第八章 落花の風
「ほれ、駝鳥の卵だ」
〈花嫁〉が袖を一振りすると、空中に白く滑らかな球体が三つ現れて、杜陽たちの足元に転がった。
「なんということを! よくも……よくも!」
石像の肩に押し当てていた顔を上げたとき、翠薫の緑の瞳には炎が燃え盛っていた。
「いけない! 誰か翠薫を止めてください!」
翠薫の尋常ならざる様子に一瞬早く気づいた楽斉が叫んだときにはもう遅く、踊り子の娘は剣を抜いて、水面を飛ぶように〈花嫁〉のもとへと迫っていた。
翠薫は玉座の前で大きく踏み込み、水飛沫をまといながら跳躍する。その傍らに突如、両刃の鉞が現れた。鉞の長い柄は〈花嫁〉が握っている。
風を巻き起こして迫る鉞の刃をかがんでかわし、翠薫はしゃがみ込んだ体勢から氷を磨いたように光る剣を、〈花嫁〉の首に向かって突き上げようとした。鉞によって腰から上と下に両断されることを避けた翠薫を、鉄でできた太い柄が襲う。
翠薫の華奢な体は弾き飛ばされ、水面に叩きつけられた。杜陽が駆け寄って、娘の体を抱え起す。白い額が切れて、閉じたまぶたの上に血が流れている。
「そなたらの主人は石に変わった! 天が崩れ落ち、地が砕けるときまで呪いは解けぬ。主人を生身の体に戻すために、われを倒そうと願うなら、相手をしてやるが」
〈花嫁〉は嗜虐的に高笑いした。
六花の臣下をいたぶったうえで、皆殺しにしようと考えていることははっきりしていた。
それまで玉座の隣に控えて、じっと一部始終を見守っていた宏渓が、〈花嫁〉の前にひざまずいた。
「この城に上る前、わたくしは六花姫によくしていただきました。めずらかな宝石を求めるように、あなたさまが手を尽くしてやっと手に入れたのですから、六花姫のことは何も申しません。ですが、どうか、付き従う者たちは見逃してやってはいただけませぬか。あの中には、わが甥もおるのです」
平伏する宏渓に、〈花嫁〉は鷹揚にうなずいた。
「ほかならぬそちの頼みだ。奴らがわれに歯向かわぬかぎりは、見逃してやろう」
「ありがとうございます」
四方の崖の上に光る目玉の数が増えた。そのうち、あふれ押し出されるようにして崖の上から魔物が落下してきた。
片脚の大馬。目を赤く光らせる二尾の大蛇。どす黒い粘液を滴らせる毛虫。団子のように目玉が三つ重なったもの。六本脚の牛。
杜陽は、一匹、二匹……数えだしたが、途中でやめてしまった。それは、数が多すぎるためでもあったが、一匹と数えるべきか、それとも二匹あるいは三匹と数えるべきか迷う化け物が、相当数いたためである。
杜陽たちは、すっかり化け物に取り囲まれた。それまでなんとか自制心を保っていた三十人の兵士たちも、さすがに恐慌を起こしかける。しかし、班仲が、動揺を片鱗も見せずに「互いに背中を合わせて固まれ!」と叱りつけるように命令したことで、兵士たちはかろうじて落ち着きを取り戻した。
石像へと姿を変えた六花を中心にして、兵士たちは油断なく化け物に槍先を向ける。
杜陽は腕に、気を失った翠薫を抱えたまま、おろおろと仲間たちの顔を伺った。
「六花さまは石になっちまった。もう、〈花嫁〉を倒すなんざ諦めて、こんな城からとっとと逃げ出そうぜ、なあ」
不意に足元から襲いかかってきた牙のある大魚を、霍広が幅広の剣で一刀両断にする。
「杜陽どの、拙者はそうするわけにはゆかぬのだ。どうしても、〈花嫁〉を斬らねばならぬ」
「なんでだよ」
「わが姫さまのためだ。白耀さまの前に、石像と姿を変えた妹君を連れ帰るわけにはゆかぬ」
魚の真っ青な血を刃から振り払う間もなく、今度は亀の甲羅を持つ獅子が飛びかかってくる。霍広は「ふん!」と腕を回して、獅子の頭を跳ね飛ばした。
目を剥いた獅子の首が飛んでいった先では、班仲が碧翠雲を操って、化け物の壁に血路を開こうとしている。
「六花さまより賜ったこの足は、六花さまのために使わせてもらう!」
仲間から突出した班仲の背後を、三匹の魔物が襲った。前から飛びかかってきた大猫と、人の手を持つ百足は切り伏せたものの、背後の女の生首までは手が回らない。あわや、生首の鋭い犬歯が班仲の首の後ろに食い込むかと見えたとき、細い稲光が走った。女の生首は、目玉を焼かれて髪の焦げるにおいをさせつつ落下した。
右手の人差し指と中指をまとめて生首に向け、稲妻で撃ち落としたのは、楽斉だった。
僧侶は、袈裟の袖をはらりと払うと、水晶の数珠を両のてのひらでこする。美しい詩を紡ぐ唇で御仏の名を呼べば、こちらに押し寄せてこようとしていた魔物の一団が、見えない壁に阻まれたように弾かれた。
楽斉は、微塵の恐れの色もない瞳で杜陽を振り返る。
「せっかくですから、杜陽どのは逃げたらいかがです。本来助かるはずの者が命を落とすことは、御仏も望まれますまい。〈花嫁〉が約束したのですから、魔物もあなたには手を出さないでしょう」
杜陽は、震えながら必死に訴えた。
「なあ、楽斉も一緒に逃げよう。いくら白耀さまに六花姫のことを頼まれたからっていったって、死んじまったらどうしようもないだろう」
「杜陽どの。紅葉の宴で私が吟じた物語詩を覚えておられますか」
「覚えてるに決まってる。あれは最高の詩だよ。でも、どうしてそんなことを今」
楽斉は微笑した。いつも、所構わず浮かべている謎めいた笑みではなく、心情を率直に反映した嬉しそうな笑みである。
「六花さまは私に、ご自分の業績を詠った詩を創ることをお命じになりました。詩人としての私には、この戦いを最後まで取材し、一千年先まで残る大叙事詩の冒頭を、華々しい武勲詩で飾るという役目があります」
「杜陽さん」
杜陽の腕の中で、翠薫が翠の瞳を開けていた。
娘は杜陽の手を借りて立ち上がると、つららのように光を放つ細い剣を握りなおした。
「翠薫、行くな。行ったら殺される」
すがるように声をかけた杜陽に、翠薫は覆らない決意を込めた目を向けた。
「ごめんなさい、杜陽さん。だけどわたしには、姫さまを置いていくことはできないのです」
それだけ言うと、翠薫は衣を翻して魔物に立ち向かっていった。
杜陽は、頭をかきむしった。
「おれはどうしたらいいっていうんだよ!」
「逃げればよいではないか」
「芳樹仙!」
杜陽の隣にいつのまにか立っていたのは、老仙だった。
「そうだ、あんたなら六花姫の呪いを解くことだってできるんじゃないのか」
「それは無理じゃ」
「どうして!」
「一度かけられた呪いは、条件を満たすか、かけた本人が死ぬ以外では解けぬさだめじゃ」
仙人は冷淡に言い放って、関心がなさそうにぼりぼりと顎をかいた。
「じゃあ、〈花嫁〉を殺すのを手伝ってくれよ」
「なぜじゃ?」
「えっ?」
杜陽は、愕然として言葉を失った。
「わしはそもそも、羽衣を奪われて、無理やり下界に足止めされていただけじゃ。むしろ、姫がこのまま石であってくれたほうが、羽衣を簡単に取り戻すことができるではないか」
芳樹仙は、杜陽の心を鋭い刃物でえぐるように、言葉を続ける。
「おぬしもわしと同じであろう? 姫の秘密を知ったことで、強制的に従わされているのではないか。姫が石に変じたいま、おぬしの身は自由じゃ。それなのになぜ、逃げることをためらう」
「そうだけど、そうだけど……」
盲目になったように、頭の中をやみくもに手探りしても、目指す言葉は指に触れる先からすり抜けてゆく。代わりにつかんでしまうのは、六花の傲岸不遜な言葉や不敵な笑み。志和の吸うキセルの匂い、楽斉の詩を吟じる豊かな声、そして翠薫のふとした折に上げる華やかな笑い声だった。
杜陽たちの中心にいた六花はもう、壮大な夢を語ることも、好物の金平糖に闇色の目を輝かせることもないのだ。永遠に。
「おい若造、逃げよ。命を粗末にするな」
芳樹仙が告げるのと同時に、杜陽は猛然と頭を上げた。
「逃げていいわけないだろう!」
杜陽は、握りしめた拳で膝を叩く。
「ほんとはいますぐ逃げたくてたまらないよ。だけど、それでいいわけないだろ! わかってんだ。逃げちゃいけないことくらい、わかってんだよ……」
両目から熱い涙がこぼれてきて、杜陽はわけもわからず乱暴に拭った。
「だけど、おれにはできることなんかねえんだよ……」
「まったく、命をみすみす無駄にするとは、愚かな人間じゃ」
「うるさいよ」
「正攻法でいったらよいではないか」
「は?」
芳樹仙が明るい声で言ったので、杜陽はあっけに取られた。老仙は、白いひげの下ににんまりと笑みさえ浮かべて、ひょい、と両手に載せたものを差し出す。
それは、二つの駝鳥の卵だった。
霍光の大剣が、牙を剥き出した三匹の化け物をまとめて切り裂く。化け物の両断された体から紫色の粘液が飛び散って、霍光の腕に振りかかった。
「くっ……」
霍光が歯をくいしばる。魔物の毒液のかかったところが焼けただれていた。
碧翠雲を駆って身軽に突撃を繰り返している班仲も、身体中に大小の傷を創り、息を切らしている。
楽斉は、しゃんと背筋を伸ばして経文を唱え続けているが、その立派な錦織の袈裟はところどころ切れている。低くまじないの文句をつぶやきながら、化け物の包囲網の一角に金色の独鈷を投げつけると、そこにいた化け物が跡形もなく浄化された。
しかし、大きな蝙蝠が飛びかかってきて、鋭い爪で肩を切り裂かれた楽斉は膝をついた。
「楽斉さま!」
目の前の毛むくじゃらの獣を一刀のもとに斬り伏せて、翠薫が楽斉のもとへ駆け寄る。翠薫が、肩からあふれる血を止めようとするのを、僧侶は拒んだ。
「包囲の壁に穴を開けました。さあ急いで。〈花嫁〉に一撃を浴びせられるのは、翠薫、あなたしかいません」
翠薫の翠の瞳が揺れた。娘は、楽斉の血がべっとりとついた両手を握りしめると、決心したようにしっかりとうなずく。
翠薫は、楽斉が開いた一筋の血路を抜けると、〈花嫁〉めがけて走った。水面に映る星が、翠薫が足を踏み降ろした先で砕ける。翠薫の行く手を阻もうとする化け物はすべて、楽斉の唱える真言が倒した。
「貴様を殺して、姫さまを生き返らせる! 絶対に!」
翠薫は、〈花嫁〉に体ごと斬り込んだ。
「愚かな娘よ」
〈花嫁〉が、悠々と大鉞を振るうと、翠薫の体は再びなすすべもなく宙を舞ったかに見えた。
「なに?」
しかし〈花嫁〉は、次の瞬間、懐に飛び込んでくる細い娘を見た。大鉞の動きに合わせて後退した翠薫が、踵で止まると、即座に前方に飛び出したのである。
翠薫の刃が、〈花嫁〉の左胸に潜り込んだ。
「ううっ」
翠薫が満身の力を込めると、剣先は紫水晶の玉座に達し、〈花嫁〉を標本の蝶のごとく貫きとめた。
心臓を一突きにされてもなお、〈花嫁〉は笑っていた。
「娘よ。どうせならその刃でわれの首をはねるべきであったな。心の臓をえぐられたくらいでは、われは死なぬ。お前も、われの動きを封ずるためには、剣の柄から手を離すわけにもいくまい。われはお前をいかようにもできるというわけだ」
そう言うやいなや、〈花嫁〉はがっと両腕を伸ばして、翠薫の首を絞めつけた。赤く塗った長い爪が白い肌に食い込んで、翠薫はうめき声を漏らす。剣の柄を握る手に力を込めようとするが、もはや思うように力が入らないようだった。長い爪で皮膚が裂けて、細い首筋に血が伝った。
「おい化け物! こっちを見ろ!」
大声で呼びかけられて、〈花嫁〉はこうべをめぐらせた。〈花嫁〉の拘束が緩み、翠薫は首を押さえて咳き込む。
〈花嫁〉は玉座の下を見下ろし、心もち眉をひそめた。そばで成り行きを見守っていた宏渓に尋ねる。
「あれはおぬしの甥ではなかったか? なぜまだ逃げておらぬ」
「杜陽、なにをするつもりだ……!」
宏渓がうめいた。
駝鳥の卵を二つ抱えた杜陽が、玉座の下から〈花嫁〉をにらみすえていた。
「さあさあ、お立ち会い! 魔物と戦う勇気ある兵士の皆さんも、人を食らう恐ろしい魔物の方々も、これを見逃す手はないよ! 永安一の道士杜陽の、開闢以来の大奇術!」
杜陽の口からすらすらと流れ出したのは、歌うような口上だった。
「ここに取りいだしたるは、〈花嫁〉が妖術で作りし駝鳥の卵! さあさ、皆さまお立ち会い……」
杜陽は、ちろりと唇をなめた。極度の緊張で味覚が死んでしまったように、汗の味すらしない。
「貴様にとっては、この世の見納めだぜ。目ん玉かっぴらいてよおく見てろよ、化け物め!」
威勢よく叫ぶと、杜陽は右手の卵を高く投げ上げた。続いて、すばやく左手から右手に移していた卵をほうる。
落ちてきた最初の卵を受けとめて、予想以上の重量感にひやりとする。しかし、余裕ぶった表情を装わなければならないのは、街頭の観衆に囲まれているときも、魔城の主人を前にしたときも同じだ。
杜陽は、一段と声を張り上げる。
「さあさ、これからが本番さ! 投げてくれ、芳樹仙!」
「ほうれ!」
老仙が投げてよこした三つめの軌跡を目で予想して、足をずらす。
六花を救うには、この卵を拾うしかないのだ。そう考えると、覚悟が決まった。
卵を受け取る寸前、その卵がつるりと滑る感覚が、生々しいほどの実感を伴って指先から腕を通って脳髄までを駆け抜けた。紅葉の宴のとき帝の前で落とした漆の椀と、目の前の卵が重なる。白く丸い卵は手の届かないところに落ちていき、足元でぐしゃりと飛び散った。
しかし実際は、杜陽は三つめの卵を左手でしっかりと受けとめていた。空中にある二つの卵が落ちてくるよりも前に、三つめの卵を左手に移す。お手玉の要領で、左手で一つめの卵を受け取ると同時に、右手の三つめの卵を投げ上げた。
今この瞬間、杜陽は三つの駝鳥の卵を一度に持っていた。
「杜陽、よくやった」
聞き慣れた声がして、杜陽ははっと動きを止めた。
宙を舞っていた卵を、芳樹仙が「よっ、と」と仙術で空中に留める。
「無用の長物であったおぬしの大道芸も、時にはものの役に立つではないか」
「六花さま!」
槍を外に向ける兵士たちの中心で、六花が生身の体を取り戻していた。生色ある赤い頰に、笑みを浮かべている。
翠薫が、感極まって瞳を潤ませる。
「姫さま!」
六花は、忠実な臣下に命じた。
「翠薫、その件から手を離すな」
「はい!」
「おのれ、六花!」
〈花嫁〉が凄まじい形相で、翠薫の剣から逃れようともがいた。長い腕を伸ばして、傍らの水晶卓に載った亭主の生首に届かせようとする。
りん、と澄んだ強い音が響いて、〈花嫁〉の動きが止まった。
肩を血で汚した楽斉が、神々しい光を放つ鐘に似た法具を胸の前で振る。すると、輪郭のはっきりした高い音が響くのだった。
楽斉が鳴らす法具の音に打たれて、〈花嫁〉は身動きができない。
班仲が雲でひとっ飛びに飛んだ。
「御免!」
雲に乗った剣士は、宏渓の背後に回り、その喉元に剣を向けた。
「次は余の番だ」
六花は、手にした弓をきりきりと引き絞った。
その闇色の瞳が、新星のように強く輝く。鉱山の採掘道は、奥に眠る金剛石の鉱脈を秘すがゆえに、真夜中の沼沢は、泥中に蠢く大蛟を隠すがゆえに、その闇をなおさら深くするのだ。
「覚悟せよ、化け物」
ひょうふっ、と姫君が射れば、矢は生首の額に突き刺さった。
「ああああああああああああ」
〈花嫁〉が、壊れた楽器のように叫び声を上げた。男の生首が、矢を受けた額からみるみるうちに白骨へと変わっていく。
「おのれ、六花亜ああああああ」
〈花嫁〉が、生きながら炎に巻かれているかのように、腕を振り回して苦しみもだえる。錯乱したのか、どす黒い炎の柱を狙いも定めず四方八方へと放ちはじめた。
滅茶苦茶に放たれた炎は、見境なく手下の魔物たちにも襲いかかる。そのうちの一筋の炎が、宏渓をなぎ倒した。
叔父が倒れたことに心を揺らしながらも、杜陽は、翠薫に必死に呼びかけた。
「おい翠薫! 危ないからもう逃げろ!」
しかし娘は、荒れ狂う〈花嫁〉が断末魔のもがきで拘束を脱しないかと不安らしく、〈花嫁〉の胸に、剣をさらに強く押し込んでいた。
「畜生!」
杜陽は水を渡って駆けつけると、翠薫を羽交い締めにしてその場から引き剥がそうと試みた。そこへ黒い炎が襲いかかる。杜陽は、翠薫に覆いかぶさった。
二人を包み込んで焼き尽くさんとした黒い炎は、しかし、杜陽の背中に触れた途端、四散して消えてしまった。杜陽は狐につままれたような気持ちで辺りを見回す。
懐からころりとこぼれ出てくるものがあった。てのひらで受け止めると、それは、守り刀の柄につけていた異国のお守りである青いガラスだった。目玉のような文様の真ん中で、真っ二つに割れてしまっている。
「六花あああ、許さぬ、許さぬぞおお」
でたらめに飛び回っていた黒い炎が一つにより合わさり、猛り狂う一頭の黒龍に変じた。地獄の業火よりも真っ赤な両眼を怒りにたぎらせて、黒龍は身をうねらせながら六花に躍りかかった。
邪悪な爪が、つややかな黒髪をかすめ、その一筋を灰に変える。それでも六花は涼やかな笑みを浮かべていた。自らの勝利を疑わない、強い心を持つからこその笑みだった。
六花に牙を立てるかに見えた刹那、黒龍は雲散霧消した。
とても文字にできないような恐ろしい叫び声をあげて、〈花嫁〉は倒れた。すぐにその体を黒い荊が覆い、皮膚は青黒い色に変わった。
大夏帝国の都大永安城に恐怖をばらまいた〈花嫁〉は、ついに六の姫君六花によって、倒されたのである。
兵士たちがわっと歓声をあげた。班仲や霍光も剣を振り上げる。
杜陽は、玉座のそばに倒れ伏している宏渓のもとへと走り寄った。
「叔父さん!」
宏渓は、胸を焼かれて虫の息だった。楽斉が隣に膝を突き、急いで手当を施そうとしたが、宏渓は首を振って拒絶した。
「お前たちは、あの方を殺してしまったな……」
宏渓は、玉座の反対側に転がる〈花嫁〉の骸に目を向けた。ひどく悲しい目だった。
杜陽が言葉もなくうつむくと、宏渓は弱々しく首を振った。
「よいのだ。お前たちは当たり前のことをしただけなのだから。私にだって、最初からわかっていた。あの方へと向けるこの想いが狂ったものであることは。だが、恋が狂ったものでないことがあろうか」
宏渓は、自らの想いが恋であったとはっきり口にした。宏渓の右頬の大きな傷が、ひきつれたように震える。
「出会わなければよかった。出会ってしまったならば、どうしようもなく離れがたくなるさだめだったのだ。しかし、あの方にお会いしないままだったら、心に埋めることのできない空洞を抱えたまま、さすらい生きていかなければならなかっただろう。我々には結局、この形しかありえなかったのだ。あの方があの方でなければ、私はこうまで魅きつけられはしなかった……」
宏渓の言葉は徐々に低く、曖昧になっていった。続く言葉を聞き取ろうと、宏渓の乾いた唇に耳を寄せたとき、そこからもう息吹が出ていないことを杜陽は知った。
ピーッという鋭い鳴き声が響いて、どこからともなく大きな鷹が飛んできた。それは、しばらく姿を消していた皇帝の鷹、百和だった。
鷹は、悲しげな声で鳴きながら宙を旋回し、親しい鷹匠の死を悼んだ。
突如、足元が大きく揺れて、湖が波立った。平衡が保てなかった者は尻餅をついてしまったほどだ。
いけない、と楽斉がつぶやく。
「〈花嫁〉が死んだことで、この城にかけられていた魔法が解けたのです。術によってつなぎとめられていた異空間が、もとあった時空へと戻ろうとしています。その結果、天呪閣は崩壊するでしょう。一刻も早くここから脱出しなければ」
「それなら、碧翠雲を広げて皆が乗れるようにしよう」
班仲は、「広がれ!」と仙雲に命令したが、十人ほどがやっと乗り込めるほどの広さまで大きくなると、密度が薄くなって、危うく班仲自身が雲を突き抜けて落下しそうになった。
「これでは到底、ここにいる全員は乗せられない!」
班仲が叫ぶと、切り捨てられるのではないかと考えた兵士たちが、恐慌を起こしかけた。
六花はため息をつく。
「姉上に、一人も欠くことなく地上に帰ると前もって予言されてしまったからな。誰かを捨てていくわけにもいくまい。杜陽などちょうどよいのだがな」
「おれですか⁉︎ おれは功を立てたでしょ。ねえ⁉︎」
杜陽は大声をあげた。
六花はそれを無視して、つかつかと芳樹仙に歩み寄ると、その後ろの襟を乱暴につかんだ。
「仙人。余らが無事天呪閣から脱出できるように策を講じよ。おぬしならできるであろう?」
芳樹仙はそっぽを向いた。
「嫌だと言ったら?」
「羽衣も一緒に天呪閣の下敷きになるだけだ」
老仙は舌打ちをした。六花に向き直り、片手をぞんざいに突き出す。
「持って来ておるなら、まずは羽衣を渡せ。あれがなければ、本来の力が出せぬ」
それは一つの賭けだった。羽衣を渡した途端、芳樹仙は六花たちを裏切って、一人空へ飛び去ってしまうかもしれない。しかし、神仙の力を借りるほか方法のないいま、芳樹仙を信じるしかなかった。そして六花には、助かる唯一の道をためらいなく選択するだけの度量と果断さがあった。
六花が合図をすると、翠薫が背中の袋から羽衣を取り出して、老仙に渡した。
「まったく、我が弟子には、この場の者を宙に浮かせてやすやすと地上に運ぶくらいのことはできんのかのう」
楽斉は、生真面目に頭を下げた。
「不肖の弟子にございますれば、お師匠さまのお力だけが頼りでございます」
「ふん」
余計な文句を垂れながら、仙人は羽衣を羽織る。こんなしょぼくれたじいさんに見えても、もとからの自分の持ち物なのだし、と思っていたが、老仙に羽衣があまりに似合わないことに杜陽はびっくりした。
屋根を支える大事な柱が折れるような音が響き続けている。揺れはますますひどくなっていた。
芳樹仙は手を合わせ「ウン!」とうなった。と同時に、枯れ木のような身にまとう羽衣がぐうんと伸びた。
「ほらお前たち! ぼやぼやしてないでつかまれ!」
杜陽たちは、広がった羽衣の裾に慌てて取りついた。
「おっと、忘れるところであった」
六花は、とてとてと歩くと、矢が額に突き刺さったままのしゃれこうべを抱いて戻って来た。
「そんなもの持ち帰って、一体どうするつもりなんです」
杜陽が気味悪さを前面に押し出して問う。六花は、お気に入りのぬいぐるみのように、しゃれこうべをぎゅっと抱きしめて、嬉しそうにした。
「忘れたのか? 羽化登仙の霊薬として、帝への土産とするのだ。こんなげてものをあの男に食わせてやるのが待ち遠しくてならぬ」
「そんなもので本当に不老不死になれるんですか?」
「さあ、それは奴の心がけ次第だ」
「もう忘れ物はないな。それでは行くぞ」
仙人が声をかけてから、宙に飛び立った。羽衣につかまった杜陽たちも一緒に舞い上がる。水面すれすれに飛んで、岩崖の隙間を通り抜けると、そこは永安上空だった。まだ暁だろう。朝日の投げかける光は見えない。
眼下に、頭上に、左右に、崩れていく天呪閣の建物が見えた。それは不思議な眺めだった。階段や渡り廊下がばらばらに砕けて、それが繋いでいた建物が、もとあった時空に吸い込まれていく。異なる時空につながる窓が、いくつも空に開いていた。
「しっかりつかまっておれ。運よく真下の永安の街に落ちれば骨も拾ってやれようが、異空間に吸い込まれれば、その先一体どのような目に合うか、わしにも予測がつかぬぞ」
芳樹仙が楽しげに注意する。
杜陽は羽衣の上に乗り、風圧に耐えながら必死に瞼を開けた。天呪閣を形作っていた建物が、あらかた時空の窓の向こうに消えたために、視界は開けている。
まだ闇の幕が下りた都には、朝廷に出仕する役人の家だろう、灯がちらちらと灯っている。
一○○万の人々が眠る都だ。今この時代のどこにも、永安より繁栄している美しい都は存在しない。そしてたとえこの先、永安を越えて華やかに栄える都が出現したとしても、そのことはかけらも、この時代の永安の輝きを損ねることにはならないのだ。
杜陽の胸に温かな感慨が湧き上がってきた。今それぞれの牀上で夢の中にある人々は、目覚めたとき、昨日まで恐怖の象徴だった天呪閣が跡形もなく消え、翳りのない空が戻ってきたことを知るだろう。しかしまだこのときは、誰もそれに気づいている者はいないのだ。
風に舞う木の葉のように、かろうじて空をつかむ杜陽たちの真下には、温かい色の明かりがいくつか揺れていた。それを目印に降りていくと、明かりの正体は、大極殿の前庭に萌える篝火だった。
ふうわりと前庭に降りてきた杜陽たちを、二人の人物が迎えた。
羽衣から手を離した六花があきれて言う。
「姉上、志和。一晩中外で待っていたのか。この寒いのに」
志和は、ようございましたと繰り返しては、にこにこと笑っている。
白耀は、しゃんと背筋を伸ばして、霍光や杜陽や、翠薫や、兵士たちの前に進み出た。
「よくぞ魔物を倒し、永安の都に平安を取り戻してくれました」
そして妹姫を見て、優しく瞳を潤ませると、六花の体を強く抱きしめた。
「姉上は泣き虫だな」
「泣いてなんかないわよ。おかえりなさい、六花」
青く透きとおりはじめた東の空に、明けの明星が強く輝いていた。
風が吹くたびに、蝋梅のうっとりとするような香りが振りまかれる。その名のとおり、薄く垂らして固めた蝋のように半透明な黄色い花びらは、早春の日差しを結晶にしたかのようだ。馥郁と咲く蝋梅の花びらは、時折枝を離れて風に舞う。
吹く風はまだ冷たいが、晴れた空から降り注ぐ陽は暖かい。六花、杜陽、志和、翠薫、そして班仲は、館の庭の日当たりのいい場所に集っていた。
「結局、あのしゃれこうべには不老不死の薬としての効き目があったのでしょうか」
班仲が問いかけると、六花は「さてな」とぶっきらぼうに応じる。
「でも仙薬なら、あの仙人のじじいに作ってもらえばよかったですね」
「馬鹿者。あのじいさんが不死の薬など快く人間に渡すと思うか?」
楽斉がふっ、と微笑んで、「今頃どこでどうしておられるのやら」と口にする。
芳樹仙は、天呪閣から帰還したその日のうちに、空のいずこかへと飛び去っていった。
「横暴な姫君も上手く言いくるめて羽衣を取り戻したことだし、もうここにいる理由もない」
というのが、老仙の暇乞いだった。
仙人が旅立つ間際、夕暮れの近い空は牡丹雪を降らせた。
芳樹仙は、痩せた指の腹に雪をのせて、杜陽たちに聞かせるつもりがあるのかないのか、低くつぶやいた。
「すでに春の雪か。永久に変わらぬ楽しみは、酒と花と楽の音ばかり。花の下にある佳人、美しき楽を奏でる人、そしてともに酒を酌み交わす友は、年とともに去っていってしまう。それでも、移ろいゆく人界に、たまに面白い顔ぶれがいるから、人の世を訪うのはやめられぬわ」
銀白の羽衣をまとった老仙は、ふわりと宙に昇り、雪の降りしきる空にまぎれて見えなくなった。白い空から不思議とはっきりした声だけが降ってきた。
「碧翠雲は、置き土産としてくれてやる。そのかわり、駝鳥の卵は酒の肴にもろうてゆくぞ」
これよりのち、中原では時折、三匹の駝鳥を従えた仙人の説話が語られるようになった。伝説によれば、その白髪の神仙はかつて仙界で高位を占めていたが、あるとき罪を犯して人界に流されたのだという。犯した罪とは、惚れ込んだ人間の楽人のために、天女の秘曲を密かに授けたことだったとも、その者の短命のさだめを惜しんで、不死をもたらす仙界の桃を盗み出したことだったとも伝えられている。
ひらひらと飛ぶ花びらが、早春の陽光に透ける。薄黄色の花びらは、木の幹に背を預けて居眠りをする志和の肩の上に舞い落ちた。
班仲は先ほどから、心の赴くままに琵琶を爪弾いている。どこからどう見ても武骨一辺倒なこの武人が、剣だこのできた太い指で、玩具のように小さく見える琵琶を弾く様子には、どことなくおかしみがある。
「ところで杜陽どの。叔父上を天呪閣に置いてきてしまってよかったのか」
班仲に問われて、杜陽は軽い笑みを見せてうなずく。
「ああ。〈花嫁〉と一緒にしておいてやったほうが幸せだろうと思ったから。故郷には、最後の日々は、愛する人とともにあったと書いて送ったよ」
それを聞いて、班仲も穏やかな表情を浮かべてうなずいた。
「楽斉、何か詩を詠め」
六花が命じた。天呪閣で魔物から受けた肩の傷もほとんど癒えた楽斉は、唇にほんのりと笑みを含む。
「それでは、古人の詩を歌いましょうか」
楽斉は、節をつけて朗々と歌いはじめた。
洛陽城東 桃李の花
飛び来たり飛び去りて誰が家にか落つ
班仲が楽斉の詩に合わせて、琵琶を奏でる。六花のそばに控えていた翠薫が、つと立ち上がり、白い手を差し上げて舞う。若草色の衣が翻って、手首につけた鈴がしゃりん、と鳴った。三人それぞれの上にも、薄黄色の花びらは降ってくる。
洛陽の女児は顔色を惜しみ
ゆくゆく落花に逢いて長く嘆息す
今年 花落ちて顔色改まり
明年 花開いて復た誰か在る
杜陽は、きらきらと舞い散る蝋梅に彩られた舞に見とれた。
杜陽の隣で、緋毛氈の上に陣取って金平糖をぼりぼりと貪っている六花は、とても化け物退治の英雄には見えない。
間違いなく死ぬだろうと考えて送り出した六の姫君が、夜も明けぬうちにしゃれこうべを胸に抱いて帰ってきたのだから、帝はもちろん、宮廷の百官は、幽霊でも見たように腰を抜かした。
宮廷の人々の中には六花を、魔性の子だと噂する者もあるようだ。杜陽には、今回の件で六花がますます宮廷の中で孤立したように思われた。当の姫君自身は、そのようなことは何ら気にとめていないようだったが。
古人 復る無く洛城の東
今人 還た対す落花の風
東からの風が、庭の木々を揺るがした。蝋梅の花びらが、よい匂いをさせて一斉に散る。
そのうちのひとひらが、六花の流れるような黒髪をかすめようとした。
姫君が長く吐息を漏らす。
すると、黄色の花びらは遠くに飛ばされていった。
一息に花びらを吹き飛ばした六花は、早春の薄青い空を仰ぎ見て、大輪の牡丹が花開くような笑みを見せる。
その小さな身に大望を秘めた幼い姫君にはいまだ、どんな落花の風も届かない。
〈了〉
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