第百六話 天空のブルーリゾート
……モモちゃん先生はぶんむくれていた!
レグルスたちが自分がいない間に海に行ったからである!
「泳いだのはついでで仕事だったんだからしょうがないだろって言って謝ってこい。饅頭とか持って」
「何でわっしが……。兄貴が自分で言いんさいや」
レグルスと大龍峰がひそひそと小声で囁きあっている。
大龍峰はレグルスたちのグループの中ではベルナデットに次ぐ年長者なのだが、体育会系の序列を重視する彼は新入りとして全員を兄さん姉さんと呼んで自分を下に置いている。
それはそれとしてキレてるモモネに頭を下げに行く勇気はない。
「イヤだよコエーもん。モモちゃんキレさすと身体中の骨折られそうだからな」
モモネに対してどういう印象を持っているのか……。
明らかに腰が引けているレグルスだ。
……………。
実際のところモモネもレグルスたちが仕事で海に行った事は理解はしているのである。
それはそれとして感情では納得できていないのである。
何しろ彼女はカレシと海に行った経験がないのだ。
というかこの歳までカレシができたことがなかったのだ。
その貴重なチャンスが目の前で流れて行ってしまった事に誰に対してというものでもないマグマのような怒りが発生しているのだ。
そんなワケで彼女は今わかりやすく頬を膨らませて口を尖らせている。
そしてそれをレグルスは気にして恐れている。
「ジュリエッタみたいにすんなり許してくれんもんかな」
「わたくしも思うところがないわけではないのですけど……」
複雑な表情のジュリエッタ。
彼女も帰省していて海に行けなかった組なのだが、目の前で自分よりも年上の女性が自分よりもぶんむくれていたので不機嫌になるタイミングを逃してしまったのだ。
「空中都市にプールを作るかぁ」
「あら、でしたら屋敷を改築いたしますわよ」
事も無げにうなずくセレブ。
「いーや、オレが言ってんのはもっとドドーンとデカくてだだっ広い奴だ。街の空いてるエリアをごそっと買い取って作るとするか。……ぶっちゃけ、最近あれこれあってえらい金が入ったが使い道がなくて悩んでたしちょうどいいわい」
「ゴージャスで大変よろしいと思いますわ。では土地の買い付けと業者の手配を進めますわね」
レグルスは割ととんでもない事を言っているのに止めるでもなしに話を進めるジュリエッタ。
彼女に庶民の感覚はない。
「ちょっとやってみる?」みたいな感じで自分たちの街に巨大プールが誕生してしまっても意に介さない。
書棚から何かのファイルを取り出しつつ、執務机の上のベルを鳴らして使用人を呼ぶジュリエッタであった。
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午後になりレグルス宅にシャリーンがやってきた。
「レグルスさま、計画中のプールに併設して店舗の建造許可と営業許可を申請している方が数名いらっしゃいます」
「その話出たのさっきだぞ。何でもうそんな事になってんだよ」
読んでいた雑誌から顔を上げて顔をしかめているレグルス。
ついでに言えばまだシャリーンにもこの話はしていない。
「レグルスさまの動向はそれだけチェックしている方がいらっしゃるということですね」
良くも悪くもとんでもなく大きな事件に関わることの多いレグルス。
その動きをアンテナを高くして窺う利に聡い者たちがいるようだ。
別にそのこと自体はレグルスとしても構わないのであるが……。
「……店って何のだ?」
「飲食店と衣料品店、それに大型の宿泊施設ですね」
ファイルされた書類に目を通しながら言うシャリーン。
「ふーん……まぁ何か食えるような店はあった方がいいかもな。面倒くさいし全部任せてもいいか?」
「かしこまりました。では私の方で精査して問題がなさそうな申請には許可を出しておきますね」
ちょうどそこにノックも慌ただしくジュリエッタが入ってくる。
「レグルス様、デザイナーが早速ラフを描き上げてくれましたわ」
手渡された大判の紙をレグルスがどれどれと覗き込む。
そこには広大な敷地にウォータースライダーや波の出るプールなど、多種のプールが設置された一大リゾート空間が描かれている。
「わはは、いいぞいいぞ。こんだけのもんができればモモちゃん先生の機嫌も直るだろ」
「……えっ、モモネ先生のご機嫌取りで企画されたんですか?」
ガールフレンドが怒っているので巨大リゾート施設を建造する男……レグルス。
流石に驚くシャリーンであった。
「れ、れ、レグルス殿ッッ!!」
次に勢いよく飛び込んできたのはエドワードである。
ガシャガシャと鎧を鳴らして息切れしつつ汗を拭っている蒼穹騎士団長。
「今度はお前か……。騒がしいなまったく」
そこでエドワードの幽霊でも見たかのような真っ青な顔色に気付いたレグルス。
「ん? 何があった……?」
「た、大変であります。王様が……」
掠れ声で言うエドワードはこの初夏の陽気の中、真冬の屋外にいるかのようにガチガチと歯を鳴らしていた。
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レグルスが王の私室に入ると、彼は丁度布団から上体を起こした所だった。
「お前まで来たのか。大袈裟な……」
ギゾルフィは入ってきたレグルスを見て軽く嘆息する。
改めて見る老賢人はやややつれた印象を受けた。
「大丈夫なのかよジイさん。ぶっ倒れたって聞いて慌てて来たんだぞ」
「ただの貧血だ。ここの所暑さで少し食が細くなっていたからな……心配はいらん」
ゆっくりと首を横に振る王。
その手を取って診察をしていたモモネも薄く笑ってうなずいた。
差し迫って危険な状態ではない、と言いたいのだろう。
「お前が駆け付けたと聞けば他の者たちも動揺する。もう戻れ」
……………。
タタミとフスマの王の私室を出たレグルスとモモネ。
「……どうなんだ?」
「お歳ですのでお身体が弱っていらっしゃいますね」
表情を曇らせるモモネ。
誰にでも平等に訪れる人生の黄昏……それはいかなる英傑であっても地位ある者であっても避けては通れないものだ。
ギゾルフィは長く遺跡の生命維持装置で冬眠状態になっていた古代人だ。
眠りに就いている間は肉体は歳を取らない。
時折目覚めて空中都市のメンテナンスを行っておりその間は普通に身体は歳を取る。
その時間を計算すると現在の彼の肉体年齢は七十代半ばという事になる。
「ボンサイ押し付けられたらかなわんからな」
「はい?」
レグルスの小声の呟きはモモネにはよく聞き取れなかった。
「……いや、食いやすくて栄養あるモン出してやってくれ」
「わかりました」
レグルスの言葉に微笑んでうなずくモモちゃん先生であった。
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某国某所……地下空間。
煌びやかな照明に照らし出された闘技場。
そこは今割れんばかりの歓声と熱気に包まれている。
闘技場に立つ闘士と闘士の命を懸けた戦いを見物している数百人はいようかという観客たち。
彼らは皆様々な種類の仮面や覆面で己の素顔を隠している。
その仮面の下の素顔は……王侯貴族、政治家、富豪等、日の当たる場所では名の知られた名士ばかり。
それが今この秘密の地下闘技場で非合法な殺し合いに熱狂しているのだ。
通常の観客席よりも高い位置にVIP専用の全面ガラス張りの特等観覧席があり、そこでは今一人の男が試合と観客の様子を冷静な目で見下ろしていた。
太い眉に鋭い目つき。逆立つ焦げ茶色の髪の毛。
厳つい面相の男だ。
筋肉で膨れ上がった上半身は鍛え上げられており無数の傷跡がある。
黒い道着に身を包んだ彼は先ほどから腕組みをして微動だにしない。
「盛況のようだな……ジュドー」
「ヴァルネロ様!」
入ってきた口髭にステッキの男に黒道着の男が膝をついて頭を下げた。
ヘルベリオス・ジュドー……『黒灰猟犬団』団長。
他にも組織では複数の肩書を持ち、地下闘技場では「館長」「支配人」とも呼ばれる男だ。
「安全に生の『殺し』が楽しめる場所は少ないですからな」
立ち上がって再度下に視線を送るジュドー。
この秘密の闘技場は組織の大きな収入源である。
「血は酒と同じくらい酔えるもんだからな~。せいぜい酔わせて狂わせておけ。大事な金ヅルどもだ」
「はっ!」
頭を下げるジュドー。
そして彼はその姿勢のまま頭を上げようとしない。
「……ゼノヴィクタの件、申し訳ありません。自分の監督不行き届きです」
「あ~……」
曖昧な声を出して紫煙を吐き出したヴァルネロ。
黒灰猟犬団副団長ゼノヴィクタの造反。
彼女は組織の資金を大量に持ち出し行方をくらませている。
「仕方がねえよ~。まさか俺の獣から裏切り者が出るとはなあ。『感染』を受けた奴は俺への畏怖がデフォで精神に刷り込まれてるはずなんだが、それでも裏切った。とんでもない跳ねっ返りだぜ」
「後始末は自分が……」
顔を上げるジュドー。
その相貌が怒りと殺意で燃えている。
「大部分の金が戻ってくるなら許してやってもいい。その辺は柔軟にやれよ~」
「しかし、それでは他の者たちに示しが」
ヴァルネロはジュドーに向かって人差し指を立てると、それを左右に振った。
「これだけの事をやらかすっていうのもそれだけ才能があるって事だ。使えるなら使うべきだ。どうしても首を縦に振らんのなら、その時に殺せばいい」
「わかりました」
頷いたジュドーがパンと大きく手を打ち鳴らす。
すると扉を開けて数人の男たちが入ってきた。
全員が同じ黒道着姿の筋骨隆々な男たちだ。
髪を短く刈り上げている者やスキンヘッドの者などヘアスタイルは様々だが顔付や雰囲気は全員似通っている。
「門下生の中でも際立って優秀な者たちです。全員獣に変えてあります。……これらを放って捜索を行います」
「………………」
無言でヴァルネロは横一列に並ぶ門下生の前を横切る。
……と、不意にその内の一人に向けて手刀を横薙ぎにした。
鋼鉄すら切り裂く鋭く素早い一撃。
それを門下生は表情を変えずにわずかに顔を後方に引いて回避した。
「フン、悪くないな」
ヴァルネロがニヤリと笑った。
「……成果を楽しみにしているぞ」
「押忍ッッ!!!」
返事を全員で唱和させ、一礼する門下生たちであった。