異能の片鱗
『新世62年11月 昼 シャーウッドの森の獣道にて』
穴を掘るノアの顔は昨日までの幼い表情とはまるで違っていた。セルシオの墓を作り終えた彼は少しの荷物をまとめるとすぐに旅に出た。
言いつけどおり彼は東へ歩いた。彼が老人と暮らしていた家は森に囲まれるばかりで周辺に人の痕跡は何もない。
彼自身も記憶を失ってからの1年間、どこか他の村に出かけたことがなかっため、知り合いは誰もいなかった。
──とにかく誰か見つけなきゃ。今の俺はこの世界がどうなっているのか全然知らないんだ。
少年は人を探してがむしゃらに歩いた。昨晩の惨状とは打って変わって、昼の森は安全であった。果てしなく続く森林には悪鬼羅刹の類いどころか、うさぎの一匹さえもいない。
昨晩ノアたちを襲った怪物"夜真人"の特徴の一つとして夜行性であることが挙げられる。彼もその事実はセルシオから聞かされていたため、昼が比較的安全であることは理解していた。
午後5時頃 ノアはようやく獣道を抜け、舗装された通りに出た。太陽が背後に隠れ始める頃、彼は徐々に焦り始めていた。
──もうすぐ日が沈む。そろそろ化物がでてくる時間だ。早く誰か見つけないと……
不安そうに形見のペンダントを握りしめながら、ひたすら歩く。その時、彼の方に声が近づいてきた。
「誰かぁ!」
道の先から幼い子供が走ってくるのが見える。ノアは誰かと出会えたことに対する安堵を感じながらも、子供の様子に困惑していた。
その子供は泣き顔で、息を切らせながら走っていた。その子はノアの前で立ち止まると必死に訴える。
「にげなきゃ! にげなきゃ!」
ひどく焦る男の子にノアはしゃがんで声をかける。
「なにかあったのか?」
「はやくにげなきゃ! 夜真人がくるよっ!」
完全に日が暮れていなくとも夜真人は活動できる。既に日が沈み始めている今、奴らに追われることは何もおかしいことではなかった。
「どうしよ……」
セルシオのように戦うこともできなければ、どちらに逃げればいいのかも分からない。色々な懸念がノアの思考をかき乱し、数秒間無駄に立ち止まってしまう。
その間にも容赦なく怪物は彼らに接近する。人外の姿はすぐにノアの視界に入った。3m程ある紐状の獣。奇怪な音を立てながら、巨大な蟲は彼らの方へと俊敏に這いよる。
──なんだあの気持ち悪い化物……追いつかれちゃ駄目だ! 早く逃げないと!
怪物のグロテスクな姿が目に入った瞬間、ノアの体は本能的に動きだした。持っていたカバンを投げ捨てると、子供の手を握りしめて走り出す。
アテなどなかった。逃げた所で夜は深まるばかり。夜真人の動きはますます活発になり、もっと多くの怪物に追われることになるかもしれない。
それでも二人は走るしかなかった。一秒でも長く生き延びるために。全速力で走っている内に、徐々に巨大なミミズとの距離は開き、もしかしたら逃げられるのではないかという希望が見える。
そんな時、ノアの体が大きく傾く。後ろにいた男の子が木の根に足を捕られ、こけてしまったようだ。
「大丈夫か!? 立てる?」
「いたいよっ……」
男の子はうずくまって泣いてしまった。一瞬止まるだけでも致命的な状況、こうなればノアは男の子を放置して逃げるしかない。立ち止まったノアに泣きながら男の子は言う。
「いいよ兄ちゃん。ぼくのことはおいてにげて!」
大抵の人間ならここで自分だけ逃げるだろう。出会ってまもない人間の命を助ける道理などないのだから、それは悪いことではない。
しかしノアは迷っていた。当然、死ぬことが怖かった。今すぐ逃げ出したい思いで一杯だったが、一方で彼の中の正義感がそれを良しとはしなかった。
迷っている暇はない。再び怪物が接近し、決断の時が迫る。運命の二択がノアに提示される。
【見捨てる】 or 【見捨てない】
──あんな化物に勝てるわけない。それにまだ何も思い出してないのに、死にたくないよっ……
でも、きっとじーちゃんなら……
【見捨てない!!!!】
──俺はこの子を犠牲にすることなんて絶対にできない! じーちゃんが俺を助けてくれたみたいに、今度は俺がこの子を助けるんだ!
ノアは子供から視線を外すと、化物を見据えて立ち塞がった。
「なにしてんの!?」
「大丈夫……きっと数秒くらい稼げるさ」
戦う術など一つも知らなかった。夜真人と戦うどころか、誰かと喧嘩したことさえなかった。それでも勇気を振り絞り、彼は怪物の前に立ち塞がる。
「君は立って逃げろ! 俺のことなんか気にせずに走ればいい!」
そんなノアの決死の覚悟を感じとったのか、男の子は黙って立ち上がり逃げ出した。
──ごめん、じーちゃん。俺ここで死ぬかもしれない。でも死ぬ前に……せめて、できることはやってみるよ!
いよいよ夜真人が彼に襲いかかる。怪物はその胴体を器用に振り上げると、おぞましい口を開きノアに迫る。
とても怖かった。それでも彼はありったけの勇気を振り絞り、化物に向かって拳をつきだす。
忌々しいミミズの口が彼の浅黒い右腕に食らいつこうとしたその時、状況は一変する。想定していた痛みがこないことに違和感を感じたノアは目を開ける。
足元にはかつて怪物であったものが、巨大な氷塊となり無様に転がっている。どういうわけか怪物は凍り、ノアは助かったのだ。
──助かった……! なんで!? 誰か助けてくれたのか?
彼は焦って周囲を見渡したが、誰も見当たらない。
──もしかして俺がやったのか……でもどうやって?
危機的状況を脱した興奮は大きく、状況を冷静に考察することはできなかった。
その後、少し落ち着いたノアはさっきの子供を追いかけ、合流した。凍った夜真人の姿を見せると男の子はとても驚いて、しきりにノアのことを褒め称える。
「すごい……すごいよ兄ちゃん! まさか夜真人たおすなんてさ!」
「すっ凄いのかな……?」
「どうやったんだ? もしかして兄ちゃんサバトなのか!?」
「いやっ俺は……よく分からないんだ」
この時、ノアは気がついていなかった。自身がまったくの無意識のうちにSAN値を消費して、能力を発動していたことに。
[解説]No.2『雪女の右腕』
右手で触れた箇所を凍結させる能力。
能力対象が非生物ならばSAN値の消費はない。
生物ならば3d5(1~15)のSAN値を消費して対象の一部位を凍らせる。
今回は対象の形状的に手足などがなく、全身が一部位と認識されたため、一撃で凍らせることができた。ノアの能力は今回の相手とは非常に相性が良かったといえる。
ひとまず危険は去ったが、日はもうほとんど沈んでおり、更なる危機が彼らに迫っていた。
「どうしよう。もうすぐ日が暮れる……」
不安そうにノアが言うと男の子が自信ありげに答えた。
「大丈夫。僕の村、"ウルタール"はすぐ近くなんだ。案内するよ!」
これでようやく助かると思いノアはホッとしながら、子供に着いていった。再び日を背にしながら、二人は駆け足で"ウルタール"に向かうのであった。