへん)


(どこにも、誰も……)


 


風がない。

音もない。

ただ、“底”だけが、開いていた。


 


視界が、じわじわと黒に染まっていく。

色も、音も、香りも――すべてが剥がれ落ちていく。


志貴の身体が、引き込まれるように沈んでいく。


 


「いや……っ」


(……来る。あの香が、いつか、きっと来る)




無香の底でさえ、信じていた――たとえ、魂が剥がれても。


誰にも届かない声で、そう叫んだ。

けれど――


音もなく、光もなく。

世界が、手を引くように遠ざかった。






堕ちた。


 




香のない場所へ。

音のない階へ。

誰の魂も届かない、黄泉の層へ――


 


……その一瞬、ほんのかすかに。


 


火と獣の匂いが、鼻の奥を掠めた。


それは、かつて聞いた“呼ぶ声”によく似ていた。


あたたかくて、懐かしくて――

魂が、ほんのすこしだけ、浮かび上がるように震えた。


香が消えても、魂がちぎれても、

名前だけは――消えない。


私は、名を待っていた。呼ばれるのを、ずっと。


それを呼べるのは、きっと“あの人”だけ。





(いっしん……)


 




名前すら言えないまま、志貴の意識は、黒へと溶けていった。


 


            


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