あんたこういう男好きだったじゃん
「おねえちゃん、どこいくの?」
小さな手でぎゅっと私の腕を掴む可愛い可愛い幼馴染。大きな瞳を不安げに揺らしながら見上げてくる。こんなにもキュートな少年に胸を打たれないわけがない。癖のないサラサラの髪が風に吹かれて耳元で揺れている。
「手が汚れちゃったから、水道で洗ってくるよ。優ちゃんも一緒に行こう」
「うん。一緒に行こ」
そういって優ちゃんは私の手を取って前を歩いていく。砂に描いたらくがきたちはもうこの子の目には入っていないようだった。そんなところも可愛くて口元がゆるゆるとだらしなく動いていく。
私が中学生になってからは優ちゃんと遊ぶ時間が減ってしまうかもしれない、なんて思っていたけれど、寂しがりやの優ちゃんは今でも私のことを放してくれなくて嬉しい悲鳴をあげている。なんて可愛いのだろう。同級生の男子たちはちっとも可愛くない。だからといってかっこいいわけでもない。こうして手を引いてくれる優ちゃんの方がよっぽどかっこいいくらいだ。いや、優ちゃんは可愛いんだけど。
「どうぞ」
そういって水道の蛇口を捻って私に譲ってくれる。10歳にしてこの紳士的な振る舞い、成長したらどうなってしまうんだろう。見た目は10歳には見えないほど幼いのに。
「わあ、ありがとう優ちゃん」
「うん」
お礼を言うと、優ちゃんは得意げに微笑んだ。洗った手を拭いてから優ちゃんの丸い頭を撫でる。すりすりと猫のように私の手に擦りついてくるのが愛らしい。「手を洗ったらお昼を食べようね」と話すと嬉しそうに笑うものだから、見たときに驚かせようと思っていたのに優ちゃんの好きな肉巻きおにぎりがあるとついついネタばらしをしてしまった。
花が咲くような笑顔を見せた優ちゃんだが、それから急に驚く顔をした。
「優弥じゃん。あ、千花ちゃんもいる」
そう親しげに話しかけてきてくれたのは、優ちゃんのお友達の拓真くんだった。今年はクラスが離れてしまったようだけど、相変わらず仲良しのようだ。こんにちはと挨拶すれば、優ちゃんが私の前に出て拓真くんとお話を始めた。お友達と会えて嬉しいのだろう。やっぱり優ちゃんも年上のお姉さんより同い年のお友達と遊んだ方が楽しいのかも、と少し寂しい気持ちが湧き上がる。
「おねえちゃん、ちょっと拓真くんとお話してくるね!」
「うん、いってらっしゃい。拓真くんと一緒にお昼食べる?」
「ううん。ちょっとお話だけして戻るよ、おねえちゃんはあそこで待ってて!僕、ちゃんとおてて洗って行くから大丈夫だよ!」
手を振っていつものランチの場所へと向かった。公園の奥には白い三角屋根の休憩場所がある。なぜかいつの休日もこの公園は空いていて、来たときはお昼はそこで食べることにしていた。
二人分の水筒とお弁当を並べて、そよそよと凪ぐ風を感じながら優ちゃんを待つ。
なんとは無しに乗り手のいない滑り台を見ていると、優ちゃんと出会った時のことを思い出した。私がいまの優ちゃんと同じ10歳の頃、ちょうど3年ほど前だ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ピアノのお稽古の帰り道、いつも近道に使っている公園を横切る。遊んでいるのは低学年くらいの小さな子たちで、きゃいきゃいと可愛らしい声がよく聞こえていた。その中で、微かにすすり泣くような声がする。どこからかと見渡すと、滑り台の下で数人の女の子が一人を取り囲んでいるのが見えた。いじめだろうか。
「何してるの?」
そう声をかけたら、蜘蛛の子を散らすように女の子たちが走り去った。といっても公園から出ることはなく、少し離れた遊具の影に隠れているのが見える。この子の背中側、この子からは見えないけれどこちらの声は聞こえるほどの位置に隠れ、聞き耳を立てているようだった。
一人残ったその子へ「怖かったね」と声をかける。恐る恐る頷いたその子は、どうしたら良いのか分からず戸惑っているようでもあった。
彼女たちの様子を伺えば、こちらが気になるようでちらちらと視線を向けていた。目が合うとすぐに逸らしてまた物陰に隠れてしまう。
「同じ学校の子なのかな」
「うん」
「こういうこと、よくあるの?」
「……うん。僕の使ってる鉛筆を取ったり、ついてこないでって言ってもついてきたり。さっきはね、一緒に遊ばないといじめるって」
「そっか、それは嫌だね」
「うん」
第一印象は、賢い子だった。自分の嫌なこと、されたことをしっかり言葉にできる子。どうやら男の子のようだけど、かわいらしい顔をしていて女の子たちよりも小柄だった。それからいくつか話を聞いていると、蔑ろにされているというよりも、彼女たちはこの子への好意を上手く表現できずに意地悪になってしまっているのかもしれないと思った。今なおこの子の様子を心配そうに伺う彼女たちには、悪意は感じられない。けれど――
「嫌なことされたら、きらいになっちゃうよね」
「うん」
物陰の音が騒がしくなる。きらいになっちゃう、という言葉に反応しているようだった。慌てた様子が見える。
「撫でられるのは好き?」
「……うん」
小さな頭をゆっくりと撫でると、嬉しそうに微笑んだ。柔らかい髪が手になじむ。ずっと弟が欲しかった私にとって、年下の子にこうして喜んでもらえるなんて夢のようだった。
「いっぱい撫でてあげる。好きなことされる方が嬉しいよね」
「うん!おねえちゃんは優しいね。女の子なのに」
「え?」
「女の子はいつも怖いから」
バツの悪そうな顔をしている女の子たちを見やる。その姿は無理矢理気を引いたりしなくても可愛くて魅力的で、こんな風な関わり方をしなければきっと仲良くなれただろうにと残念な気持ちになった。
「優しい女の子もいっぱいいるんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ!また嫌なことがあったらお姉ちゃんのところにおいで」
「うん。ありがとう、おねえちゃん」
その子は花のように微笑んだ。ずっと欲しかった弟ができた気分だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「おねえちゃんただいま!」
拓真くんとのお話は終わったらしく、優ちゃんがパタパタと駆けて戻ってきた。テーブルに乗っている肉巻きおにぎりと、気持ちばかりのおかずを見てにこにことしている。実はお母さんと一緒に作ったんだと言えば、「いつもよりもっと嬉しい」と喜んでくれた。この子は天使だ。
それからしばらくお話をしていたらいつの間にか夕暮れのチャイムの音が響く頃になっていた。慌てて優ちゃんの手を引いてお家へ向かう。あの人が帰ってくる時間だから。
公園から道なりに歩き、駅の方角へ進む。私たちの帰り道であると同時に、あの人もこの時間は駅からこちらの道へ向かうはずだ。そうして歩いていると、コンビニから出てきたあの人とばったり会うことができた。
「お、千花じゃん。今帰り?」
「あっ颯斗くん。そう、これから帰るの。颯斗くんも?」
「そっかそっか。俺はちょっと友達んとこ行くとこ。気を付けて帰りな」
そういって大きな手で私の頭をわしわしと撫でてくれた。髪は金髪で耳にはピアスもしていて見た目はちょっと怖い不良のお兄さんだけど、初めて会ったときからこうしてとても優しいのが颯斗くんだ。颯斗くんには私くらいの妹がいるようで、面倒見の良いお兄さんだとお母さんが褒めていた。
「颯斗くんも気を付けていってらっしゃい」
「ん、千花ちゃんありがと!」
そういって手を振って去っていく。不意に、繋がっていた右手が引かれる。何事かと思い、優ちゃんの顔を見ると、不思議そうな顔をしていた。
「あのひとだれ?」
「颯斗くんっていうの。最近引っ越してきたんだよ。ご近所さんなんだ。高校生なんだって」
「ふうん」
「どうしたの、優ちゃん?」
「なんか、嬉しそうだね。おねえちゃん」
「そ、そんなことないよ!?」
ふうん、ともう一度呟いた。つまらなそうな顔をした優ちゃんは、どこからどうみても拗ねていて、小さい子は可愛いなと温かい気持ちになる。
「もしかしてやきもち焼いちゃった?」
そういって揶揄うと、より一層むくれてしまった。
「おねえちゃんのいじわる……」
「もー!優ちゃんは可愛いなあ!大好きだよお」
ぎゅっと抱きしめると少しは機嫌が良くなったようで、優ちゃんの可愛い顔に笑顔が戻っていた。
それから優ちゃんをお家に送り届けて、いつも通り来週の約束をした。優ちゃんに似てかわいらしい優ちゃんのお母さんが、一粒チョコをくれた。ぽいと口に放りこんで、甘くて幸せな気持ちと一緒に帰宅した。
「ただいま、お母さん」
「千花、おかえり。ちょっと話があるの」
そういって暖かいリビングへ迎えられる。そこでお母さんとお父さんが話したのは、来月にはここを引っ越して別の中学に通うことになるということだった。お父さんの仕事の都合で仕方がないのだという。学校の友達にも、優ちゃんや颯斗くんにも、あと一か月しか会えないという事実を受け止めるのに、少し時間が必要だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
先週の約束通り、私は優ちゃんのお家に来ていた。
「おねえちゃん、元気ない?」
いつ優ちゃんに引っ越しのことを切り出そうかと考えていると、優ちゃんが心配そうに声をかけてきた。やさしいこの子はいつでも私を気遣ってくれる。来た時からいつもの調子ではない私をずっと心配そうに見てくれていた。それが伝わってきていたのに、私は中々自分の中で決心がつかなくて、ずっと優ちゃんに心配をかけたままだ。
「うん。あのね、優ちゃんに言わなきゃいけないことがあって」
「言わなきゃいけないこと?」
「うん……その、ね。……お姉ちゃん、お引越しすることになったんだ」
「……お引越し?おねちゃんに、会えなくなっちゃうの?」
今にも泣きだしそうな優ちゃんを見て、そんなことないよと言ってあげたくなってしまう。けれど、両親から聞いた引っ越し先はあまりに遠く、子供の私では優ちゃんに会いに来ることは難しい距離だった。
「ちょっと、遠くになっちゃうからね、こうして会うことはできないんだけど」
「おねえちゃんにもう会えないの?やだよ!そんなの……」
ぎゅうぎゅうと私に抱きつく姿が可哀想に思えて、その背中を強く抱き返した。私だって優ちゃんに会えないのは寂しい。優ちゃんが大きくなって制服を着るところだって見たいし、もっと一緒にお出かけだってしたかった。
「また会えるから!」
「ほんとに?」
「うん。もうちょっとわたしが大きくなったら電車とか新幹線とかで来れるだろうし、ずっと会えないわけじゃないよ」
そう、ずっと会えないなんてことはないんだ。
「また会えるんだね……?」
「うん」
「約束だよ」
「うん、約束」
「絶対だからね」
「うん、絶対だよ」
小指と小指を強く結んで、私たちは未来を約束した。優ちゃんの泣き顔がようやく笑顔になる。早く大人になって優ちゃんのところに戻ってきてあげよう。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
受験を終えて、一人暮らしのアパートへ移り住んだ。数日後には大学生活が始まる。洋服も新調して、髪色も少しだけ染めてみた。それに合わせてメイクも変えたりして。少しは大人っぽくなれただろうかと鏡を見て確かめる。
数年前に住んでいた土地だけど、お店が変わっていたり新しいマンションが出来たりなんかしていて、初めてじゃないのに初めての土地に来たような気分だった。それでも変わらない風景もあって、懐かしさとともに安心感に包まれた。
今日は予定もない。散歩でもしてみようかと歩いてみれば、昔行き慣れていた公園に足が勝手に向かっていた。当時はよくこの公園で遊んだものだ。小さい頃は友達と、物心ついた頃には弟のような男の子と一緒に遊んでいたのを覚えている。あの子は今も覚えているだろうか、まだここに住んでいるのだろうか。あの頃私は中学生で、あの子は小学5年生くらいだったと記憶している。きっと、もう忘れてしまっているだろう。
見覚えのある三角屋根の下に座る。あの頃よりもなんだか小さく感じた。少し砂っぽいテーブルを指先で撫でる。
ふと、影が落ちた。
「ひさしぶり」
「え?」
昔住んでいた土地だから、知り合いに会う可能性はそれなりにあるだろう。けれどその姿には見覚えがなかった。柔らかそうな髪は金色に染められゆるいパーマがかかっていて、耳元にはピアスが光っている。身長はとても高そうだけれど中学生か高校生か、そのくらいの男の子だった。
「なに、忘れちゃったの」
拗ねるような顔が、なんだか幼く見えた。こんな不良っぽい男の子の知り合いはいただろうか。あまり仲良くなれるタイプの子ではないように思えるけど。ふとあの頃よく遊んでいた小さな男の子の姿が頭に浮かんだ。なんとなく、似たような顔立ちではある、ような、ないような。
「ええと……その、ごめん。ちょっと待って思い出すから」
「酷いな。約束、守ってくれたのかと思ったのに」
「…………まさか、ホントに、優ちゃん……?」
「覚えてるじゃん」
嬉しそうに笑う顔は確かにあの頃の優ちゃんに重なった。けれど、こんな……優ちゃんは可愛くて、大人しくて、私どころか同級生の女の子たちよりもずっと小さくて、可愛くて、可愛くて……こんな子じゃなかった。
「う、うそ……」
「なんでそんな嘘つくんだよ」
「え……えええ!?優ちゃん!?」
「そうだってば」
「うそ、優ちゃん、私の可愛い優ちゃんが……!!」
「は?」
機嫌の悪そうな顔をしながら、私を奥へ押し込んで隣に腰を下ろす。そんなことする子でもなかったでしょう?いつの間にか可愛いからかっこいいに変わってしまって、紳士的だった振る舞いが少し乱暴になって、理解が全然追いついていかない。
「何、可愛くなくなった俺は嫌ですか?」
「い、嫌とかじゃ、ないけど……びっくりして」
「なんだよ。あんたこういう男好きだったじゃん」
「へ?」
そう言われて、曖昧だった記憶が蘇ってくる。当時、数回ほどしか会っていないが、不良っぽくてでもとても優しい近所のお兄さんがいた。確かにあれは初恋だったのかもしれない、多分。
照れた顔をした優ちゃんが、少し視線を逸らす。やっぱり可愛いな、なんて思っていると、優ちゃんがぐっと顔を近づけてくる。息が止まるかと思った。
「男の趣味変わった?」
「なんて言い方するの……!」
「俺は変わってないよ。ずっとあんたが好き」
急にそんなことを言われて、一瞬で顔が熱くなるのが分かった。あの頃よりずっとずっと大きな手が私の手のそばにあって、触れ合っているわけでもないのに妙に鼓動が早まる。私のことをずっと覚えていて、私の好みを意識してくれていた、ということだろうか。
「あ、やっぱこういうの好き?」
「なにを言って」
「違う?じゃあ教えて。好きなもの。好きなこと。俺が全部あげるから」
祈るように見つめる彼から、目が逸らせない。
「だからさ、もうどこにもいかないで」
さっきまでの飄々とした態度が、急にしおらしくなる。そういえば私は昔から、この子の不安げな顔に弱かったんだ。
ひとまず連絡先を交換するところから始めましょう。そう言うと優ちゃんは、あの頃みたいに、花のように微笑んだ。
彼の瞳に写る私が、あの頃より少しでも魅力的になっていたらいいなと、朝に見た鏡を思い出しながらそう願った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
おまけ
せっかくおねえちゃんと遊んでいたのに、急に拓真が話しかけてきた。
何を言われるのか察したらしい拓真が怯えた顔をしている。気付くのが遅い奴が悪い。
「何回言わせるのさ。おねえちゃんには話しかけないで。そもそもこの公園に来るなってみんなに言ってるはずだよね」
「わ、わかってるけど……たまたま近くにおつかいに来てて、優弥が見えたからつい」
「僕が見えたからっていちいち話しかけにこなくても良いでしょ」
「なんでだよ!友達には話しかけるだろ普通!」
「拓真、鬱陶しいって言われない?」
「うっとうしいってなんだよ、絶対悪口だろそれ」
「ま、話はそれだけだから。じゃ。もう二度としないでね」
「ほんと千花ちゃんの前だと態度変わるよな」
「気安くおねえちゃんの名前呼ばないでくれる?あとそれ、おねえちゃんの前で絶対に言うなよ」
「へいへい」
おねえちゃんは可愛い僕が好きだから。おねえちゃんが僕の好きなことを沢山してくれるみたいに、僕もおねえちゃんが好きなことを沢山してあげたい。だからいつだって可愛い優ちゃんでありたいんだ。
おねえちゃんの”好き”は可愛いだけじゃダメなんだってことに、僕が気付くまであと少し。