記憶喪失の少年とサバトの老人
『新世62年11月 夕暮れ シャーウッドの森 とある家にて』
小さな家で二人は暮らしていた。杖をついた白髪の老人と褐色の少年、二人が出会ってから一年になる。
「なんか思い出したかノア」
秋の風が吹き荒れるなか、二人は暖をとりながら食卓をかこんでいた。
「なーんにも」
老人の問いに少年ノアはマヌけた声で答えた。
「おぬしは自らの過去を知りたいとは思わぬのか?」
「よく分からないんだよ。自分がどんな奴か知って良いことなんかあるのかな?」
老人は手際よく紅茶を煎れながら話を続ける。
「そうじゃなぁ……ワシがもう少し若ければのぅ」
この老人、セルシオは御年80歳。この世界の医療レベルでは大往生と言ってよい。
本人も自覚しているように、その命はもうそれ程長くはなかった。
「セルシオじーちゃんが死んだら俺どうすればいいんだろ」
少年ノアは不安そうに言う。彼はまだ16歳ぐらい、ひとりで生きていくには若すぎる。そして記憶喪失の彼には他に身寄りなどなかった。
「ワシとしては幸せに生きてくれりゃそれでええ」
「幸せに生きるのってすごく難しよ」
まったくノアの言う通りであった。混沌と狂気にまみれたこの世界では普通に生きることさえ夢のまた夢。
今や世界の総人口はたったの7億人。1945年時点で50もあった国家のほとんどが滅亡し、2000年現在残ったのは4ヵ国のみ。
人口減少は深刻で、物資も絶望的に不足していた。特権階級以外の生活レベルは中世以前と変わらないレベルにまで低下していた。
それも全ては『六度目の大量絶滅』がもたらした結果である。
「ワシの若い頃とは状況が違ったな。だが記憶さえ戻れば案外どうにかなるかもしれんぞ!」
「過去なんてどうせロクでもないさ。それよりっ!前に言ってたやつできた?」
少年は老人の心配などよそに、能天気に別のことを考えていた。
「あぁ手直ししておいたぞ。ほれこんな感じでどうじゃ?」
老人はポケットから紐のついた石を取り出すと少年に手渡した。少年はペンダントを手に取ると上機嫌に眺めてから首にかけた。
「これすごい綺麗だね!」
四角錐の緑色の石は炉の火を反射して綺麗に光っている。
「そうじゃろ? フローライトには魔除けの効果があるんじゃよ。きっと"夜真人"からお前を守ってくれるよ」
「ありがとう! 大事にする」
「気に入ってくれたんなら良かった。そうじゃ! 話は変わるが最近腰の調子が良くなってきたんじゃよ」
「そうなんだ。それは良かった」
「そこでどうじゃ? 二人で記憶を探す旅に出てみるんわ?」
「もぅ! 記憶の話はいいよー。それより俺、もう寝る時間だ」
「おっともう夕暮れか」
あくびをしたノアはいそいそと寝室に向かった。
「おやすみじーちゃん」
「あぁ、おやすみノア」
老人は優しい顔つきで答えたが、少年の姿がなくなると深くため息をついた。
彼は少年を実の孫のように感じていたが、それだけにひどく気を労していた。
──ワシが死んだらノアはどうなる? 記憶のないアイツがいったいどうやって"夜"を生きるんだ。
不安と共に日は沈み、ヒトの時間は終わりを向かえる。
木どもが轟々と喚き、宙には数多の陰湿な眼が煌めいている。暗い森の向こうから"奴ら"は息を荒立て迫り来る。老人は鋭い感覚でそれを認識していた。
「穢れた"夜"が来るか」
彼は杖を持ち、立ち上がると玄関から外へ出た。脳まで響く冷気を横切りながら老人は歩を進める。
「人の世はまさに悲劇そのものだ」
日暮れから10分程でセルシオの家はすっかり包囲されていた。そこにいるのは悪鬼羅刹・魑魅魍魎。理の外に生きる異形の群れ。
「それでも人は希望を捨てず今日を生きる」
人外を前にしながらも老人は世迷い言を宣いながら闊歩する。そこに恐怖などなく、その双眼には屈強な闘志が宿っていた。
「これはワシにできる最期の抗い」
右手に持っていた杖で軽く地面を叩くと、杖は剣に姿を変えた。抜き身の剣が月光を反射し、怪しげに輝く。
「姫の遺志、必ず後世に託します」
猛接近する一匹の怪物、セルシオは身動ぎもせずに深く呼吸する。迫り来る異形の牙、老人の一閃が魔を屠る。
「先ずは一匹ッ!」
黒い血と怪物の悲鳴が月夜に舞う。死と共に"夜"の戦いは始まった。