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7.自覚してしまった気持ち

 私がこの屋敷に来てから、一か月が経った。しかし私はいまだに、ルクスのことをつかみ切れていなかった。


 最近では、午後のお昼寝の時間を一緒に過ごすことも多くなっていた。二人で過ごす時間も増えたし、ちょっとしたことを語り合うことも多くなっていた。


 ルクスは甘いものが好きで、豆や野菜も好きだ。苦手なのは肉と魚、特に分厚い肉のステーキや頭のついた魚、丸のままのエビの料理などは見るのも嫌なのだとか。ひき肉になっていれば、まだ何とか食べられるらしい。


 彼は一人の時間を、だいたい読書にあてている。侯爵家の当主と言っても、領地の統治については複数の代理人に任せているから、彼自身がこなさなくてはならない仕事はごくわずかだ。たっぷりと余った時間を使って、彼は様々な本を読みふけっているのだ。


 仕事に関する法文集や地理に関する本だけではなく、ごく一般的な読み物にも手を出しているらしい。貴族の令嬢の間で人気の、感動的な物語や甘い恋物語が好きなのだと、彼ははにかみながら教えてくれた。人が死ぬ物語は、ちょっと苦手なんです、とも。


 そうやってルクスについて知ることはできたけれど、まだ謎はいくつも残っていた。どうして彼は、ここまで私に好き勝手させているのか。一目惚れで迎えた妻だから、の一言で片付けるには、少々度を越している。


 一目惚れ。それもまた、謎の一つだった。ルクスは、いつも私に良くしてくれている。けれどそれは、ただ甘い恋慕の情だけからくるものだとは思えなかったのだ。他に何か、別の思いが混ざっているように思える。


 そして一番の謎は、時折彼が見せる切なげな表情だった。どうして彼は、あんな表情をするのだろうか。知りたくて、でも直接尋ねてはいけないような、そんな気がして、結局私はただため息をつくことしかできなかったのだ。


「ほんと、綺麗……」


 居間の日なたに置かれたソファに寝転がり、ブレスレットをはめた左腕を高く上げる。目の前で、金と緑が繊細なきらめきを見せる。


 こうして毎日眺めているうちに、どうして自分がこのブレスレットにひかれたのか理解できた。


 このブレスレットは、ルクスを思い起こさせるのだ。色もそうだけど、作りもそうだ。繊細で、純粋で、きらきらとしてとても美しい。だからこそ私は、このブレスレットを片時も離さずに身に着けていたいと、そう思ったのだ。


 けれどそうやってブレスレットを眺めていたら、またため息がこぼれ出てしまった。


「はあ……寂しい」


 どういう訳か今の私は、一人でのんびりすることを楽しめなくなっていた。ルクスにそばにいて欲しい、そう思ってしまっていた。


「でも、彼がいたらいたで、やっぱり寂しいし……」


 そしてなんとも不思議なことに、これもまた私の本心だった。


 ルクスと一緒にいて、色々なことを話して。そうしていると余計に、寂しさがつのってくるのだ。彼のことをもっと知りたい、もっと話したい、もっと一緒にいたい。そんな思いで、頭がいっぱいになってしまうのだ。


「私、どうしちゃったのかしら。生まれてこのかた、寂しいなんて思ったことはなかったのに」


 私は小さな頃から変わり者だった。そのせいで、家族ともあまり打ち解けてはいなかった。むしろそのことを歓迎してすらいた。余計な干渉をされずに済むと、そんなことを思っていたのだ。


 生まれて初めての感情を持て余し、さらに深々とため息をつく。


「……本当に、どうすればいいのかしら。困ったわ」


 彼には言えないこんな悩み事を抱えているせいか、最近の私はちょっと浮かない顔をしているらしい。どこか悪いんですか、医者を呼びましょうかとルクスはことあるごとに心配してくれている。そのことを申し訳ないと思うと同時に、嬉しさを感じてしまっていた。


 たぶん、今ここにルクスを呼び出しても、そんな感じのやり取りをすることになるだろう。彼の手をさらにわずらわせることに、ためらいを覚えずにはいられなかった。でも、気遣ってもらいたいとも思ってしまう。


 そんな色々な考えが乱れ飛んで、思うようにくつろげない。仕方なく、いったん自室に戻ることにした。小部屋の反対側にある、ルクスの部屋に通じる扉をちらりと眺めてから。


「どうせくつろげないのだし、手でも動かしてみましょうか。……それに、ルクスにお礼もしたいし」


 あの山小屋で出会ってからずっと、ルクスはとても私に良くしてくれた。それなのに、私は何一つ彼に返せていない。そのことがずっと、気にかかっていた。


 もっとも彼は、私が受け取りっぱなしでも気にしないだろうけど。これは僕がやりたくてやっていることですから、は彼の口癖だ。後は、愛しい貴女を笑顔にしたいんです、も。


 思い出した拍子にちょっと恥ずかしくなりながら、自室のたんすを引っかき回す。


 私が最初にこの部屋に来た時、既にたくさんの荷物が運び込まれていた。それらは、お母様が見つくろった私の嫁入り道具だった。上等だが古めかしいドレスの数々、淑女にふさわしい本、それに手芸道具が一式、などなど。


 本に関してはそのままルクスに譲ることができたのだけれど、まず着ることのないドレスがクローゼットにみっちり詰まっているのは、ちょっとうんざりする光景だった。


 なのでこの部屋に来てすぐ、ドレスはまとめて他の部屋に移動させた。その代わりに、コルセットを使わない比較的楽な部屋着がクローゼットにしまわれている。この間、町で買いそろえたものだ。


 私が小さい時からずっと、お母様はもっとかっちりした服しか用意してくれなかった。だから、こんな部屋着が存在するなんて知らなかった。


 今では、私はほぼ一日中この部屋着でふらふらしている。実家ならともかく、ルクスの前でずっと寝間着というのも気が引けたので、ちょうど良かった。


 そんなことを考えながら、さらにたんすの中を探す。やがて、目的の物が見つかった。


「やっぱりあったわ。刺繍は淑女のたしなみだって、お母様はいつも口うるさく言っていたものね」


 私が引っ張り出してきたのは、刺繍の道具が一式収められた大きなかごと、それに真新しい白いハンカチが一枚。


 それらを机の上に置き、さらに紙とペンを取り出す。一生懸命に考えながら、いくつもの図案を書き出していく。


 日頃の感謝を込めて、ルクスにちょっとした贈り物をしようと思ったのだ。彼の名前を縫い取ったハンカチ。これならそう大げさでもないだろうし、彼も喜んでくれると思う。


 やがて、彼の名前と可憐な野の花を組み合わせた図面が書き上がった。それを布に写し取って、いそいそと刺繍に取り掛かった。


 変わり者の私だけれど、淑女として必要なことは一通り叩き込まれている。お腹を締め上げるきついドレスでお茶会に出るのは面倒だったけれど、こうやってじっくりと針仕事をするのは割と好きだった。


 久しぶりの刺繍は、やけにはかどった。一針一針心をこめて縫いながら、自然とルクスのことを考えていた。


 彼の喜ぶ顔を想像したら、たまらなく心が躍った。けれどすぐに、がっかりされたくないという気持ちがこみ上げてきた。これが気に入らなかったとしても、彼は優しいから顔には出さないだろう。気に入った? と尋ねれば、はい、という言葉が返ってくるに決まっている。


 針を動かす手が止まる。やっぱり、違うものにしたほうがいいだろうか。もっと彼の好みを探ってからにしたほうがいいだろうか。


 そう思ってから、ふと小首をかしげる。どうして私は、彼にがっかりされることをここまで恐れているのだろうか。他人にがっかりされるのなんて、いつものことなのに。


 家族、親戚、友人。みんな私のふるまいに幻滅して、がっかりして距離をとるようになった。私はそのことを、仕方ないと受け入れていた。苦しい服をまとってただお人形のように生きるよりは、ずっとましだと思ったから。


 でも、ルクスは。彼にだけは、嫌われたくない。がっかりされたくない。仲良くなりたい。彼の心からの笑顔が見たい。


「……これじゃまるで、恋する乙女、じゃない……?」


 私は恋なんてしたことがない。というよりそもそも興味がない。おかげで友人たちのお喋りにも、全然ついていけなかった。お母様が持ち込む縁談に、心弾ませることもなかった。


 そんな私が、まさかの恋。そんなはずはないと一生懸命に否定しても、無駄だった。これが正解なのだと、心のどこかで納得してしまっていた。


「私、いつのまにかルクスのことを好きになっていたの……?」


 正体の分からないこの寂しさも、戸惑いも、奇妙なまでにそわそわする気持ちも、全部恋のなせるわざだ。間違いない。


「……駄目、恥ずかしいわ……ひとまず、そのことは置いておきましょう」


 このまま考え事をしていては、真っ赤になってしまいそうだった。小さく首を横に振って、また刺繍に取り掛かる。手を動かしている間だけは、この甘酸っぱいくすぐったさを忘れていられそうだった。


 純白のハンカチの上に、次々と可憐な花が咲いていく。その花たちに囲まれたルクスの名前は、にっこりと微笑む彼自身のようにも思えていた。

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