6.夫婦らしくお出かけでも
「アウロラ、遊びにいきませんか」
ほんの少しためらいがちにルクスがそう切り出してきたのは、ある日の朝食時だった。湯気を立てるティーカップを手に、彼はおずおずと言葉を続けた。
「貴女がこの屋敷に来てから、毎日屋敷の中や庭でくつろいでいるばかりで……退屈してはいませんか? 近くの町に行けば、面白いものがたくさんありますよ」
その言葉に、目をそらして考える。確かに彼の言う通り、ここに来てからはずっと毎日全力でごろごろするだけだった。普通の人間には少々退屈かもしれない。
しかし私は、自他共に認める変わり者だ。ただ芝生に寝転がっているだけでも楽しいし、ルクスは私好みの本を色々と差し入れてくれている。退屈どころか、毎日が楽しくてたまらなかった。
けれど、ルクスの心遣いそのものはとても嬉しかった。だからにっこりと笑ってうなずいた。
「そうね、たまには外に行くのもいいかもしれないわ。あなたは近くの町には詳しいの?」
「一通りは歩いたことがありますよ。貴女さえよければ、案内しますが……」
「ぜひお願い。あなたとなら、楽しい一日になりそう」
思ったままの私の言葉を聞いたルクスは、なぜか泣きそうな顔をしていた。それはほんの一瞬のことだったけれど、私の胸にはその表情が焼きついていた。
それからいそいそと準備をして、二人一緒に馬車で屋敷を出る。この屋敷から近くの町までは、馬車で一時間ほどらしい。
ちゃんとしたよそいきを着るのは久しぶりなので、どうにもお腹が苦しい。スカートも無駄に大きくて、邪魔なことこの上ない。できるだけ動きやすいドレスを選んだし、コルセットはゆるめにしてあるものの、普段着ている寝間着とは大違いだ。
ため息をつきながらお腹をさすっていると、向かいに座ったルクスが不思議そうな目で私を見た。
「貴女は、そういった堅苦しい服は苦手だと思っていましたが……」
「ええ、かなり苦手よ。でも今日はせっかくのお出かけなのだから、きちんとしようと思って」
「やはり女性は、こういう時に着飾りたいものなのですね」
納得したようにうなずくルクスに、苦笑しながら首を横に振る。
「違うのよ。着飾ることに興味はないの。ただ今日は、他の人たちにも見られるでしょう? だからその、あなたが恥ずかしい思いをしないようにって」
説明していたら、なぜだか私がちょっぴり恥ずかしくなってしまった。別に後ろめたいことをしている訳ではないのに。
もごもごと言葉をにごしていると、ルクスがまた泣きそうな笑顔を見せた。
「本当に貴女は優しいですね。僕のために、そこまでしてくれるなんて」
「気遣うのは当たり前よ。あなただって私にあれこれと気を配ってくれるし、その……私たちは夫婦なのだから」
夫婦、と改めて口にすると、さらに恥ずかしい。そもそもいつの間にか夫婦になっていたということもあるし、夫婦とは名ばかりの、ただの同居人のような暮らしをしているということもある。
赤の他人というには近すぎて、夫婦なのだと堂々と言うにはほど遠い。思えば、私たちはなんとも不思議な関係だった。
感極まったような顔で微笑んでいるルクスを見て、それから窓の外に目をやる。歴史と活気とを同時に感じさせる町並みが、遠くに見え始めていた。
「ここは僕のお気に入りの場所なんです。あちこちの貴族が出入りしていますし、友人を作るのにもちょうどいいところですよ」
ルクスはそう言って、たいそうにぎわった劇場に足を運んだ。この町は交通の便が良いらしく、驚くほど遠くに住まう貴族たちもちょくちょく遊びに来ているのだそうだ。
私たちが劇場のホールに入ると、すれ違う貴族たちがみな笑顔で会釈してきた。一人で来ているもの、親子で来ているもの、夫婦もの、友人たちで連れ立ってやってきたもの。年齢も性別もばらばらな貴族たちは行儀良くささやき合い、笑い合いながらホールのあちこちをたゆたっていた。
若い女性たちは、失礼にならないよう気をつけながら、ちらちらとルクスを見ている。隣にいる私のことなどお構いなしに、ルクスに色目を使っている者までいた。
ルクスには悪いけれど、この場所はあまり好きになれないかもしれない。人が多すぎるし、集まっている人たちも何となく嫌な感じだ。
早くホールを抜けて、客席に向かいたい。そうルクスに頼もうと口を開きかけた時、人ごみの中から一人の男性が歩み寄ってきた。
「ルクス、お前も来ていたのか」
その男性はルクスと同年代のように見える。無造作に結ばれた黒い長髪がやけに目を引く、鋭い雰囲気の人物だった。ルクスも平均よりは背が高いほうだというのに、その男性はさらに長身だった。しかしすらりとしていて、鈍重なところは全くない。
周囲の女性たちが、ルクスと男性を見て浮きたった声を上げている。その声が聞こえていないかのような落ち着いた様子で、ルクスはその男性に向き直った。
「こんにちは、ウェル。はい、彼女にこの町を案内しようと思ったんです」
穏やかに微笑むルクスとは対照的に、ウェルと呼ばれた男性は眉間にくっきりとしわを寄せていた。彼はそのまま、私をじっと見つめていた。
「ああ、お前が……ルクスの妻か。どうやら、うまくやっているようだな? 俺はウェル、伯爵家の跡取りだ」
黒い目を不満げに細めて、ウェルは短く言い放つ。彼の言葉に、私は内心首をかしげていた。
どうやらこの二人は、友人か何かのようだった。しかしルクスは侯爵家の当主で、ウェルは伯爵家の跡取りらしい。ならば立場は、ルクスのほうがそこそこ上だ。それにしては、ウェルの物言いはあまりにもがさつというか、偉そうというか。
「僕たちは、子供の頃からの友人なんですよ」
「ルクスは昔からこうだからな。俺が何かと面倒を見てやってるんだ。お前も、こいつに満足できなかったら俺に言え。いつでも相手してやる」
「あの、彼女は僕の妻ですから……」
「分かっている。邪魔したな」
それだけ言って、ウェルはまた人ごみの中に姿を消した。去り際に、やけに色っぽい流し目を残して。
「お騒がせしました。そろそろ劇が始まりますし、僕たちも行きましょう」
困ったように笑うルクスと一緒に客席を目指しながら、私はさらに首をひねっていた。結局彼らはどういう関係なのか、ウェルは一体何をしたかったのか。考えれば考えるほど、訳が分からなくなっていった。
劇は面白かった。実家にいた頃に両親に連れられて見たものは、なんだか小難しくて眠くなるものだったが、今日の演目はもっと気楽で、素直に楽しめるものだった。ルクスによると、この町は若い貴族が多く遊びに来るとかで、自然と若者向けの演目が多くなっているのだそうだ。
それから一緒に昼食をとって、店を見て回った。ルクスはやたらと、私にものを買い与えようとしていた。お菓子や花、ドレスに宝石といった、おおよそ女性が好みそうなものを、それはもう熱心に。
「ほら、こちらも素敵ですよ。遠慮なんてしないでください。うちはかなり裕福ですから、ちょっとやそっとの浪費ではびくともしませんし」
楽しげにそんなことを言いながら、ルクスは次々と品物を勧めてくる。と言っても、クルミほどもある宝石が華やかに輝いているネックレスなんて、普段使いにするにはあまりにも豪華すぎる。
そんなとんでもないものをぽんと買い与えられるだけの財力があるとは、彼の家――今では私の家でもあるけれど――は、確かに裕福なのだろう。
彼の気持ちは嬉しい。しかし、ろくに使いもしないだろうものを買ってもらうのも心苦しい。どうしたものかと店内を見渡していた時、あるものに目が留まった。
「……あれが気になるのですか?」
私が見ているものにルクスも気づいたらしく、きょとんとした顔でつぶやく。二人並んで、台座に留められたそれを見つめる。
細い金の鎖を使った、とても可愛らしい小ぶりなブレスレットだ。宝石を彫って作られた小さな花と葉が、いくつも留めつけられている。透き通る黄色の石の花と、明るい緑色の石の葉だ。
「僕としては、もっと高価なものを差し上げたいところですけれど……貴女はそれが気に入ったのですね」
「ええ。なぜだかとても、これに心ひかれるの。一目惚れかもしれないわ」
ブレスレットから目を離さずにそう言うと、ルクスが動く気配がした。彼はかがみ込んで、私の耳元に口を寄せてくる。ちょうど、内緒話をする時のように。
「僕は貴女に一目惚れしたのに、貴女はそんなものに一目惚れですか。妬けてしまいますね」
いつもの穏やかで柔らかな声とは違う、低くかすれていながらやけにつややかな声に、背筋にぞわりと震えが走る。嫌悪感ではなく、異様なまでに心地良い、未知の感覚だ。
と、ルクスはもういつも通りの調子でにっこりと笑っている。
「ともかくも、僕の大切な奥さんに素敵な贈り物ができました」
「ありがとう。大切にするわ」
店員がうやうやしく、私の腕にブレスレットを着ける。それは驚くくらいしっくりと、私の肌になじんでいた。
「どう、似合うかしら」
「ええ、とても。本当に良く似合っています」
そう答えるルクスの顔は、泣き笑いのようにも見えた。どうしてそんな表情をしているのか。また一つ、疑問が心の中に降り積もっていった。