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8.前途多難な恋の花

 そうやって丸二日、私は自室にこもってちくちくとハンカチを縫い続けた。


 いつものように居間でごろごろしていない私をルクスは心配していたが、なんとなく自分の部屋でくつろぎたい気分なの、と言ってごまかした。あなたへの贈り物を作っているの、と白状する勇気が、どうにも出なかったのだ。


 そして、当初の予定よりもずっと華やかになってしまったハンカチを前に、ごくりとつばを飲み込む。やれるだけのことはやった。これが今の私の精いっぱいだ。あとはこれを、ルクスに渡すだけ。


 ハンカチにアイロンをかけてきれいにたたみ、薄紙に包む。手持ちの薄紫のリボンをかけて、きっちりと蝶結びをする。


 その包みを手に、自室を出る。そこの小部屋の、向かい側にある扉。その向こうが、ルクスの私室だ。この時間なら、彼はここにいることが多い。


 そちらの扉に近づこうとして、そのままぴたりと足を止める。わざわざ、彼のところを訪ねる。そう考えただけで、胸が高鳴ってしまってどうしようもなかったのだ。


 ここ二日ほど自室にこもっていたせいで、ルクスと顔を合わせるのは食事の時だけだった。それだけの短い時間であっても、平静を装うのに一苦労だった。


 気がつくと、彼に見とれてしまっていたし、ぼうっとして上の空になってしまったりもしたのだ。恋を自覚しただけで、こうも挙動不審になってしまうなんて。


 そんなことを思い出して甘いため息をつきながら、大急ぎでその場を離れた。贈り物の包みを手にしたまま、居間のソファに腰を下ろす。いったんここで、心を落ち着けようと思ったのだ。


「駄目、思い出したらもっとどきどきしてきた……」


 自分はもっと、物事に動じないたちの人間なのだと思っていた。突然山小屋に一人放り込まれた時だって、そこまで動揺はしなかった。それがまあ、なんということだろう。


「落ち着くのよ、アウロラ。いつも通り、何事もなかったかのような顔で、さりげなく差し出せばいいんだから……」


 一生懸命自分に言い聞かせていたまさにその時、居間の扉が叩かれた。この時間帯は、使用人たちはめったにここには立ち入らない。だから、扉の向こうにいるのはおそらくルクスだ。


 まだ心の準備ができていない。けれどここで「入らないで」などと言おうものなら、彼を心配させてしまうかもしれない。


 無言でそんなことを考えながらあわてふためく私の目の前で、扉がゆっくりと開いていった。そうして、ルクスが入ってくる。彼は私を見ると、若葉色の目を優しく細めた。


「ああ、今日はこちらにいたのですね。……僕もご一緒させてもらってもいいでしょうか?」


「え、ええ。もちろんよ」


 緊張のあまり、声がちょっと裏返ってしまっていた。ルクスもそれに気づいているだろうに、穏やかな笑みを崩すことなく私の隣に座った。


 心臓がばくばくと激しく打っていて、今にも口から飛び出しそうだ。恥ずかしくて、彼のほうを見られない。


 けれど、いつまでもこうやってもじもじしている訳にはいかない。今日は、なにがなんでもこれを渡すのだと、そう決めたのだから。


「……あの……ルクス。これなんだけど……よければ受け取ってもらえるかしら」


 リボンをかけた包みを、そっとルクスのほうに差し出す。私の手がかすかに震えていることに、どうか彼が気づきませんように。


「これは……わざわざ、僕のために?」


「ええ。いつも良くしてもらっているから、お礼がしたくて。その、大したものではないのだけれど」


 うつむいたまま喋っていると、手首のブレスレットが目についた。その金と緑の輝きは、私を励ましてくれているような気がした。


 そろそろと顔を上げ、隣のルクスを見る。彼は慎重に包みをほどき、中からハンカチを取り出していた。そこに縫い取られたものを見て、目を真ん丸にしている。


「あの、これはもしかして、貴女が……?」


「そうなの、私が縫ったのよ。ちょっと派手になってしまったかもしれないし、気に入らないかもしれないけど」


「いいえ!」


 珍しく、ルクスが声を張り上げる。彼の頬は、ほんのりと赤く染まっていた。そんな表情も素敵だなと、こっそりそんなことを思ってしまう。


「この刺繍、とっても気に入りました! ……こんなに素敵な贈り物をもらったのは、初めてです」


 そう言うルクスは、うっすらと涙を浮かべて心底嬉しそうに笑っている。このところよく見せている仮面のような笑みとは、まるで違う。


 ああ、ちゃんと喜んでもらえた。たったそれだけのことが、ひどく心を浮き立たせる。


「ありがとうございます。大切にしますね」


 そう言って、ルクスは晴れ晴れと笑う。こんなに喜んでもらえるのなら、また折を見て何か贈り物をするのもいいかもしれない。というか、贈りたい。


 私がこの屋敷に来てから、彼はたくさんの贈り物をくれた。甘いお菓子、珍しい果物、ふかふかのクッション、その他もろもろ。


 気がきくなとは思っていたけれど、もしかして彼も、今の私と同じような気持ちだったのだろうか。相手の喜ぶ顔が見たい、もっともっと喜んで欲しいという、そんな気持ち。


 そうだといいな、と思いながら、ハンカチを握りしめて微笑んでいるルクスを見守っていた。






 しかし意外なことに、この贈り物をしてから私たちの間は妙にぎくしゃくしてしまっていた。なぜかルクスが、一歩引いたようなふるまいを見せるようになったのだ。


 仮面を思わせる笑顔こそなくなったものの、今度はどこか悲しそうな笑みをしばしば浮かべるようになってしまった。


 どこか具合でも悪いの、私にできることはないの、と尋ねても、彼は黙って首を横に振るだけだった。


「ルクス、どうしちゃったのかしら……」


 庭の長椅子に一人座って、深々とため息をつく。ルクスのことが気になって、このところのんきに昼寝することもできなくなっていた。


「新妻とは思えないため息だな。辛気臭い」


 思いもよらない声が、頭上から降ってきた。この声には聞き覚えがある。この間、町の劇場で会った、ルクスの友人のウェルだ。なんでまた彼が、こんなところにいるのだろう。


 あわてて声がしたほうを振り返ろうとしたその時、背後からするりと手が伸びてきた。ごく自然な動きで、その手が私の頬に触れる。


 ひやりとした感触に身震いした私の耳元で、低い声がやけになまめかしく響いた。


「ルクスとうまくいっていないのか? だったら、俺がつきあってやろうか」


 それは単に悩みの相談に乗ってやると言っているようにも思えたし、あるいはもっと別の、言葉にするのが恥ずかしいようなことをほのめかしているようにも聞こえた。


 さすがにそれは考えすぎだ、と自分を叱り飛ばして、失礼のないように答える。


「い、いえ、どうぞお構いなく」


「つれないな。俺はお前の夫の古い友人だ。そう警戒しなくともいいだろう」


「いえ、本当に大丈夫ですので」


 気がつくと、ウェルのもう片方の手が私の肩にかけられていた。すぐ後ろから、彼がくすくす笑う声が聞こえる。いくらなんでも、近すぎる。


 これはまずい、ひとまず彼から距離をとらなくては。そう思い、立ち上がろうとする。その気配を察したのか、ウェルは腕を伸ばしてきた。


 あっという間に、後ろから抱きしめられてしまう。肩から胸へかけて、彼のたくましい腕が触れている。背筋がそわりと震えた。嫌悪と、あとそれ以外の何かに。


「あいにくと俺は、逃げられると追いかけたくなるたちだ。ほら、つかまえたぞ」


「つかまえた、ではありません! 夫の友人とはいえ、さすがにこれはやりすぎです!」


 礼儀正しく、しかし力いっぱいたしなめる。同時にウェルの腕をつかんで引きはがそうと試みた。ところがウェルの腕はびくともしない。


「は・な・し・て・く・だ・さ・い!」


「はは、活きがいいな。いいぞ、もっと暴れろ」


「人を釣りたての魚か何かのように言わないでちょうだい!」


「おや、素が出たか。これはこれで面白いな」


 青筋を立てて怒りながら、ぎゃあぎゃあとわめきもがく私をあっさりとあしらって、ウェルは明るく笑う。ついさっきまで静かだった庭は、すっかりさわがしくなってしまった。


 じきに、騒ぎを聞きつけてルクスがやってくるだろう。その前に、どうにかしてウェルの腕から逃げなくては。


「……私は、ルクスの妻なのよ……いくら友人とはいえ、こんな状況を、ルクスに、夫に見られてなるものですか!」


 一瞬べそをかきそうになったのをごまかすように叫んで、そのまま足に力をこめる。身を縮めてお尻を前に滑らせて、ずるりと長椅子の前側に落ちる。


 その勢いで、石畳の上に寝転がってしまった。しかしどうにか、ウェルから逃げることはできた。視界の端に、ぽかんとしたウェルの顔が見える。


 腕を振りほどけないのなら、下に抜ければいい。単純な話ではあるけれど、普通の令嬢ならば考えもしないだろうし、思いついたところで絶対に実行に移せないだろう。


 でも私は違う。濡れていたり汚れている地面に横たわるのは嫌だけれど、掃除の行き届いた石畳に寝転がるくらい、どうということはない。


 とはいえずっと寝転がっていたら体が冷えてしまう。そのまま身を起こして、石畳の上に座り直す。


 ウェルはまだぽかんとしたままだった。どうだ、私の勝ちだ、とばかりにふふんと笑ったその時、ルクスが駆け寄ってきた。


「……ごめんなさい、遅くなりました。無事ですか?」


 私のそばにひざをついた彼は、心配そうにこちらを見ていた。その若葉色の目は、泣きたくなるくらいに優しい色をしていた。

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