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33.甘い時間を邪魔しないでちょうだい

 謎の声と、謎の白い光。訳も分からないまま両腕で顔をかばっていると、やがて光が薄れていった。


 私とルクスしかいなかったテラスに、いつの間にか小さな人影が立っている。白に近い金髪の、せいぜい五、六歳の小さな子供だった。たぶん男の子だとは思うけれど、確信は持てない。


 やけに整った顔立ちのその子は、汚れ一つない真っ白な服を着ていた。頭からすっぽりかぶる形の、風変わりなひらひらした服だ。そしてその背中には、大きな白い翼が生えていた。


「……天使!?」


『いかにも。我は天使、邪悪なる悪魔を滅するためにこの地に降り立った』


 清らかな幼い声で、天使はすさまじく偉そうに言った。彼が話すのに合わせて、小さな鈴が転がるような澄んだ音が聞こえてくる。


 天使は私をちらりと見ると、ルクスのほうに目をやった。ルクスはぽかんとした顔で、天使をまじまじと見つめていた。


「ちょっと待って。邪悪なる悪魔って、彼のこと?」


 ルクスの腕をとって引き寄せながら、天使に尋ねる。


『他に誰がいるというのだ、我がしもべよ。お前という存在を介して、ようやく我はこちらの世界に来ることができたのだ』


 幼い天使の言い草を聞いていたら、何だか腹が立ってきた。


 口の悪さと言っている内容のひどさで言えばティナのほうが上だけれど、彼女のことはなんだか可愛らしいとさえ思えていたのだ。ところが、この天使ときたら。


「勝手に人をしもべにしないでちょうだい」


 しもべだなんだというのは、おそらく『天使の加護』と関係しているのだろう。


 そのおかげで私はウェルに記憶を消されずに済んだのだし、そういう意味ではこの天使に感謝すべきなのかもしれない。


 それは分かっていたけれど、それでもやっぱりいらだちのほうが上回っていた。


「あと、ルクスは確かに悪魔だけれど、ちっとも邪悪ではないわ。私よりもずっと善良なくらいよ」


 私が腹を立てているのは、ルクスのことを邪悪呼ばわりされたからだった。この天使だけは、絶対に許さない。なにがなんでも、ルクスに謝罪してもらわなくては。


『善良な悪魔など、いるはずがないだろう。惑わされるな、我がしもべよ』


「だから、ここにいるのよ。あと私はアウロラよ、しもべしもべって連呼しないで」


 ルクスの腕にしっかりと抱きつきながら、さらに言い立てる。天使は一瞬だけ年相応の驚いた顔をしたが、すぐにまた元の堂々とした態度に戻ってしまった。


『確かに、おとなしそうな悪魔だな。だが、きゃつらはそうやって人間をあざむき、堕落させるのだ』


「だーかーら、そうじゃないって言ってるでしょ。あなたは勘違いしているの。というか天使って、頭が固いのね。その可愛らしい目をちゃんと開けて、しっかりと見なさいよ」


 ずっと同じような主張を繰り返す天使にじれてきて、つい口調が荒くなってしまう。そのせいで調子が狂ったのか、天使が口を閉ざした。


 天使がそんな反応をするのも、当然かもしれない。私たち人間にとって、天使も悪魔も、全部おとぎ話の中の存在でしかない。


 そして前にオルフェオが言っていたように、一部の人間たちは悪魔を恐れている。そして大体の人間たちは、天使を敬うべきものだと思っている。


 ところが天使のしもべたる私は、これっぽっちも天使に敬意を払っていない。それどころか悪魔の肩を持ち、天使にあれこれと口答えしている始末だ。


 悪魔を倒すのだと息巻いている天使は、こんな状況をまったく想定していなかったらしい。


「あの、アウロラ、それくらいにしてあげませんか。……天使の彼も、困っているようですし」


 今まで黙っていたルクスが、苦笑しながらそっと言った。しかし何とも彼らしいそんな言葉が、天使の気持ちを余計に逆なでしてしまったらしい。


『黙れ、悪魔よ。我がしもべをたぶらかすお前だけは、許しておけぬ。我がじきじきに、滅してやろう!』


 天使は叫び、両手をこちらに向けてくる。そこから白い光がわき起こり、こちらに向かって飛んできた。ちょうど、白い光の柱がこちらに伸びてくるような感じだ。


 あの光は、私には害をなさないだろう。なんとなくだけれど、そんな気がした。でもルクスにはきっと、良くないものだ。


 彼を連れて逃げるだけの時間はなかった。とっさに彼を抱きしめて、私の体で彼の体を少しでも覆い隠そうとする。


 少し遅れて、私たちを光の柱が包み込んだ。




「アウロラ、目を覚ましてください」


 うとうとしていると、上から優しい声が降ってきた。初めてルクスと出会った時もちょうどこんな感じだったな、などと思いながら、ゆっくりと目を開ける。


 一面の星空を背景に、心配そうな顔でルクスがこちらを見ている。私の頭をひざに乗せて、私の手を握っている。


「おはよう……じゃないわね。夜だもの」


 私が外で寝るのは昼だけだ。夜に外で眠ったら、風邪をひいてしまう。ならばどうして、私はこうして横たわっているのか。


 そう考えた時、ようやっと本格的に目が覚めた。そうだ、私は眠っていたのではない。天使の放った光を浴びたせいで気を失っていたのだろう。


「って、そうじゃないわ。ルクス、大丈夫!?」


 跳ね起きて、ルクスを近くでまじまじと見る。彼はちょっとはにかみながら、はい、と答えた。


 ほっと胸をなでおろして、辺りを見渡す。すぐに、呆然と立ち尽くす天使の姿が目に入った。


『なぜ、我がしもべが気を失うのだ……なぜ、悪魔が無傷なのだ……』


 やはりさっきの光は、ルクスだけを害するためのものだったらしい。


 それなのになぜか私だけが気絶してしまったので、天使は混乱しているようだった。相変わらず偉そうな口調ではあるものの、どことなく年相応の表情が見え隠れしている。


「なぜとかどうしてとか、どうでもいいでしょう。あなたはルクスを痛めつけられない。そして、ルクスは悪魔として悪さをするつもりはない。争う必要はないと思うの」


『どうしてそのようなことを断言できるのだ!』


「できるわよ。だって私は、彼の奥さんだもの。私たち、これからずっと自由に生きていくって決めたんだから。悪魔の使命にだって、もう縛られないの」


 すっかり混乱しきっている天使に、胸を張って堂々と答える。照れくさそうにしているルクスと、しっかりと腕を組んで。


 ついでに彼の肩に頭をもたせかける。最初の頃こそ照れまくっていた私だが、今では人前でいちゃつくことにもすっかり慣れてしまった。


 ルクスの体温を感じていると、自然と笑顔になってしまう。ルクスも小さく笑っているのか、穏やかな振動が伝わってくる。愛おしさに微笑みながら、にこにこと天使を見つめた。


 天使はやはりぽかんとしていたが、やがてその幼い顔にゆっくりと理解したような色が広がっていた。


『まさか、そのようなことが……天使の加護を受けた悪魔など……』


 よく分からない一言に、私とルクスはそろって首をかしげる。そんな私たちのほうをぼんやりと見ながら、天使は小声でつぶやき続けていた。


 その言葉をつなぎ合わせていくうちに、うっすらと状況が分かってきた。


 私の魂には、目の前の天使の魂がひとかけら含まれているらしい。それが天使の加護の正体だ。


 そしてそのかけらのさらに小さなかけらが、今はルクスの中にあるのだそうだ。


 さらに、入れ替わるようにしてルクスの魂のかけらが、私の中に入っているとかで。


「つまり、今のルクスは悪魔だけど天使としての側面も持っているということで」


「アウロラは人間で、天使の加護を受けていて、そして悪魔の性質をほんの少し持つことになった、ということですか」


 私とルクスは目をぱちぱちさせながら、お互いの顔を見つめ合う。なんだか実感がわかなかったけれど、先ほどの光の柱をくらったルクスが無事だったのも、私が倒れてしまったのもそのせいらしい。


『特に親密な、魂の伴侶と呼ぶべき者たちの間ではまれに起こるのだ。そのように、魂の一部を交換してしまうことが』


 魂の伴侶といういかにも特別な言葉がくすぐったくて、つい顔が輝いてしまう。一方の天使は、悔しげに唇をかんでうつむいていた。


『我の魂のかけらが悪魔に奪われたなど、口惜しい……』


「その、僕は奪うつもりはありませんでした。ですが、ごめんなさい。どうにかして返すことはできないのでしょうか」


『お前の肉体が死ぬまで取り返すことはできない。そして今のお前の肉体は、人間のそれだ。天使である我には、お前の器を殺すことはできない』


「つまり、ルクスが年老いて死ぬまでこのまま、ってことかしら? だったら今回は帰って、後日……というか数十年後? に改めて来るというのはどう?」


 一刻も早くこの天使を追い返したくてそう提案すると、彼はくしゃりと顔をゆがめた。


『戻れぬ。このままでは我は、落ちこぼれになってしまう』


 綺麗なその目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていくのを、私とルクスはただぽかんとしながら眺めていることしかできなかった。

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