表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/36

5.わがままを言おうと思うの

 それからも、だいたい同じような日々が続いた。私は好き勝手に屋敷のあちこちでくつろぎ、ルクスは時折私の顔を見に来る。


 けれど一つだけ、変化があった。毎日のようにお菓子を運んでくるルクスをそのつど呼び止めて、おしゃべりに誘うことにしたのだ。


 ごろごろするだけなら、一人でもできる。けれどそれでは、胸のもやもやは消えない。ルクスがどうして私を避けているように見えるのか、彼は何を隠しているのか。それを知るためにも、彼にもっと近づきたかった。


 生まれて初めての感情に、さらに戸惑ってしまう。昔から、私は一人でいるのが好きだった。実家にいた頃は、親兄弟とも距離をとっていた。家族のほうも、風変わりな私を持て余していたようだった。毎日のようにお説教をしに来ていたお母様以外は、私に近寄ろうともしなかった。


 そんな私が、ルクスに近づきたいと思うようになっていた。きっとそれは、彼がありのままの私を否定しなかった初めての人だからだろう。もっと彼を知りたい、近づきたい。そんな思いに突き動かされるまま、私は毎日ルクスに声をかけていた。


 そしてある日の昼食後、いつもと同じように去ろうとするルクスを呼び止めた。今日はさらにもう一歩踏み込むのだと、そう決意しながら。


「ルクス、ひとつお願いがあるのですが」


「どうしました、アウロラ。そんなにかしこまって」


「その……これから、時間はありますか? あなたさえよければ、少しつきあってもらいたいのですが」


「ええ、どこへなりと」


 ルクスは詳細を訪ねることなく即答する。いつもと同じ、穏やかで上品な笑みを浮かべたまま。


 初めて会った時から変わらないその笑顔が、今ではどことなく仮面のように思えてしまう。どうしてそう思うのか、自分でもよく分からないけれど。


 けれどそんな思いは心の中にしまい込んで、にっこりと微笑んだ。




 お気に入りのふかふかのクッションを、片手に一つずつ。どちらも、ルクスが私のために用意してくれたものだ。


 少し緊張しながら、屋敷を出て庭を歩く。ここ数日の間に庭も一通り歩き回ったので、向かうべき場所は分かっていた。ルクスは素直に、私の後ろをついてきている。


 きれいに刈り込んだ芝生が広がる一角、そのすぐ外に生えている大きな木にまっすぐ向かっていく。近くには背の高い生垣が植えられていて、いい感じの目隠しになっている。


 木の根元までやってくると、何も言わずに芝生の上にすとんと座り込む。それからすぐ横の芝生をぽんぽんと手で叩き、ルクスを見上げる。


「ルクス、ここに座ってもらえませんか?」


 彼はためらうことなく腰を下ろし、若葉色の目で私を見た。これからどうするのですか、と聞きたそうな目だ。やはり無言で、持ってきたクッションを一つ彼に渡して、もう一つは自分の背後に置く。


 ゆっくりと深呼吸して、覚悟を決めた。それからクッションを枕にして、あお向けに横たわる。ルクスの目と同じ若葉と、吸い込まれるような清々しい青空が目に飛び込んでくる。


「……私、こうやって外で寝転がるのが好きです。草の匂い、土の匂い、日差しの温かさ、心地良いそよ風……そういったものを全身で感じていると、とても幸せな気分になります」


 ルクスはどんな顔をしているのだろうか。そちらを確認する勇気は、さすがになかった。


「実家にいた頃は、さすがにこんなことはできませんでした。母の目を盗んで、自室のソファや寝台でごろごろするのが関の山でしたから。あの山小屋に放り込まれて初めて、私は外でくつろぐ幸せを知ったんです」


 と、小さく笑うルクスの声が聞こえてきた。思わずそちらを見ると、彼はゆったりと首を横に振る。


「済みません、笑ったりして。その、貴女はやっぱり素敵だなって、そう思っただけですから。あんな粗末な山小屋暮らしで、新たな幸せを見つけられる人間は、そういませんから」


「……ありがとう。それで、あなたにもこの幸せをおすそ分けしたいなって、そう思ったのですけれど……その、嫌でなければ、一度試してもらいたいなって……」


 そう言いながら顔をそらし、そろそろと横目でルクスの様子をうかがう。彼は目を丸くして、こちらを見ていた。それもそうだろう。普通の貴族であれば、地面に寝転がることなどまずありえない。


 そんなことをしていたと周囲に知られれば、あっという間に社交界はその噂でもちきりになってしまうだろう。それくらい、はしたない行いなのだ。


 やはり少しばかり、図々しいお願いをしてしまっただろうか。今さらながらに後ろめたくなってきて、言葉がしりすぼみになっていく。


「……私が一番好きな時間を、あなたと共有したかったんです。いつもあなたは私に良くしてくれますし、それに私たちは、その……夫婦ですから」


 雲一つない空を見つめながら、どうにかこうにかそう言った。それきり二人とも、黙り込む。


 居心地の悪い沈黙をどうにかしたくても、これ以上何を言ったらいいのか分からなかった。ルクスを見るのが怖い。遠くから聞こえてくる小鳥の可愛らしい声が、何とも場違いに思えた。


 あおむけに寝転がったまま身じろぎもせずに、ただ空をまっすぐに見ていると、突然ぽすんという柔らかな音がした。


 はじかれるようにそちらを向くと、私と同じように寝転がるルクスの姿が見えた。枕代わりのクッションの上にはらりと広がったひまわり色の髪が、木漏れ日を受けてまぶしく輝いている。


 息を飲んで見守っていると、彼はこちらに横顔を見せたまま、ゆっくり笑った。どことなく切なげなその笑みは、仮面のようには見えなかった。それから彼は仰向けになり、目を細める。


「空が、青いですね。目の前が、一面の緑と青で……背中には、大地があって……偉大な自然に包まれているような、そんな気分です」


 ルクスは呆然とした声で、いつもよりもゆっくりとつぶやいた。感嘆のため息が、その唇からもれる。私はその横顔から目が離せずに、ただ黙って彼の言葉を聞いていた。


「不思議ですね。ただ横たわっただけなのに、こんなにも世界が違って見えるなんて。今まで、思いもしなかった……」


 けれど彼がぼんやりしていたのは、ほんの一瞬のことだった。彼はそのまま顔だけをこちらに向けて、にっこりと笑う。


「貴女のおかげで、素敵なことを知ることができました。ありがとう」


「いえ……お礼を言うのは、私のほうです。いきなりこんなとんでもないことに付き合ってもらって」


「夫婦なのですから、これくらい当然ですよ」


 そう答える彼の声は、もういつもの穏やかで上品なものに戻っていた。そのことが、ほんの少し残念に思えてしまった。さっき彼が空を見上げた時の寂しげな表情に、やけに心ひかれるものを感じていたから。


 もどかしい気持ちを抱えつつ、思い切って言った。


「あの、でしたらもう一つお願いしてもいいですか?」


 寝返りを打って、全身でルクスに向き直る。彼もこちらに向き直って、小さくうなずいた。その顔には、相変わらず上品な笑みが浮かんでいる。


「その、できればでいいのですが……あなたも何か、わがままを言ってはもらえませんか。いつも私のわがままを聞いてもらってばかりというのも、悪い気がしますし」


 ルクスが若葉色の目を見張って、ぽかんと口を開ける。妙に無防備なその顔に、つい見とれてしまう。


 そうやって見つめ合うこと、たぶん数秒。ルクスが不意に、眉を下げて笑った。いつもの取りつくろったような笑みではない、とても嬉しそうな笑顔だ。


「……でしたら、貴女の言葉に甘えてもいいでしょうか。僕は、素のままの貴女を知りたいんです。ですからその口調も、もっと砕けたものに……そうですね、家族に対するように話してもらえればなと、そう思っているのですが」


 意外にもあっさりと、ルクスは願い事を口にした。しかも、思いもかけない内容だ。


「それは……やろうと思えばできます……できるわ。でも、こんなことでいい……の?」


 兄弟と話していた時の口調を思い出しつつ、そろそろと答える。ルクスは満足そうに目を細め、うなずいた。


「はい、とても嬉しいです」


「それならいいのだけれど、私だけ砕けた口調というのも、ちょっと落ち着かなくて……」


「ごめんなさい、僕は誰に対してもこの口調なんです。貴女が望むなら、変えるよう努力しますよ」


「いえ、それはいいわ。あなたに無理をさせたくて言った訳じゃないから。私も、素のままのあなたを知りたいし」


 そう即答すると、ルクスははっとした顔になる。それから泣きそうな顔で、こくりとうなずいた。


「……あの、アウロラ。少しだけ、そちらに近づいてもいいでしょうか」


「ええ、もちろんよ」


 ルクスはこちらを向いて横たわったまま、ゆっくりとにじりよってきた。すぐ近くで、彼の笑顔が輝いている。


「僕は、貴女を妻にできて良かったと思っています。どうかこれからも、よろしくお願いしますね」


「ええ、こちらこそ。初めてあなたがやってきた時は驚いたけれど、こんなに自由にのびのびと暮らせるなんて、思いもしなかった。あなたのおかげよ、ありがとう。こちらこそ、よろしく」


 芝生の上に並んで寝転がったまま、額をこつんと合わせて笑い合う。


 ああ、幸せだな。行儀も何も気にせずに思うまま笑い声を上げながら、そんなことを思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ