骸を抱く天使
あの晩、私は確かに見ました。あれが現実だったのか、夢だったのか、覚えているようで覚えていない。酔っていたせいで、すべてがぼやけており、今となってはわかりませぬ。しかし、その姿、言葉、そしてあの冷たい夜の空気だけは、今も私の胸にぴったりと張り付いて離れないのです。
薄暗い夜道を一人歩いていました。酔いが回って、足取りが不安定で、月明かりがひどく冷たく、辺りの静寂が恐ろしいほどに重くのしかかっていたのを酷く鮮明に覚えております。
あの夜、私はふと一人の子を見かけました。いや、正確には、「天使」なるものを見しと言うべきか。しかし、その名がしっくり来ないのです。私の知る「天使」は、もっと潔く、麗しく、神々しい光を放つものだと。だが、その者は全く異なり、その者、もはや天使などと呼ぶことをためらうべき姿の子供は、目には何とも言えぬ淀んだ深い闇を宿しており、片翼が無く、残された翼もまた、ぼろぼろに裂けており、とてもじゃありませんが、その名にふさわしき輝きは微塵も感じられませんでした。
私は、しばらくその者をじっと見つめておりました。やがて、天使は無言で歩み寄って参りました。まるで何かに導かれるかのように、ひたすらに進む姿。その歩みの音は、ただの足音ではなく、何か、わたくしの心を引き寄せ、全身の毛が逆立つような不安、寒さが私を包み込み、息をすることさえも億劫に思わせる響きでございました。
その者が、私の前に立つと、視線を交わすことなく、静かにその手に抱えるものを見せてきました。その瞬間、寒気が全身を駆け抜けるような感覚に襲われました。
それが、手に抱えられているものがただの「物」ではなく、人間の頭、もはや誰かの顔とは呼べぬ、色を失った骸。肉はもはや存在せず、ひび割れている骨だけが残っており、まるで命の名残を留めるように抱かれているのでした。
「何故、骸を抱いているのですか?」
私は、なぜかその問いを口に出していました。それが、酔った勢いだったのか、あるいはこの天使に引き寄せられたからなのか、理由はわかりません。だが、その問いに対する答えは、決して返ってきませんでした。
そしてその時、異変が起きました。
天使が動いたわけではありません。ただ、抱えられた骸骨が、まるで生きているかのように、ゆっくりと動き始めたのです。
最初は、ほんのわずかな震えから始まりました。しかし、その震えが次第に大きくなり、やがて骸骨は、まるで意志を持っているかのように、ぎしぎしと音を立てながら動き出したのです。その動きは、まるで生者のように不気味で、骨同士が擦れる音が辺り一面に響きました。
天使が抱えていた骨がパキンと言う音を立て、小さなパズルのピースのようにバラバラに砕けました。するとひとつ、またひとつ、とゆっくりと動き出し、床に落ちた瞬間、まるで何かに引っ張られるように、天使の足元から私の方へと這い寄ってきたのです。私は恐怖で身動きが取れず、ただその動きに目を奪われるばかりでした。
その骸骨は、私の足元までゆっくりと迫り、私の足に触れる寸前で止まりました。ふと、顔を上げると
天使がこちらを見ている。
口を開くことなく、ただ私を見つめている。だが、視線の奥に、何かを訴えかけてくるものがありました。その目を見た瞬間、私は思わず息を呑みました。背筋に冷たい汗が流れ、酔いが完全に醒めるような感覚に囚われました。
天使は、やがてゆっくりと歩き出しました。足音は重く、引き摺るような響きを残して。私はその姿を見送りながら、無意識のうちに手を伸ばし、もう一度問いかけようとしましたが、声が出ませんでした。すでに、その者は私の視界から消えていったからです。
その後、私は一睡もできませんでした。天使が何をしていたのか、なぜ骸を抱えていたのかを、決して知ることはありませんでした。私が見たものが現実だったのか、夢だったのか、それさえも分からぬまま、私はその夜を過ごし、そして今もなお、あの目、あの冷たい目が未だ私の脳裏に焼き付いております。
あれから何年かが過ぎましたが今でも、私は時折、夜の冷たい月明かりの下で、引き摺るような足音が聞こえるような気がします。それは、私の耳元で響くわけでも、どこか遠くで鳴るわけでもなく、まるで心の中から直接、響いてくるような、そんな音です。
私はまた、あのなんとも言えない気味の悪さを思い出し、ひとしずくの冷や汗が背筋を這うのでした。