地下室のクトゥルー
『新世62年 12月 夕刻 オトゥームの館にて』
「ここに来るのも久しぶりだな」
ノアがオトゥームの館を訪れるのは最初に来て以来だった。
「今日はメイドたちもいないから、自力でついてきてくれよ」
「大丈夫だよオトゥーム」
オトゥームの言う通り、館には誰もいなかった。しかしノアはこの二週間で盲目の世界にすっかり慣れていたから、一日目のように世話される必要はなかった。
ノアにとっては知らない部屋ばかりだったが、なんとなく空間を認識できるので、自由に歩くことはできる。
「どこに向かってるんだ?」
「ヒミツの部屋さ」
珍しくオトゥームの口数が少ないことに若干の違和感を覚えながらも、ノアは彼の後をついてくい。
青年がいつも持っている杖で、廊下の壁を小突くと本来あるはずのない扉が現れる。
「ここから少し降りるよ。足元に気をつけてね」
「あぁ。にしても何の部屋?」
「もう少し待ってくれよ……」
──なんか変だな。いつもはもっとうるさいのに。
二人は階段を降りていく。石の段差を一歩降りた瞬間からノアは不気味な寒気が止まらなかった。
──頭が痛い。だんだん気持ち悪くなってきた……
降りる程に腐敗臭が強くなっていく。アマビエのいた泉で嗅いだものより、ずっと強い生臭さだった。
「オトゥーム、ここは嫌な感じがする。何があるんた?」
「……」
そんなノアの疑問に答える声はなかった。普段は誰より明るく快活なオトゥームが、珍しくなにか言いにくそうに口ごもっている。
「あぁ、すまない。考えごとをしてたんだ。それでね、我々はとあるミッション遂行のために今日まで頑張ってきたんだよ」
「ミッション? それって夜真人と戦うことじゃないの?」
「それもそうなんだが、もっと重要で世界を救い得る試みを私たちはしていてね。それもあと少しで達成できそうでね」
「?」
「少し昔話をしようか」
突然昔話を始めるものだからノアは面食らっていた。それに青年が柄にもなく真面目に話すのが余計に気味悪い。
「人間が生まれるずっと前、太古の地球には13の邪神が存在していたらしい。その中の一体が我々の先祖のようなものなんだが、その話は一旦置いておこう」
「意味が分からないよ」
その話を聞いてからノアは自分でも原因の分からない興奮で体が熱くなるのを感じていた。身震いするような寒気と火照りが身体の奥から同時に込み上げてくる。
「まぁ落ち着いて聞いてくれ。その13体のうちの1体で、当時は海を支配していた神がいるんだ。強力な力を持つその邪神は名を"クトゥルー"という」
その名前を聞いた瞬間、ノアの頭痛が激しくなり、吐き気が襲ってくる。
「邪神って言うのはね、意外と優しいもんで私たちサバトに力を化してくれる。私たちにはそれぞれ契約邪神がいて、そのおかげで夜真人と戦えるわけだ」
「オトゥーム……気持ち悪いよ俺……」
「辛くとも君には知っておいて欲しいことなんだ。我慢してくれ」
ノアの辛そうな声に容赦することなく、オトゥームは階段をどんどん降りていく。
今さら戻るわけにもいかず、結局ノアは階段の一番下まで降りてきた。そこにはさほど広くはない地下空間が広がっているとノアは分かった。
生臭い冷気が彼の肌を厭らしく撫でる。
そこに降りた瞬間から、ノアは常に誰かの強烈な視線を浴び続けていた。
そして目の前の"何か"を認知した瞬間、彼は震えが止まらなくなる。あの肝っ玉のオトゥームでさえ手に汗を握っている。
そこには鎖で何かが拘束されていた。太い鉄鎖が荒ぶる音を確かにノアは聞き、身体を震わせる。
彼はSAN値が急減少していくのを初めて実感する。
──これがSAN値が減る感覚……? 思考が乱れて何も考えられない、怖いっ、何でもいいからここから離れたい!
「オトゥームっ! なっ何がいるんだっ!?」
「落ち着くんだノア。彼OR彼女は眠っているから大丈夫だよ」
「ふざけてる場合か!?」
「おっと、すまない。今の時代ジェンダーには厳しいからね……」
オトゥームが冗談を言うのは、目の前の存在を内心恐れていたからである。それを隠すために彼はわざと明るく振る舞っている。
「オトゥームいったい、なにを企んでる!?」
ノアは怖かった。いままで信用してきた人たちが、なにかとんでもなく邪悪な計画を企てていて、自分がそれに荷担してしまっている可能性があることに気がついた。
「これは希望なんだ」
目の前にいる醜悪な何かは希望と言う言葉とは程遠い存在であるとノアは感じている。正気度を失い、半狂乱状態の彼はオトゥームに噛みつくように叫ぶ。
「これが希望!? そんなの信じられないよ!」
「悪魔の力を借りなければいけない所まで人類は追い詰めらている。綺麗事は言ってられない!」
目の前の塊がドクンと脈打つのが分かり、ノアの顔は真っ青になった。
「俺もうっ、ここにいたくない……」
そう言うと彼はその場で三角座りで丸くなった。
「答え合わせの時間だ。もう少し我慢してくれ。並みのsan値ではこいつを見ただけで即死さ。だから私は街の人、全員の視界を奪っている」
街に来て最初に気になったことは全員が盲目である理由。それに対する納得のいく回答をようやく得ることができた。
目の前のクトゥルーという名の邪神の形を想像しただけで鳥肌が止まらない。もしもその姿を見てしまえば、永久的狂気に堕ちるだろうと二人は感じている。
「私たちの役目はね、このクトゥルーの体を集めることなんだ。既にサバトキングダムの管轄下と各国に9割が集まっている。散らばった残りの1割を集めることが私たちの役目だった。そして今ここにその1割がある」
「まさかっ……」
「これがサバトキングダムに渡れば一気に状況はよくなる」
「まさか……! クトゥルーが復活するのか?」
「あぁ」
「絶対にだめだ! こんな邪悪が目覚めたら、人も夜真人も関係なく皆滅ぶ。最悪の未来が来る……」
この世の地獄が目裏に浮かぶ。人はおろか夜真人さえ生き残ることはできない未来を彼は見た。
「この悪魔を乗りこなせる人間を一人だけ知っている。彼がきっと全ての夜真人を倒す!」
「そんなやついるわけない!」
「ノアには本当のことを話しておきたかったんだ。今日の夜が最後の勝負。だから私を信じて、協力してくれノア。君の力が必要だ」
「そんな……!」
「我々はね、人類の希望を守りきり、必ず託さねばならない」
──こんな邪悪を復活させるために俺は戦うのか!? オトゥームは……サバトキングダムはいったい何が目的なんだ!?
それだけ話し終わるとうずくまるノアにオトゥームが肩を貸し、二人は地上に戻った。
今なお、あの陰湿な地下に凄まじき邪悪が眠っていると考えただけでノアは怖くて仕方がなかった。
何もかも投げ出して、この街から逃げたかった。しかしセルシオから託されたペンダントと使命感が辛うじて彼を引き留めいた。
自分の過去と真実を知る必要があるという強烈な使命感が彼の心が完全に折れるのを防いでいた。
しかし決戦数時間前に関わらず、ノアの心は大きく揺らいでいたことは間違いない。




