第六十話 記憶の世界
……不思議な光景であった。
極寒の地獄である霊峰の頂上……切り立つ尖った岩であるはずのそこには丸で平らに削り取ったかのように平坦な空間が広がっているのだ。
それだけではない。
ここだけは小春日和のように暖かく、地面には草花も生えている。
「相変わらず面妖な空間だな、ここは」
ここを訪れるのは三度目になるレグルスにとっては知った光景であるが、ほかの面々は目の前の光景に言葉を失っていた。
ちなみに同行者は試験を受けるミレイユと付き添いのジュリエッタとシンラの二人だ。
レグルスは「いずれまた来ることになるんだから下見しとけ」と二人も連れてきたのである。
「ようこそ皆さん。歓迎いたしますよ」
微笑みながらゆっくりと歩いてくる糸目の神官。
その背後にも従者のように二人の神官がいるが、こちらは神官の筒状の大きな帽子を目深に被っている上に目から下を布で覆っているために人相はわからない。
「出やがったなニヤニヤ男め」
「ふふ、お久しぶりですねレグルスさん。……三度目の挑戦、今度こそ上手くいくようにお祈り申し上げます」
糸目の神官はそう言って慇懃に一礼した。
「他の皆様方はお初にお目に掛かります。私は『記憶の神』メト・レクタ様にお仕えする神官でアーサーと申します」
アーサーの挨拶にミレイユたちも丁寧に礼をする。
「今回の挑戦者のミレイユ・ノア様ですね。そして……」
「付き添いのジュリエッタとシンラだ。見学させるぞ。コイツらはまたいずれここに来る。今回はギルドがダメだって言うんでな」
レグルスの紹介にアーサーがなるほど、とうなずく。
「わかりました。歓迎しますよ。あんなもので乗り込んで来るのですからもっと大勢でいらっしゃるかと思ったのですがね」
「いいんならもっと連れてくるんだったな。ブチ切れて追い返されたら自分らだけで戻れるようにこの二人だけにしたんだが」
レグルスが思っていた以上に神殿はオープンらしい。
「当然ですよ。ここは試験会場としてお貸ししてもいますが本来はメト・レクタ様の神殿です。お祈りに来る方はどのような方でもお入り頂いて構わないのです。こんな場所にあるせいで誰もいらっしゃらないというだけで……」
ふぅ、と物憂げな吐息でアーサーが軽く頭を横に振った。
そして糸目の神官は何かを思いついたかのようにパンと手を打つ。
「そうだ。折角いらしたのですから、お二人も認定試験を受けてみてはいかがですか? ダメだったとしても目指す山の高さを知ることは決して無駄にはならないでしょう」
「あ? いいのかよ。ギルドはダメだっつってるんだぞ」
言われた二人よりもリアクションが大きいレグルスだ。
「構いませんよ。ギルドが試験を受ける人を絞っているのは道中で死なさないためです。ゼニスを志すような有望な人材はなるべく失いたくないですからね。貴方もご存じの『あの機構』はここにしかありません。だからここを試験会場にせざるを得ないのですが、その為に道中で脱落者を出してしまうことはずっと昔からギルドの悩みの種なのですよ」
「ゼニスになりたいならこのくらい超えてこいって事じゃないんか」
レグルスはずっとそうだと思っていた。
ここを踏破できるような者でなければ試練を受ける資格もないのだと。
「そのように解釈されている方も多いようですがまったく見当違いです。ここでなくてもいいのならもっと交通の便のよい大都市を試験会場にしていますよ」
「だ、そうだ。よかったなお前ら、試験受けられるぞ」
背後のジュリエッタとシンラを振り返るレグルス。
やったぜ、みたいに彼は親指を立てているのだが……。
「……いえ、よかったなというか」
喜んでいいものかどうか複雑なジュリエッタである。
そんな彼女の肩にシンラがポンと手を置いた。
「確かにあの神官殿の言う通り、目指す高みを知っておくというのは今後の為になるだろう」
「シンラ……。はぁ、わかりましたわ。最近不意打ちが多くて心が摩耗してしまいますわね」
ジュリエッタが苦笑している。
「さ、そうと決まればパパッと試験終わらせちゃいましょう。今回はゆっくりしていけるのですか? 晩に食べたいものとかあります?」
「ええい田舎に住んでる親戚のオバちゃんかお前は」
足早に神殿に戻っていくアーサーに付いていきながら突っ込むレグルスであった。
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そして、レグルスたちのゼニスへの挑戦……いよいよその本番がスタートした。
伝説の称号を得るための旅の終着点。
アーサーに伴われ神殿の一室へやってきたミレイユ。
そこは簡素で小さな部屋であった。
家具らしきものは部屋の中央に備え付けられた一脚の石造りの椅子だけだ。
「ではミレイユさん。あの椅子に座ってください」
「はい」
迷いのない足取りで椅子へ向かいそのままそこへ座るミレイユ。
すると、ふいに眠気に似た脱力感に襲われ目の前が真っ暗になる。
「……!!」
再び彼女が目を開くと周囲の光景は一変していた。
乾いた風を感じる。屋外の……どこかの荒野だ。
周囲を見回すミレイユ。
神殿も、自分が座っていたはずの石の椅子もどこにもない。
高野の只中にぽつんと自分は立っている。
「ここは『記憶の世界』です。ミレイユさん」
いつの間にか隣にアーサーが立っている。
「記憶の世界……」
「そうです。あの椅子に座った時点での貴女を世界の記憶から再現した存在……それが今の貴女です」
神官の説明は難解である。
自らを見る。
彼女の正装でもあり戦闘服でもある紺色のローブもそのままだ。
「身に着けているものも全て完璧に再現されています。見た目のみではなく性能もです。ご心配なく」
アーサーは穏やかに微笑んでいる。
「私は複製で本物のミレイユ・ノアではない。そういう意味でしょうか」
「何を持って『本物』と定義するのか……その話は長くなってしまうので今はやめておきましょう。大事なのはここでの経験と記憶は本来の貴女に還元され共有されるという事です」
目を閉じるミレイユ。
彼女は素早く頭の中で現状と神官の言葉を整理する。
ここでの経験と意識が現実世界の自分に連続しているというのなら……。
「わかりました。今はこの世界がどういったものであるのかという事や自分という存在については深く考えないようにします」
それが結論だ。
その部分は今からあるはずの試練には恐らく無関係。
「助かりますよ。レグルスさんはそのあたり『納得いかん!』とかなり長時間問答になりましたからね」
はは、と当時を思い出したのかアーサーが苦笑している。
そして、アーサーは糸目を薄く開いた。
「これから貴女には十人の人物と順番に戦ってもらいます。一戦ごとにコンディションは現在の状態にリセットされますから連戦の事は考慮しなくても大丈夫です」
ぞく、とミレイユの背筋に冷たい痺れが走った。
察したのだ。
これから自分が戦う相手とは……恐らく……。
「ええ、そうです。その十人は記憶から再現された『天頂』の称号を持つ者たち。最後に全員に貴女がゼニスに相応しいかを判断してもらいます。十人中六人以上が合格を判定すれば貴女にはゼニスの称号が与えられます。五人までならば不合格で……」
『貴女は氷を使うのね! 面白いじゃない!!』
アーサーのセリフの末尾にかぶさるようにして響き渡った女性の声。
見れば紅い女が立っている。
紅い……そうとしか言いようのない若い女性。
ウェーブの掛かった真紅の長髪に真紅の鎧……その下には純白のドレス。
真紅の外套を風にはためかせた勝気そうな美女だ。
ミレイユの得意な魔術は知識として知っていたわけではないだろう。
彼女の纏った魔力から読み取ったのだ。
恐るべきその精度。
ミレイユは自身の骨格まで見通されたような気分になる。
紅い女性がパチンと指を鳴らすとボッとそこに炎が灯った。
「私は炎よ。どちらが優れているのか勝負と行きましょうか。……名乗りなさい」
「ミレイユ・ノアと申します。よろしくお願いします」
名乗って物静かに一礼するミレイユ。
「私はファルメイア……『紅蓮将軍』イグニス・ファルメイアよ。……ちょっと貴女、もうちょっと元気よくできないわけ? 私だけ鼻息荒くしてるみたいで虚しいじゃない」
そんな軽口を……ミレイユは聞いていなかった。
彼女は今空を見上げて全力で魔力の集中に入っている。
「……ッッ!!!!!」
太陽が……落ちてくる。
まるでそう錯覚するほどの大火球が天から降ってきているのだ。
「まずは軽くジャブからね。お手並み拝見といきましょう」
燃え盛る真紅の大火球を瞳に映して薄く笑うファルメイアであった。
…………………。
……………。
………。
ハッとミレイユが両眼を見開いて全身を震わせる。
……元の神殿の一室である。
彼女は石の椅子に座っている。
はぁ、とミレイユは全身で息を吐いた。
まだ全身の神経は張り詰めたままだ。
動悸は早鐘のように鳴り響いている。
「お疲れ様でした」
そして椅子の脇に立っているアーサー。
「記憶の世界では現実世界の時間は流れていません。今の時刻は貴女がそこに座った時刻のままですよ」
「そうなの……ですか……」
驚くミレイユ。
彼女の体感では十人のゼニスとの戦いで数日が経過している。
疲労や負傷は都度リセットされるので残ってはいないのだが記憶は連続しているので精神的にはかなり疲弊している。
「……一勝もできませんでした」
暗い表情でうつむくミレイユ。
十人のゼニスたちは誰もが想像を絶する実力者たちであった。
自分も必死に食らい付きはしたものの……結果は十敗。
「………………」
穏やかに微笑んでいるアーサーは何も言わない。
言えない決まりになっているので彼は口にはしないが、ゼニスたちは大半が全盛期と言ってよい状態で再現されている。
つまりこの試験は初めから十敗して当然という難易度が設定されているのだ。
『敗戦にこそ、その者の本質が現れる』
この試験を考えた者のその思想が土台になっている。
……単なるドSなのではという意見もないわけではない。
「結果は後ほど。さあ、皆さんの所へ戻りましょう」
そう言って部屋の扉を開き退出を促すように一礼するアーサーであった。