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第12話 たまゆらの 香に染まらず 君に染む


――宗像本家・禁域の奥、“泉”。


苔むした石畳の割れ目から、湧く水がひとすじ、音もなく流れ落ちていた。


しん、と息を潜めた森。


風さえないのに、肌には冷たさが刺さる。


木々の影が、揺れもせぬ水面に、じっと滲んでいた。


 


水は、透きとおるほどに静かだった。


けれど、その縁には、紅。


雫が落ちるたび、泉が音もなく泣いているようだった。


 


息をするだけで、魂がざらついた。


胸の奥に、重い湿気が絡みつく。


冷たいはずの森が、どこか腐った花のように甘い。


触れる空気も、見える水面も、すべてが“狐の香”に似ていた――だから、彼女は裂いた。


 


志貴の羽織は滑り落ち、白磁のような腕が露わになっている。


その肌には、紅の線が無数に走っていた。浅く、深く、自らの指で刻んだ、拒絶の痕。


 


血が、泉の端を染めていた。


彼女の目は、どこかを見ているようで、なにも見ていなかった。


癒えては裂き、また裂く。


癒える速さを恨むように、指先は躊躇なく皮膚を裂いた。


 


「……なおるのは……知ってる……」


 


掠れた囁き。


 


「けど……なおったら、また……あの香が……戻ってくる……」


 


泉の水が、その言葉に応えるように、ひとしずく波紋を描いた。


 


“狐”の香が、体内に残っている気がしてならなかった。


濁り、甘く、魂を内側から染めてくるような、あの香。


 


「出ていけ……お願いや……ぜんぶ、出ていってーー」


 


それは祈りではなかった。願いでもなかった。


ただ、衝動だった。


 


血と共に香が流れることを信じて、彼女は己を裂き続けていた。


 


空気は冷たいのに、喉の奥だけが焼けるように熱い。


 


そして、泉の水面がふと揺れた。


 


「……何してんねん」


 


低く、しかし澄んだ声。


それは、泉の水よりも静かに、空間を割って落ちてきた。


 


志貴が、ゆっくりと振り向く。


 


木々の奥、翳りの中に立っていたのは――


宗像一心だった。



黒羽織に包まれた長身。


銀を弾いた黒髪が淡く揺れ、影の中でもその瞳だけが、まるで焔のように光を帯びていた。


 


志貴の膝が崩れかけたその瞬間――


 


一心が、迷いなく腕を伸ばして抱きとめた。


その手は、血に濡れた手首をそっと包み、温度を移すように重ねられる。


 


「……見んとって……」


 


顔をそむける志貴。


けれど、手は――離せなかった。


 


彼の羽織を、震えながら、離さず掴んでいた。


 


「……どっちやねん」


 


一心が、あえて穏やかな調子で言う。


その声には、いつもの皮肉すらなかった。


 


「……見られたないって、そない言うわりに」


「……俺の裾、ちゃっかり掴んどるやん」


 


掴まれた羽織をそっと持ち上げる。


 


「これ、なに?」


 


志貴の指先が、震える。


唇を噛んでも、涙が頬をつたった。


 


「……ちがう、そんなつもりやなかったのに……」


 


「せやろな。……よう、わかってる」


 


一心の声音が、そっと溶けてくる。


深く、優しく、だがその奥に――言葉にならぬ、何かを抱えたまま。


 


志貴は手で顔を覆った。


だが、その袖の内側にある香は――彼の香。ずっと、求めていたもの。


 


「志貴」


 


名を呼ばれた。


そのたった一言で、少女の膝が抜ける。


 


今度は、完全に崩れ落ちた。


一心が、何も言わずに抱きとめる。


 


「……一心には……見られたくなかった……こんな! きたないねん、我慢ならんねん……」


 


「知ってる」


 


「でも……誰よりも……一心に逢いたかった……」


 


「それも、よう知ってる」


 


一心の手が、志貴の背をゆっくりと撫でる。


その掌は、火傷しそうなほどに熱かった。


 


「志貴」


 


再び、名を呼ばれた。


その音は、まるで祝詞のように響いた。


 


「……助けて、って言うてみ?」


 


一瞬だけ、笑うでもなく、泣くでもなく――唇の端だけ、やさしく歪めた。


その笑みに宿るのは、誰にも悟らせぬほど――限界ぎりぎりの執着。


 


「今だけは許したる。俺が全部、受けとめたるから言うてみ」




志貴が、喉の奥で声を震わせ――


 


「……助けて……」


 


ようやく、それを言った。


今度は、完全に崩れ落ちた。


積もった雪が音もなく崩れるように。


 


その瞬間、一心が、何も言わずに深く抱き締める。


焔のような香が、泉に広がった。


 


胸の奥からこみ上げる嗚咽は、もはや涙ですらなかった。


けれど――それでもなお、声は震えた。


 


「……もう、だいじょうぶやって……言うて……」


 


その背に、そっと腕がまわされた。


静かに、迷いなく。


風も音もないその空間で、焔よりあたたかいものが、彼女を包んだ。


 


「……大丈夫や」


 


低く、やわらかく。


けれど魂に届く、確かな“音”だった。


 


それは、執着でも、支配でもない。


ただひとつ――


檻という名の、優しさだった。


 


志貴の指が、彼の背を必死に掴んでいた。


泉は静かに、ふたりの香を受け入れていた。


――片や、血に染まり。


――片や、その血を包む腕で。


 




まるで、千年前にも、


この泉で、同じ香を、同じ痛みを、同じ腕の中で、


魂が味わっていたかのように――。


 





志貴の震えが、ようやく静まりかけた頃。


一心は、彼女の背後にまわりこみ、そっと腕をまわした。


 


抱きしめるのではない。


ただ、寄り添うように。


彼女の傷ついた背を、己の胸で、静かに覆う。


 


「……もう、ええ。泣くな」


 


その声は、香のようだった。


熱くもなく、冷たくもなく。


ただ、彼女だけに届けばよいと願う、焔のぬくもり。


 


志貴の睫毛が揺れ、涙が頬にとどまった。


そして――


彼女の指が、そっと、その手に重なる。


 


喉の奥で鳴っていた小さな震えが、芯から鎮まっていく。


そうして彼女がようやく呼吸を取り戻したとき、


一心は、静かに、その手をほどいた。




泉の気配は、なお静かだった。


けれど、そこに在る空気は、ほんのわずか――変わっていた。


 


志貴の目に浮かぶ影は、もう狐の香ではなかった。


一心に背を預けたまま、彼女はふと、ぽつりと呟いた。


 


「……狼なら、よかったのに」


 


その声は、泉を濡らす水よりもかすかで、ひどく柔らかかった。


けれど、そのひとことに、空気が微かに揺れた。


 


一心が、応えもせず、ただ志貴の言葉の真意を探るように目を細める。


 


「なんでや」


 


それだけ、低く静かに問う。


 


志貴は答えられなかった。


自分でも、理由を探していた。


 


「……宗像は、狼を“守り”にしてきた家やろ」


 


「だから……、“怖くない”気がしただけ、かも」


 


一心は何も言わなかった。


それが否定でも肯定でもないと、志貴には分かっていた。


 


「狐は……、“みんなのため”に、王を使おうとする」


「“やさしさ”のふりして、全部、呑みこもうとする」


 


「でも――」


 


志貴は、そっと息を吐いた。


言葉にすることが、少しだけ怖かった。


けれど、見失いかけていた自分を、言葉にして繋ぎ止めたかった。


 


「狼は……“わたし”を、守ろうとしてくれる気がした」


 


一心の眼差しが、微かに和らいだ。


 


それでも彼は、決して名乗らない。


 


ただ、志貴の問いと呟きとを、ひとつひとつ、胸の奥で受け止めるようにして――


静かに、息を吐いた。


 


「……呼んでみるか」


 


その言葉が、泉に落ちる。


音もなく、水面が震えた。


 


志貴の目が、一心を見た。


目を見開くわけでもなく、問い返すでもなく。


ただ、まっすぐに。


 


一心は志貴の身体を離してやると、ゆっくりと立ち上がる。


羽織が水の気配を裂きながら揺れ、その裾から、指先が、印を結んだ。


 


「おまえが、“そう”思うんやったら――」


 


「“呼ぶに足る”って、そう言うんなら――」


 


「……ちゃんと、応えてくれるはずや」


 


その声音には、静かな確信があった。


そして、そこには“自分が狼だ”という言葉は、どこにもなかった。


 


一心が呼ぶのは、己の神鬼――


志貴の魂に応える、“狼”の姿を模した存在。


 


泉の気配が、ふっと、鎮まった。


 


志貴の涙が乾ききらぬ頬に、風のないはずの森の空気が、ひと筋そっと触れる。


けれどそれは冷たくはなかった。


むしろ、ぬくもりに近かった。


 


一心は、何も言わなかった。


ただ、羽織の奥、胸元に指をすべらせ、何か――音もなく、呼んだ。


 


すると、森の闇が、かすかに揺れた。


 


木々の陰から、ひとつの“影”が姿を現す。


 


狼だった。


 


小さく、その毛並みは、夜の帳をちぎったような黒。


ひとすじ混じる銀が、仮面の綻びのように揺れていた。


琥珀のような双眸。


黒く引き締まった体躯に、銀の斑が差していて美しい。


 


その姿は、獣でありながら、獣ではなかった。


生き物でありながら、香だった。


――“香”の仮面を被った、“存在”。


 


志貴が、ひとつ、息をのむ。

 


「……これ……」



彼女の睫毛が一瞬震えた。




一心は、ただ、優しくその子狼の頭を撫で、泉のほとりにいる志貴の方へと促した。


 


狼は、志貴に近づく。


ゆっくりと。


焦らず。


まるで、志貴が“怖くない”と告げる瞬間を、待っているかのように。


 

 


志貴の手が、かすかに震えた。


でも、その目は――逸らさなかった。


 


香が、来る。


“狐”ではない。


もっと深くて、もっと静かで――


それは、ただの匂いではなかった。


 


水の底に沈んでいくような、胎内の記憶に似た安心。


志貴の皮膚が、嗅覚より先に反応した。


 


志貴の喉が鳴る。


指先が、震える。


それでも――


 


「……怖く、ない」


 


その声が落ちたとき、狼は、彼女の膝の前で、そっと座した。


 


志貴が手を伸ばす。


狼が、ひとつ、首を傾げる。


 


掌が、やわらかな毛に触れた瞬間――


志貴の中の何かが、静かに、ほどけた。


 


胸の奥にへばりついていた“あの香”が、音もなく消えていくような気がした。


 


彼は、志貴の魂の選択を、じっと見届けていた。


 


そして、その眼差しだけが――


その正体を白状していた。


 


志貴が“選ぶ”そのときを、ただ、待ち続けていた。


 


香は、たしかに、怖くなかった。


その香が宿る存在が、狼であったとしても。


 


志貴は、そっと目を伏せる。


狼の体温が、触れた指先からゆっくりと伝わってくる。


 


「……ぬくいね」


 


その呟きは、志貴の魂が初めて放った“許し”だった。


 


森の奥で、ひとしずく、泉が鳴いた。


 


――次の瞬間、志貴の身体が、崩れ落ちる。


 


ぬくい。


ほんのひとときでもそう思えたことが――


志貴の魂には、あまりに、安堵だった。


 


ほんのわずかに、気を抜いただけだった。


けれど、その瞬間、


魂から張りつめていた糸が、音もなく切れた。

 


身体が傾ぐ。


視界がぐにゃりと歪んで、光が遠のく。


 


「……志貴?」


 


狼が、すんと鼻を鳴らす。


一心が即座に駆け寄り、崩れ落ちる志貴の身体を、腕の中に抱きとめた。


 


その額に触れる。冷たい。


指先が、微かに震えている。


 


出血による、限界だった。


 


「……アホやな」


 


苦く、けれど、どこまでも優しい声だった。


 


彼女は、狐を拒絶しようとしていた。


血を流して、香を追い出そうとしていた。


 


それは、香に魂を侵された証を消し去りたい衝動。


だから、一心は、黙ってそれを補う。


 


志貴を抱えたままで、狼に黙って腕を差し出した。


狼は躊躇したが、一心が軽くねめつけたことに、びくりとして手首近くに牙をたてた。


したたり落ちる紅い雫を、志貴の口元にやる。


 


「……志貴」


 


その名を、もう一度。


彼女の唇が、かすかに開く。


けれど声はなく、呼吸さえ浅い。


 


傷からしたたり落ちる紅を、志貴の唇におしつけた。


 


「飴で慣らしたかいがあったもんやな」



志貴は拒否することなく、それを飲み込んだ。


 


「たまったもんやない……」


 


一心は、志貴の首筋にそっと顔を埋めた。


 


首筋に触れた唇は、焔であり、氷であり――


命の扉をやわらかく叩く、記憶の指先のようだった。


 


「……まだ、喰われへん」


 


そう囁くように、


一心は、己の血を、志貴に染み込ませた。


 


ゆっくり、ゆっくり、染み込ませる。


彼女が流したものの代わりに。


彼女が手放すまいとした香を届ける。


 


「ほら、おまえが欲しがってたんは、こっちやろ」


 


その声は低く、甘く、どこか――焔のように。


喉奥から込み上げる衝動を、押し殺すように。


牙をむいてしまいそうな己を、必死に抑えながら。


 


彼女の魂を喰らってしまわぬように。


彼女の輪郭を壊してしまわぬように。


 


もう一度だけ、首筋に口づけながら、


一心の背は、微かに震えていた。


 


それでも、


彼女の命が、ふたたびぬくもりを取り戻すまで――


 


千年前と同じように――彼は、そこを離れなかった。


 


――たまゆらの、香に染まらず。君に染みゆく魂のままに。


 


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