第七章 魔城の天辺
大極殿の前庭から見える天呪閣は、身を隠す怪しい雲も霧も持たず、冷え冷えとした朝の空気の中に、千の甍をきらめかせてそびえ立っていた。そのいびつな城を構成する数多くの尖塔や楼閣は、窓をぴたりと閉ざしている。人を脅かして夜に跋扈する魔物たちは、まだ寝静まっているのだろうか。
「不気味ですな。手ぐすねを引いて、我々を待ち受けているように見えてなりません」
碧翠雲に乗った班仲が、気味悪そうに天呪閣を見上げた。大戦に赴くような甲冑に身を固め、腰には刃の反り返った大剣を帯びている。
志和が一歩進み出て、丁寧に頭を下げた。
「皆さま、どうかお気をつけていってらっしゃいませ。もう少し若ければ、この志和もお伴して、必ずや死力を尽くして戦いましたのに」
「わしも行けないのは残念じゃ」
芳樹仙が尻馬に乗って逃げようとしたところを、杜陽はすかさず捕まえた。老仙は、枯れ枝のような手足をじたばたさせて暴れる。
「じじいは十分戦えるよなあ?」
「無礼な若造め! わしが、敬老精神を叩き込んでくれるわ!」
杜陽の腹に、強烈な蹴りが叩き込まれた。
「いたっ。このくそじじい、やめろ!」
杜陽の腕を脱出した芳樹仙は、杜陽の周りをぐるぐる駆け回って、始末の追えない子供のように、やたらめったらに体を叩く。
「やめんか。やかましい」
氷のような声が、喧嘩する二人を打った。
振り返ると、そこには晴れ姿の六花が立っていた。
薄紫の衣の上に、金糸で扇の刺繍を施した長い上着を羽織っている。帯紐を飾るたくさんの宝石ビーズは、互いにぶつかり合うたびに、高く澄んだ音を立てた。緑柱石を細かく砕いてはめ込んだ耳飾りの片方だけで、屋敷が一つ買えてしまいそうだった。
「献上品ならばやはり、美しく飾り立てねばなるまい」
六花は、わずかに唇の端を引き上げる。そして、広い袖の中に片手を差し入れると、扇でも取り出すのかと思えば、漆の手箱を出して中の金平糖をつまみ始めた。
「姫さま、あんまり甘い物を召し上がると、歯を悪くいたしますよ」
翠薫が遠慮がちに諌めるが、六花はわざと金平糖を大きな音を立てて噛み砕いて、聞こえない振りをする。
翠薫は、藍色の衣をふわりとまとっていた。身動きするたびに、織り込まれた銀の糸が不意の流星のように輝く。
いつか皇帝から賜った、上等な袈裟を着た楽斉が、例の謎めいた微笑を浮かべて芳樹仙に問いかけた。
「お師匠さま、〈花嫁〉討伐に加わることを嫌がっておられるのは、本心なのですか?」
この人間離れした落ち着きを持つ弟子に言われると、千年の齢を経た仙人も、謝礼を引き出すためのごねる演技を、これ以上続けることができなくなったらしい。
「まあ、邪悪な姫君の怯えきった泣きっ面を拝むのも、悪くはなかろうよ」
およそ高貴な神仙とは思えない台詞を吐くと、「ふん!」と鼻息を荒くした。
「それにしても、あまりに寂しい旅立ちですな。見送る者が一人もおらぬとは」
班仲が言う通り、辺りをぐるりと見渡しても、広い前庭はがらんとして、時折小雪まじりの風が吹きつけるばかりである。帝が六花に与えた三十人の精兵も、化け物と戦う不安と凍えで落ち着きなく足踏みをしている。
六花は、ひと気のない前庭にちらりと視線を走らせて、表情を変えずに言った。
「ことを大きくしたくないのだろう。百官総出で嘘泣きしながら見送られても迷惑だから、このほうが助かる」
ぱたぱたと軽い足音を聞いて、杜陽はその音の方向に首を向けた。
「六花!」
「——とはいえ、姉上だけは来ると思っていた」
六花はふう、と白い息を吐くと、振り返る。
暖かそうな長い衣を翻して、白耀がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。その後ろには、霍広が付き従っている。
「六花、お姉さまじきじきのお見送りなしに出発するなんて、許さないわよ」
「遅れたのは姉上なのに、どうしてそのように偉そうなのだ」
「だって、寒くてなかなか起きれなかったんだもの」
「実の妹が死地に赴くというのに、何を呑気に寝ておるのだ」
妹姫のもとへたどり着くやいなや、その薄い肩をがっと掴んだ白耀に、六花はあきれ顔をする。
白耀は、妹姫の方から手を離して、決然と言った。
「霍広を連れて行きなさい」
「え?」と、杜陽が慌てて問い返す。
「それは、霍将軍が一緒に来てくれるなら千人力ですけど、でも、ほんとにいいんですか?」
「拙者からお願いしたのです。六花さまをお守りして天呪閣に行かせてくださいと」
霍広が、まっすぐなどんぐり眼で六花を見た。
「それに、あの魔物は命知らずにもわが主人の命を狙ったのです。一つぶちのめしてやらなければ、収まりませぬ」
霍広は、白耀殺害未遂の真犯人を知らない。てのひらの中の胡桃だって割れそうなほど、強く拳を握りしめる剛直な将軍の横で、六花は素知らぬ体で涼しい顔をしている。
楽斉が、白耀を見つめて、もう一度問うた。
「まことによろしいのですか?」
「ええ」
白耀は、強く頷く。
「わたし自身がともに行けないのならば、せめて六花が生きて帰ってくる確率を、最大限まで上げたいの」
白耀は深い思いを込めて妹姫を見つめ、自らの胸に優しく抱いた。
「この白耀が予言します。あなたは、生きて天呪閣を降りてくるの。供の者を一人も欠かさずに」
「姉上の予言を外すわけにはいかぬな。安心せよ。霍広は必ず姉上に返そう」
六花は不敵に笑う。白耀は妹姫をそっと胸から離すと、一緒に微笑んだ。
「——いってらっしゃい、六花」
白耀は、まつげに乗ったひとひらの雪を指でゆっくりと取る。雪のかけらは、温かい指先で淡く溶けた。
槍を持った精兵三十人が、厳しく隊列を組んだ。その先頭には、六花と直属の臣下たちが立つ。
班仲が腹に息を止めると、雲も払うような大音声で天に叫んだ。
「大夏帝国の六花姫が、異形の城に棲まう異類の夫人に目通りを願う。疾くいらえよ」
すると、大極殿の上空に浮かんだ、天呪閣の一番下の大きな門が開いて、中からするすると黒い絨毯が伸びてきた。絨毯の先が、前庭の地面につく。
「この絨毯を渡って上ってこい、ということか」
そうつぶやくが早いか、六花はいの一番に絨毯の上に飛び乗った。
固い地面の上とまったく同じように、幼い姫君は絨毯に足を踏み締めて立つと、背後の臣下たちに体を向けた。
「いま天が味方するのは、この六花だ。天から憎まれたくないものは、余から離れるな」
翠薫と楽斉が、六花に続いて絨毯に足を乗せた。杜陽も慌てて後を追う。霍広と芳樹仙、精兵三十人が皆絨毯の上に乗った。仙雲を駆る班仲は、とっくに六花も飛び越して、天呪閣の大門に向かって飛んでいた。
魔性の〈花嫁〉に捧げられた献上品たる一行は、魔城へと続く道を、顔を上げて進み始めた。
黒い道の上を徐々に小さくなっていく六花たちの姿を、白耀と志和は、並んで地上から見守った。
志和が、わずかに笑みを含んだ声で白耀に話しかける。
「寝坊のせいで、まことに時間がなかったのですな。顔を洗う暇もないほどですから」
「あら、よだれのあとが残っていたみたいね」
「目からよだれですか」
空を見上げる白耀の頰には、紛うことなき涙の筋が残っていた。白耀は、怒ったように頰をごしごしとこすってから、口を開く。
「あの子が〈花嫁〉を討伐しにいくことは、歴史の転換点かもしれないわね」
「と申しますと?」
「恐ろしいほど利発なあの子の夢は、嫁いだ国を支配して戦争を仕掛け、大夏の代わりにこの中原世界を統べること。天呪閣から生きて帰れば、いつかあの子はその通りのことを実行するでしょう。三人の妃を殺し、父親である皇帝さえ手にかけようとしたあの子は、これからどんな所業に出るのかしら。『あのとき〈花嫁〉に殺されてさえいれば!』と後の世の人々に称される、暴君になるのかしら」
白耀は両手を広げて、天から落ちてくる雪ひらを受けようとした。しかし、雪はふっくらとした指の隙間をすり抜けて、少しもてのひらに残ろうとしなかった。
「それでも白耀さまは、六花さまを大切に思っていらっしゃる」
志和の言葉に、白耀は泣き出すのを我慢するように笑った。
「実の姉まで殺そうとしたばかな子だけど、信用できるたったひとりのきょうだいだもの。いとしい愚かなわたしの弟。たとえこの先、あの子が中原に長い戦乱の時代をもたらすとしても、やっぱりわたしは、あの子が〈花嫁〉の手から逃れることを願わないではいられない」
あとからあとから雪をこぼす空を、白耀と志和は、何も言わずに見上げた。
象の大群も通り抜けられそうな大門を一行がくぐり抜けると、門の扉はひとりでに閉まった。
天呪閣に乗り込んだ杜陽たちが立っていたのは、赤い芥子の花が一面に咲く中庭だった。風が吹くたびに芥子の花は、黒い一つ目玉のようなめしべおしべを見せて、首を振る。
燃え立つように赤い花畑の真ん中を通る道の先に、城への入り口がぽっかりと口を開けていた。杜陽は、しゃれこうべの底知れぬ暗い眼窩を連想する。
「さて、〈花嫁〉は我々を、五体満足の状態で天辺まで登らせてくれるのだろうか」
霍広がひげをひねりながらつぶやくと、杜陽が「え?」と取り乱した。
「〈花嫁〉のほうから招いてるんだから、あの魔物に会うまでは、手を出してこないんじゃないのか?」
「どうだか。配下の魔物に襲われながら頂上までやってくる様子を、楽しんで見るつもりかもしれんぞ」
「そういう残虐なところは、うちの姫さまにも似てるもんなあ」
杜陽がうっかり口を滑らせると、六花がすたすたと先に歩き出した。
「魔物が襲いかかってきたら、そいつが杜陽を食っている隙に攻撃しよう」
「姫さまあ」
「いずれにしろ、警戒しながら進むしかないでしょう。ここは魔物の城ですから、何が起きても不思議ではありません。こちらをどうぞ」
そう言って楽斉が一同に配ったのは、絵のような文字のようなものが墨で書かれた、魔除けの護符だった。
「これを心臓の上に貼ってください。魔物の爪や牙から身を守ります」
杜陽たちは、息を殺して入り口から城内に入った。そこは、入り口以外の三方の壁に蕾の形のアーチがくりぬかれた部屋である。アーチの先には、また同じ部屋があるようだった。三方のどの壁の前に立っても、合わせ鏡のように、奥に向かってどこまでも同じアーチが続いている。
震動のように、どこかでゴオオオという水音が鳴っている。城の天辺から流れる滝の音だろう。天呪閣のどこに移動しても、その轟音は近づいたり遠ざかったり、途切れることはなかった。
「前回、拙者は、まっすぐ突き進みました」
霍広が、手で前方を指し示す。
そのとき、天井から下がる水晶のシャンデリアが大きく揺れて、何か鳥のような影が襲いかかってきた。
「おっと、蝙蝠か」
霍広が、慌てずに剣で影を斬り払う。
杜陽がぎゃっと悲鳴を上げた。黒い翼を切り裂かれた大蝙蝠には、人間の頭がついていた。
霍広を先頭にして、一行はそろそろと進んだ。進んでも進んでも、周囲には同じアーチと暗い部屋が、万華鏡のように広がるばかりだ。
「もうすぐ階段が現れるはずです」
霍広の言う通り、とある部屋に行き着くと、前方のアーチの向こうが階段になっていた。
「何か落ちてくるような音がするぞ」
芳樹仙が無造作に言った。耳を澄ますまでもなく、確かに階段の上から、何か重い物が転げ落ちてくるような鈍い音が聞こえる。一行は、階段の上の闇に目を凝らした。
それが目に入ったとき、杜陽は鞠だと思った。しかし、その鞠は随分と毛羽立っていて、しかもいびつである。
あと数段で下にたどり着くところまで来たとき、杜陽は鞠と目が会った。
「うっ」
階段を転がり落ちてきたざんばら髪の男の首が、飛び上がって杜陽ん首元に食らいつこうとした。
杜陽がぎゅっと目をつぶって再び開けたときには、首は頭をかち割られて足元に転がっていた。
「杜陽さま、お怪我はありませんか」
剣を抜いて首を切り捨てた翠薫が、杜陽に尋ねる。
「また来るぞ」
班仲の声に階段の上を見上げると、首が五つも六つも転がってくるところだった。その光景を見て、杜陽は吐きそうになる。
班仲を先頭に、何人かの兵士が階段を駆け上がり、首を槍で串刺しにした。班仲たちの手を逃れた生首の一つが、歯をむき出して楽斉に噛みつこうとする。
僧侶は慌てず騒がず、袖の中から取り出した護符を、生首の恐ろしい形相の顔面にぺたりと貼った。首は急に力を失い、床にごとりと落ちる。
「また妙な化け物に襲われないうちに、階段を上りきってしまいましょう」
楽斉の言葉に頷いて、一行は階段を上り、上の階に飛び出した。
薄暗く狭い階段から一転して、そこは明るく開放的な空間だった。
はるかに高いドーム天井と白亜の柱を持つ絨毯敷きの広間。ドームの外周には小窓が等間隔にうがたれ、自然光が燦々と入ってくる。くすんだ銀の吊り香炉が、何とも言えぬ良い香りを振りまいていた。
広間の片側には、テラスがついている。そこから外の景色を見た杜陽は、驚いて声を上げた。
「いつのまにか日が暮れてる!」
「いや、日が暮れているだけではない。これは、永安の街ではない……」
霍広が言うように、夕暮れ時の金と朱で染められた眼下の街は、碁盤の目に区画された永安とは様相が違った。無秩序に並ぶ箱型の家は皆煉瓦造りで、ところどころに白い丸屋根や尖塔が頭を出している。さああ、と心地よい風が杜陽の頰を撫でた。どこか懐かしい夕焼け色になじむ街に、遠く鐘の音が鳴り渡っている。
しかし、広間の扉を開けて屋根つきの渡り廊下に出ると、格子窓の向こうに見えるのは、永安の街並みだった。太陽は、まだ空の高いところにある。
「この城は、いくつもの時間と空間をつぎはぎにして作られているのかもしれません」
ぽかんとして状況を整理できないでいる杜陽たちに、楽斉が仮説を披露した。
「そもそも、天呪閣が一夜にしてできあがったことを不思議に思っていたのです。この城は一から作られたのではなく、もとから存在する建物を、時空をつなげて寄せ集めたのでしょう」
渡り廊下の先から、獣の頭骨の面をつけて人の体をした一団が、手に手に金の錫杖を構えて突進してきた。
体重を感じさせない身軽さで、一飛びに廊下を走り抜けた翠薫が、真っ先に敵とぶつかる。翠薫の剣が錫杖と打ち合うと、金属の高い澄んだ音が響いた。
数人の兵士が一斉に剣を抜いて、六花を取り囲んで守る。霍広と班仲は、それぞれ一度に何人もの獣頭を相手にしては、力任せにぶっ飛ばしている。芳樹仙は、長い白ひげをなびかせて、ひょいひょいとからかうように敵の攻撃を避けていた。
「お師匠さま、戦ってはくださらぬのですか」
「ふん、これしきの小物、不肖の弟子に任せておけば十分じゃ」
老仙の言う通り、楽斉は袈裟の袖を翻し、金剛杵で獣頭を小突いては、次々に葬り去っている。絶え間なく唱えているお経も、化け物の力を削っているようだ。
杜陽はと言えば、獣頭と戦う兵士のあとについて右往左往していた。しかし、ついに鹿角の化け物が、杜陽目指して錫杖を振り下ろしてきた。
「おっりゃああっ」
杜陽は心臓をはね上がらせながら、腰の錆びついた守り刀を抜き、めくら滅法に振り回した。刀の先が偶然鹿角の頭を跳ね飛ばし、化け物がどう、と倒れる。
「お、おれにもできた……」
ふうう、と深く息をついて、杜陽は手中の刀に視線を落とした。都に上るときに家の蔵から失敬してきた、ぼろぼろの刀である。柄には、叔父宏渓の残した青い石のお守りがぶら下がっている。
杜陽はお守りの青い輝きを見て、この魔城の天辺で、宏渓は待っているのだろうかと考えた。
翠薫たちの働きによって、化け物はあらかた片付いていた。残ったわずかな獣頭も、いひいひと気味悪く笑いながら逃げ去っていった。
「どうも手ぬるいのう。天呪閣に棲む魔物が、各々遊び半分に攻撃を仕掛けてきておるようじゃ。高みの見物を決め込む〈花嫁〉の視線をひしひしと感じるぞよ」
ちょこまかと逃げ回っていた芳樹仙が、息も乱さずに講評する。六花が一同に言った。
「小物に体力を奪われるな。われらの敵は〈花嫁〉だけだ」
天呪閣の最上階を目指し移動しては、魔物との遭遇と小競り合いを繰り返した。異なる時空に存在する建築物をあべこべに組み合わせているというのは、どうやら本当のようだった。
弓なりに反った朱塗りの橋と、その先の東屋に立つと、冷たい霧が肌を刺した。風が吹いてわずかに霧を晴らし、鋭く切り立った岩山が姿を現す。まるで水墨画のような風景に、束の間一行は見とれた。
そこから移動して、床板が朽ちて苔むした異国の寺院では、雨漏りのする廂の下から、濃い緑の密林を望んだ。雨が上がったばかりの空から陽光がきらりと差すと、輝き出した木々から鮮やかな赤い鳥の群れが、ぱっと飛び立った。雨に濡れた密林から発散される緑の生気にむせ返るようだ。
とある扉を開いて中に入ると、そこは夜の海に漂う小舟の上だった。真っ暗な海の向こうに、ぼうっと光を放つ何かが見える。それは、月でも星でも、まして太陽でもない不思議な金色の光を身にまとった、菩薩の一団なのだった。
見上げるほど大きな菩薩たちは、結跏趺坐のまま静々と海の上を渡ってくると、小舟など目に入らぬかのように杜陽たちの眼前を通り過ぎて、いずことも知れぬくらい海の彼方へと遠ざかっていった。
建物と建物をつなぐ橋や階段、折れ曲がった渡り廊下は、途中で途切れたり、滝の支流の一本が遮ったりしていて、引き返さなければならないこともしばしばだった。立体迷路のように複雑な城をさまよううちに、建物の間の廊下から見える永安の街は次第に遠く、太陽の位置は次第に低くなっていった。
「城の頂上に近づいてきてるみたいだな」
杜陽は、額の汗を拭った。若者の言葉に頷く周りの人々は残らず、顔や腕に擦り傷を創っている。
楽斉の魔除けの護符でも防ぎきれないほど、何度も化け物との戦いを続けてきたのだった。終わりの見えない戦いに疲弊した兵士も、目的地に近づいている予感に力を取り戻しているようである。
一行が今いるのは、階段の途中の広い踊り場だった。
杜陽は、階段に腰掛けて一息つく。仙人の伝承が透し彫りにされた手すりの向こうには、永安の数百の通りが走っている。昨日と変わらぬ一日を送った都の人々の上に、赤い夕日が落ちようとしていた。今日と変わらぬ明日を約束するように。
六花もまた、背負っていた弓と矢筒を下ろして、足を投げ出していた。杜陽は、弓を指差して文句を言う。
「おれたちが頑張っているんだから、姫さまも弓矢で援護してくださいよ」
「うるさい。おぬしは、気絶しかけながら逃げ回っているだけではないか。余こそは、この戦の要だぞ。最終決戦のために体力を温存しているのだ」
六花が、袖を払って立ち上がる。
「さあ、一休みしたら出発するぞ。もうじき約束の刻限が来る」
階段が続いていくところの仏塔の扉を開けると、日の光の乏しいそこは、一瞬真っ暗に見えた。
目が慣れるのを待った杜陽は、薄闇の中にぼうっと浮かび上がってきた思わぬ情景に背筋を寒くした。
「何だこれ……」
仏塔の内部を埋め尽くしていたのは、おびただしい数の人をかたどった石像だった。古風な衣をまとったそれは、古代の兵士のようである。しかし、石の兵士にはどれも頭部が欠けているのだ。
天呪閣に足を踏み入れてから、山ほど仰天する光景を見てきたはずの一行は、物言わぬ首無し兵士の一団に圧倒され、仏塔の中に入るのを躊躇った。
戸口に立ち尽くしたまま、首無し兵士を眺めていた杜陽は、ふと隊列の中に一体だけ頭を持つ石像を発見した。次の瞬間、その石像がゆらりと動いたので、ほとんど心臓が止まりかける。
頭を持つ像はぎこちなく動いて、前方にゆっくりと歩いてきた。よく見れば、服装も周りの古代兵士とは違うようだ。仏塔の上のほうの小窓から細く差し込む光の筋が、像の顔を照らした。
杜陽には、全身の血管を流れる血が、急に冷たくなったように感じられた。楽斉が低く呟く。
「片側の頰に、長い傷……」
「——叔父さん」
杜陽の記憶にあるその人よりも年老い、痩せてはいたが、それはまさしく天呪閣に帝の鷹を追ったきり帰らなかった、宏渓だった。霍広の目撃談の通り、彼はやはり生きていたのだ。
だが、杜陽は、死んだはずの肉親に再会できた喜びよりも、会ってはならないはずのものに出会ってしまったような戦慄を感じていた。
「もしかして、杜陽か? 一緒にいるのは、六花姫だな」
声は、昔より暗さを帯びているものの、ほとんど変わりはない。杜陽は震えた。
「幻じゃないんだよな? どうして叔父さんがここにいるんだ」
「喜んではくれないのか。だが、それも仕方ない」
宏渓は、杜陽が握っている守り刀を指差した。
「お前がその刀につけている青い石は、俺がこの城を降りて、職場に残っている俺の私物に紛れ込ませておいたものだ。いつか、お前が俺の遺品を受け取りに来るだろうと思ってな。その守り石は、俺が天呪閣に上るときに、魔物から身を守ってくれた。もっとも、お前には守り石など必要なかったようだが」
杜陽は、心臓の上に貼った、楽斉の護符に手を触れた。六花が、闇色の瞳で宏渓を見据えた。
「ひさしぶりだな、宏渓。その守り石をくれてやったのは誰だと思っている。恩を仇で返すとは、そなたの育てた猛禽以下の所業だな」
元鷹匠は、哀れみを込めた表情で、生贄の姫君を見返した。
「私のお仕えする天呪夫人があなたの首を望んだ以上、悲しいことですが、逃れることはできません」
「なんで叔父さんは、〈花嫁〉なんかに仕えてるんだ」
杜陽が叫んだとき、上方に開いた小窓から、黒い影が舞い込んできた。その影は斜めに滑空すると、翼をたたんで宏渓の腕にとまる。
「その鷹は……、行方不明になっていた百和?」
鷹匠は、皇帝に愛された美しい鷹の頭を愛しそうに撫でてやり、口を開いた。
「白鷺を追って消えたこの鷹を、天呪閣に上って探せと帝はお命じになりました。本気で鷹を取り戻したいという気持ちからではなく、それは一時の癇癪だったのでしょう。しかし、断れば斬られかねなかったので、私は命に従いました。あなたがたが経験したように、複雑な迷宮をさまよいながら、私は鷹を探しました。城に巣食う魔物は、不思議と私に害を及ぼしませんでした。六花姫からいただいた魔除けの呪具が効いたのでしょう。
そして私は最上階で、〈花嫁〉と出会ったのです。彼女は、百和を腕にとまらせてかわいがってやりながら、『この鷹を手に入れるために、白鷺に身を変えて、帝の一行に姿を現したのだ』と言いました。どうかその鷹をお返しください、と私が頼むと、〈花嫁〉は首を振りました。そして、『しかし、これほど気高く鷹を育て上げた鷹匠だから、お前だけは特別に城下に返してやろう』と。
足も立たぬほど震えて天呪夫人の言葉を聞いていた私は、けれどそこで夫人の足元にひれ伏しました。そして、『その鷹の美しさを保つためには、熟練した鷹匠が必要でございます。どうか、私がこの城に留まることをお許しください』と、思いきって言ったのです」
「なぜそのようなことを?」
六花の問いに、宏渓は、答えあぐねるように顔を伏せた。
「たとえ無事に地上に戻っても、百和を取り戻せなかった私を、皇帝は処罰したでしょう。……いいえ、そのときの私の心をよぎったのは、そんな思いではありませんでした」
宏渓は、ふっと顔を上げた。何かに魅入られたような叔父の目に、杜陽はぞっとする。瞳の中の大事な部分を吸い取られてしまったような目だった。この世ならぬものに心を奪われてしまった者の目だった。
「世にも恐ろしいと噂に聞いた〈花嫁〉は、あまりに美しかった。ためらいなく人の喉笛を切り裂く血染めの指と、帝から取り上げた鷹を愛でる白指が同じであることが、たまらなく魅惑的に思えました。どんなに気高い鷹よりも美しい孤高のひとは、たとえ地の果てまで探しても、この方のほかには見つからないでしょう。そのことに思い至った途端、私は身を捨てる覚悟で懇願せずにはいられなかったのです。おそばでお仕えさせてくださいと」
宏渓は深くため息をついた。六花は、鷹匠に尋ねる。
「それで、〈花嫁〉のほうはおぬしを臣下として認めたというのか?」
「ええ。それもまた、夫人の酔狂だったのでしょう。あの方が気まぐれに起こす、きらびやかでおぞましい怪異を見るとき、私の心はどんなにか躍ったことでしょう。こんな想いが、異様であることは百も承知ですが」
宏渓は、黙ってどんぐり眼をぐりぐりさせている霍広に目を向けた。
「霍将軍は、再びこの城に舞い戻ってきてしまったのですね。せっかく助けて差し上げたのに」
「呪いをかけられて身動きの取れない拙者を、この城から連れ出してくれたことには感謝している。しかし、なぜ貴殿がそんなことをしたのか、それがわからない」
宏渓は、ひげの伸びた頰をゆがませた。杜陽は、それが笑みだと気づいて、痛ましい気持ちを抱いた。杜陽の知る叔父は、そんな笑い方をする人ではなかった。もっと快活な笑顔を浮かべる人だったはずだ。
「命を捨ててでも主人に尽くそうとする霍将軍の思いに、共感を覚えたからですよ。さて、永安ではそろそろ日が沈みます。我が主人も、六花姫の到着を待ちかねていることでしょう」
宏渓は、天呪閣の最上階へと一行をいざなった。
鷹匠に案内されて一同がやってきたのは、自然の崖に囲まれた浅い湖だった。
不思議にも六角中の形に結晶化した岩が密集して構成している崖を、白く細い滝が流れ落ちる。四方の崖を滴る幾筋もの滝が、澄んだ湖を作り上げている。竜がそこここの岩陰でうごめいているかのように、足元に溜まった水は絶えず揺れていた。
頭上は一面の星空だが、星々の様子はどこか奇妙である。金や青に光る星は、狂った歌をらあらあと合唱しているように見えるのだ。星々のぎらぎらした輝きが、眼下の湖の水音と響きあい脈動する。ずっと見上げていると、それぞれの星の持つ光の輪がぐんぐんと広がって自分を飲み込んでしまうような錯覚に陥るので、杜陽は慌てて視線を下に戻した。
崖が深くくぼんだところに、紫水晶の大きな結晶を削った玉座が据えられていて、そこに〈花嫁〉が腰かけていた。
宏渓がかしこまって、
「六花姫とお連れの皆さまです」
と告げる。
湖を渡って近づいてくる六花たちを、〈花嫁〉は座ったまま出迎えた。
天呪閣の主は、ゆったりと広がる真紅の衣の上に、小さな金剛石を編み込んだ鎧を身につけている。深くかぶる兜の額には、卵形の水晶が輝いていた。豪奢な兜に隠れた顔の上半分の造作はうかがえない。
〈花嫁〉に近づいた杜陽は、その玉座の下の水面が持ち上がったように見えて、ぎょっとした。淀みに身を沈ませていた銀の毛を持つ一角の獣が、主人を守るために頭をもたげたのだ。
冷たい水に衣を濡らして立つ六花一行に、〈花嫁〉は玉座から妖艶な笑みを送った。
「大夏の皇帝は、約束を守る男のようだな。ちょうどいま日が沈んだところだ」
「きさまの脅しに屈するほど怯懦な性格であるだけだ」
臆する気配を微塵も見せずに言い返した幼い姫君を、〈花嫁〉は興味深そうに見下ろした。
「敵の牙城の中心にあって、恐れる様子が一片もないとは。そのかわいらしい顔を早く恐怖にゆがませてやりたいものだ」
〈花嫁〉の笑い声に合わせて、四方の崖の上の闇に、蛍のような光がぽつぽつと浮かび上がった。瞬く間に数十も灯ったその光は、〈花嫁〉の眷属の魔物の目であるらしい。
兵士たちが、少しざわついた。しかし六花は、逃げる隙もなく魔物に包囲されても、一向に平気な顔をしている。危機的状況にあっては、六花がこの上なく安心を与えてくれる主人であることを、杜陽も認めない訳にはいかなかった。兵士たちも、六花の沈着ぶりを見て、再び落ち着きを取り戻す。
「その傲然たる態度も、背後に味方の軍勢が控えていればこそなのであろう?」
六花の命知らずな挑発に、杜陽は心臓をでんぐり返しさせた。〈花嫁〉の声の温度が、心持ち下がったようだ。
「われの自信が、烏合の手下どもなどから生まれたものだと、本当に思うか?」
暗い湖が波立って、玉座の下の一角の獣が、銀の毛を逆立てた。
「お前はおとなしくその首を献上するつもりがあるのか? ないのであれば、何が目的だ」
六花は冷たく微笑み、小首を傾げた。
「余と勝負をしないか、魔物の王よ。実の娘を献上させることで、帝の威信をへし折るという目的は十分果たされただろう。余ときさまで一騎討ちをしようではないか。お互いに一度ずつ矢を射って、見事相手の差し出す的に当てたほうが勝ちだ」
「ほう、面白そうだ。して、お前の差し出す的は?」
六花は手を動かして、それを指し示した。
「無論、この六花の首だ。その代わりに、きさまには夫である生首を差し出してもらおう」
〈花嫁〉は甲高い声で笑い出した。笑い声は四方の壁に反響して、六花一行を取り巻いた。
「いいだろう。その勝負のった」
「さすがは、大夏の皇帝も意のままに御する魔物の王だ」
続いて、姫君は思わぬことを言って味方の肝を冷やした。
「それでは、きさまから矢を射るがよかろう」
〈花嫁〉はぴたりと動きを止めた。
「よいのか? われは相手が幼いからといって容赦はせぬぞ。後悔するな」
「余に二言はない」
警告にも六花が意志を変えないのを見て取ると、〈花嫁〉は声高に命令した。
「弓と矢を持て。それから、旦那さまをお連れせよ」
はっ、と宏渓が頭を下げた。
杜陽は、血相を変えて六花に詰め寄る。
「向こうから先に射させるなんて、なに考えてるんですか。こちらが先攻ならまだ勝算もあるでしょうに!」
「うるさいうるさい。流れ矢が当たるかもしれぬから、おぬしらは離れていろ」
六花は、虫を追い払うように手を振る。
宏渓が、例の生首を〈花嫁〉に捧げた。杜陽は、生首を食い入るように見る。
霍広に聞いていたとおり、男の生首には腐敗の影もなく、まだ胴体の上に乗っているかのようだった。〈花嫁〉が鬼になってまで執着するのだからどんな美男子かと思えば、多少鼻筋が通ってはいるが、まずまず平凡な顔立ちである。
その首を大事そうに抱いて、〈花嫁〉は頬ずりをした。
「ああ、憎くて愛しいわれの旦那さま。お前さまの前には、常に四海の宝を並べてあげましょう。もうすぐ麗しき皇女の首が手に入ります、やれ嬉しや」
「その首と戯れていられる時間ももう終わる。いまのうちにたっぷり名残を惜しんでおけ」
六花が冷笑的に言うと、〈花嫁〉は首を膝に置いて、紅をふんだんに塗った唇を釣り上げた。
「この期に及んで、かような減らず口を叩いていられるとはたいしたものだ。われに濡れ衣を着せて、三人の妃を惨殺しただけのことはある」
「それを知られているとなれば、ますますきさまを生かしておくわけにはいかなくなった」
六花は、玉座からもう少し離れると、〈花嫁〉を曇りのない瞳で見据えて、立ち止まった。
「余は逃げも隠れもせぬ。その穢らわしき目で狙いを定められるものなら、過たず余の首を射抜いてみよ」
〈花嫁〉は男の首を宏渓に渡し、代わりに弓と矢を受け取った。そしておもむろに玉座から立ち上がると、目深にかぶった金色の兜をそろそろと上げ始めた。
杜陽は、〈花嫁〉の口から上を初めて目に入れた。気品のある鼻、そして両眼。杜陽は、これまで見なかったことに感謝し、もう二度と目にしないで済むようにと神に祈った。
眼球のあるべきところは両方とも虚ろになっており、その中では赤黒いじゅるじゅるしたものが、煮立った羹をかき混ぜるように回っているのだった。
華やかな装いをした化け物は、真紅の唇をぱっくりと開けた。
「二つの目玉を代償に、人を離れた力を手に入れた。われは愛しきお方の命を手に入れ、憎き雌犬に罰をくれてやった。すると今度は、旦那さまの首が、われの力の源泉となった……」
「それ以上一人語りが続くようなら、余の合図に合わせて矢を放ってもらおうか」
六花が袖で口元を覆い、わざとらしくあくびをする。〈花嫁〉は唇を曲げて、「よかろう」と言った。
杜陽は、六花の挑発的な物言いが、いつ〈花嫁〉の逆鱗に触れるかと思って生きた心地もしない。
「目はこのようであっても、的をはずしてやったりはせぬぞ」
〈花嫁〉は、六花と付き従う者たちの恐怖をあおるように言って、弓を持った腕を持ち上げた。
「ここで六花を討ちもらしたとなれば、永安じゅうの笑い草だ。その眼病に犯された目で、よくよく狙いをつけるがいい」
そう言って六花は、手で胸を押さえた。
「おや? そなたの鉄のごとき心臓も、ようやく恐怖に躍りはじめたか?」
しかし杜陽は気づいた。六花がきつく押さえつけている胸元が、膨らんで動いている。まるで、衣の下に鞠くらいの大きさの何かが生まれて、いまにも飛び立とうとして暴れているように見える。
〈花嫁〉もそのことに気づいた。
「宏渓、お前は、大夏皇帝の一族を守護する神鷹のことを語ったことがあったな」
「はい」
「北方の蛮族であった大夏の王を、この中原の地に導いた大きな鷹は、真白に輝く翼を持っていたという。大夏の皇帝はいまでも、宮中の奥の秘密の庭に、清めた竿を立てて祀り、国家危亡の際には、神鷹が天より再び舞い降りてくると信じておるそうだな」
「そのとおりですが、しかし、まさか……」
〈花嫁〉は、矢の照準を六花の首から胸へと下げた。
「小さき身をあふれんばかりの才気で満たしたこの姫になら、天も力を貸したもうな。定まった姿を持たぬ神の使いであれば、衣の中に隠れることもできるであろう」
六花の胸元は、もはや言い逃れられないほど盛り上がって、上下に動いている。杜陽は冷や汗を流した。杜陽に明かされなかった六花の最後の一手とは、神鷹だったのだろうか。しかしそれは、有効な攻撃を与える前に、敵に露見してしまった。
六花の表情は動かない。だが、つい先ほどまで浮かべていた余裕の笑みは、鳴りを潜めていた。
六花は、そのふっくりとした唇を開いて、ただ一言だけ告げた。
「いざ勝負」
〈花嫁〉の弓がきりきりと引き絞られた。眼球のえぐり取られた眼窩で、赤と黒の液体が恐ろしいほど速く渦を巻く。
そのとき、六花が胸を押さえていた手をぱっと放した。すぐに衣の合わせ目から、何か白いものがまっすぐ上に舞い上がる。飛び出してきた神鷹の先手を打とうとしたのだろう、〈花嫁〉の矢先が、白く輝く塊を追って宙を裂いた。
ぎゃあ。
高い断末魔の悲鳴が上がり、白い塊は六花の足元に飛沫をあげて落ちた。見れば、美しい鷹が、白銀の胸を朱に染めて絶命している。矢の先端が、体の反対側から飛び出していた。
〈花嫁〉は高く笑った。
「そなたの奉じる神の使いは、役に立たなかったぞ。もうどうすることもできまい」
「はずしたな」
神鷹をあっけなく倒されて落胆するかと思いきや、六花はその唇に再び笑みを取り戻していた。
杜陽はあっと叫ぶ。六花の足元に沈んでいた鷹が溶け去ったかと思うと、そこには六花お気に入りの扇が矢で中心を裂かれて、波間に揺られていたのだ。杜陽の後ろで楽斉が、低い声でまじないを唱えて手をぽん、と打った直後のことである。
六花は背負っていた弓を手にし、流れるような手つきで矢をつがえた。
「おかしな考えに惑わされず、そのまま余を斃しておればよかったのだ。余が、敵を仕留めるために気まぐれな天を頼りにするわけがあるまい。そなたはいもしない神鷹を射止めようとして、貴重な一矢を無駄にしたのだ。勝負はまだ続いておるぞ」
六花は水の中に足を広げて立ち、矢先を〈花嫁〉の傍らの生首に向けて、弦から手を放そうとした。
「おのれ、謀ったな! 旦那さまを傷つけることは誰にも許さん! 」
〈花嫁〉が歯ぎしりをすると、鋭い牙が四本、唇の外に見えた。空気がぴりぴりと感電するのを感じる。足元の水が、ざわざわと不穏な波を立てた。
「大夏帝国の六花よ、石になれ! 魔法を使うことなく、三つの駝鳥の卵を一度に持つ者が汝の前に現れるまで!」
〈花嫁〉がひらめく雷鳴のごとく叫んだ途端、六花の足元の水面が盛り上がり、あっという間に六花を包み隠した。
水が引いたときには、六花の小さな体は、弓を放つ寸前の体勢のまま、石と成り果てていた。
「姫さま!」
班仲が驚いて叫んだ。杜陽は立ちすくむ。霍広はうめき、兵士たちが大きくどよめく。楽斉までもが、目を大きく見開き凍りついていた。
しかし、誰もその絶望の度合いでは、翠薫にかなうものはなかった。
幼い主人が色のない石像に変えられる場面を目にして、翠薫は悲愴な声で「姫さま……!」と叫んだ。
翠薫が石像にすがりつく。生命のない硬さと冷たさを肌に感じて、血を吐くように「ああ……っ」と悲鳴を漏らした。娘の絶望的な叫び声を聞いて、周りの者は、姫君がもはや帰らぬ人となったことを痛感したのだった。
第八章 落花の風 に続く