第10話 誰がための香か
焼け爛れた柱の隙間から、白い煙がひと筋、ゆらりと昇る。
それは、破られた結界の――最後の息遣い。
黄泉とこの地を結んでいた、名残の呼吸だった。
宗像の中庭には、仮初の静けさが降りていた。
誰も語らず、誰も泣かない。
黙々と結界を織り直す黄泉使いたち。
治癒の式を、厳かに舞う者たち。
片脚を失った仲間に布をあてがう若き使い手の指先が、かすかに震えている。
志貴は、その光景を黙然と見つめていた。
裂けた羽織。乾きかけた血が、紅を刻んで布に貼りついている。
右肩の痣は、未だ昨夜の熱を宿し、神経の奥でじくじくと灼えていた。
焦げた布が肌に張りつき、動くたび皮膚が引き攣る。
その微細な痛みが、志貴の意志をじわじわと削ってゆく。
悔しさに任せて握り潰した手のひらには、深く刻まれた爪痕。
泥と血が指先に乾きつき、いまも落ちることはない。
髪には、乾ききらぬ灰が絡んでいた。
風に触れるたび、それはふわりと揺れ、誰かの記憶を振り払うように舞う。
白砂は焼け爛れ、黒泥へと変わり、
紅の血と混ざりあって沈んでいる。
命は、残った。
――それが、かえって、痛ましかった。
志貴の手は、人を癒せない。
裂けた魂を縫う術も、欠けた器を満たす力もない。
できるのは、壊すこと。拒むこと。
命を守るために築いた、“仮面”という名の檻。
それは、力ではなく、祈りだった。
己の弱さを封じ、誰かのために在ろうとする――意志のかたち。
少し離れた場所で、冬馬が指揮を執っていた。
黒の羽織を乱さず、負傷者の収容と結界の再構築を、寸分も違わぬ声で指示している。
けれど――一度として、志貴を見なかった。
“王”に、軽々しく視線を向けるわけにはいかない。
皆の前だからこそ、正しく距離を保たねばならない。
そう、冬馬は言った。
……だからこそ、ほんの少しだけ、志貴には寂しかった。
(……誰も、見てはくれへんのやな)
結界が新たに織られようとする、その刹那。
志貴の肩が、ずきりと疼いた。
痣が熱を帯びる。
風がひとひら、流れを変える。
志貴は、顔を上げた。
気配があった。
結界の底――否、“外”から、宗像を支えている、見えぬ気配。
鼻腔をくすぐる、焦がれるような香。
懐かしく、脆さを含まず、ただまっすぐな香り。
(……あのひとや)
一心。
姿は見えない。けれど、いる。
誰よりも早く、誰よりも深く、宗像の結界を“裏”から支えている。
志貴に気づかれることすら、望んでいないかのように。
志貴が仮面を壊したことも。
血に濡れた足で、今なお立ち尽くしていることも。
――すべて、見えている。
だからこそ、来ない。
必要とされる、その瞬間まで。
そして、屋根の上。
狐がいた。
蒼天を背に、薄藍の着物が風にたなびく。
片膝を立て、肘を乗せ、まどろむような微笑みを浮かべていた。
その指先が、ひらひらと蝶を誘うように揺れる。
まるで、こう告げるかのようだった。
――「助けて」と言ってみろ。
声にはしない。けれど、確かに届いていた。
志貴は、応えない。
狐は、笑う。
唇が綻ぶたびに、崩れていくのは――余裕の仮面だった。
志貴の瞳が、睨む。
仮面の落ちた庭から、その視線ひとつで――静かに刃を突き立てるように。
狐と王。
屋根の上と、血に染まった庭。
天と、黄泉。
ふたりの視線が交わるその狭間に、“理”の気配が、かすかに揺れていた。
そこにあるのは、もはや“距離”ではない。
対峙――だった。
黄泉使いたちは、誰も割って入ろうとはしなかった。
息を呑むように、その構図を見つめていた。
皆、理解していた。
この王と、この狐は――けっして、手をとらない。
志貴は、一歩も退かない。
裂けた肩も、傷む足も、その場に留まる意志を止められなかった。
視線だけで、狐を斬るように。
魂の奥で、拒絶の刃を研ぎ澄ませるように。
そして、狐はまた笑う。
その微笑みは、どこまでも柔らかく、どこまでも残酷だった。
(……やはり、“あの香”が残っていたか)
志貴の魂に焼きついていたのは、あの男の残り香。
狐の血も、言葉も、仮面も――
彼女は、何ひとつ受け入れなかった。
狐の仮面を拒み、砕き、
それでも“あちら”を望んだ少女。
(……壊すしかない。この娘の“王として選ぶ力”そのものを)
志貴の魂の底に宿る、“あの香”。
それだけが、すべての計算を狂わせた。
彼女はまだ脆い。それは知っている。
だが、誰にも触れられぬ影の奥で、香に縋り、あの男の名を落とした。
――それが、真実だった。
「まだその程度。
せいぜい、意地のかたちをなぞっているにすぎない」
沈黙は、もはや囁きに変わっていた。
「言ってごらん、お嬢。
誰の香に、王として染まるつもりなのか。
その香と魂ごと、喰らいつくしてみせる。
――王など、その程度のものだろう?」
そう言わんばかりの、沈黙の挑発。
けれど、その裏では、確かに“焦り”が、
狐の内奥に芽を出しはじめていた。
朝日が、ようやく、瓦の破片に触れる。
その光が、志貴の肩の痣を、わずかに照らした。
――それでも、彼女は目を逸らさなかった。
夜の残り香が、まだ微かに漂うなか。
志貴の眼差しだけが、王として――朝を迎えていた。
***
石造りの大広間――宗像家の奥殿、“声の間”。
香炉の煙は、まっすぐには昇らない。
石の天井の下で、とぐろを巻き、問いかけのように空気を這っていた。
衣擦れの音すら、床に沈むように重く響く。
“王の座”に座す少女――宗像志貴。
その身を、百の眼差しが、黙して見つめていた。
裾の焦げた羽織。
右肩の痣を覆う白布。
癒えきらぬ頬の傷。
血を拭う間も与えられず着座した志貴は、ただ、そこに在った。
背後に控えるのは、穂積冬馬と白川時生。
まるで左右に添えられた二振りの“剣”。
場の緊張を、鋭く研ぎ澄ませていた。
――だが、そこにあるべき姿がふたつ、欠けていた。
宗像本家当主・公介。
そして、特殊任務中の従兄・宗像一心。
誰も問わぬ。だが、誰もがその“不在”を、確かに感じていた。
「査問を始める」
そう告げたのは、津島の現当主――津島京一郎。
志貴の母・富貴の父にして、咲貴と志貴の祖父。
老木のような静けさを湛えながらも、その声音には根を張るような確かさがあった。
「宗像の地が破られた。だが――
真に問うべきは、“王の香”の在り方である」
その言葉とともに、空気が軋む。
香炉の煙すら昇るのをやめ、場の空気を震わせた。
「志貴が宿す痣が“白い炎”を呼んだという声がある。
また、力の制御に必要な補助を拒んだ理由を、
この場ではっきりさせていただこう」
京一郎の隣、津島家の筆頭――聡里が、言葉を継ぐ。
「“宗像のことは宗像で”という伝統を盾に、当主と補佐が姿を見せず、
王を擁護する構図は――
“宗像による王の私物化”と映っても仕方ありません」
咲貴もまた、静かに言葉を添えた。
「志貴は“香を選んだ”と語りました。
もしその香が、宗像の従兄のものであるならば――
それは“王の選択”ではなく、“個の執着”です」
「王が“私”に染まるとき、公共性は失われる。
その先にあるのは、“宗像だけの王”でしょう」
狐派の視線が、静かに、志貴を包囲する。
怒りではなく、整えられた沈黙の刃。
封殺の構えだった。
志貴は、動かない。
ただ、低く、けれど澄んだ声で応じた。
「……いややったんです。香も、声も、あの血も。
私の中を、ぜんぶ、塗り潰そうとしてた」
震えは、ない。
「怖くなかったわけやない。
ただ、怖いまま、檻を壊しただけや。
何もせんかったら、都合のええ“守られるだけ”の王になる。
――それが、嫌やった」
場に、かすかなざわめき。
誰かが、息を呑む音。
「壊した。拒んだ。
それが、私の魂が選んだ“選択”でした」
「たとえそれが、あの人でも、あの獣でもなくても――
私は、“私”を守る香を、選んだんです」
白川家の長老が、静かに問いかける。
「……己のための“抗い”、と?」
「はい」
志貴は、短く頷いた。
「仮面も、砕きました。
……でも、もう一度、作ったんです。
誰の意志でもない。
自分の魂が、それを望んだから」
場の空気が、ざわりと揺れた。
“仮面の再構築”――それは、常識の外にある奇跡だった。
狐派の男が、沈黙を破る。
「ならば――その香が、“王の獣”のものでない限り、
志貴様は“王の道”を踏み外したことになる」
言葉は穏やかに整えられていたが、その実、鋼鉄の断罪だった。
冬馬が、ゆっくりと一歩、前に出る。
「王が選んで、何が悪い」
声は静かだった。
けれどその静けさには、刃のような硬度があった。
「志貴は、誰にも強いられず、自分で選んだ。
香が誰のものであれ、それを否定するのは――“王”そのものを否定することや」
続いて、時生が言葉を継ぐ。
「香とは、魂に応じて応えるもの。
志貴が選んだのは、“侵してこなかった香”だ」
狐派の男が眉をひそめ、返す。
「“侵さなかった”というだけで、“王の香”と認めるのは軽率です。
公共性を欠いた王に、我々の未来は託せない。
香を“個”に染めた王――それが宗像の本意なのでしょうか?」
冬馬の目が、鋭く光った。
「“王”とは、皆のために染まるものやない。
誰のためにも染まらんからこそ――“王”なんや」
「“皆のための王”って、誰が決めたんや。
その“皆”に、王を喰わせるつもりか?」
一触即発の空気が場を包み、膠着する刹那。
その緊張を断ち切ったのは、志貴だった。
「……獣に導かれるために、王になったんやない」
香炉の煙が、まっすぐに天へ昇る。
場の空気が、静かに浄化されていく。
「宗像の後継として、王の痣を継いだ者として。
今日、この場に放たれた“言葉”のすべて。
私は、胸の奥に焼きつけました」
「たとえ誰の言葉でも、いつか必ず“答え”を求める日が来る。
……王とは、“忘れない者”のことやと思うんです」
その言葉に、誰かが息を呑んだ。
誰かの拳が、音を立てて握られた。
沈黙が、重く、静かに降りる。
王が、王として、ただ“在る”。
その姿だけで――場が、支配された。
「……脅しか?」
誰かの声が、低く這った。
だが志貴はまばたきひとつせず、真正面を見据えていた。
応じなかったのではない。
応じる価値すら、与えなかった。
それが“威圧”と映ったなら――問われるべきは、王ではなく。
視線を逸らした、その者のほうだった。
その姿に、誰もが見た。
“誰の香にも染まらない王”の輪郭を。
威圧ではない。
魂が、跪いたのだ。
京一郎は、目を伏せる。
椅子の軋む音。
衣が擦れる音。
けれど、誰ひとり、声を発しなかった。
この査問会は、“志貴ひとり”で押し切れると踏んで開かれた。
だが――志貴は、落ちなかった。
京一郎が、静かに告げる。
「……宗像志貴。おまえは、もう“守られる側”ではないらしいな」
その声は、讃辞ではなかった。
ただ事実として――王としての重みを、言葉にしただけだった。
「宗像志貴。これまで通り、宗像本家の後継として認める。
ただし、心身の均衡を鑑み、任務は二週間、停止とする」
異論は、出なかった。
否――出せなかった。
その決定に、誰もが納得したわけではない。
けれど、誰もが――魂で、理解していた。
志貴の痣が、白布の下で微かに疼く。
拒んだはずの血の残滓が、なお骨の奥で、燻っている。
――それすら、斬り離せたなら。
志貴は、静かに立ち上がる。
焦げた裾が、石を擦る音が、ひとすじ、空気を震わせた。
その歩みは、もう“誰のものでもない王”のものだった。
まぶたの裏に、朝の匂いが満ちてゆく。
夜はもう――どこにもいない。
けれど、香だけが、まだ残っていた。
夜の残り香は、静かに、静かに消えていった。
朝の匂いは、王にだけ――届いていた。
新たな戦いは、すでに始まっている。
誰にも触れられぬ、胸の奥で。
誰にも嗅ぎ分けられぬ、その気配を――志貴だけが、知っていた。
朝を迎えたのは、彼女だけだった。
香を識る魂だけが、夜の名残に――なお、応えていた。