永遠の孤独
私は悪夢から醒めるように、重い身体を起こした。身体中には様々なコードが繋がれており、眠っている間の生命活動はこれによって保たれていたのだと分かった。
同時に自分は眠りにつく前、これだけのことをしなくてはならないほどの状態だったのかと思った。
覚えていない。
胸に手を当て、眠る前の自分に何が起こったのかを思い返すがそもそも記憶がない。
「すみません、誰か」と私は声を出そうとした。
だが声はかすれるばかりで形にならない。
喉を抑えて咳払いをするが、息漏れような声しか出なかった。どうやら長い眠りの中で、身体が発声の仕方を忘れてしまったらしい。
私はとりあえず、人を探すことにした。私が植物状態のような形で眠らされていた以上、ここは病院に類する施設。であれば、私が眠っている間それを管理していた誰かがいるはずだった。
「随分筋肉が落ちているな」声にならない声で私は独り言を漏らす。
実際に筋肉はかなり落ちており、立ち上がるのにもひと苦労だった。ベッドや壁に手をつきながら、何とか立ち上がって施設を歩く。
廊下に出るが、人の気配はない。
ごうんごうんと何かの機械が動いている音しか聞こえなかった。
「誰か」と大声を出そうとするが強い空気が出るだけで、私は咽せるように咳をした。
なぜか強い不安があった。
それは目覚めた時からずっと、私の中にあった。
不安は私の胸を支配するように、重苦しくのしかかっていた。
だがその源泉に心当たりがない。私は理由の分からない不安を抱えながら、とにかく誰かを探した。
そうして廊下の端に行き着き、窓から外を見た。
「あああ」と声にならない声を漏らしながら、私はその幻想的な景色に膝から崩れ落ちた。
窓から見える世界は、美しくも荒廃していた。
高層ビルには繁茂した緑が新しい住民として暮らしており、眼下を見れば地面は洪水により海のようになっている。
人の気配がないわけである。私の形ない不安は的中した。
人類は滅んでしまったのだ。私一人を残して、消え去ってしまったのだ。
私は涙と嗚咽でぐちゃぐちゃになりながら、しかしその幻想的な世界に感動していた。
かつては栄華を極めたコンクリートジャングル。その無機質な世界は自然と一体になることで色を取り戻している。
人類が失われた世界は、それだけ美しさを取り戻していたのだ。
私は施設を歩き回った。
やはりどこにも人はいなかった。
同時に、この施設の完成度の高さに驚かされる。発電、食糧の生産と貯蔵、衣類の製造に至るまで一人の人間が暮らすには何ひとつ不自由しない設備が整えられていた。
屋上には風力発電所と畑を構え、全自動で作物が作られ続けている。ビルの中では豚や牛のような家畜が飼われている階層もあり、そうして作った食糧は私が食券を手にするだけで料理されて出てくる。
衣食住のすべてが機械化され、そこに不足はなかった。ただ人の心の温かさを除いて。
この施設は私だけのためにあった。
私を生かすための施設。たった一人となってしまった人類が最後の砦として遺したのが、この場所なのかもしれないと思った。
だとすれば、こうして施設に『生かされている』以上、私は務めを果たさなくてはならない。
すなわち――。
「人類の復興」――などと息漏れの声で嘯く。
私が? 人類を救うのか?
できるわけがない。
生命は単体では繁殖できないのだ。人類の未来は永遠に失われた。
そう思いつつも、私は遺伝子や生命に関する書籍を持ち寄りページを読み進めていた。分かっていても、何か手掛かりを探さずにはいられなかった。
不思議と研究することに忌避感はない。面倒だとも、やりたくないとも思わなかった。
その理由には孤独の寂しさも起因しているのかもしれない。
私は誰かと話したかった。
依然声は出ないけれど、私は人の温かさに焦がれていた。
だから人類を復活させる方法を求めて、私は施設の中にある図書室に閉じこもった。
そも、なぜ私以外の人類は滅亡してしまったのか。
人類復興の研究をする傍ら、私はそれについても探っていた。
とはいえ、それについての資料は不自然なほどにない。人類が最後の砦として私と施設を遺したならば、どうして最も重要なことを省いているのか。
地球が現存し、環境も大きく変わったというところが見受けられない以上、自然災害や核戦争が原因ではないと思われる。だとすると、どうやって七十億の長命種を根絶やしにすることができるのか。
分からないのはそれだけではない。
私という個人についても、分かることは少なかった。
年齢はおろか、名前すら不詳。どこにも私に関する資料がない。
なぜ人類は最後の一人として私を選んだのか。それが全く分からない。
図書室にある資料ではそれらに該当するものはないと感じ、私は建物の外を出歩くことにした。
外出には船が必要だった。人の手が加わらなくなった排水設備がオーバーフローし、都市は溢れ出した多量の水に沈んでしまったからだ。
鍵の開いているマンションや住宅に入り、人の影を探す。何かしら手掛かりになるようなものが残っていればと思った。
外の世界は様々な動物たちが支配していた。動物園から抜け出した動物が、日本にはあり得ない生態系を作り出している。
私は施設にあった拳銃を携帯し、猛獣に備えた。
そうして研究の傍らで人の痕跡を探すうちに、とある少女のものと思われる日記を発見した。すべてがスマートフォンで完結するようになった時代背景のせいで、こういった紙媒体の記録は貴重なものだった。
「疫病が原因、なのか?」私はかすれる声で呟く。
日記には家族が正体不明の病気に罹患したこと。自分も罹患したこと。祖父が死に、父が死に、母が死に、自分も死にゆくこと。そして、死にたくないという内容が綴られていた。
胸が張り裂けるような思いで書かれた日記の日付は、施設に表示されるカレンダーと見比べて十年も前のものだった。
つまり私は人類が滅んでから十年近くも眠って過ごしていたことになる。十年という時は残酷だ。疫病に斃れた人々の遺体は十全な状態で残らない。
私以外の遺伝子を手に入れる方法が存在しない。
それなら。
「私は、なんだ」と言わずにはいられなかった。
眠りから醒めたら人類は滅んでいた。こんな世界で、復興の手段も絶たれたというのにどうやって生きていけば良い。
「私は、誰なんだ」と頭を抑えながら、フラフラ歩く。
船を漕ぎ、希望を探した。
それは人類復興の希望、ではない。
私には、私が生きていくための希望が必要だった。
水に沈んだ都市を抜け、郊外の街を探索する。襲いくる虎やライオンから逃げて、バックパックに詰めた食糧が尽きるまで探索を繰り返した。
時には傷だらけになり、死にかけもした。しかしこの世界には私一人しかいないから、どうにか施設に戻って自力で治療した。
温もりが恋しかった。
誰かに会いたかった。
包帯を巻く手が止まり、血が滲むところに涙がこぼれ落ちた。
早く希望を、生きる理由を見つけなくてはならなかった。この世界は、一人で生きていくには静かにすぎる。都会の喧騒が欲しかった。
その時だった。
マンションの一室。とにかく適当に手掛かりを探していた。
そして私は最悪のタイミングで、それを見つけてしまった。
「大学教授、正体不明のウィルスを流出?」記事の題名を読み上げながら、古い新聞紙を持ち上げた。
ボロボロで記事の内容も断片的にしか分からないが、そこには私の写真が載っていた。
正体不明のウィルス。空気感染により爆発的に広がる性質があり、潜伏期間は僅か数時間。発症後は咳とくしゃみを頻発し、一週間程度高い発熱で寝込んだ後死に至る。
人類を絶滅に至らしめた根源。そのウィルスは東京のとある大学教授が研究の中、誤って流出させてしまったものだった。
そして、その大学教授というのが。
「私なのか」の声は、震えていた。
人類を滅ぼしたのは、私だった。
そうして私は、自分がとんでもない罪を犯したことを理解した。
私はおそらく、自分の研究していたウィルスが漏れてしまったことで、自分だけが生き残ることができるように段取りした。
私だけが疫病に斃れていない理由も、あの施設の存在も、すべてこれで説明できる。
記憶がないから当時のことは分からないが、きっと、私は恐れたのだ。
ウィルスの流出による世間のバッシング。毎日のように届く殺害予告と、世界のすべてから向けられる憎悪の目。
世界を滅ぼした男に、それらは耐えられなかった。そして耐えられなかったくせに、自死を選ぶ勇気すらなかったのだ。
だから私は選んだ。
こんな世界は、滅んでしまえと。
家の隅で震えながら、すでに完成しているワクチンの存在をひた隠しにして。
「あああ」と顔面をくしゃくしゃにしながら、私は声にならない声で喘ぐ。
私の記憶喪失と植物状態。施設の図書室から不自然に消えていた情報。それらも、私が自分の罪から逃れるためにしたこと。
世界を滅ぼしてしまったことを忘れ、自分だけになった世界でのうのうと生きていくために何もかもが準備されていた。
私は世界を滅ぼした男だ。
そしてその大罪を、背負えなかった男だ。
私は私の罪を知ってしまった。
そしてその重すぎる罪を背負い切れないということも、理解してしまった。
「選択肢は二つ、か」私は口の中で呟く。
自嘲するように。
私に残された選択肢は、たった二つしかなかった。
それは、――人類最後の一人となった極悪人を生かすか、殺すか。
裁判所などなく、法律も機能していないこの世界で、七十億の人間を殺した男の罪は誰が裁くというのか。
私は窓の外に視線を向ける。
そこから見える美しい世界は、同時に残酷な現実を私に突きつけていた。
長い眠りから醒め、この景色を初めて見た時に抱えていた理由の分からない不安の正体。それはきっと、自身の罪を感覚で理解していたからだったのではないかと思った。
私は二択のうち、一つを選ぶことにした。
かつて横たわっていた寝台に寝そべると、目覚めた時のように幾多のコードを身体に接続する。これによって眠るように意識が落ちていくはずだった。
朧げになっていく意識の中で、私は自分の選択を反芻する。
記憶を失う前の私は、生活するのに何不自由のない施設を用意していた。人の温かみのない無機質な世界に私を閉じ込め、真実を隠蔽していた。
今なら思う。これこそが、私の罪に対する罰なのであると。
永遠の孤独。
自死を選ぶことができなかった私は、未来永劫それを背負っていく必要があった。
自身の記憶を消し、孤独の中で生きていく目的を探し、自分の罪へと行き着く。そうして私は何度も絶望し、何度も同じ絶望を繰り返す。
死ぬまで、永遠に。
これこそが、世界を滅ぼした男に下す罰なのだ。
私は最後のコードを身体に繋ぎ、記憶を消すための薬剤を準備した。
この選択は、あるいは逃げなのかもしれない。
死ぬ勇気がなかったから、罪を自覚し背負っていく勇気がなかったから、罰にかこつけて逃げようとしているのかもしれない。
「――――」となり、答えは出ない。私は最後までその自問に答えられなかった。
やがて血中を巡る薬剤が私の意識を朦朧とさせてきた。それに逆らうことはせず、全身を預けるように瞳を閉じる。
記憶が溶けていくのを感じた。
意識が溶けていくのを感じた。
そうして私は私自身にさよならをする。
永遠の孤独という悪夢に身を委ねる。
没入していく長く、深い悪夢は、記憶があやふやになる私の心に理解不能な不安感として刻まれるのだった。