第3話:「反逆」
「……」
蒼ざめた乳白色の壁。淡く光る木の床の上に、熱湯を注いだばかりのカップラーメンが2つ。俺は、その傍らで壁に背を預けている。カップのパッケージに視線を落としながら。
甘辛い味噌の香りが、俺の鼻腔を刺激する。
その度に、お腹がきゅっと陥没する。
「ハア……」
零れる溜息。
脱力感。
脳の電気信号を拒み続ける体。
動きたくない……。
動かさないでください……。
重たく被さっていた唇が、ようやくピクリと動いた。
「兄貴、飯」
俺は、正面のクローゼットにとげとげしい口調でつぶやいた。
返答はない。
しかし、物音1つないこの部屋には、俺以外にもう1人の家族がいた。
ギギィーーーーーーーー!!
ややあって、クローゼットが軋むような音を立てて開かれた。
クローゼットの中から、にゅっと大根のように太い足が姿を現した。
続いて、漂流民のような男がのそりと姿を現した。
男は、脂ぎった海草のような黒髪を振り乱し、毛糸のようなモジャモジャとした黒髭。太い二の腕と足を装着し、指先には黄色く伸びた不潔な爪。分厚い肩の上では、不細工なゴキブリが触角を蠢かせていた。
それだけではなかった。
漂流民の登場で、何とも言えぬツーンとした異臭が立ち込めてきた。
汗臭いような、生ゴミのような、アンモニアのような。強烈な異臭が鼻腔を襲撃した。鼻が息を吸うことを拒んでいる。
俺は、鼻をかばって悶絶した。
「兄貴……風呂くらい入れよ!」
鼻声交じりの悲痛な叫び。
漂流民は、ひ弱な笑みを浮かべた。
「……ん。そうだな……」
漂流民は照れ隠しにか、頭をボリボリと掻いた。
途端に、脂ぎった髪の毛の間から、茶色い固形物がボロボロと零れ落ちた。
どうやら“ふけ”のようだ。
……。
汚らしい光景に、言葉を失う俺。
俺は、漂流民にぬるくなったカップラーメンを差し出した。
やがて、部屋の中は、湿った麺を啜る音だけが支配した。
傍らの漂流民も俺も、それきり言葉を生産することなく、目の前のカップを空にすることだけに集中した。
しばらくして、すっかり空になったカップを傍らに放り、俺たちは各々冷たい床の上に寝そべった。固く冷たい感触が腕や足を包み込んだ。
蒼ざめた部屋。
縞模様のカーテンが夜風に踊っている。
涼しい。
体が浮かぶような感覚。
見事な催眠術だ。
目蓋がズシリと重くのしかかる。
欠伸を1つ。
涙が滲む。
「学校はどうだ?浩二」
突如、兄貴の低い声。
俺は、首を兄貴に向けた。
お腹をポンと突き出した兄貴が、力なく寝そべっていた。まるで、猟銃で撃ち殺された熊のようだ。
俺は、首を戻して言った。
「学校かあ……。怖いなあ」
「怖いなら、やめちまえばいい」
「いや、いい年こいて兄貴と1日中、家にいるのはどうかと思うぞ」
「それもそうだ」
再び、静寂が部屋を支配する。
相変わらず、蒼ざめた乳白色の天井。
やがて、甲高いいびきが鼓膜を叩きはじめた。
おかげさまで、目蓋の重圧が消えた。
再び、首を兄貴に向ける。
案の定、兄貴は、内臓脂肪でポンと突き出たお腹を何度もバウンドさせていた。
兄貴、寝たのか……。
再び、蒼ざめた乳白色の天井。
眠れない……。
どうしよう……。
寝返りをうつ俺。
悶える俺。
そして、気がつけば、“あの時”のことについて脳ミソは思考を開始していた。
あの時……。
乳母車の絶叫を掻き消すかのように、高らかに唸りながら到着した救急車。
紅いサイレンが、グルグルと旋回している。
その救急車から、ダボダボの白衣を身に着けた「子供」たちが、次々に飛び出してきた。
「どいてください!患者はどこですか?」
数名の救急隊が、俺を睨みつけていた群衆を掻き分けるようにして、輪の中に飛び込んできた。
そして、立ち尽くしたままの俺と杏奈の脇をすり抜け、鮮やかな紅い花の中心に寝そべる女性の元へ……。
救急隊は、その鮮やかな光景を目の当たりにし、ウッと唸った。
「心肺停止してます! 早く担架!」
「担架なんて要りませんよ」
突如、杏奈が押し殺したような声でつぶやいた。俯く杏奈。杏奈の表情は、窺えなかった。
言葉にならない怖気が、俺の背筋を凍らせた。
不意に、動きを奪われた周囲。隊員たち。
張り詰めた空気が充満する。
緊張感が充満する。
と、担架を運んできた隊員たちが、その異様な空気を感じ取ったようだ。おそるおそる尋ねる隊員。
「どうし、たんですか……?」
「担架はいらない」
杏奈は、ギリッとその隊員を睨みつけた。
隊員の表情が、急速に蒼ざめる。
隊員たちは、呆気に取られたような表情で、杏奈に視線を送る。
再び、俯く杏奈。
緊張感ではなく、恐怖が充満する周囲。
そして、桃色のかわいらしい唇から零れ出る、残虐な言葉。
「この人は“子ども”じゃありませんから。死ねばいい」
周囲の空気は、より一層凍りついた。
誰一人、動こうと試みる者はいない。
止まった空気。
止まった時間。
俺は、思考を開始する。
本当に“こいつ”は、あの杏奈なのか……?
それとも、“こいつ”こそが本物の杏奈なのか……?
獣のような眼。地を這うような低い声。
……。
いや、そんなことよりもっ!!
俺は、硬直しきった救急隊員たちに目で訴えることにした。
早く行けよっ!!
この人、死んじゃうじゃねえかっ!!
死んじゃったらどうすんだよっ!?
早く、早く連れて行けよ……!!
脳内に溢れ出す言葉が、互いに混ざり合い、暴れている。
鼓動も、荒波のごとく暴れている。
冷や汗が頬を伝う。
一体、どれくらいの時間、経過しただろうか。
このまま、朝日を拝むことを覚悟していた俺だったが、突如、救急隊員がゆっくりと動き出したのだ。
隊員たちの表情に、紅い斜光が被さった。
ホッ……。
これでようやく、この女性は助かる……。
助かった……。
俺は胸を撫で下ろした。
収束に向かう鼓動の嵐。
多少の安堵感を覚えた。
まだまだ、この世界は、“子供だけの世界”ってやつに染まりきっていない。
さすがに、命の灯が消えかけた患者を目の当たりにすれば、いくら患者が大人だからって見捨てるような連中ではないだろう。
そのために、救急隊がいるわけだし。
よかった……。
しかし、救急隊員の言葉に、俺は言葉を失った。
「あ、そうですか。それでは帰りましょう。撤収! 撤収!」
え……?
い、今、こいつら何て……?
何て、言った……?
俺の中で、何かが音を立てて崩れた。
鼓動が蠢き出す。
鼓動の嵐。
隊員たち、いや、“子供”たちはぞろぞろと引き揚げていく。何だよ、誤報かぁと愚痴を零している。舌打ちしている。
俺にのしかかる絶望。
心が砕け散るような感覚。
誤報……って何だよ?
俺がいつ誤報をしたよ?
今にも消えかかりそうな、女性の命を救わないのかよ?
大人なら、死んで当然なのかよ?
脳内に渦巻く疑問符の嵐。
脳が割れそうなくらい、膨れ上がる。
しかし、救急車は、いつの間にか橙色の空へと吸い込まれていった……。
正直、ショックだった。
それを、今の今まで引きずっている。
しかし、世界は確実にその色を濃くしている。
“大人”が生きることの出来ない世界へと。“子供”だけしか生きられない世界へと。
……信じられない。
信じたくないっ!!
そんな世界のどこがいいのかっ!?
被害者が“大人”なら、殺人も許されるのかっ!?
おかしいだろ……。
絶望。
もう、言葉にならないほどに、悔しい。
俺は、結局何もできない……。
この世界に、飲み込まれていくしかできないのだろうか?
この世界に、飲み込まれていく様を、指を咥えて見ていることしかできないのだろうか……?
……いや、そんなことは許されない。
実は、俺の兄貴・一雄は“大人”だった。
今年で23歳。
現在は、世間に全く顔を出さずに、この家の2階に隠れ潜んでいる。
外をフラつけば、夕方のような惨劇を引き起こしかねないからだ。
しかし、最近は、全ての行動に対して嫌気が差してしまったらしい。最低限の食事は取るが、風呂に入ることをしなくなった。最近は、トイレさえ怪しい。クローゼットの中に排泄物を溜め込んでいるのではないか、という疑惑さえある。
ここまでヒドイ風貌と性格であるとは言え、俺にとっては、大切な家族。弟として、兄貴に長生きして欲しい、という気持ちには変わりない。だからこそ、俺がしっかりと面倒を見なくてはならないのだ。
だからこそ、“子供だけの世界”に飲み込まれるわけにはいかないのだ。指を咥えて見ているわけにはいかないのだ。
そして、いつかは……、
ガタンッ!!
突然の破裂音に、背筋がビクッと痙攣した。
再び、首を漂流民に向ける。
どうやら、寝相の悪い漂流民が壁に激突したらしい。
脂ぎった毛糸を振り乱した漂流民が、壁に抱きつくようにして静止している。
何だよ……全く。
再び、蒼ざめた乳白色の天井。
思わず、笑みがこぼれる。
少し、安堵感を覚えた。
景色が、闇の中にゆっくりと閉ざされた。
……ポーン。
彼方から響く、呼び鈴。
…ンポーン。
次第に、軽やかな音色が接近してくる。
突如、明るい乳白色の天井が、視界に飛び込んできた。
起き上がる。
縞模様のカーテンが風に揺れている。
カーテンの奥には、燦々と太陽光が降り注いでいた。
一体、どれくらい寝ていたんだろう……?
伸びをする。
相変わらず、漂流民の大いびきが心臓に響く。
ピンポーン。
突如、乾いた呼び鈴の音が、漂流民の轟音に割り込んだ。
「はーい」
あっ、そういえば、さっきの音は呼び鈴だったのか……。
お客さん……。
俺は、ドカドカと階段を降りていった。
漂流民の轟音が響く2階とはうって変わって静寂に包まれた1階。
俺は、すぐさまインターホンに駆け寄った。
画面に映し出されたのは……。
不気味な微笑を浮かべた“殺人鬼”だった。その手には、血液を浴びせたように紅いバラの花束があった。
背筋をなぞる寒気。
回想を促される。
獣のような眼。
緑色にまどろんだ殺人鬼の笑顔。
うっ……。
突如、血の気が失せていくような感覚。
フラフラとふらつく脳みそ。
キモチワルイ……。
「松添くん、お見舞いに来たよ」