第13話 誰がために 名を喚びしや 香の底
――まどろみの底に、香が滲んだ。夢の皮膚をゆっくり溶かして、心臓の奥まで染みこんでくる。
湿りを含んだ土の匂いが、肺の奥へ静かに沈む。雨あがりの苔が、まだ冷えた息を吐いている。消えそこねた焔が、黒い芯を抱えたまま、細く、しぶとく燻っていた。
懐かしい。怖い。それでも、そのどちらにも飲まれない芯が一本あって、そこだけは迷わない。“あの人”の気配だと、身体が先に知る。
志貴は、ゆるやかに瞼をひらいた。
天井はなかった。枝と葉が幾重にも重なり合い、夜と朝のあいだの色で編まれた天蓋になっている。葉の隙間からこぼれた光が、淡い金の塵となって落ち、緑と影の間でふわりと揺れた。
頬を撫でていった温度は、風ではない。指のかたちを記憶している掌。その手だけが持つ、焔と血の匂いを含んだ熱。
「……ここ、どこ」
掠れた声が、森の湿り気に絡まって、小さくほどける。
すぐ隣で、丸い影がかすかに動いた。
子狼が眠っていた。両腕にすっぽり収まりそうな躯が、小さな呼吸に合わせて上下している。黒い毛並みの奥に、まだ名も付けられていない焔のような体温が潜んでいた。
志貴は指先でそっと額を撫でる。毛がふわりと開き、その下から、確かな命の熱が指へと滲んでくる。
「……可愛い」
零したひとことが、そのまま胸の奥に刺さった。
香りが重なり合う。
一心の匂い。焦げた鉄と焔、それから、喉の奥に残る果実の甘さ。泉の冷たい石畳。割れた皮膚から流れた血。崩れた体を支えた腕の力。耳元で落ちた声。呼ばれた名に、膝から力が抜けた感覚。
散らばっていた像が、魂の底からひと続きの線になって立ち上がる。泉の縁で一心に抱きとめられたことも、小さな狼の温かさに救われたことも、あの瞬間の温度までは手触りのように思い出せる。もし今ここで指を伸ばせば、その熱に触れられる気がした。けれど、それを信じようとすると胸がきしむ。夢ならどれほど楽かと一瞬でも思った途端、その甘さごと息が詰まった。
ほんとうに、今ここへ続いているのか。境目に薄い膜が張って、指を伸ばすたび、つるりと滑る。
丹田のあたりがすうっと冷えた。夢だと思った方が楽かもしれない。そう考えた途端、その逃げ道ごと喉が締めつけられる。夢にしてしまえば、あの腕も香りも、最初からどこにもなかったことになる。
「……あかん」
自分に向けた言葉が、先に出た。
跳ね起きた瞬間、枝葉の天蓋が硝子のようにひび割れ、そのまま音もなく砕け落ちる。
視界いっぱいに、見慣れた天井板が広がっていた。乾いた木目が、夜の残り火をどこにも映さず、ただ無表情に張り付いている。宗像本家の自室。畳の青が寝具の白を受け止め、薬草と線香の匂いがうっすらと籠もっていた。
泉の水音だけが、まだ耳の奥で遅れて鳴っている。
その残響を断ち切るみたいに、ふすまの向こうで気配が揺れた。
「お、起きたか。志貴」
黒羽織の裾がふわりと揺れ、一心が入ってくる。
灰銀の瞳が、いつもの淡々とした光でこちらを見下ろした。泉の夜の影は、一滴もない。石を投げ込んでも波紋を返さない水面みたいに、感情の色を沈めている。
「……おはよう」
喉がひりつき、掠れ声が自分のものに思えない。
「目ぇ覚ました記念にな」
一心の指が軽く弾かれた。
額に鋭い衝撃が走る。
「っ……いった……!」
「兄弟子様迎えもせんと倒れよった罰や。毎回、変わらず、ええ音するやないか」
口元だけに薄い笑みが浮かぶ。そのいつも通りの笑みが、かえって志貴の心をざわつかせる。昨夜と口にした途端、全部冗談にしてしまいそうな、危うい均衡がそこにあった。
それでも、志貴の舌は勝手に動いた。
「……昨日、その……泉で」
泉という音に触れた瞬間、一心の声がさらりと割り込む。
「志貴、悪いけど予定変更や」
刃先をすり替えるような、よく通る声だった。
「お前、出雲行き決定な」
泉の“い”の字も拾わない。
「待って。昨日、ほんまに――」
「昨日は倒れて、俺らが運んで、今ここ。それで足りる話やろ」
一心は淡々とした口調で、余白を切り落としていく。その目は、問いを差し込む隙そのものを許さない。
志貴は、言葉を噛み殺した。
夢だったかもしれない、なんて口にしたくない。けれど、それを一心にはっきり否定される方が、もっと怖い。どちらの逃げ道も欲しがる志貴の前で、その両方を与えもしないように、一心は立っていた。
「……出雲なんか、今すぐ行けるわけないやろ」
負け惜しみのように吐き出して、身体を起こそうとした途端、中身が抜けたみたいに力が入らない。背中が重く、布団の綿の匂いばかりがやけに鮮明だ。
「いきなり動けるわけないやろ」
一心の掌が、肩にそっと置かれた。言葉は乱暴なのに、触れ方は、割れ物に触れるより慎重で、指先の熱が遠慮なく優しさだけを押しつけてくる。
「お前は留守番。それが今の仕事や」
「どこ行くん……?」
泉の夜を問えない代わりに、別の場所を探すような声になる。
「用事。内緒や」
一心は短く答え、くるりと踵を返す。
「着替えるから、バイバイ。おとなしいしとき」
ひらりと手を振った一心の背の向こうに、私服姿の冬馬が一瞬のぞいた。目が合う前に、ふすまは静かに閉じられた。
音が途切れる。
志貴は、布団の端を指先でつまんだ。額に残るデコピンの熱だけが、泉と現実をかろうじて繋ぐ証のように思える。
天井板の木目が、じっとこちらを見返している気がした。何も言わず、何も肯定せず、ただここが現実だと告げる顔で。
一心は、あの夜について一言も触れない。問いを差し出すための台も、最初から片づけてしまっている。
きっと、守られている。その実感が、胸の片側で静かに灯る。
同じ温度で、別の感覚も沈んでいく。これは盾ではなく、鍵のようなもの。
優しさの形をした堅い腕が、外から敵を防ぐより先に、志貴自身をそっと囲い込んでいる。その腕の重みが、扉の錠のように胸の奥を静かに閉じていく。その窮屈な安堵がはっきりと形を持ったとき、泉の記憶はいっそう、現実から遠ざかって見えた。
***
ふすまの内側には、まだ深い呼吸の音があった。薬と疲れに沈められた志貴の眠りは重く、少しの物音では揺れない。
その部屋へ続く廊下の手前に、咲貴が立っていた。
まだ朝の薄い光が障子に張りつき、木目を白く浮かび上がらせている。冷気はやわらいでいるのに、屋敷の空気は夜の名残を抱いたままだ。咲貴は淡い蒼のショールをかき寄せ、指先で布の端を何度も撚っていた。幾度もここまで来て、引き返し、また戻ってきた痕跡が、その皺に刻まれている。
やがて、志貴の部屋のふすまが、音も立てずに開いた。
一心が姿を現す。黒羽織の裾に、禁域の冷たさがまだ影のようにまとわりついていた。眼差しは澄みすぎていて、徹夜明けのはずの濁りがどこにもない。
「……一心兄さん」
呼びかけは、ごく控えめだった。遠慮と甘えの両方を含んで、そのどちらにも寄り切らない。
「志貴は……どう?」
「寝とる」
一心は短く答え、肩越しに部屋へ一度だけ視線を送る。その一瞥で、布団の中の温度や呼吸の深さまで量っているようだった。
「顔だけでも、見せて。声、かけたいの。あの時……何も言えんかったから」
咲貴の言葉は、言い訳にはなっていない。自分を責め続けて擦り減ったあとの、素直な悔いだけが残っていた。
一心はその顔を真正面から見た。
「今は、あかん」
「どうして」
問いの先に縋りつく響きが混じる。叱られたいわけでも、許されたいわけでもない。ただ、扉の内側に届く細い道を、一つでも教えてほしいだけの声だった。
一心はわずかに鼻先で息を吸い込む。香の層を確かめるように。
「お前から、狐の匂いがする」
その一言で、咲貴の指先から力が抜けた。ショールの端がほどけ、布が震える。
「狐のところへ、行ったやろ」
「……志貴に、近づくなって言いに行っただけ。あの子を巻き込まんといてって」
搾り出すような声。胸の内を誤魔化さない、ぎりぎりの言葉だった。
一心の視線は揺れない。
「狐に、“お前がかわりに宗像の王になるか”――そう聞かれたやろ」
咲貴の瞼が、ぴくりと震えた。
否定しかけた言葉が、喉の奥でほどけて消える。
「冗談じゃない。私は……志貴を助けたかっただけ」
「その真っ直ぐさごと、狐の餌にされる」
一心の声音は、静かに冷えている。
「津島で育ったお前と、宗家で育った志貴とは、姉妹でも土台が違う。その差を狐は撫で回すのが好きや。宗家の中へ“規定通りの王の形”を持ち込ませようとする」
咲貴は、うつむいたまま唇を噛んだ。
「……じゃあ、私は、どうしたらよかったと?」
「咲貴でおれ」
一心は淡々と言う。
「志貴の“妹”であっても、“宗家の代わり”にはならん。そこだけは、夢にも思うな。今できることは、狐の香を屋敷に入れんことや。その香りが抜けへん限りは志貴の部屋には、通せん」
言葉の刃に、憎しみはない。許すでも抱き寄せるでもなく、ただ境界線だけをはっきりと引く声音。
咲貴はしばし沈黙し、静かに頭を垂れた。
「……わかった」
顔を上げたとき、その目の奥には泣き言より先に、固い意志が灯っていた。
「一心兄さん。志貴に、私が来たってことだけは……いつか、伝えて」
「考えとく」
一心はそれ以上、重ねない。
咲貴は踵を返し、長い廊下を戻っていく。背筋はまっすぐで、足取りも乱れない。取り繕っているのではなく、折れない形そのものが彼女の癖なのだとわかる歩き方だった。
曲がり角の手前、柱の影に冬馬が立っていた。咲貴は軽く会釈をして通り過ぎる。横顔の線も、髪の揺れも、志貴とよく似ている。だが冬馬は声をかけない。ただ、その背を見送りながら、腕の中でぞっとしたものを押し殺した。
「……姉妹でもあかんのか。一心さん、やっぱ容赦ないわ」
咲貴の足音が消えてから、ぽつりと言う。
「狐の匂い混じっとるうちはな」
一心は淡々と答えた。
「一本でも線ゆるんだら、そこから全部崩れる。今はそれだけや」
その理の冷たさに、冬馬は肩をすくめる。だが、宗家の屋敷で何が起きてきたかを知る身として、反論の言葉は喉で溶けた。
***
夕刻、縁側に、低い光と長い影が並んだ。
時生が湯呑みを両手で包み、庭を眺めている。隣に腰を下ろした冬馬の袖が、柱にかすかに触れた。白砂は淡く光り、手入れの行き届いた常盤木が、外界とこの家とを静かに隔てている。
「咲貴ちゃん、今日もあかんかったわ」
冬馬が言うと、時生は目だけを細めた。
「今は、仕方ないかもしれないな」
言い方は柔らかいが、視線は鋭く空気を撫でている。残り香の筋を、一筋一筋確かめるように。
「一心さん、ようやるわ。姉妹でも、あかんのか」
「姉妹だから、ダメなんだ」
時生は湯をひと口含み、苦味を確かめてから言葉を継いだ。
「あの子は津島で育った。宗家と同じ“理”を教えられてない。同じ血をもった“別の王の形”は、狐にとって一番おいしい仕掛けになる」
冬馬は顎に手を当て、息を吐く。
「……志貴には、言わんのやろな」
「言えるわけがない」
時生の声音には淡い笑いが混じる。
「志貴は“知って選べる”子だけど、全部見せることと、今守ることは別問題だから。一心は、その線だけは絶対に宗家側で引く」
「怖いねぇ、宗家」
「うん。そういう家だよ」
庭の向こうで、気配がひとつ動いた。
書院の方角から、紙の擦れる音と、硯を置く小さな響きが重なる。公介と一心が書き記す文の墨の匂いが、廊下の隙間からこちらへ流れてくる。
禁域守護と調整、当面の間、宗像宗家単独から外すこと。
各家に理の負担を割り振り、「宗家に寄りかかるな」と穏やかな文言で突きつける通達。
そして、宗像本家の門を絞ること。
出入りを許される名を厳しく限定し、志貴の周囲から、余計な香を一段ずつ削り落としていく決まり。
通達の写しを受け取った冬馬は、眉を上げた。
「女中まで締め出すんか。徹底してるなぁ」
「狐に志貴の口元まで近づかれたの、あれ、元はと言えば人の手だし」
時生は淡々と言う。
「やりすぎくらいで、ちょうどいいって判断なんだろうね」
冬馬は、門の方角へ目をやった。
そこにはもう、以前のような雑多な出入りはない。静かな影が二つ三つ、規則的に動くだけだ。
「守られてる、って言えばそうなんやけどな」
「檻と砦は、紙一重だよ」
時生は、言葉を飲み込むように笑った。
***
数日をおかず、庭の白砂に、木刀の影が刻まれはじめた。
一心と冬馬の稽古は、儀礼的な素振りを一巡するだけで、すぐに打ち合いへ移る。
「行儀良うばかりしてたら、お前、ぼろぼろになんで」
一心のひと言に、冬馬は目を伏せ、それから静かに口角を上げた。
「一心さんにそう言われると、もう逃げ場ないやんか」
空気が、ひと息で変わる。
踏み込み。白砂が割れ、木刀が斜めに走る。肩口、喉元、膝。獲物を測るような軌道に、一心がわずかな身の捌きで応じ、刃をはじく。乾いた音が、庭の冷気を切り裂いて響いた。
「それでええ」
一心の声が低く笑う。
「最初からそれで来い」
「公介さんの前でやったら、殺されるやろ」
「せやから、ここで全部出しとけ」
冬馬の目が獣めいて細くなる。二太刀、三太刀。打ち込みに迷いがなくなったところで、一心の手もわずかに重くなる。互いの刃がすれ違うたび、白砂が跳ねて、日差しの中でささやかな火花のように散った。
縁側の陰から、時生と公介が黙って見ている。
「ようやく本性を見せましたね。冬馬は……やはり化けますか?」
「あれで、制御しきれるんなら構わんが。化けてもらわにゃ、こっちが困る」
公介の言葉は淡白だが、目は満足げに細められていた。
稽古を終え、冬馬は肩で息をしながら木刀を担ぐ。
「……えぐいわ、ほんま」
「稽古やなかったら、お前、四度は死んでる。……噛み跡くらい、残してみぃ」
一心の声に、冬馬は鼻で笑う。
「はいはい。ちゃんと噛めるようにしときますわ」
軽口の端に、決意の味が滲んだ。
***
いく夜か過ぎるうちに、屋敷の音は目に見えて変わった。
往来の足音は減り、障子の開け閉めの音も小さくなる。女中たちの気配は外側に封じられ、内側に残るのは、一心、公介、冬馬、時生――そして志貴の息遣いだけ。
静けさの底で、香りの組成も入れ替わっていた。
狐の甘さも、津島の微かな潮風も、屋敷の内から消えてゆく。
焔と鉄と紙と墨。宗家の核に連なる香だけが、重ね塗りのように残る。
志貴は、その中でゆっくりと起き上がる足を取り戻していった。
ある朝、襖を開けて廊下に出る。障子越しの光が思っていたより強く、影が痩せた脚をはっきりと縁取った。
「調子は」
角を曲がったところで、一心が立っていた。問いかけは素っ気ないが、目は歩幅と呼吸と肌の色をひと揃いで測る。
「何とか、平気」
「自分の足できっちり立てんうちは、出雲に行かれへんで」
冷たくも正確な物差しだった。
志貴は小さく頷き、廊下を進む。段差の前でわずかにつまずきかけると、一心が先に半歩出て、何も言わずそこに立つ。志貴は無意識のまま、その背中に手を添えて体勢を戻した。
そういうやりとりが、ごく自然なものとして屋敷の日常に組み込まれていく。
門は固く閉ざされていた。
だが、内側で交わされる言葉は、以前より少し透明になっている。誰と誰がこの輪の中にいて、誰が外に置かれたか――その線が、志貴の知らないところで引き直されているとも知らぬまま。
ある日、志貴は制服に袖を通した。
学生服と、宗家の娘として刻み込まれた背筋とが、鏡の中でかすかに食い違う。
「……行ってきます」
誰にともなく言葉を置いて、門の内側から空を仰ぐ。
絹を張ったみたいな青空だった。
その高さが、ほんの少し遠く感じられる。
守られているという安堵と、選び直す余地を少しずつ削られていくような感覚とが、胸の奥でまだうまく混ざりあわない。
志貴は門をくぐり、外の光の中へ足を踏み出した。
背にまとわりつくのは、宗家の香だけ。
狐も、黄泉も、まだ姿を見せない。
ただ、どこか遠い層で、名を呼ぶ気配だけが、じわりと燻りはじめていた。




