3.到着、二人の愛の巣
結局私はルクスの熱意にほだされて、彼の屋敷に向かうことになった。それも、彼の妻として。しかも、彼の乗ってきた馬に相乗りで。あまりにも急な展開に、まだちょっと頭がついていっていない。
「ここから僕の屋敷までは二日ほどかかりますが、途中にある友人の別荘を借りられるよう手配しておきました。今日は、そこに泊まりましょう」
背後から、ルクスの浮かれた声が聞こえてくる。甘く優しく柔らかな、とても上品な声だ。
「手配して……って、いつの間に?」
「貴女のご両親と話して、貴女の居場所を聞いてすぐにです」
きっぱりとルクスは言って、それから少しだけ照れくさそうに口ごもった。
「本来ならば一度僕の屋敷に戻り、改めて馬車で貴女を迎えに行くべきなのだと分かってはいました。けれど少しでも早く、貴女に会いたかったんです」
彼の手際の良さと、その熱意に思わずたじろぐ。ルクスはそんな私の戸惑いに気づいていないらしく、あれこれと私に話しかけ続けていた。無事に私を連れ帰ることができるのが、嬉しくてたまらないらしい。
いったい彼は、私の何にここまで惚れ込んだのだろうか。そもそも彼と私の接点は、いつかの舞踏会だけのはずだ。しかも私にいたっては、彼のことをさっぱり覚えていない。これだけ雰囲気のある人物なら、一目見たら忘れないと思うのだけれど。
首をかしげながら、視線を下に落とす。今私が着ているのは、山小屋生活の間にちょっぴりくたびれた寝間着だ。
一応よそ様の家を初めて訪ねるのだから、面倒だけれどきちんと身なりを整えてから山小屋を出るべきだろうと思った。いくら私でも、それくらいの分別はある。
ところがそんな私の申し出を、ルクスは即座に否定したのだ。ありのままの貴女でいいんです、と言って。それによそ様の家ではなく、僕たちの家ですよ、とも言っていた。
彼は、あまりにも私に甘い。というより、都合がいい。どうにも落ち着かないものを感じずにはいられない。
といっても、ルクス自身に不審なところはまるでない。なぜだか私にぞっこんなこと以外は。
彼は侯爵家の当主だし、かなりの美形で物腰も柔らかく、優しく思いやりにあふれた好青年だ。実際今も、生まれて初めて馬に乗る私に、あれこれと気を配ってくれている。
彼と出会ってからまだせいぜい数時間しか経っていないけれど、私は彼のことをそこそこ好ましく思っていた。
これだけの男性なら、黙って座っていても縁談が山のようにやってくるだろう。それこそ、どこぞの令嬢に一目惚れされていてもおかしくない。
それがまあ、よりにもよって私とは。お母様が一生懸命もみ消してはいたようだけれど、実のところ私には少々悪い噂が立ち始めていたというのに。
今までに出会った縁談の相手たちから、じわじわと私の普段の行いが、その人となりが広まっていたようなのだ。あの伯爵家の娘はとんでもない変わり者だ、令嬢とはとても思えないほどおかしな娘だ、と。
ルクスは、まだその噂を知らないのだろうか。いや、知っていたところで同じか。昼間っから寝間着で、しかも屋外で寝転がっている私を見ても、彼はこれっぽっちも動じていなかったのだから。
やっぱり分からない。なぜ私なのだろう。彼と出会ってからずっと、そんな疑問が堂々巡りしていた。
内心頭を抱えながら、流れていく景色をぼんやりと眺めている。こんな疑問さえなければ、この旅を楽しめたのかもしれないなあと、そんなことを思いつつ。
その晩は、ルクスが言うところの『友人の別荘』で一泊した。そこは人里離れていたし、使用人もごくわずかだった。おかげで、人目を気にせずにくつろぐことができた。
しかしさあ休もうかという時に、ふと思い出した。そういえば私たちは夫婦だったのだと。つまりそれは、夜の床を共にするのが当たり前ということで。ましてや、ルクスはあそこまで私にべた惚れなのだ。
おそらく、いや確実に、今夜は二人一緒ということになるはずだ。
心の準備ができていない! と無言であたふたする私に、ルクスはにっこりと笑って言った。貴女もお疲れでしょうから、今夜は一人でゆっくり休んでください、と。
私としては願ってもないけれど、彼がそんなことを言い出すとは思わなかった。拍子抜けしながら一人になって、ふかふかの寝台に横たわる。
それでもまだ大いに戸惑っていたが、実に半月ぶりの柔らかな寝具の誘惑には勝てなかった。旅の疲れもあって、私はあっという間に眠りに落ちていた。
そうして次の日、また私たちは馬に二人乗りで、ルクスの屋敷を目指していた。休憩を取りながらでも、夕方までには到着できるらしい。
「今日も馬ですからね。疲れたら言ってください、すぐに休憩しますから」
ルクスは今日も上機嫌で、私を後ろから抱きしめるようにして手綱を取っている。いよいよ別荘を発とうかというその時、思い切って声をかけた。
「その……どうせなら、馬車のほうが……」
あの山小屋にルクスが現れた時、彼は供も連れずにたった一人で馬に乗っていた。だからあの山小屋からこの別荘まで馬で二人乗りするのは、まあ仕方ないと思う。
けれどこの別荘には、馬車も用意されている。あれを借りれば、相乗りなどしなくてもいいのではないか。そんなことを、つっかえつつ説明する。
「ああ、それはそうなのですが。僕としては、貴女のより近くにいたいんです。こんな機会、めったにありませんし」
ふふと笑うルクスの吐息が、私の髪をかすかに揺らした。自然と頬が熱くなる。
「それにこの愛馬はとびきりの健脚ですから、二人乗せたくらいではびくともしません。なんならこのまま、全力疾走だってできますよ」
そう答えながら、ルクスが馬の首をぽんぽんと優しく叩く。雪のように白い、がっしりとした体格の馬だ。
「どうせですから、実際にお目にかけましょうか。しっかりつかまっていてくださいね」
ルクスはいたずらっぽく笑うと、いきなり馬を全速力で走らせた。あわてて彼の腕にしがみつく。どちらかというと線の細い印象の彼だが、その腕は意外なほどひきしまっていて、たくましかった。
妙な具合に心臓がどきどきしている。急に、彼にくっついているのが恥ずかしくなってきた。しかし彼から手を離すと、馬から落ちてしまう。
仕方なく、ぎゅっとルクスに抱き着く。別に夫婦なのだからこれくらい、という気持ちと、やっぱり恥ずかしい、という気持ちが目まぐるしく入り乱れる。
昨日とは別の意味で、周囲の景色を楽しむ余裕すらなかった。私はただ身をこわばらせて荷物のように運ばれていくことになった。
「ほら、見えてきましたよ。あれが僕の……いえ、僕たちの屋敷です」
小高い丘の上に馬を止め、ルクスが行く手を指し示す。丘の下、ずっと先のほうに、しゃれた屋敷が見える。手前には草原、背後には森。周囲には人家はなく、目の前の光景はまるで一枚の絵画のようですらあった。
「僕の領地にはいくつか屋敷がありますが、それらの中で、ここが一番貴女のお気に召すかと思いました」
そう言うルクスの声は、ほんのちょっぴり自信なさそうだった。
「屋敷の周囲は自然が豊かでとても静かですし、それでいてすぐ近くに大きな町もあります。くつろぐところも、遊ぶところもたくさんありますよ」
「それは素敵ですね」
彼のほうを振り向いて笑顔で答えると、彼は明らかにほっとしたような顔をしていた。
「貴女の荷物も、既に貴女の屋敷からこちらに運び込まれているはずです。他に必要なものがあったら、遠慮せずに言ってくださいね。すぐに手配しますから」
一通り説明を終えると、ルクスはまた馬を走らせる。我が家が近いからなのか、馬の足取りは軽かった。
よく手入れのされた鉄の門に馬が近づくと、門番が無駄のない身のこなしで門に駆け寄り、重い門扉を開けた。ルクスは門番に声をかけて、そのまま敷地の中へと入っていく。
馬から降りたとたん、今度は馬屋番が駆け寄ってきた。彼に馬を預けて、ルクスと一緒に屋敷に足を運ぶ。
どうやらこの屋敷は比較的新しいものらしく、こざっぱりとした雰囲気の、過ごしやすそうな建物だった。
「……あの、どうでしょう? もっと歴史のある屋敷のほうが好みでしたら、他にも候補はありますが……」
「いえ、大丈夫です。古い建物は装飾が多すぎて目が疲れると、以前からそう思っていたものですから。これくらいさっぱりしているほうが、好みです」
そう答えると、ルクスはさらにほっとしたように微笑んだ。それから、優雅に一礼して手を差し出してくる。
「良かった。それでは今日から、ここが僕たちの新居ですね。ようこそ、愛しい奥さん」
彼の若葉色の目は、うっとりと細められている。それを真正面から見てしまったとたん、急に胸が高鳴った。ものすごく動揺しながらも、ルクスの手に自分の手を重ねる。
「……こちらこそよろしくお願いします、……旦那様」
ためらいつつもそう声をかける。その時の彼の嬉しそうな笑顔ときたら。
きっと今夜の夢には、彼のこの笑顔が出てくるだろう。そしてそれは、間違いなく素敵な夢になるだろう。そんなことを確信できるくらいに、素晴らしい表情だった。
どことなく気分が浮き立ってしまうのを感じながら、精一杯澄ました表情を作り、彼に手を引かれて歩き出した。