第2話:「現象」
整然と立ち並ぶ、高層の本棚。真紅の絨毯の上に広がる、劣化しかけた新聞紙の山。
膝元の新聞記事に目を落としている俺を取り囲む。
そこは、時間と空気を締め付けるかのような、息苦しい空間。
長時間、同じ姿勢を保っていたためか、腕や首が鉛のように重たい。
俺は、ゆっくりと宙を仰いだ。
目を閉じて、呼吸に意識を集中させる。
生温い空気が、気管支をくぐり抜ける。
家に帰る前に、どうしても調べたいことがあった。ごねる杏奈をさっさと帰らせ、俺は単身でこの図書館に乗り込んだのだ。
目蓋を開く。
視線の先には、3階部分へと吹き抜けるガラス窓。
ガラス窓の奥には、淡い橙色をこぼした空が広がっていた。
空を突き刺すアンテナには、黒光りした薄汚い鴉が羽を休めている。
時折、俺を挑発するかのように、ヌメヌメとしたどす黒いくちばしで、ガラス窓をカツカツと突く。
バァーバァーと汚く鳴き荒れる。
……不快だ。
俺は、膝の上の新聞記事に視線を戻した。
「無罪か……」
俺は、誰ともなしにつぶやいた。
その新聞記事は、4年前の朝刊であった。
さて、俺が調べたかったこととは、最近、日本中を震撼させている不可解な社会現象のことだった。
それは、「子供」たちによって「大人」たちが次々に殺されているという、奇妙で信じ難い現象であった。
その発端となったと言うべき事件の裁判の判決結果が、今から4年前に下されていたのだ。
この事件は、元々5年前に起こった普通の少年(15)による、過去の事件を見ても何ら変哲のない、残忍な両親殺害事件であった。
そして、過去の判例を見ても、多くの者が重刑を科したほうが良いという意見を持っていた。
しかし、1年経過後の判決は、何故か「無罪」。
まさに信じ難い結果であった。
日本中が騒然となったことは言うまでもない。
なんでも精神鑑定の結果、犯人の少年は、犯行時に何らかの催眠をかけられて極度の精神衰弱状態に陥っていたらしかった。
このことが科学的に立証され、ついには無罪という裁判官にとっても納得しがたい、苦渋の判決を言い渡すほかなかった、と実際に裁判に関わった石渡裁判長がコメントしている。
その後も、類似した両親殺害事件が後を絶たずに頻発した。
そして、多くの者たちがその少年に従うかのように、自らの両親を殺害し、同じような経緯で無罪判決を言い渡されていったのだった。
気がつけば、周りには20歳以上の人間、世間で言うところの「大人」はこの世から姿を消していた。
それが、今現在の「子供しか存在してはいけない社会」へと変貌し、強くこの国の概念として根付いたのだ。
そして、歴史は今日へと至る。
おそらく、今朝の男も20歳以上の「大人」である、という短絡的な理由で殺害されたのだろう。
「子供」だけしか存在しないこの世の中では、裁判など高度な議論を行えるはずもない。だから、真犯人であるクラスの殺人鬼共は、無罪になるに決まっているのだ。いや、無罪どころか起訴さえされないに違いない。被害者が「大人」であれば、裁判の対象にならないからだ。この世界では、「大人」に人権が与えられていないのだ。
新聞紙を握る手がガタガタと振動している。
頭に血が逆流する。
血走る両目。
歯軋りが止まらない。
「ありえねえ……」
許せない……こんなこと。
こんなことが、許されてたまるかっ!!
俺は新聞記事を本棚に叩きつけ、図書館を後にした。
雨はすっかり上がっていた。
艶やかな赤い空が広がる。
木々たちも、赤い斜光を浴びながら、優雅に体を揺らしている。校庭に咲く無数の水溜まりが、その赤い斜光を反射させ、煌いている。
綺麗だ……。
俺は、軽やかな足取りで、水溜まりに支配された校庭を軽快に横切っていく。
さっきの怒りが嘘のようだ。
心が洗濯されるような、爽快な気分だ。
気持ち良い……。
なんて気持ち良いんだ……。
瞳を閉じる。
弾けるような泥水のメロディーと、ひぐらしの鳴き声とが絶妙に交じり合っている。心に染み入るような合唱。
どこからか清々しい涼風が湧き上がり、俺の髪の毛をなびかせる。
ああ……何と幸せな時間だろう。
まさに、これが俺の追い求めていたものだ……。
平穏な心を取り戻すために、自然に潤いを求める。
どうやら、これが俺の生きがいらしかった。
「松添くん!」
突如、背後からかわいらしい少女の声が、背中を突き刺す。
振り返った先には、杏奈が息を切らして立っていた。かわいらしい小さな肩が上下している。
「あれ? 杏奈?」
杏奈には帰るように促したというのに……。もしかして、今までずっと俺のことを待っていてくれたのだろうか。今まで……2時間以上も俺のことを待っていてくれたのだろうか。
「一緒に帰ろう」
「何だ……待っててくれたのか。何だか悪いな」
「そんなことないよ。私が勝手に待ってただけだもん」
杏奈は心をくすぐるような笑顔を浮かべると、俺と並んで一緒に歩き出した。
その、煌びやかな表情に橙の太陽光が降り注いで、異様なくらい眩しく感じられた。
くだらない世間話で談笑をしていたら、いつの間にか1階建ての小さな教会の前の道に行き着いていた。
ここは、町内でも有名な散歩の名所だ。
実際、日没前だというのに、多くの学生たちが教会前の石畳の道を行き交っている。
教会の敷地にはきちんと短く刈りとられた芝生が綺麗に立ち並んでおり、両脇には太い樹木が教会を堅固するようにピタリと張り付いていた。
教会の裏手には、大きな沼がある。時折、そこから風が発生し、樹木と水辺の香りを運んでくる。
「気持ちの良い場所だよね」
杏奈が瞳を閉じながらつぶやいた。
杏奈の前髪が、風にたなびいている。
ふと、甘い髪の毛の香りが鼻腔を刺激した。
「ああ、そうだな」
俺も頬を緩ませながら首肯した。
ここの、どことなく西洋を感じさせる雰囲気が、俺は大好きだった。
目を閉じる。
木々のざわめきに混じって、学生たちの声が咲く。
気持ち良い……。
やはり、自然に身をまかせるのって、気持ち良い……。
いつのまにか、俺の心と足は弾んでいた。
目を開くと、前方の交差点から乳母車を押した女性が近づいてくるのが映った。
女性は、桃色のハットに桃色のワンピースといったラフな格好をしていた。
時折、乳母車の中を覗いては何事か囁きながら、こちらに向かって歩を進めてくる。
ハットのつばが深いためか、顔までは窺えなかったが、相当な美人と見える。
女性は、ゆっくりと確実に俺たちの方へと近づいてきた。
女性の姿が、徐々に大きくなっていく。
しかし、すれ違いざまに俺は我が目を疑った。顔をしかめた。
幻覚……?
いや、そんなはずはない。
でも……。
え……?
杏奈が、鋭く女性の腕の中に割り込んでいった様子は見えた。
しかし、次の瞬間には、つばの下から覗く女性の表情が恐ろしく歪んでいた。
ややあって、女性の表情から力が抜けると、そのまま杏奈の胸の中に顔を埋めたのだっ!!
そして……女性の腹部から夥しい量の鮮血が滲み出てきた。
「……なっ!?」
俺は信じられない光景に言葉を失った。
頭が真っ白に塗りたくられるような感覚。
紅い液体は桃色のワンピースを伝い、古びたコンクリートの表面へと吸い寄せられた。
紅い水溜りを浮かべたワンピースの女性もまた、コンクリートの表面へと吸い寄せられた。
……無数の紅い花がコンクリートに咲いた。紅い花は、みるみると大きく成長していく。
刹那、乳母車の中から甲高い泣き声。
「ダアアアアアアアアアアアアアアアアアアアーーーーーッ!!」
壊れた大音量ラジオのように、泣き喚く乳母車。
俺はふと我に返った。戻ってくる五感。
気がつけば、目の前には、紅いソースを満遍なく塗りたくった殺人鬼の笑顔。そう、心をくすぐるような、紅い笑顔。
杏奈が……笑っている?
背筋をなぞる寒気。
血の気が一瞬にして失せていく。
鼓動の跳躍が肋骨を叩く。
頬を伝うのは、冷や汗。
嘘だ……。
こんなの、嘘だ……。
信じたくないっ!
こんな悲惨な光景をっ!!
と、殺人鬼の真っ赤な唇がぐにゃりと蠢いた。
「ごめんね、松添くん。時間取らせちゃったね。そろそろ帰ろ……」
「何やってんだあっ!?」
突如、頭が熱くなった。
肩を上下させている俺。
殺人鬼が、ビクッと肩を震わせたような気がした。
おっと、殺人鬼にかまっている余裕はない……。
助けなきゃっ!!
俺は、紅い花の中心に寝そべった女性の元に駆け寄った。紅い花は休むことなく、立派にすくすくと成長を続けていた。
タオルを鞄の中から取り出し、ちょっとかじった程度の応急手当をぎこちなく済ませる。
紅い蜜が両手にドッペリと付着した。
さらに、震える手つきで携帯電話のボタンを押し、救急車を手配した。しどろもどろになりながらも、場所を上手に伝える。
一連の様子を呆然と眺めていた殺人鬼は、俺の行動にきょとんとした態度で疑問符を添えた。
「な、何してるの?松添くん」
殺人鬼の、この素っ気ない態度に、俺はいよいよカチンときた。声を荒げる。
「馬鹿野郎!! 早く助けないとこの人は……」
「23歳だよ」
殺人鬼は、低いトーンでぼそりとつぶやいた。
「え?」
心臓を抉り取るような鋭い声。
背筋が凍りつく。
冷や汗が滲む。
おそるおそる、視線を殺人鬼に戻す。
殺人鬼は、紅い苺ジャムを塗りたくった顔に、不敵な笑みを浮かべた。
殺人鬼の頬を、一筋の紅い雫が零れ落ちた。
「私は知ってるよ。この人は23歳だよ、松添くん。私は何1つ間違ったことなんかしてないし、むしろ正しいことをしたんだよ。だってさ、どうせ誰かに殺されるんだから、私が一瞬であの世に送ってあげた方が……」
バシッ!!
乾いた音。周囲の時間が一瞬凍結した。
周囲の空気が一瞬凍結した。
俺の脳に大量の血液が逆流している。
ユルセナイ……。
ただ、脳がそう処理したことにより、次の行動を決定させてしまっていたのだ。目の前の殺人鬼を殴れ、と。無意識のうちに。
俺が杏奈を殴ったという事実に気がついた時には、脅迫的な後悔の念に襲われていた。
ど、どうしよう……?
杏奈を、女の子を、殴ってしまった……。
やばい……。
冷や汗が滲む。
冷や汗が頬を伝う。
鼓動が肋骨を叩く。
と、とりあえず、あ、謝らないと……。
「ご、ごめ……」
「……」
殺人鬼は、叩かれた左の頬を庇った。左頬に増殖する紅い花。
そして、殺人鬼は、俺をジロリと切れ長の目で睨みつけると、
「松添くん……キミはおかしいよ」
低く唸るような声。
地獄からの使者のような、おぞましい声。
突如、背中に氷を入れられたような感覚に襲われた。
背筋を言い知れぬ戦慄が走った。
激しい鼓動が、肋骨を突き破る。
胃袋から逆流する、酸っぱい流動体。
すんでのところで、ゴクリと飲み込む。
ぐわ……。
ボロボロになりゆく思考回路が、最後に俺の脳に伝達した言葉。
おかしいのは、俺の方なのか……?
答えが欲しかった。
無性にその質問の答えが欲しかった。
胸の中で暴れる鼓動。
怖気に縮んだ背筋。
……。
落ち着け……。
真実を、見極めるんだ。
騙されるな……。
俺が正しいんだっ!!
正しいのは、お前じゃないっ!!
正しいのは、この俺だっ!!
この俺が……間違っているわけ、ないじゃないか……。
その執念が、俺の視力を取り戻してくれたのかもしれない。
しかし、正気に戻った俺を待っていたのは、背後からの複数の痛い視線だけだった。
「……」
「……」
通り付近を歩いていた少年少女たちが、いや、殺人鬼たちが、俺の背中に冷ややかな視線を送っていたのだ。
そう、まるで軽蔑するかのような、まるで侮辱するかのような、冷ややかな視線の嵐。
決して、俺を後押ししている視線には見えない。
決して、俺を憐れむような視線には見えない。
四面楚歌。
体が竦む。
壊れかけた俺の心に、奇妙な疎外感が芽生えた。
「う……あっ……」
鼓動が破裂した。
思考回路がパンクした。
視界が粉々に砕け散った。
何だ……?
何なんだ!?
こいつらは……!?
イ、イカレテル……!!
乳母車の金切り声だけが、脳内にしつこく塗りたくられていた。