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9.夫の悪友が気に入らない

「なんだ、もう来たのかルクス。もうちょっと遊びたかったんだが」


「アウロラは僕の妻です。あまりからかわないでください」


 長椅子の向こう側で、ウェルが不敵に笑って腕を組む。一面の青い空に、彼の黒い髪はどうにもそぐわないもののように思えた。


「そもそも、どうしてあなたがこんなところにいるのよ。来客があるなんて聞いてないわ」


 失礼にあたるかと思ったけれど、もうウェルに丁寧な口をきく気にはなれなかった。そもそも彼が先に無礼な真似をしたのだし、これくらいいいだろう。


 ふくれっつらをしている私に答えたのは、ウェルではなくルクスだった。


「ウェルと僕が古い友人だというのは、前に説明しましたよね」


 優しくて穏やかなルクスと、偉そうで無礼なウェルが友人だというのがいまだに信じられないので、無言のままこくりとうなずく。ルクスは困ったように笑い、私の手を取った。


「……そんなこともあって、彼は時々こうしてふらりと僕のところを訪ねてくるのです。来る時も帰る時も何も言わないので、気づかないままになることもあるんです」


「それって、何をしに来てるのよ……」


 私の独り言に、ウェルが楽しげに答える。


「気まぐれと、あとはいたずらだな。勝手に家具の位置を変えておいたり、こっそりと手紙を残しておいたりしているぞ」


「……つまり、私にちょっかいをかけたのも、そのいたずらの一つだと?」


「それもある。だが今日は、お前と話してみたかった。あのルクスが一目惚れしてわざわざ迎えに行ったという女が、いったいどんな奴なのか確かめたくてな」


「だったら普通に来ればいいでしょう。話くらいするわよ」


「それでは面白くないだろう」


「……一発ひっぱたいておけばよかった。今からでも遅くないかしら」


 ウェルと話していると、どんどん眉間にしわが寄っていく。そして彼は、さらにとんでもないことを言い放った。


「気が強いのは大いに歓迎だ。落とし甲斐があるからな」


「落とす、って……」


「そのままの意味だが?」


 思わず握りこぶしで殴りかかりそうになった私の両肩を、ルクスがしっかりと押さえ込む。


「彼は昔からこうなんです。あまり真剣にとらえずに、聞き流してください」


「でも……彼は私に無礼を働いただけでなく、あなたのことも軽んじてるわ。見過ごせない」


 そう言ってルクスの目を見つめると、彼は一瞬はっとしたような顔になり、それから私をぎゅっと抱きしめた。


「いいんです。これが、僕たちの在り方なのですから」


 それはどういう意味なのか、尋ねることはできなかった。ルクスはひどく悲しげな、何かをあきらめたような顔をしていたから。


 戸惑いながら、ふとウェルを見る。さっきまでは力強い不敵な笑みを浮かべていた彼は、ルクスを心配しているような顔をしていた。今までの軽い調子は鳴りをひそめていて、ただ真剣な黒い目がこちらに向けられている。


 私は全く訳が分からないまま、ただルクスにすがりつくことしかできなかった。




 どうにも気まずい空気が流れる中、最初に動いたのはウェルだった。今日は泊まっていく、と言い残し、屋敷の中に消えていく。彼の姿が見えなくなってから、ようやくルクスは私を抱きしめていた腕を離した。


 彼は無言のまま、私の手を引いて自室まで送り届けた。その間、何か言いたげに幾度か口を開きかけていたけれど、結局何も言わずにそのまま立ち去っていく。


 どうもルクスとウェルの間には、何かただならぬ事情があるらしい。けれど彼らは、そのことを私に話すつもりはないようだった。


 それでなくてもルクスの不可解な態度に悩んでいたというのに、また新たな悩みが増えてしまった。私は寝台の上でクッションを抱えて、さらに大きなため息をついていた。




 夕食の時になってようやく、ルクスとウェルの二人とまた顔を合わせることになった。


 ルクスはいつも通りに見えたし、ウェルのほうもまた偉そうな態度に戻っていた。私はまだ昼間の二人の態度が気にかかっていたけれど、二人があまりにも平然としているので、尋ねるに尋ねられなかった。


 表面だけは和やかな夕食が終わり、また自室に戻る。湯あみやら着替えやらを済ませて、寝台に横になった。なんだか今日は、どっと疲れた。こういう日は、さっさと寝て忘れるに限る。


 私は人よりも寝つきが良いらしい。たっぷり昼寝していても、夜はいつもきちんと同じ時間に眠くなる。


 しかし今日は、びっくりするくらいに眠れなかった。目を閉じて眉間にしわを寄せたまま、ひたすらごろごろと寝返りを打ち続ける。


「眠れない……眠れない……なんてこと……」


 生まれて初めての事態に、余計にあせりがつのる。目はぱっちり、頭もすっかりさえてしまっている。


「……こうしていても仕方ないわね。ハーブティーでもいれに行こうかしら」


 夜間は使用人たちも休んでいるけれど、台所の火鉢には火がついたままの炭がいけられている。毎朝使用人たちは、その炭をかまどに移して料理をするのだ。


 だからその火鉢の上にやかんをかければ、お湯くらいはすぐに沸かせる。実家にいた頃、使用人たちの仕事をぼんやり眺めている間に覚えたのだ。その知識は、あの山小屋での暮らしで大いに役に立っていた。思えばあの山小屋にいた頃は、悩みなんてなかったなあと、そんなことをつい考えてしまう。


 頭の中のもやもやを振り払うように立ち上がり、寝間着のまま部屋を出る。ルクスを起こさないよう、扉の開け閉めにも気を配って、足音を殺して。


 そうして廊下に出た時、ふと違和感を覚えた。辺りの空気が、いつもとちょっと違う気がする。熟し過ぎた果実のような甘ったるい匂いが、かすかな風に乗って私の鼻をくすぐった。


「果物……にしても、匂いが強すぎるような……それに、数時間前はこんな匂いはしていなかったし……」


 首をかしげながら、匂いのもとをたどる。犬のように鼻をひこひこさせながら、屋敷の中をゆっくりと進んでいった。より匂いの強いほうを目指して。そうしているうちに最上階へたどり着いた。この先にあるのはバルコニーだけだ。


 開けっ放しになっていたバルコニーの扉から、そろそろと外をのぞき見る。少し離れたところに、ルクスとウェルが立っていた。二人ともこちらに背を向けて、何事か話しているようだった。


 声をかけようとして口を開きかけ、そのまま止まる。彼らの背中には、割って入ることをためらわせるような、そんな雰囲気があった。


 バルコニーの扉の陰で立ちつくす私の耳に、二人の会話が聞こえてきた。


「……あの女は噂通りの、いや噂以上のはねっかえりだったな。あれなら堕落させるのも簡単だろう。こんないい獲物を見つけてやったんだ、今度はしくじるなよ、オ・ルクス」


 ウェルが心底愉快そうに笑い、知らない名でルクスのことを呼んでいる。あの女というのは、もしかして私のことだろうか。堕落? 獲物? なんのことだろう。


「……今はその名で呼ばないでください、ラ・ウェル・ナ。今の僕たちは、ただの貴族なのですから」


 やけに沈んだ声で、ルクスが返す。ウェルが鼻で笑うのが聞こえた。


「悪魔としての真の名を嫌がるとは、もしかしておじけづいたか? お前は昔から、どうにも甘いからな。この二十年、俺がいくつも成果を出したというのに、お前はまだ何もできていない」


 ウェルが口にした思いもかけない言葉に、えっ、と声がもれていた。バルコニーの二人が、同時にこちらを振り返る。


 月のない夜に、二人の目だけが、まるで猫のそれのようにらんらんと輝いていた。

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