第12話 たまゆらの 香に染まらず 君に染む
宗像本家――夜半。
つい先ほどまで人々の声で満ちていた座敷は、今は嘘のように静まり返り、廊下に落ちる灯の色だけが、査問の余熱のようにじくじくとくすぶっていた。
志貴の部屋には、治療の痕が生々しく残っている。
焦げたように黒ずんだ敷布。穢れを祓い、傷の痛みを鎮めるために焚かれた鉢がいくつも並び、縁にはまだ湿った灰が固まっていた。
裂けた衣と巻きかけの包帯、飲み残されて湯だけ冷めた湯呑み。
本来あるべきもの――そこにいるはずの気配だけが、きれいに消えている。
「……どこ行ったんや」
襖を開けた冬馬が、ひゅっと息を呑んだ。掌には清めの水の冷たさが残っている。それを忘れたように、拳を固く握り込む。
時生は結界の縁にそっと指を滑らせ、流れを読む。瞼の奥で淡い光がかすかに弾けた。
「少し前だな。ひとりで起きて、結界の外まで出た。……香も足跡も、庭先で急に薄くなる」
「あんな体で、どこへ行くねん……」
冬馬は床几の脇へ歩み寄る。志貴の羽織が、そこに無造作に落ちていた。その乱雑さが、かえって不安を煽る。
襖の外で、気配が沈んだ。
一歩。廊下の軋み。続いて、影。
一心だった。
本を片手に持っていた。その頁を一度ぱたりと閉じ、そのまま無言で敷居をまたぐ。
灰銀の眼差しが室内を一巡し、乱れた寝具、血の跡、空虚な畳を捉える。
短く、息を吐く。そのため息ひとつで、室内の温度がわずかに沈んだ。
「……桃、持ってこい」
「は?」
「ええから。志貴の部屋の前に、ひとつ置け」
声に余白がない。冬馬は思考より先に身体が動き、棚からよく熟れた桃をひとつとると、寝所の敷居の内側へそっと置いた。
その瞬間、空気が、ぴ、と鳴る。
灯りの下、八つの小さな光がふわりと浮かび上がる。畳一枚にも満たぬ空間で、雷の粒がくるくると回る。八雷だ。一心の気配に気づいた途端、光がいっせいにしぼみ、揺らいだ。
「近くにおるな」
一心は膝を折り、そのうちひとつを指先でつまみ上げた。掌の上で揺れる光が、居心地悪げに瞬く。
「桃はやる。その代わり――吐け」
八つの光が一斉に明滅した。掌から逃れた光が小さく震える。互いに押し付け合うように揺れ、やがてひとつが覚悟を決めたようにぴょんと飛び出す。
一心の肩口まで上がり、耳元へ寄る。
きゅ、と小さな音。囁きは、一心にだけ届いた。
彼の目が細くなる。灰銀の底に、淡い焔が灯る。
「……そうか」
低く呟き、立ち上がる。
「どこに?」
冬馬の問いに、一心は羽織を引き寄せながら、短く答えた。
「連れて帰ってくる」
それきり振り返らず、闇の廊下へと歩み去る。
追い縋ろうとした冬馬の袖を、時生が掴んだ。
「行かせておけ。……あれは、一心の役目だ」
静かな声だった。その響きに、冬馬は唇を噛み、足を止めるしかなかった。
***
禁域の奥、“泉”。
森のさらに奥、踏み慣らされた道も途切れた先に、それはある。
苔むした石畳の割れ目から、細い水が湧き出していた。滴りは小さい。それなのに、周囲の闇という闇が、その音だけを聞いているように沈黙している。
風はない。枝も葉も動かない。けれど肌に触れる空気だけが、地中から直接立ち上るような冷たさを含んでいた。水面は鏡のように凪ぎ、映る木立の影だけがじわりと滲んで、夜と泉との境を曖昧にしている。
本来は澄みきっているはずの縁に、紅が散っていた。
血が、少しずつ泉に落ちている。
志貴は泉の縁に腰を下ろし、膝を抱きしめていた。
羽織は途中で脱ぎ捨てたのだろう。片袖が苔の上に滑り落ちている。白い腕と肩には、無数の紅い線。浅い爪痕、意図して引いた深い線、塞がりかけをわざと開いた痕。
癒えては裂き、裂いては血を確かめ、また裂く。
狐の香が、骨の奥、臓腑の裏側にまで入り込んでいる気がしてならない。
濁って甘く、魂の軸を溶かそうとする香り。あの場で自分にまとわりつき、血肉に触れた残滓が、息をするたび喉の奥からせり上がってくる。
このまま一心に会うのが、怖かった。
なぜそこまで焦っているのか、自分でも言葉にできない。ただ、その一点だけが、いやに鮮明だった。
「……なおるのは、知ってる」
自分でも驚くほど掠れた声が、闇に落ちる。
「すぐ塞がる。うちの血、勝手にそうするから。……でも、なおったら、また、あの香が戻ってくる」
ぽちゃん、と一滴が落ちる。泉の面に、小さな輪紋が広がる。
「いやや」
唇より先に、指が動いた。
爪が皮膚を裂き、赤がひと筋、石に落ちる。血と一緒に、あの甘さも流れ出せと願う。それは祈りと呼ぶには稚く、ただ衝動に近い。
「出ていけ……頼むから、全部……」
冷たい夜気の中で、喉の奥だけが焼けるように熱い。自分の吐息にさえ狐の香が混じる気がして、息を吸うことすら嫌になる。
「……何してんねん」
水音よりも低く、しかし澄んだ声が、闇を割った。
志貴の肩が跳ねる。振り向いた先――泉を囲む木々の影から、一人の男が現れた。
宗像一心。
息が止まる。
あり得ない。来るはずがない。十日は戻らないと聞いていた。
「……なんで、おるの……?」
掠れた問いが泉に吸い込まれる。思わず後ずさる。
「来んといて……っ」
喉から洩れた声は震えていた。
見られたくなかった。
まだ、見せられる姿じゃない。
焦げついた香も、血の色も、全部、自分で何とかしてから――そう思っていたのに。
「今は……まだ、あかん……」
言葉の端から、間に合わなかったという悔しさが滲む。
一心は、歩みを止めなかった。
黒羽織が夜を引きずり、その輪郭が暗がりを切り裂いていく。灰銀の瞳が、静かに志貴を射抜いている。彼女の言葉をすべて聞いたうえで、それでも近づく者の目だった。
その姿を見た瞬間、志貴の膝から力が抜けた。
身体がぐらりと傾く。泉の縁に頭を打ちつける寸前に、腕が伸びる。
一心が、当然のように抱きとめていた。血に濡れた手首を包み、背を支え、泉から引き寄せる。
掌は驚くほど熱い。その熱が、割かれた傷口から静かに染み込んでいく。
「……来んとって言うた」
志貴は顔を背けた。こんな傷跡を、こんな浅ましい手を、この人だけには見られたくなかった。
そう思う一方で、もう片方の手が勝手に動く。
黒羽織の裾を掴んでいた。震える指で、縋るように。
一心が、小さく息を吐く。
「じゃ、これは何や?」
怒りでも呆れでもない。ただ、目の前の矛盾をそのまま言葉にした声音。
「来るな言うて、よう掴んではるけど」
そっと裾を持ち上げて見せる。志貴の指先がびくりと震える。それでも離せない。代わりに、涙がぽとりと落ちた。
「それから、これ、何してはりますの」
一心は、志貴の腕に走る傷へ視線を落とし、もう一度、短く息を吐く。
「嫌なもんを……追い出そうと」
志貴は一心の顔を見られぬまま、唇を噛んで言葉を絞り出す。
「なるほど」
短く、迷いなく返る。
責めもしない。甘やかしもしない。ただ、理解したとだけ告げる声。
それだけで、志貴の中で辛うじて立っていたものが、音もなく折れた。
「……気持ち悪いんを取り出したい」
袖で顔を覆う。布の内側から、一心の香がした。焦げた鉄と焔、ふっと混じる果実の甘さ。狐のそれとは違う、昔から知っている匂い。
「志貴」
名を呼ばれる。
その一言だけで、膝の芯が崩れる。身体の重さを預けると、一心は何も言わず、当たり前のように受け止めた。
「狐の匂い、消えへん。中までべったり張りついとるみたいで……我慢ならん」
「そら、気持ち悪いわな」
背を撫でる掌は、火傷しそうなほど熱いのに、ただ安心だけを置いていく。
一心は少し顔を寄せ、静かに囁いた。
「……助けて、って言うてみ」
唇の端が、ほんの僅かに柔らかく歪んだだけだった。
「今だけは許したる。何もかんも置いといてええから、言え」
それは、志貴にとって禁じられた言葉だった。
宗家の矜持を崩すなと叩き込まれて育った舌が、喉の奥で固まる。
「誰もおらん。聞いてるんは俺だけや」
促す声は、ひどく優しい。
「……助けて、一心」
かすれた声が、泉の気配を震わせる。
一心の腕がわずかに強くなり、志貴を抱き込んだ。焔のような香が泉に広がる。
「……私、おかしなるんか?」
震える問い。
「宗家が“まっとう”やったこと、一度でもあったか? お前の質問、意味ないやろ」
乾いた冗談の形をして、その実まったく揺らがない肯定。
志貴の喉から、笑いとも嗚咽ともつかない息が漏れた。
「もっとマシな励ましの言葉ないんか……」
「何を期待してはるんか知らんけどな。おかしいか、おかしくないかで言うたら、宗家は皆おかしい。以上や」
一心の手が、ぽんぽんと志貴の頭を撫でる。その雑な優しさに、志貴は涙混じりに苦笑した。
「……狐の香、ついたままで、一心に逢いたくなかったんや」
言葉にして、ようやく自分の恐れの形が見える。
一心は、それに飾りをつけない。
「お前、阿保やろ」
ただ、それだけを落とす。
「狐の香りなんぞに振り回されよって」
泉の気配が、かすかに緩む。
志貴の震えは徐々に収まり、呼吸が整っていく。
一心は抱きしめる腕をわずかに緩め、背後から包み込むように腕を回した。傷ついた背を、自分の胸で静かに覆う。
「……しょうもない事で、泣くな」
耳元の声は、香のようだった。押し付けがましくはなく、ただ静かに熱を含んでいる。
志貴の指がそっと一心の手に触れ、そのまま絡んだ。
泉は、血と焔、二つの香を、音もなく受け入れていた。
まるで、もっと昔にも、この泉で同じ腕に抱かれていたかのように。
「……狼なら悩まんかったかもしらん」
風と混じるほど小さな声で、志貴が零した。
一心の睫毛が、わずかに震える。
「なんでや」
「宗家は、狼を“守り”にしてきた家やろ。……狼は、怖くない気がしただけ」
少なくとも、宗像に伝わる狼は――ひとりの王を守るために、他を噛み砕ける存在だ。
「狐は、“みんなのため”言いながら、魂に縄かけてくるんがわかる。首、触られてるみたいで怖い」
言葉にした瞬間、胸の奥に溜まっていた恐れが、少しほどけた。
「狼は……そうやない気がしたんや」
根拠のない、けれど志貴にとっては揺るがない感覚。
一心は肯定も否定もしない。その沈黙は、彼女の言葉を丸ごと受け取った証だった。
小さく息を吐き、志貴の頭の上に顎を預ける。
「呼んでみるか」
ぽつりと落とされた声に、泉の水面がふるりと震えた。
志貴が顔を上げる。その瞳にはまだ影があるが、今度は疑いはない。
一心はそっと志貴を支えから解き、立ち上がる。黒羽織の裾が石を撫で、指先が胸元で印を結んだ。
「おまえが“そう”思うんなら、呼べばええ。応えられるもんが、おる」
声にならない呼び声が、闇の奥へと放たれる。
森の影が、静かに揺れた。
木々のあわいから、一匹の“影”があらわれる。
狼。
夜そのもののような黒い毛並み。額から背に走る一筋の銀が、仮面のひび割れのように光る。琥珀の双眸が泉の光を掬うたび、目に見えぬ香が空気の層をゆらりと揺らした。
獣であり、香であり、理の一部。
狼は焦らず、志貴の前まで進むと、そこで止まり、首をすこし傾げた。
近づいて良いと告げられるのを、ただ待つように。
志貴の手がかすかに震える。
けれど、その眼差しは逸れない。
近づいてくる香りは、狐の甘さではなかった。凛とした冷たさの奥に、深く静かなぬくもりを孕んでいる。
深い水底へ沈む瞬間に似た、静かな安心。
「……おいで」
その一言が落ちると、狼は静かに座した。
志貴はそっと手を伸ばし、狼は目を細める。
掌がやわらかな毛に触れた瞬間、胸の奥にこびりついていた狐の残り香が、音もなく退いていくような感覚が走った。
血と香の幾重もの層の向こうで、なにかが剥がれ落ちる。
「……ぬくいね」
こぼれた声は、小さく笑っているようだった。
泉が澄んだ音を一度だけ立てる。
その直後、志貴の身体から力が抜けた。
ほっとして、ほんのわずか気を緩めただけだった。
張りつめていた糸が、その瞬間ぷつりと切れる。
視界が揺れ、光が遠ざかる。
「志貴!」
狼が鼻を鳴らすより早く、一心の腕が志貴を抱き上げた。
額に触れる。冷えが指先を刺す。脈は浅い。
「……阿呆が」
吐き捨てる声は苦いのに、底は驚くほど柔らかい。
志貴は狐を追い出そうとして削った。
ならば、その欠けたぶんは、一心が埋めるしかない。
志貴を抱いたまま、一心は狼へ手首を差し出した。
狼は一瞬だけ身を引き、それから静かに牙を立てる。
手首の内側から、紅い雫がひと粒零れ落ちた。
一心はそれを指で掬い、志貴の唇に触れさせる。
「志貴」
名を呼ぶ。かすかに喉が動き、血が飲み込まれる。
「飴で慣らしといて、助かったわ」
自嘲にも似た独り言。志貴は拒まず、それを受け入れた。
喉を落ちていく熱が、抜けかけていた命をゆっくりと呼び戻す。
「こんなん何回もされたら、俺の方がもたん」
小さく毒づきながら、志貴の首筋に額を押し当てる。
唇が肌に触れる。ただ境目を、そっとなぞるだけ。
「……塗り替えたる。大丈夫や」
囁きは低く、静かで、それでも誓いのように重い。
自分の香を、狐に抉られた隙間へと少しずつ染み込ませていく。
喰らわず、壊さず、ただ重ねるように。
衝動を押さえ込むように、一心の背が微かに震えた。
やがて、志貴の呼吸は静かに整っていく。
胸の起伏が穏やかになり、頬にほんのりと色が差す。
一心は額を寄せたまま、長い息を吐いた。
泉の水面は、微かな光を孕む。
月は沈みかけ、森の奥で鳥が一声、夜と朝のあわいを渡った。
「ヨル、もうええ。また呼ぶ」
狼は音もなく闇に溶けた。
湿った空気の奥に、焔のような香の余韻だけが残る。
一心は志貴を抱いたまま、泉の縁に身を預けた。
志貴の腕にはまだ痛みが残る。だが、その痛みよりも前に、確かに“生きている”脈があった。
狐の香は、もうここにはない。
残っているのは、血の匂いと、触れ合う呼吸のぬくもりだけ。
互いの内に沈み、溶け合い、ただ存在を確かめ合うための香。
志貴のまぶたの裏で、蒼白い炎と影が遠のいていく。
そのすぐ傍で、一心だけが、黙ってその温度を守り続けていた。
泉の上を、遅い風が渡る。
森の木々が小さく鳴り、鳥が二声、朝を告げた。
***
――夜が、明ける。
泉から立ちのぼった気配は、禁域の森を抜け、宗像本家の庭先にかすかな香りを残した。薄い靄が畳の縁を這い、朝の光が障子を透かして淡く滲む。
冬馬は廊下の端に立っている。肩に薄い外套を掛け、腕には志貴の長羽織。視線は禁域の方角に注がれたままだ。
「……落ち着かないか」
背後から時生の声がする。
彼も眠らずに夜を越したのだろう。眼の下に影を落としながらも、その声音は穏やかだった。
「まぁな。でも……香の流れは戻っとる。一心が、どうにかしたみたいや」
冬馬の言葉に、時生は小さく息を吐く。
森の方角を見やり、額の前髪を指で払った。
「それなら、いい」
口振りは素っ気なく、それでも瞳の奥に、はっきりとした安堵が灯る。
「時々、君が不憫になるよ」
「どういう意味?」
「さぁね。それは君が一番わかっているのでは?」
「……わかってても、自分がどうしたいか、それでええやろ」
「だから、不憫だと言うんだよ」
ふたりの視線の先で、禁域の森は朝靄の中に沈んでいた。
遠くかすかに、水の音がする。泉が昨夜の名残を洗い流すように、静かに鳴っている。
時生は一度だけ瞼を閉じ、小さく呟いた。
「……十日はかかる禁域処理を半日で片づけて戻る男を、敵に回したくないな」
冬馬は苦笑して、何も言わなかった。
無意識に胸の前で指先を握る。そこにまだ残っているのは――昨夜、八雷が灯る中で感じた、あの焔の気配。
森の奥、泉のある方角。
朝靄の向こうで、ひとつの命の香が、ふたたび静かに燃え始めていた。
――たまゆらの香に染まらず、君に染みゆく魂のままに。
紅と黒のあわいを渡った夜は、音もなく明けていった。




