第4話:「秘密」
インターホンに映る、薄桃色の唇。その唇が、芋虫のごとく蠢いた。
「松添くん、お見舞いに来たよ」
奇妙な蠢きとは裏腹に、清涼な少女の声が鼓膜を叩く。
俺は、ようやっと自我を取り戻した。
熱を帯びた脳内で、少女の言葉を再生する。
お見舞い……? 何のことだ!?
少女の言葉を正確に分析・処理する。
「だって、松添くんは今日学校をお休みしたじゃない。松添くんの友達として、今日はお見舞いに来てあげたんだよ」
何を寝ぼけているの、と困惑したような声。
俺が、休み……?
怪我でもしたのか?
自身の体をまさぐる俺。
しかし、特に異常は見られない。
じゃあ、風邪か……?
いや、これもおそらく違う。
目蓋の重さで頭はふらつくが、体調には異常はない。
じゃあ、何だろう……?
突如、何かが、脳内でピーンと張った。
まさかっ……!?
俺は、背後のリビングルームへと取って返した。
リビングは散らかり放題だった。
床は無数の雑誌や洗濯物で埋まり、中央のテーブルは、おそらく兄貴の使いかけらしいコップや皿で敷き詰められ、隅の、本来ならノートパソコンを設置しておく小さな台の上には、ここ1か月分くらいの生々しい新聞紙の大群が、どっさりとパソコンを押しつぶすように積み上げられていた。
室内は鼻を突くような異臭は勿論のこと、さらには視界不良で、新種の蟲が発生しそうな空間を存分に醸し出していた。
が、こんな状態で数年も暮らしていたので、もう慣れた。
あらゆる物体をドカドカと手や足で跳ね除け、部屋の中央に足を踏み入れた。
そして、真正面の白い壁にかろうじて張り付いている時計に目をやる。
時刻は3時。
時計の下の窓にはレースのカーテンを透過して、艶やかな金色の空が広がっている。
つまり、昼間。
何ということだ……。
俺たちはあのまま、20時間近くも睡眠していたのか……!!
なるほど、杏奈の言う「お見舞い」の意味をようやく理解できた。
つまり、寝てて学校を休んでいたのか、俺は。
それは、心配にもなるよな……。
ホッと胸を撫で下ろそうとしたその時、
「あーあ、こんなに散らかしちゃって」
突如、落胆の声が俺の背中にへばりついた。
「うわあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?」
まるで、氷のように冷たい手で背中をまさぐられたような感覚に襲われた。
振り返ると、背後には、いつの間に侵入したのか、杏奈が目をまん丸にして立ち尽くしていた。
「定期的に掃除しないとダメだよ、松添くん。キミは掃除の仕方もわからないのかな? そんな悩めるキミに私が直接指導してあげようか?」
「お、お前。いつの間に……?」
何故か、体がビクビクと震える。
恐怖の波が途切れていない。
「だってえ、鍵がかかってなかったんだもん。仕方ないよ」
「だからってお前なあ……」
と、俺は頬が紅潮するのを感じた。頬が妙に熱っぽい。ホワホワと浮かんでいるようだ。
まさか、こんな恥ずかしい一面を杏奈に見られてしまうとは!
これは松添浩二、一生の不覚だっ!!
ああ……っ。
俺はがっくりとうなだれるしかなかった。
心臓にズッシリと重い何かが圧し掛かった。
「じゃあ、お片づけしよう」
杏奈がズカズカとリビング内を歩き回り始めた。
いつのまにか杏奈は桃色のスリッパを両足に装備していた。
かわいらしいスリッパで、床に転がる雑誌の大群を残酷に踏みつけていく。
すぐさま、杏奈はパソコンをいじめている新聞紙の束の処分に取り掛かった。
杏奈が黙々と作業を開始したので、俺もハッと我に帰った。
主である俺が黙って突っ立っているわけにいかない。
俺は乗り気ではなかったが、テーブルの上の薄汚い食器を片付けることにした。
しばらく、部屋の中を漁る音だけが響いた。
時折、その音が二重の旋律になっては片方が消え、なっては消え、を繰り返していた。
紙をこするような音。
ビニールを引きずるような音……。
そういった優しい音が、わずか5畳のリビング内にこだましていた。
いつの間に日が暮れてしまったのだろうか。
洗濯物を取り終え、軽く息をついたところで庭先の空に視線を向けた。
空は、紅と橙をフィンガーペインティングで強引に織り交ぜるような風景に変わっていた。
夕暮れだ。
雲1つない。
思わず、目を閉じる。
どこからともなく、風鈴のみずみずしい鳴き声が心に染み入る。
豆腐屋のラッパの音が割って入った。
そして、庭先の……
「ああー!」
突如、リビングから杏奈が素っ頓狂な声を上げた。
俺は危うくよろけて洗濯物を庭先にばら撒きそうになった。
何事……??
俺は玄関に洗濯物を放り、リビングに足を急がせた。
オレンジに染まる廊下を介し、リビング内に飛び込んだ。
「どうした? 杏……」
扉を開けてまず目に飛び込んできたのは、仰天するほど綺麗になったリビングだった。
床には濃い緑の絨毯がその姿を現した。
床の洗濯物も雑誌も、跡形もなくその姿を消してしまっている。
台の上ではノートパソコンが嬉しそうに電源を入れ、テーブルの上では造花と白いクロスだけが微笑んでいる。
す、すごい……!!
正直にそう思った。
ここが……俺の家なんだ!?
本当に、これが!?
心が清々しくなる中、俺はようやく、テーブルの傍らに突っ立っている杏奈に視線が行った。
そういえば、何事だったんだ!?
視線の先の杏奈の手には1枚のDVDが収まっていた。
当の杏奈は、オレンジの光を背に受けながら嫌らしい笑みを浮かべている。
その表紙にはグラビアアイドルのセクシーな肢体が印刷されてあったのだ!?
「いやあ、松添君も立派な男の子なんだねえ」
「な、ち、違う!それは兄貴の……」
俺は顔を真っ赤にして拒絶した。
鼓動のリズムが速まる。
おいおいおいおい……っ!!
杏奈の脳裏に植えつけられたであろう、俺に対する印象……。
片付けられない。
ムッツリ。
これじゃ、杏奈の俺に対する評価がガタ落ちするじゃないか……。
勘弁してくれよ……兄貴。
しかし、杏奈の反応は俺の想定外の反応だった。
「え?? 松添くんってお兄さんがいるの?」
不意に背筋が凍りついた。
顔面が蒼白になりゆくのを感じた。
鼓動が停止するのを感じた。
しまった……!!
馬鹿か、俺は……。
確かにDVDは兄貴の所有物なのだが、墓穴を掘ってしまった。
このままではまずい……!
何とかして回避しなければ、兄貴は杏奈に……。
いや、待てよ……。
杏奈は俺に兄貴がいることさえ知らなかったのだから、当然兄貴が20歳以上だという事実を知らない。
となれば、ここはとりあえず年齢をごまかしておくしかないな……。
よし……!!
「あ……ああ、ふ、2つ上の、兄貴がいるんだよ……ハハ」
「ふーん、そうなんだ。私、松添くんのお兄さんに会ってみたいなあ。ねえね、会えないかな?」
「え……。いや、あの」
悪意の見えない笑顔が迫ってくる。
何なんだよ……こいつは!!
ちくしょう。
何てしつこい奴だ……。
くそう……!!
こうなったら、話を変えてやるぅ……。
「あ、あのさ、それはともかく、杏奈は兄弟はいないのか?」
「え? 萌ちゃんがいるよ」
杏奈はきょとんとした表情で答えた。
萌ちゃんというのは、杏奈の双子の姉の萌奈である。
容姿が異常なくらいに似ているため、担任の教師や友人でさえ2人をよく間違える。
以前、担任が杏奈を職員室に呼び出した時に、職員室付近の廊下をふらついていた萌奈が捕まってしまい、杏奈の代わりに萌奈が1時間近く説教を受けるという、可笑しな出来事があったくらいだ。
「ああ……そ、そうだったな! ハハハ……」
「それよりもさ、松添くん。お兄さんはどこの高校に通ってるのかな? ウチの高校には来てないよね?」
「う……」
高校?
行ってるわけないだろ。
兄貴はとっくの昔に卒業してしまった。
くそ……。
落ち着け、浩二。
落ち着くんだ。
冷静に考えろ……。
冷静に。
どうすれば杏奈が諦めて帰ってくれるか、を考えろ。
「ねえ? 松添くん?」
急かすように、杏奈が甘い表情で俺に迫ってくる。
うう……。
もう嫌だ……。
ちくしょう。
もう、やけくそだ!!
「ん? ああ、あ、兄貴の高校か……? 兄貴はな、隣町の高校に行ってるんだ。今日はぶ、部活があるから帰りは、そうだな……。8時、いや、く、9時くらいになるらしいぞ」
「へえ……そうなんだ。残念」
杏奈はしょげたような表情に沈んだ。
ふう……。
これで杏奈の奴も諦めて帰ってくれることだろう。
杏奈のこんな元気のない顔は見たくなかったが、仕方ない。
これで杏奈も兄貴も救えるなら、安いもんだ。
思わず頬が緩む。
助かった…。
解放感に涙が溢れそうになる。
妙な達成感に心が晴れ晴れとしていた時だった。
ガタッ!!
突如、真っ白な天井から何かが倒れこんだような物音が響き渡った。
蛍光灯のヒモがグラグラと微かに揺れ始めた。
再び訪れる、静寂。
俺の心臓が再びアクセル全開になった。
おいおいおいおい……!!
おそらく物音の根源は兄貴だ。
どうせ、持ち前の寝相の悪さでぶつかったんだ……!!
兄貴……!!
せっかくアンタを助けようと必死になっていたのに、これじゃ元も子もないだろ!!
再び、顔面蒼白。
鼓動がトランポリンのごとく跳ね上がる。
まずい……。まずい……。まずい……!!
どうしよう?
どうすれば……?
「ねえ、松添くん……。……上に誰かいるの?」
ドクン。
不意に目の前の殺人鬼が、おそらく悪気のない笑顔で尋ねてきた。