第三話 絶対零度の皇女ミレイユ
ミレイユ・ノアはギルオール帝国皇帝の娘。
第四皇女である。
とはいえ、皇族としての彼女の日々は決して幸福なものではなかった。
軍事国家である帝国では軍属の地位が高い。
従ってその軍人の大半を占める男の地位が高い。
これは皇族であっても変わらない。
そして武術、肉弾戦を貴ぶ文化により魔術が軽視される傾向にある。
ミレイユは魔術師の家柄の出である母親の血統を強く受け継ぎ、幼少時から卓絶した魔術の才を見せた。
だが、それを父皇帝や周囲の者たちは喜ばなかった。
忌まわしい大きな力を持つ娘だ、と言われて彼女は育った。
ある時、幼かったミレイユは帝城の片隅で泣いていた。
泣いていた理由は今ではもう思い出せない。
そんなものはいくらでもあったから。
『いかが致しましたかな? 姫様。キレイなお顔が台無しですぞ!』
大きな声がして彼女を優しく抱き上げた太い腕。
在りし日のヨーゼフである。
迫害まではいかずとも冷遇を受けて育った彼女の数少ない味方が黒騎士団長であったヨーゼフ・エルドガイムと彼の娘であった。
二人のおかげでミレイユは孤立せずに過ごすことができた。
冷たく閉ざされた氷の牢獄のようなものだった城の中で彼女の拠り所はエルドガイム親娘だけだった。
血の繋がった肉親以上に……彼女にとって二人は家族だったのだ。
…………………………。
「『冬の牙』!!!」
空中に現れた無数の鋭く尖った氷柱。
それがミサイルのように飛翔しレグルスを狙う。
高速で飛翔するそれは並の金属鎧など刺し貫いて標的を仕留める死の槍だ。
「……ハッ!!!」
白く煙る鋭い呼気を口から発する。
レグルスが両手の剣を振るい氷のミサイルを迎撃する。
右手には超希少金属を用いて打たれた青黒い刀身を持つ剣『永劫蒼剣』、左手にはパチパチとプラズマを刀身に纏った魔剣『雷神剣』……その二剣を自在に操るレグルス。
複雑な軌道を描いて迫りくる氷柱。その全てを彼は視界に捉えている。
「おーっ、やるねェ。お姫サマにしとくにゃ勿体ねえ腕だ」
軽口か、本気の賞賛か……。
いずれにせよ氷柱は全て撃ち落され彼に届くことはなかった。
反撃……には移らない。
レグルスは氷柱を迎撃し終えるとミレイユに向かって右手で手招きする。
来いよ、次はどうした……と挑発しているのだ。
「あんなオヤジの為にわざわざこんなトコまで……ゴクローさんだなぁ、まったく」
「あの人は……ヨーゼフはッ……!!」
右手を振り上げるミレイユ。
その手に光って渦を巻く魔力が集まっていく。
大気が鳴動する。
……何か……強力な一撃が来る!
「家族だった!! 私のお父さんだった……!!!」
ミレイユの頬を涙が伝う。
彼女が右手を振り下ろすと周囲に猛吹雪が吹き荒れる。
万物を氷結させ粉砕する死の嵐が一面を薙ぎ払う。
「……優しい人だった」
搾り出すように言って足元を見た皇女。
ポロポロと零れ落ちる涙は地面に着くよりも早く氷結し散っていく。
「ふーん……だからどうした?」
「!!!!」
……ありえない。
死の吹雪を切り裂いて赤茶の髪の傭兵はミレイユの懐に切り込んできた。
形のないものすら斬る。
それが魔力を纏った雷神剣の強さ。彼が左手にこの剣を持つ理由だ。
「優しいぃ? 家族です? ほーほー、そいつぁよかったな」
間近に迫ったレグルス。
彼はミレイユに青い剣を突き付ける。
笑う傭兵……獰猛な笑み。
「……だがそんな事ぁオレには関係ないしどうでもいいんだよ!!! 戦場に出てくりゃ戦士と戦士だ!!! 普段どんなヤツかなんて関係あるかぁ!!!!」
レグルスは突き付けていた剣の切っ先は逸らしつつ体当たりで雪原にミレイユを押し倒す。
雪煙を巻き上げて二人が雪原に倒れこむ。
「………………」
仰向けに倒れた皇女は涙に濡れた瞳でレグルスを見上げていた。
「そんなに大事なら、死なせたくないんなら鎖で縛り付けてでも戦場に出すんじゃなかったな」
自分を組み敷いている男の言葉にミレイユは奥歯を噛んだ。
……悔しい。
涙が出るほど悔しい。
この不遜な男に勝てない自分の実力もそうだが、何よりもその言葉に納得してしまっている自分がいるという事実もたまらなく悔しい。
わかっている。
ヨーゼフは帝国の騎士として誇り高く戦って散ったのだ。
その相手に憎しみを向けることがお門違いである事はわかっている。
わかっていても尚、他にどうする事もできなかった。
この寂しさを、この悲しさを何かにぶつけなければ……自分が壊れてしまうと思った。
いや、とっくの昔にもう自分は壊れているのだろうか。
(ヨーゼフ、御免なさい……私ではこの人には勝てない)
「……!!!!」
頭上に殺気を感じて空を見上げたレグルス。
その瞳が驚愕に見開かれる。
「うおッッ……!!!?」
大きい……とてつもなく巨大な氷塊が二人の頭上に浮いている。
中心直下のこの位置からでは端がどこまであるのか目視できない。それほどでかい。
「……落とします。離れなさい」
虚無の響きを持った声で皇女は逃げろと告げた。
どちらにしろ生きて帝国に帰る気はなかった。
刺し違えるつもりで彼女は祖国を捨てたのだ。
……だが愛情も愛着もない実家ではあるが迷惑をかけたいわけではない。
自分のした事が幼稚な駄々でしかなかった事が露見した以上……独りで逝くことにしよう。
「ハイハイ、いーですよ」
レグルスの言葉に今度はミレイユが驚く。
「それで気が済むんなら落とせよ」
「何を……」
言いかけて……。
そこが限界だった。
氷塊はミレイユが身体に残った全ての魔力を注ぎ込んで成形したもの。
魔力を失い支えきれなくなった巨大な氷塊が落下してくる。
それは無慈悲に直下の二人を圧し潰す……そのはずだった。
もはや不可避のはずの絶命の瞬間。
それが来ない。
恐る恐るミレイユは目を開ける。
「…………!!」
そして彼女は愕然とする。
眼前には彼女の理解を超えた……想像もできない光景が展開されていた。
「オイ、見ておけよ……ミレイユ!!!!」
両手の剣を×の字に交差させ、レグルスが氷塊を受け止めている。
真上から圧し掛かる常識を超えた重さにガクガク全身を震わせながらも彼は不敵に笑っていた。
メラメラと炎のように身体から吹き出す闘気が二剣を覆い、巨大な刃となって氷塊に食い込んでいく。
「これがお前が殺そうとした男……『双剣』のレグルスだぁッッッ!!!!!」
巨大な光が天へと立ち昇る。
光の柱……否、壁か。
ミレイユは目を細める。
目の前の男は……粗野で傍若無人な自分の大切な人の仇が……。
その時、まるで聖者のように神々しいものであるかのように彼女には見えていた。
巨大な光の刃が走る。
城ほどもある巨大な氷の塊を縦一閃に両断する。
二つになった氷塊はまるで二人を避けるかのように左右に落下し轟音を立てて雪を吹き上げた。
轟音と鳴動。
まるでこの世の終わりのような衝撃。
「………………」
そして、全ての魔力を放出し意識を保つことができなくなったミレイユは目を閉じて雪原に横たわったのだった。
─────────────────────────────────
一夜が明けて……。
街を覆った雪はほとんどが溶けた。
今はわずかに溶け残った雪で子供たちがはしゃいで遊んでいる。
この様子では明日には全ての雪は消えてなくなるだろう。
「……何にせよ、街にも君の身にも大事なくてよかった」
しみじみとそう言ってエンリケ都市長はカップを傾けた。
都市庁舎の食堂である。テーブルを挟んだ彼の正面にはレグルスがドカッと座って分厚いステーキをガツガツと豪快に食らっていた。
……ちなみに三皿目だ。ねぎらいの意味を込めたエンリケの奢りである。
「こういう時には自分の無力さを痛感するよ」
「フン、あんなもんどうにかできる奴なんて王都にだってそうはおらんわ。まーオレだからあっさり片が付いたけどな」
3枚目の肉を食い終えてようやく人心地ついたレグルス。
大袈裟に聞こえるが事実である。
ミレイユの魔術は凄まじいの一言に尽きる。戦場に出てくれば瞬く間に数百人の敵兵を屍に変えるだろう。
「僕も少しトレーニングをするか」
今回の件で何やら思う所があったのか、そんな事を呟いている都市長だ。
「んで、あの女はどうしてる?」
「大人しいものだよ。収監の際も一切抵抗しなかった。出された食事もちゃんと食べているようだ」
あの女とは当然皇女ミレイユのことだ。
彼女は意識を失っていたのでレグルスが担いで連れて帰ってきた。
医者に診せ、意識を失ったのは一時的な魔力の欠乏によるものであり治療が必要な負傷は無いとわかった所で今は牢に入れられている。
「一応魔術を使う犯罪者用の封魔の枷を付けてはいるが……。あのレベルの魔術師には大して意味はないだろう。彼女がその気ならいつでも牢を破って出てこれる」
「牢破りなんぞさせるまでもないだろ。あいつはとっとと国へ帰しちまえ」
フォークの切っ先をエンリケに向けてそれをゆらゆら振るレグルス。
「ふむ。君もそう思うか。僕もそれがいいと思っている」
今回の事件の処理はエンリケにとっては非常に大きな悩み事である。
起きたままを王都に報告すれば政治的な大問題になるだろう。
何せ停戦が結ばれたばかりの敵国の姫が単身で襲撃をかけてきて失敗して捕えられたのだ。
「場合によっては帝国と再度戦争になってしまう。こっちの言い分を向こうが受け入れずに、逆に誘拐したとでも言われた日にはそうでない事を証明もできないしね」
「そーゆー事だ。とっとと追い払っちまうに限る」
だから放逐して最初から何もなかった事にしてしまえ、と。
この場での二人の意見は一致していた。
(めちゃくちゃ美人だったし帰すならその前に一回やっとくかとも思ったが……)
そう考えて……レグルスはその考えを首を横に振って打ち消した。
自分が現在なんでこんな状況なのかを思い出したのだ。
女がらみのいざこざはしばらく遠慮したい。
(大体がオレはおねーちゃんと遊ぶときは「双方楽しく」がモットーだ。あの女が喜んでオレに抱かれるとも思えんしな……)
そう結論付けて己の欲望に蓋をするレグルスだ。
「解放するのはいいが、また同じ事をする可能性もあるんじゃないか?」
目下のエンリケの不安はそこだ。
だがフンと鼻を鳴らしたレグルスは口の端を笑みの形に歪ませる。
「それならそれで構わんさ」
レグルス・グランダリオには自分のルールがある。
女が命を狙ってきた時は一度は見逃す事にしている。
だが、見逃した相手が再度襲ってきた時は……。
「その時は殺すだけだ」