35.予想外の変化
ユスティを迎えてから、気づけば一か月が経っていた。彼に人間としての最低限の知識を教えたり、彼の身元を用意したりするのに何だかんだで時間がかかってしまったのだ。
そうして一段落ついたある日、私とルクスは久しぶりに近くの町に向かっていた。オルフェオに世話になった礼をきちんとしておきたかったし、ジャンとカリーナのその後についても知りたかったのだ。
ユスティは本人の希望により留守番している。彼は最近、屋敷にある本を読み漁るのに忙しいのだ。
こうして人間に混ざって暮らすと決めたからには、人間たちについて知らねばならない。
もちろん実際に人間たちにかかわることも大切だが、万が一にも正体がばれないよう、まずは基本的な知識を書物から得るのが先だ。彼はそう主張していた。さすがは天使、とても真面目だ。
一方の私たちはいつも通りに型破りな服装で、悠々と町にやってきていた。むしろ久しぶりの外出ということもあって、いつも以上に気合を入れて着飾っていた。
私がまとっているのは、ルクスの会心の一作だった。
淡い水色のすっきりとしたシルエットのワンピースの上に、白い薄布が幾重にも重なっている。薄布のすそは大きくぎざぎざに切られていて、まるで鳥の翼のように優雅にひるがえっていた。ルクスは天使として現れた時のユスティの姿を見て、この服を思いついたらしい。
下ろしたままの髪を一房だけ可愛らしく編み込んで、リボンで飾る。ミルクティー色の私の髪に、青紫のリボン。風に揺れて、とても綺麗だ。
ルクスは前に着た平民の服が気に入ったのか、それに似せた意匠の服をまとっていた。シャツにズボン、そしてベストという砕けた格好だが、上質な布地にしゃれた模様が染め抜かれたそれは、見違えるほど素敵なおしゃれ着に化けていた。
「ちょっと、気合い入れすぎちゃったかしら」
「そんなことありませんよ。貴女を思いっきり可愛く飾ることができて、僕は大変満足ですし。あっ、普段の貴女ももちろんとても可愛らしいですが」
「あなたも素敵よ。前のようにゆったりした格好も、誕生パーティーの時の優雅な姿も、今の気取らない服装も、全部似合ってて……こんなに近くで見ていられるなんて、最高の気分」
「ふふ、見ているだけですか?」
色っぽくルクスが笑う。何度見ても、どきどきしてしまう素敵な笑みだ。
「もうすぐ町に着いてしまうから、ね。私たちが仲良くしているところを見せつけたいなとも思うけれど、今日はそれよりもこの服を、みんなにしっかりと見てもらいたいもの。それに」
そんなことを言いつつも、我慢できなくなってしまった。手を伸ばして、彼の頬に触れる。ルクスは自分の手を私の手に重ねて、うっとりと目を細めている。
「こんなあなたの表情を、惜しみもなくよその女性たちに見せてあげるほど、私は懐が広くないの」
「確かに、それもそうですね。僕としても、貴女が照れる顔を他人に見せたくはないですし」
そんなことを言い合って、また笑う。今までで一番、晴れやかに。
私をずっと縛っていた、普通であらねばという思い。そしてその思いをかきたて続けていたお母様。
ルクスがずっと板挟みになっていた、一人前の悪魔になりたいという気持ちと、他人を不幸にしたくないという思い。
それら全てから、私たちは自由になった。すぐ近くに迫っている町並みも、なんだか輝いて見える。
最高に浮かれた気分で町に入った私たちは、しかしすぐに大いに驚くことになった。
「ええっと、ちょっと見ない間に何があったのでしょう……」
「分からないわ……」
町の中でも、主に貴族たちが行き来する区域。そこに馬車が差し掛かった時、信じられない光景が私たちの目に飛び込んできたのだ。
貴族の中でも若い者たちが、何やら見覚えのある格好をしていたのだ。
女性たちは伝統的なかっちりとしたドレスではなく、ひらひらと軽やかな、しめつけのないドレス。
男性たちの服も、袖やらズボンやらの形にあれこれと工夫がされている。伝統的なものよりかなり華やかだったり、逆にとても質素な、肩ひじ張らないものだったり。
「ねえ、あの人たちの格好って、私たちの服に似ているような気がするのだけれど……」
「ええ、僕もそう思います。でも年配の方は、苦い顔をされていますね……」
若い貴族たちの服装は、やはり私とルクスのものに何となく似ているようにしか思えなかった。そしてはしゃぐ若者たちを、その親世代らしい貴族たちは複雑な顔で見ていた。
まっすぐにオルフェオの家に向かおうと思っていたけれど、さすがにこの状況は気になった。
いったん馬車を降りて、劇場の前の広場で立ち話をしていた令嬢たちに近づく。彼女たちは、私たちの服を見て目を輝かせていた。明らかに、称賛の目つきだった。
ルクスが戸惑いながらも、彼女たちに話しかける。
「少々よろしいでしょうか。みなさまの素敵な服なのですが……先日この町に来た時はまったく見かけませんでした。一体、どうしてそのような身なりをしておられるのでしょうか?」
その言葉を聞いて、仲良く話していた三人の令嬢はおかしそうに笑った。あなたたちも同じような格好をしているじゃない、と言いたげな笑いだった。
それから彼女たちは、口々に答える。やはり楽しげな笑い声を上げながら。
「最近、こういう新しい形のお召し物をまとったご夫婦が、あちこち出歩いているそうなんです」
「先日は、どこぞのご令嬢の誕生日パーティーにも顔を出されていたとかで」
「変わっているけれど、とても素敵なお召し物だったと噂になっているんですよ。それで、噂を頼りに似たような服を作って着るのが、流行ってるんです」
「お父様やお母様はあまりいい顔をされないのですけど……でもやっぱり、素敵ですし」
「着心地も良くって、癖になりそうです」
彼女たちは、あまりにもあっけらかんとしていた。この新しい服を着るまでに色々と悩み苦しんできた身としては、少し落ち着かない、というよりも素直に喜べないなにかを感じる。
そして同時に、もう一つ気になることもあった。
「けれどその、そういった格好をして、縁談に響いたりはしないのかしら……?」
おそるおそる尋ねると、令嬢たちはまたおかしそうに笑った。
「大丈夫ですよ。婚約者も、この新しい装いを気に入ってるんです」
「私のところもそう。むしろ彼のほうが、あれこれと試したがっていて」
「伝統的な装束だと、男性のものはどうしても似たり寄ったりになってしまいますから。殿方のほうが、こぞって飛びついているくらいですわ。思う存分好き勝手に着飾れて、楽しいみたいで」
「だから、こんな格好をしているからといって婚約を破棄されてしまうようなことはないんです」
「……相手の方の親に会いに行く時は、さすがに普通の格好をしますけれどね」
あっさりと、そんな言葉が返ってくる。私たちは拍子抜けしながら、話してくれた礼を述べた。
令嬢たちに別れを告げた私たちは、そのままオルフェオの家がある区画まで歩いていくことにした。今日は気持ちのいい散歩日和だし、貴族の馬車で平民たちの家が立ち並ぶ辺りに乗り込むつもりもなかった。
仲良く腕を組んで、石畳の道をのんびりと歩く。
「……それにしても、僕たちが原因でしたか。まさか、こんなことになるなんて。……思いのほかたくましいんですね、人間って」
「でもちょっと、複雑な気分ね。彼女たちのことを微笑ましく思えてしまうような、彼女たちに何だか申し訳ないような」
そう言って、空を仰ぐ。泣きたくなるような、透明な青が広がっていた。
「でも、あっさりと服を替えることができた彼女たちが……うらやましい」
私のお母様も、私のかつての縁談の相手たちも、みんな私が自由になることを許してはくれなかった。
それなのにここの令嬢たちは、あんなにも気軽に、新しい服を試している。私たちという最初のきっかけがあったとはいえ、普通と普通ではないものの間の壁を、あっさりと飛び越えている。
それがうらやましくて、ちょっぴりねたましくて、黙ってうつむく。そのままとぼとぼと歩いていると、ルクスが不意に顔を寄せてきた。私の耳元で、そっとささやく。
「でも、僕が魔法でこしらえた特製の服を着ることができるのは、貴女だけですよ。彼女たちは、あくまでも貴女のまねっこをしているに過ぎませんから」
歩きながら隣を見る。すぐ近くで、優しい若葉色の目がきらめいていた。
「一番最初に、着たいものを着ることを選んだのは貴女です。そのことを誇りに思うことこそあれ、他の方をうらやましがることなどないと思うんです」
「……そうね。私たちはこれからも、自由気ままに生きていくんですものね。この程度のことで落ち込む必要なんて、なかったわ」
「ええ。まだまだ試してみたいことはたくさんあります。そうだ、オルフェオへのあいさつが済んだら、町を探検してみませんか」
「楽しそうね。私、今日は食べ歩きに挑戦してみたいわ。前にオルフェオたちが教えてくれたおすすめの屋台、まだ行っていないし」
「では、そうしましょう。楽しみですね。晴れた空の下で食べるのって、くせになりそうですね」
「どうせなら、ユスティにも買って帰りましょう」
「ふふ、人間の世界の勉強、ですね」
そう言って、二人で空を見上げる。さっきまでと同じ晴れ渡った空は、今度はとてもすがすがしく感じられた。




