第七十四話 水鳥の舞
ボコボコと泡を出しながら海の底へ沈んでいくモモネ。
ピクリとも動かない彼女は昏倒しているわけではく……無駄に体力を消耗しないようにしつつ脳みそだけを高速で稼働させている。
そんな彼女と海面を往復しているいくつかの淡い輝き。
モモネの呼び出した医術の精霊たちである。
大きな泡を抱えている精霊。
海面からモモネに空気を運んできているのだ。
敵は……魔術師マティアスは海中戦に特化した奇妙な異能使いだ。
海のフィールドの魔術結界を展開して相手をそこに誘い込んで仕留めるのが彼の常用戦術なのだろう。
(泳ぎはまあまあ得意な方ではありますが……。この暗い海の中を慣れた相手を探して泳ぎ回るのは得策ではないですよね)
その時、何かが頭を下にしているモモネの首に巻き付いた。
「!!!」
その何かを掴んで引き剝がそうともがくモモネ。
しかし、そのヌルヌルとした何かは異常に頑丈で彼女のパワーをもってしても引き千切る事ができない。
『フハハッ!! これぞ我が魔術「絞首昆布」ッッ!! さあ絞首刑となって頂きましょうか……天頂!!!」
聞こえてくるマティアスの哄笑。
恐るべき強度の昆布が容赦なく首を締めあげてくる。
このままでは窒息する前に首をへし折られてしまいそうだ。
(仕方がありません……ここで体力を消耗するのは避けたかったけど……)
彼女の嘆息が無数の泡となって海面に向かって昇っていく。
『ヌッ……!!?』
困惑気味のマティアスの呻き声。
視認していたモモネの姿が消えた。いや、正しくは突然巻き起こった海水の流動で見えなくなってしまった。
『おおぉぉぉッッッ!!!!!?? 何だ!!!?? 何だぁッッッ!!!!???』
それだけではない。どんどん勢いと規模を増す海流にマティアス自身も飲み込まれてしまう。
上下左右すら定かではない程に揉みくちゃにされて魔術師は必死にそこから逃れようと手足をばたつかせた。
「……バッはぁッッッ!!!」
突然陸地に投げ出され転がるタキシードの男。
(り、陸地ィ!!?? なんで……!!??)
ここは彼が作り出した魔術結界の内部。海か岩場しかない世界だ。
平坦な陸地は存在しないはずなのに……。
「……………」
周囲を見回したマティアスが己の現在位置を理解し、そして青ざめる。
巨大な渦の中心に今自分はいる。
陸地だと思っていたのは露出してしまった海底だったのだ。
周囲を筒状に轟音を立てて流動する渦に包まれている。
……そして目の前にはモモネが立っていた。
「うぐ……ッ!!!」
絶句する魔術師。
その彼の前でモモネは手にしていたメスを胸のポケットのケースに戻した。
首を締めあげていた昆布をそのメスで切ったのだろう。
(海中で高速回転して渦を作ったというのかッ……)
理屈ではそうわかっても感情的には納得ができない。
そんな事をできる者がいるものか。
だが……それをやるから彼女はゼニスなのだ。
人造の大渦は徐々に勢いを弱めている。
周囲を囲む水の壁が少しずつ狭まってきている。
間もなくこの場も元のように海水の下になるだろう。
彼女がそれを許してくれれば……だが。
「ッッ!!!!」
立ち上がりながら横に跳びマティアスが水壁に飛び込もうとする。
とにかく海中へ逃れなければ万に一つも勝ち目はないのだ。
「おわぁあぁぁ!!!??」
悲鳴を上げるマティアス。目の前にモモネが立っている。
水壁を背負って仁王立ちで。
さっきまで自分の正面にいた彼女が横へ跳んだ自分のまた正面に……。
「ごッッぶぅぅぅぅ!!!!」
本日三度目の拳を腹に受けて大きく後方へ吹き飛ばされた魔術師。
渦の中央へ強引に戻されてしまった。
だがそうしている間にも渦の縮小は続いている。
海底にも薄く水が張り始めて水かさは徐々に増していく。
もう少しだ……後ほんの、数十秒。
「モモちゃんトルネードっていう名前にしようと思うんですけど、どうでしょう?」
……今になって渦の名前付けてる!!!!
数十秒が永遠のように長い。
向こうも一気に畳みかけようとはしてこない。
あと一発耐えられれば海へ逃れられる。
あと十数秒間をやりすごせばこの場は再び海に沈む。
「……はぁっ!! はぁっ!! ぜぇッ!! ぜヒュぅぅぅ!!!」
呼吸が乱れる。緊張感と恐怖で卒倒しそうだ。
海だ。
海の中へ……。
海中であれば水の抵抗で彼女の攻撃の威力も大幅に減じられるはず。
もう後十秒もあれば……ッッ!!
……ブツン。
暗転。
途切れた。そこで。
必死のカウントも。
視界も意識も……何もかもが一切合切「無」になる。
……………。
空にヒビが入る。世界が崩れ落ちていく。
無数の破片となって消えていく海の風景の向こう側にはいつものジュリエッタ邸の大きな庭園があった。
そしてそこに、意識を失ったマティアスが転がっている。
「『天翔・水鳥舞』」
ハイキックの姿勢で高く上げていた右足を下すモモネ。
音もなく神速の蹴りを放った彼女。
一切の痛みなき一撃。
これを受けた者は苦痛を感じるよりも早く攻撃を受けたという認識すらもなく……意識か或いは生命を刈り取られる。
倒れているマティアスは自分が攻撃を受けたこともわからなかったし、自分が倒されていることにも気付いていない。
拳仙の誇る最も慈悲深く、それでいて最も残酷な無双の一撃であった。
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丸太のような剛腕が地面と水平に力強くスイングされる。
大気を切り裂くような……いや抉り取るかのような水平チョップ。
「フンぬおぁぁぁぁぁッッッッ!!!!!」
胸板に猛打を浴びて修羅の形相になる大龍峰。
バシンと響き渡った音と衝撃は生身の肉体同士がぶつかったものとも思えない。
だが数歩を下がりながらも大龍峰は耐えて踏み止まる。
「……どォらぁ!!! 鬼鉄砲じゃい!!!!」
攻勢に転じた元横綱。
怒涛の勢いで繰り出される張り手が容赦なくバーバリアンを打ち据える。
「グおおおおッッッ!!!!」
浴びる。
連打される掌底を全身に浴びる。
血飛沫が床に散り赤い斑模様を描く。
「しッッぶといのォォォッッッ!!! 何食ったらそんな頑丈になるんじゃい!!!!」
悪態を付きながら組み付いた大龍峰。
バーバリアンの腰のベルトを掴み腰を低く落とす。
「ほんならこれはどうじゃぁッッ!! 『阿修羅寄り』じゃあ!!!!」
巨漢レスラーに組み付いたままで猛然と突進する力士。
抱えられ押し込まれるデビル・ザ・バーバリアン。
巨漢の老いたプロレスラーが背後の金属の壁に叩き付けられる。
グアッッシャァァン!!!!!!!!!
分厚い金属の壁が無残に凹み、そこに埋め込まれているバーバリアンから離れる大龍峰。
両手を広げて壁にめり込んでいるレスラーの姿はまるで磔にされた聖者のようであった。
「……終わりじゃい」
仕留めた確信があった。
今の手応えで立ち上がってきた者は誰もいない。
……そう、これまで誰一人としてだ。
勝ちを確信したというのに大龍峰はどこか浮かない表情だ。
その脳裏に過去の情景がフラッシュバックする。
……………。
あれは自分がまだ生まれ育った東州にいた時の話。
「……國光、髷を落としてくれ」
土下座で頭を下げているのは親方だ。
自分にとっては親代わりでもある恩師だ。
……何故だ?
何故自分が土俵を去らなければならないのだ。
誰よりも強い……横綱の自分が。
「もう……角界にはお前の相手が務まる力士はおらんのだ。皆お前と立ち会えば壊れてしまう。だから頼む!! 引退してくれ、國光!!」
去るのならば弱い者だろう。
そう思うが、それが無理な話である事も理解してしまっている。
自分基準で弱い者が去るのなら自分以外の全力士だ。
それでは……誰も残らない。結局興行は成り立たなくなってしまう。
自分は力士だ。相撲取りだ。
誰よりも相撲を愛している。
その自分が……相撲界を追われようとしている。
どの力士も自分には付いてこれなかった。
同じ高みに至ろうとする者はいなかった。
……孤独だ。
相撲界を飛び出し傭兵の世界に身を投じ数多の強敵と渡り合ってきた。
だが武器を手にした強者たちとどれだけ死闘を演じてもその孤独感が癒えた事はなかった。
……………。
黒いマスクの老人の分厚い口髭の片側が上がった。
「……フーゥ、おっといかんいかん。お前の攻撃があまりにも心地よくて、ついうたた寝をしてしまっておったわ」
「……!!!」
ベキベキと音を立てて壁の窪みからバーバリアンが抜け出てくる。
強がりであることは明白。その膝が微かに震えているのを大龍峰は見逃しはしない。
「はは……」
自然と笑っていた。それは嘲笑ではない。
「ぐあはは……!!」
大口を開けて笑う力士の目尻にほんの僅かに涙の玉が浮いていた。
デビル・ザ・バーバリアンが右肩をぶんぶんと回している。
「プロレスラーは相手の攻撃を避けてはいかんのだ。だがお前はレスラーではない。これは避けても構わんぞ……?」
「ほざきよるわい!!!」
バアン! と自分の胸を張ってから大龍峰が迎え撃つ態勢になる。
「ワシは横綱大龍峰!!! どがぁな時もがっぷり四つじゃ!!! 逃げの相撲を取った事なぞ一度もないわぁッッッ!!!!」
「その意気や良しッッ!!!」
右腕を水平に構え、バーバリアンが突進してくる。
「ならば受けてみるがいい!! この地獄の使者の一撃を!!!!!」
渾身のラリアートが大龍峰の首に決まる。
「D・S・Bッッッ!!!!!!」
「ぐぅおあぁぁぁッッッ!!!」
……耐える。
倒れずに持ちこたえる。
頭蓋を脊髄ごと引き抜かれたかのような痛みと衝撃に耐えて大龍峰は咆哮する。
「どうじゃい……ぬぁ!!??」
腕を掴まれ、前に引かれた。
つんのめるように元横綱の上体が泳ぐ。
それをバーバリアンがお辞儀をさせるかのように下を向かせ、太い首を右脇に抱え込んだ。
(がぁッッ!!?? いけん!!! この体勢は!!!!!)
抱え上げられる……!!
それを察知し大龍峰が必死に浮き掛かった両足をバタつかせる。
だがラリアートを受けたダメージが濃く残る身体が上手く言う事を聞いてくれない。
「ふんぬぅぅぅぅぅッッッ!!!!」
吠えるバーバリアン。
大龍峰の両足がついに床を離れる。
そしてそのまま巨漢の力士は足を上に、頭を下にして抱え上げられた。
「堪能したぞ。本物の力士の力をな……!! これはその礼だ!! 受け取るがいいッッ!!!」
「おおおおおおおッッッ!!!!!」
バーバリアンが相手の首を抱え込んだまま地面に垂直に落とす。
「H・F・B ッッッ!!!!」
ドガァッッッッ……!!!
今度は金属製の床がひしゃげた。
長い息を吐いてバーバリアンが大龍峰から離れる。
頭を下にして直立の体勢になっていた力士がゆっくりと倒れた。
「……うぅ、おおお……」
何かを探すかのように大龍峰の手が虚空を掻いている。
全身をガクガクと揺らしながら力士が立ち上がってくる。
「まだ……まだじゃい……」
脳天からの激しい出血が顔面を真紅に染め上げている。
それでも大龍峰は震える手をバーバリアンに伸ばす。
「まだ、これから……」
倒れられない。
倒れるわけにはいかないのだ。
倒れたら……終わってしまう。
この幸福な時間が終わりになってしまう。
「まずはこちらの一勝だ」
「!!」
両腰に手を当て胸を張り、レスラーは好敵手の姿を見ている。
「再戦はいつ何時でも受け付けておる」
「……ふ、ははっ」
ぐらりと大きくよろめいてから……遂に力士は倒れた。
「ほんなら……チィと……小休止じゃ……」
そして大龍峰は目を閉じてそのまま動かなくなった。