第三十八話 紅い雷
競技場周辺の光景は変わり果ててしまっている。
競技場そのものはもはや跡形もなく、地割れや隆起で地面が地下からめくり上げられたようになってしまっており、一部は崩落したその下に地下水路のある遺跡部が露出してしまっていた。
レグルスとマクシミリアンの戦いはどう決着したのだろうか……。
そこへ駆けつけてくる数人の人影……ミレイユたちだ。
「レグルス……」
周囲を見回すミレイユだがいまだに煙が立ち込めていて視界がよくない。
ともすればまだ追加の崩落がありそうだ。
踏みしめてよいものかも怪しい地面の上で彼女たちは必死にレグルスを捜索する。
「なんだよ……来たのか。危ないぞお前ら……ウロチョロしてたら地下まで落っこちるぞ」
「!!」
不意に聞こえたレグルスの声。
だが姿は見えない。誰かが近付いてくるような気配もない。
ようやく土煙が晴れてきてミレイユはレグルスを見つけることができた。
彼は腕組みをして背後に突き立つ大きな瓦礫に背を預けている。
スカしているようなポーズだが、実際はそうしていなければもう立っていることができないのだ。
彼が背中を付けている瓦礫にはべっとりと血が貼り付いている事にミレイユが気付く。
小走りに駆け寄るが触れられる距離までは近付かない。
自分のやせ我慢を悟られたと知ることはきっとレグルスにとって良い気分ではないだろうから。
「来るなつっとるだろうが……」
ハァ、と嘆息しつつも強くは留めないレグルス。
「兄は……どうなりましたか?」
問いかけてくるミレイユに対し、レグルスは「ん」と横を顎でしゃくった。
二人から少し離れた場所にマクシミリアンがうつ伏せに倒れている。
「殺しとらんぞ……一応は」
「ありがとうございます」
兄に止めを刺さなかったのは自分に気を使ったからであろう。
そう思ったミレイユは彼に頭を下げる。
(死んではいないと思うんだがな……)
殺してはいないと思うものの若干自信がないレグルス。
立っている自分もそうでない相手も、どちらもボロボロだ。
「兄上様……」
「う……ぐッ……ミレイユ……か……」
倒れているマクシミリアンの傍らに膝を突いてミレイユは呼び掛けた。
それに反応し巨漢がゆっくりと目を開く。
ガクガクと巨体を揺すりながらマクシミリアンが顔を持ち上げる。
そこまでが限界のようで起き上がってくる様子はない。
「ミレイユ……帝国に……帰るのだ」
第一皇子は震えながらその大きな手を妹に向けて伸ばした。
「いいえ、兄上様……私は帰りません」
だがそれを首を横に振って拒絶する妹。
静かだがはっきりとした言葉でミレイユは兄に告げる。
「帰って私に役割があるのでしたら帰りましょう。……ですが、あの監獄のような塔でただ生かされる為だけに戻る気はありません」
「…………………………」
妹のその言葉に何か思うところがあったのか……。
或いは単にもう体力の限界だったのか。
マクシミリアンに続く言葉はなかった。
「!!」
それまで晴れ渡っていた青空が突然一瞬にして灰色の雲に覆われる。
異様な気配を察しミレイユは空を見上げた。
そこに……。
紅い雷が落ちた。
まるで鮮血のように赤い落雷はレグルスたちの近く、誰もいない場所に落ちた。
周囲を走った衝撃は麻痺したようにその場の者たちを硬直させる。
何事が起ったのか。
誰もが言葉もなく張り詰めた様子で凝視している。
落雷のあった場所には一人の男が立っていた。
長い銀色の髪と纏った漆黒のマントを風に靡かせた男。
冷たい目をしているが端正な顔立ちの中年男だ。
黒を基調とした銀のラインの刺繡が入ったスーツを着て首には白いスカーフを巻きそれを襟から内側に収めている。
物静かにして圧倒的な威圧感を持つ男だ。
誰なのか知らずとも自然に頭を垂れてしまいそうになる程の。
「……皇帝陛下」
初めて見せる驚愕の表情でミレイユが掠れ声でその男を呼んだ。
「何だと?」
思わずレグルスもよろけながら瓦礫から背を離し、その男を凝視する。
「ふむ……」
突如としてその場に現れたギルオール帝国皇帝ヴォルフガング・リュヒター・ギルオール。
彼はゆっくりと周囲を見回し、そして倒れているマクシミリアンへの方へ靴音を鳴らして歩いていく。
「手酷くやられたな、マクシム」
「ちっ、父う……陛下……!!!」
必死に起き上がろうとしてもがくマクシミリアンだが、やはり身体はまだ言うことを聞かない。
上体を何とか起こしかけた所で彼はバランスを崩し再び大地に胸板を叩き付けることになる。
地面にまた血が飛び散るが、それを目にしても皇帝の表情は変わらない。
再び横たわった息子の、そのすぐ横に父が立つ。
「それが人生の味だ。よく噛みしめて学ぶことだ」
「……!!」
顔を伏せたままのマクシミリアンが震えながら下唇を噛んだ。
「さて」
「……ッ」
長子に声を掛け次はミレイユか……と思われたが皇帝が向いたのはレグルスの方だ。
無頼の男に声を掛けるヴォルフガングの表情は少し楽し気に見えた。
「一度顔を見てみたいと思っていた。玉座で行儀よく待っているつもりだったが、我慢できずにこうして来てしまったぞ」
「……………」
眼前の男の言葉の真意を図りかねてか毒舌家のレグルスも咄嗟に返事ができずにいる。
「ふむ、辛そうだな」
その無言を負傷の苦痛からくるものと受け取ったか……。
ヴォルフガングは白手袋をした手でパチンと指を鳴らす。
「うおッッ!!! なんだ!!??」
突然紅い霧に包まれるレグルス。
逃れようとするも立っているのもやっとの彼にはそれができない。
だが逃れるまでもなく霧はすぐに薄れて消えていった。
「どういう事だ……?」
呆然としているレグルス。
負傷が……治っている。あれほどの重傷が残らず消えてしまっている。
それどころではない。疲労もない。
マクシミリアンと戦う前の状態よりも体調が良い位だ。
「何しやがった!!? オレの身体に!!!」
「騒ぎ立てるような事でもあるまい。お前も話をしている相手の肩に糸くずが乗っていれば気になるし、場合によっては取ってやるくらいのことはするだろう」
その程度のことだ、と皇帝は言う。
瀕死の相手を一瞬にして全快にするその力を……糸くずを取ってやる程度の事であると。