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第11話 香にしみても 焦がすは誰ぞ


宗像本家、すぐ近くの禁域、その境界。


昼とも夜ともつかぬ薄明の森は、色を抜かれた絵のように静まり返り、風もないのに木の影だけがわずかに揺れていた。漂っているのは“香”ではない。もっと鈍い、しかし確かな“気配”だった。


苔むした石壁に沿って、一つの影が音もなく歩む。

宗像一心。

黒羽織の裾が土を撫で、指先が石の綻びをなぞる手つきは、縄張りの端を確かめる獣にも似ている。爪が止まったのは、封結の綻びだった。かすかに焦げ、草も苔も死んでいる。

鼻先を寄せ、息を吸い込む。甘さと濁りが絡み合った、知っている匂いが喉の奥で鈍く鳴った。


「……やっぱり、あいつか」


低く零れた呟きが、森の空気をひと息で冷やす。

光の加減で銀を帯びる長い黒髪。凪いだ灰銀の瞳の底では、怒気という名の焔が音もなく灯っている。

百九十に届く長身はしなやかで、袖の奥で締まる筋が立ち姿の均衡を支える。ただ在るだけで、“宗像最強”と呼ばれてきた威がまとう空気を変えた。


檻であり、必要とあらばその檻ごと喰らう牙が、宗像一心だ。



額の仮面が陰を落とす。懐に片手、もう一方の手は封の残滓を探り、指先の記憶で石目の乱れを拾う。



「……残り香は、もう消えかけているはずですが?」



静けさを割る柔らかな声が、真横から落ちてきた。風はないのに、草が一筋だけ揺れる。

振り返らずともわかる。

空気が、明確に“侵されて”いた。

望が現れた瞬間、森の気配は甘く、重く、どこか血の湿り気を帯びた。


薄藍の着物に、丁寧な微笑。

屋根の上で見たのと変わらぬ顔だ。

甘い香が柔らかく広がり、その底で鉄色がひと閃した。



「挨拶もなしに、人の領に足を踏み入れるとは。無粋ですね、“一心”さん」


「おまえの足が、“人”のもんやと思たこと、一度もあらへんけどな」


一心はようやく肩だけ振り返る。

瞳はもう断じている。侵入の痕、香の主、そして、その“責任”。


「……おまえ、志貴に“血”を混ぜたやろ」


狐の微笑が一瞬だけ揺れ、すぐ整う。肩を小さくすくめた。


「とんでもないっ。稀少な王の御魂に、私の血など。おこがましいでしょう?」


「笑ろてる場合か」


一歩、踏み出す。無風の森で、望の袖だけがふっと震えた。


「俺のやり方はな。香でも、声でも、血でも、心でも、全部、喰らってでも、守るんや」


仮面の下で目が細まる。


「せやけどな、狐。おまえのそれは“守る”んやない。“使う”。……いや、“支配”や」


声は刀の鞘を擦るように静かで、鋼の縁を冷たく光らせる。


「そないなもん、志貴の傍に置いとくわけにはいかへん」


狐は目を伏せ、形だけの笑みを口元に保つ。

だが、眼はもう笑っていなかった。


「……あの子は私を拒みました。けれど“王”は“皆”のためにあるべきだ。誰かひとりに染まるなど、落第です」


「“志貴は昔から俺にべったりなん”、知らんかった?」


淡々と、しかし確信という毒を孕んだ声が落ちる。


「志貴に染みついた、おまえの残り香。……俺が全部、剥がしたる」


望の微笑が止まり、唇の端に怒気が走る。

瞬きひとつでそれを隠し、吐息を整えた。


「……あの子は未熟です。導かねば自壊する。あなたのような“生ぬるい檻”では、宗像のためにならない」



一心は額の仮面を指でずらす。銀をはじいたような艶の黒髪が、光を裂くように揺れた。



「十年やぞ」



望の肩が、ごくわずかに動く。


「十年や。おまえ、志貴の傍に一歩も寄れへんかったやろ。白い炎の事件がなかったら、今も触れられてへんのと違うか?」


淡い嘲りが混ざる。


「ほんま“導く”とかほざくには、笑いどころ多すぎやろ。どの口で、王を語ってんねん」


狐の微笑が薄く歪む。


「では、あなたは? 牙も声も隠して、近づこうともしなかった男が、今さら、何を吠えるのです?」


「……俺は、ただの従兄や」


一心は視線を逸らさない。


「せやけど、牙でも檻でも、あの子が欲しがるんなら、全部くれてやるつもりや。牙を隠してたんは喰うためやない。近づかへんかったんは、壊さんようにや。……けど、おまえが触れた時点で、それももう終いや」


こめかみに指を当て、冷たく笑う。


「封印ひとつ解いたぐらいで、調子のるなや。“してやった”つもりやったら……お花畑やで」


一心は薄く笑う。


「しっかり嫌われてくれて、ありがとうな」


望の目が細く尖り、しかし口元の線は崩さぬまま。甘い香に静かな波紋が走る。


「……あなたという男は、常に、想定を逸れる」


森が一度、呼吸を忘れた。


「予定調和は性に合わん」


一心の影が望の足元を切り裂くように伸びる。


「志貴の傍には、二人もいらん。いらんことしすぎたら喰うで。狐の丸焼き、よう燃やさなあかんわ。……まだ味見してへんけどな」


望はひとつ息を吸い、背を向け、そこで止まった。肩越しに振り向く眼には怒りも焦りもなく、揺らがぬ“思想”と“使命”だけが立っている。


「……“王”は本当に“ひとり”のものなのですか? 香も魂も血も“個”に染める。それこそ“檻”の思想だ」


一心の瞳がわずかに揺れ、口元の影だけが深くなる。


「ええ思想やな。せやけど、それやったら……」


灰銀の視線が、焦げた封印の綻びを射抜く。


「“白い炎”を招き入れたバカにも、そのご高説、聞かせたってや」


望の微笑が、ひと呼吸だけ深まった。


「どなたか、お知り合いでも?」


「くだんの白い炎。数百年前の“紅のなりそこない”や。“あの封印”が解けたら何が起こるか、おまえなら最初から知ってたやろ」


「“あの子の覚醒には揺らぎが必要だった”。最高の舞台かと思いましたが?」


望は優雅に応じる。その声色だけは本当に楽しげだった。


「……白い炎を招くとわかっていて、手を打たなかった“馬鹿”には衝撃だったでしょうね。あぁ、違いました。“打たなかった”のではなく“打たなかったことにした”。時間切れ、という名の、都合のいい後悔でしたか」


一心の視線がまっすぐ突き刺さる。


「宗家の庭で血の焼ける匂い、嗅いでから喋っとるんやから、本物の理念かどうか怪しいもんやな」


望は答えない。ただ、その香だけが初めて乱れた。甘い気配がひとつ脈打ち、どこからか木の実がぽとりと落ちる。揺れる花弁のように波が重なり、すぐ沈む。


「……“白い炎”の女は、狼が見捨てた“なりそこない”だよ。かつて紅を名乗った女の成れの果て。己を焼き尽くして、理に還れなかった哀れな王の残滓」


「見捨てたんは、狼やない」


一心の声は凪いで、なお強い。


「器のほうが堕ちただけや。狼は最後まで側におった。理に耐えきれんかったんは、器や」


狐の目がきしむ音が、香の底で小さく鳴る。


「宗像の狼は“選ぶ”んやない。“選ばれる”。千年王になる者が、自分の魂で狼を呼ぶ。せやから狼を恨む資格はない。外れたんはどっちやと思う?」


沈黙が刃のように二人の間に横たわる。森の温度が半度だけ下がる。


「……つまり、器が外れだったと?」


「その通りや。千年王の器なんて、百にひとつも生まれへん。よく似た紛い物は何度も出るけど、辿り着けるやつは滅多におらん。まして“紅”は別格や。生きたまま理と魂を溶かし合わなあかん。失敗すれば、ああして焼き尽くされる。あの“白い炎”みたいにな」


望は目を伏せ、すぐに上げる。微笑は戻っているが、香の奥で血の匂いが濃くなった。


「それでも“皆のため”にあるべきだと、私は思う。王を“ひとり”のものにはできない」


「それが“なりそこない”の思想や」


灰銀の瞳が淡く光を弾く。


「支配か、執着か。どっちにしても燃え尽きるまでや。本物の紅は、誰にも均等に分けられん」


望は肩をわずかに傾け、別の香を忍ばせる。甘さの底に、冷たい企図がきらりと覗く。


「……支配できないなら、適切な“器”に据え替える。それが皆のため、ということもある。たとえば、咲貴のような」


一心の睫が動く。笑わない目で、ただ見た。


「やってみたらええ。それでも、結局は本物が残り、本物が選ぶんや。檻でも、牙でも。選ばれへんもんは、どこまでいっても同じことや」


望は微笑みだけで応じ、踵を返す。甘い香が森に溶ける。消え際、肩越しに声だけが振り返った。


「……志貴が“本物”なら、焦げるのはあなたのほうですよ」


「ええよ。燃えるくらいが、丁度ええ」


一心の声は低く乾いて、森の底に沈んだ。

風は吹かぬまま、木々がざらりと軋む。

焦げた封の裂け目から、見えない煙が一筋だけ立ちのぼった。



甘い残り香が薄れ、境界の温度が戻る。

望の気配はきれいに消えた。

残ったのは、焔に炙られた土の匂いと、微かに鉄の匂いを含んだ沈黙だけ。


一心は封の裂け目に指を置き、石の芯で鳴る音を聴いた。遠い底で、地脈がまだ痛む。

志貴の香と血で縫われた継ぎ目が、辛うじて息をしている。

右手の指先に焦げの砂が触れ、黒羽織の袖口に小さな灰が落ちた。


本物は、選ばれて生まれるのではない。


魂が理を越えたとき、理のほうが頭を下げる。志貴は目指すのではない。

志貴は“なる”。それだけのこと。


胸の内で言葉は声にならず、ただ体温に混ざって沈む。

青黒い影が足元から深く沁み、苔の間を這って石の継ぎ目に沿った。


境界の森は、ふたたび色を失って、じっとこちらを見ている。遠くで、小さな小禽が一度だけ鳴き、それきり黙った。


王の傍に残れるのは、魂を焦がしながらもなお“香”を失わぬものだけ。

支配か、執着か。どちらにせよ、焼け残る“香”はひとつきり。


風はない。けれど、木々はゆっくりと身を捩り、影だけが長く伸びた。残された一心の影もまた、石の底へと深く沈んでいった。

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