第五話 彼はおともだち
「これは何なんだよ」
不機嫌なレグルスが肩越しに背後のエドワードを親指で指す。
不満をぶつけられている相手はエンリケだ。
トレーニングウェアを着ており首にタオルを掛けている都市長。
運動してきた後らしい。若干まだ息は乱れたままだ。
「彼のたっての希望でね。確かに君のような傑出した人物と行動を共にすれば色々と得るものもあるだろう。将来有望な若手だ。よろしくしてやってくれ」
シェリルから飲み物を受け取って喉を潤すエンリケ。
「いらねーんですよいりませんよ。返品する。っつーかシェリルさんと交換してくれ」
レグルスの言葉にシェリルは返事はしなかったが「コラ」と一瞬窘めるような口の動きと表情をしてから苦笑した。
「そうはいかないよ。彼女は優秀でね。いてくれないと僕の仕事の効率も随分落ちてしまう。個人的に仲良くしてもらうのは構わないがね」
先日の一夜の事を知っているのかどうか、それはわからないが汗を拭って笑う都市長だ。
やれやれといった風に大げさに嘆息するレグルス。
「……お前本当に運動始めたんか」
「うん。今も走ってきたところだ。何かあった時に戦力にはなれないにせよ、足手まといになるようでは目も当てられないからね。まずは体力作りからだ……鈍った身体には堪えるよ」
はは、とエンリケは苦笑する。
「いきなりハッスルして心臓止まっても知らんぞ」
……酷い事を言うレグルスであった。
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北の帝国の姫である皇女ミレイユ。
凍て付く魔術を使う凍りついた心を持つ神秘的な美女。
彼女はレグルスに拒絶され大人しく帝国に帰っていった。
……わけではなかった。
『……シェリルさん』
国へ帰れと言われてレグルスの部屋から追い出されてすぐにミレイユは前を歩くシェリルに声を掛けていた。
「お料理の仕方を……教えては頂けないでしょうか? できましたら、それだけではなく色々ご教授いただきたいです。……お礼はさせていただきます」
そう言って彼女が革製の巾着袋から取り出したものは数多の貴金属だ。
大きな宝石が付いている指輪やブレスレットなど。
恐らくはその一つ一つがとんでもない価値のある品なのだろう。
「換金できる場所を探すだけでも大変そうね……」
困った顔で微笑むシェリル。
そして彼女はミレイユの夜の色をした瞳を覗き込んだ。
「レグルス君に言われた事を気にしているの?」
「それも……あります」
正直に告げて皇女は小さくうつむく。
「城を、帝国を出てから一ヶ月半……自分がどれほど無価値で何もできない人間なのかを思い知りました」
いつものようにミレイユの表情には何の感情も表出してはいない。
しかしシェリルには察せられた。
成人するまでろくに城から出た事のない彼女が隠密裏に一人でここまで旅をしてきたのだ。
そこにどれだけの苦労があったことか。
シェリルは手帳を取り出すと何かを書き付けてからそのページを破る。
「私はこれから仕事だから、その住所の場所で待っててくれる?」
「ありがとうございます」
ミレイユが受け取ったのは都市庁舎の職員用集合住宅の住所と部屋番号を控えたものと鍵であった。
……そしてその日からミレイユとシェリルの共同生活が始まった。
ミレイユの頼みごとを「自立したい」という意味に受け取ったシェリル。
プライベートな時間を使ってミレイユに一人で身の回りの事を色々こなせるようにあれこれ教えている。
そんなある日の事だ。
「シェリルはレグルスの……その、恋人なのですか?」
唐突にそんな質問をしたミレイユ。
シェリルは一瞬呆気に取られる。
「いいえ。彼とはそういう関係ではないわね。お友達よ」
ミレイユはそれを聞いて少しの間黙り込んだ。
返答を彼女なりに色々と頭の中で咀嚼し理解しようと努めているように見える。
「でも……同衾されていますよね」
やがてつぶやいた彼女のその一言は先程の質問よりも大分小声になっていた。
初めて会ったあの日に彼女は二人が一緒のベッドに入っているのを直に見ている。
「そうね。……うーん」
今度はシェリルが考え込む番だ。
「お友達でもそういう事をしてもいいかなと思える相手とそうではない相手がいるの。私にとっては彼はしてもいいかなと思える相手だったという事ね」
「お友達でも、ですか……」
驚いた様子のミレイユ。
感情表現が希薄な彼女としては外から見てそう思ったとわかる反応は珍しい。
再び彼女が考え込む。
今度の思考時間はやや長く、数分彼女はうつむいていた。
「……難しいです」
やがて搾り出すようにぽつりと言葉をこぼすミレイユ。
「難しいでしょうし、無理に理解する必要もないわよ。考え方は人それぞれだから」
シェリルはミレイユの前の机にマグカップを置く。
中身は淹れたばかりのコーヒーだ。
シェリルの淹れるこのコーヒーの味がミレイユは好きだった。
「私ね、婚約者がいたの。優しくて誠実な人……そう、私は思い込んでいたけど実際はそうじゃなかった」
自分の前にもマグカップを置いてシェリルは静かに語り出す。
「私の知らない所で彼は沢山悪い事をしていた。結局、それがわかって破談になったのだけど、その事は今も私の中で尾を引いていて……真剣な恋愛とか結婚とか、そういうのはしばらくいいかなって」
寂しげに笑うシェリル。
「そんな時に彼に会ってね。誘われて『まあいいかな』って思ったの。自分でも不思議で驚いたわ。それまでは自分が異性とのそういう関係を許容するなんて考えた事もなかったから」
マグカップに口を付けることも忘れてミレイユは真剣に話に聞き入っている。
「彼のことは好きよ。お友達としてだけどね」
そう言ってからシェリルはマグカップを傾ける。
そして……色々な感情の滲んだ吐息をほう、と漏らした。
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レグルスがロンダーギアの街に来てから半月ちょっとが経過した。
来るなり大寒波という前代未聞のトラブルに見舞われはしたものの、その後は街は本来の穏やかな日々を取り戻しそれきりトラブルらしいトラブルは発生していない。
「む、蛮族焼きが出てるじゃないか。おいエドワード、3本買ってこい」
「了解でありますッ!!」
串焼きの露店を見て足を止めたレグルス。
蛮族焼きとはスパイスをかけて焼いた鶏肉に串を刺したものだ。
命じられたエドワードは律儀に敬礼をしてから露店に走っていく。
最初はエドワードの存在を煙たがって渋い顔だったレグルスであるが、最近ではすっかり体のいい召使いとしてこき使っている。
この大きな青年はこれでいて割と細やかな気遣いのできる男で、レグルスが本当に独りになりたい時は察して自分から席を外す。
その為二人の毎日はレグルスが想像していたほど不自由なものではなかった。
「お待たせしましたッ!!」
行った時同様に小走りで戻ってくるエドワード。
その手には紙袋……中身は沢山の串焼きだ。
「なんだそりゃ3本つっただろ」
「いえ残りは自分の分であります」
ニカッと歯を見せてエドワードが笑う。
……3本中1本はエドワードにやるつもりだったレグルスは「フン」と興味がなさそうに鼻を鳴らすのであった。
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ロンダーギア市街の一角、比較的裕福な層の暮らすエリアに一軒の大きな屋敷がある。
王都に住む、さる貴族が別荘にしていたのだが、その貴族も身体を壊し何年もこの地に来る事が叶わず手放して売りに出た。
……そしてその屋敷を別の貴族が買い取った。
今その屋敷の敷地内に数台の馬車が停まっている。
「待ちくたびれましたわ。ようやくあの方とわたくしの新しい生活がスタートしますのね」
馬車から降りて来たのは一人のご令嬢。
凛々しい目元の勝気そうな美人。
美しい長いブロンドの先端はカールして螺旋を描いている。
鮮やかな青色と白色を基調としたドレス姿の彼女は全身から生まれ付きの高貴な身である事を示すオーラのようなものを漂わせている。
はるばる王都からやってきた彼女の名はジュリエッタ……ジュリエッタ・プリムローズ。
伯爵令嬢である。
……そして、レグルスが王都を追い出される事になったあの祝賀会の後の一件。
関係を持った複数の高貴な家柄の娘の一人だ。
時は一ヵ月半前に遡る。
『どういう事ですの!? お父様!! どうしてあの方がそんな地の果てに送られなければならないのですか!!!』
火を吐きそうな剣幕で詰め寄る娘にうろたえるブロンドのナイスミドル。
豪華な刺繍の施されたローブガウンを着た舞台役者と言われても通りそうな彫りの深い壮年の美形……彼はジュリエッタの父プリムローズ伯爵である。
「お、落ち着きなさいジュリエッタ。地の果てって……」
ロンダーギアはリアナ・ファータの国土からすれば確かに外側ではあるが大陸全体で見れば中心も中心である。
ただ生まれてこの方王都から出た事のないジュリエッタにとっては感覚的には地の果てに等しい。
「その……何でも彼が関係を持った複数の娘や保護者から訴えられているらしい。それで止むを得ずといった処遇だそうだ」
「保護者ぁ~?」
ギラリと殺し屋のような目で父を見るジュリエッタ。
「い、いやパパはそんな事はしてないよ!? 他の保護者の誰かだろう!!」
慌てて両手を振り伯爵が否定する。
伯爵はとにかく娘に甘い、そして弱い。
対して娘は父親に強い。というか全方位に強い。
「でも……その、そんな沢山の相手と関係を持ってるっていうのは、パパはちょっとどうかと思うなぁ……」
おずおずと苦言を呈する伯爵。
「あら、構いませんわそんな事」
平然と言い放ち、さらりと手の甲で髪をかき流したジュリエッタ。
「比較対象が多ければ多いほど、あの方もわたくしがどれだけ秀でた存在であるか理解できるでしょう。おほほほほ」
「我が娘ながらなんて自信だ……」
高笑いしている娘を前にして慄く父。
「……とにかく! こうなった以上はわたくしもあの方と共に参ります!! お父様ご手配を!!!」
「わ、わかったよジュリエッタ。……お前が暮らすのに丁度いい物件があるといいが」
かくして……。
売りに出ていた屋敷を伯爵家が買い取ってジュリエッタはやってきたのだった。
到着がレグルスよりも遅くなったのは屋敷を改修していた為だ。
流石に十年近く人の手が入っていなかった屋敷はあちこちに傷みがあった。
それも今や新築同然に改修されている。
「すっかり遅くなってしまいましたわ。あのお方も将来の伴侶であるわたくしの到着を首を長くしてお待ちになっておられる事でしょう。レグルス様……今、貴方のジュリエッタが御側に参りますわ。おーっほっほっほっほっほ!!!!」
口元に手の甲を当て、仰け反って高笑いするジュリエッタ。
そしてその彼女の背後では馬車から降ろした家具や荷物の数々を使用人たちがせっせと屋敷に運び入れているのだった。