第1話:「子供」
この物語は絶対にフィクションです。作者の想定した世界観の中で物語を進めています。登場人物と同一もしくは類似した行動を取らないでください。
目の眩む黄色い太陽光が、濃緑の木々の隙間から差し込んでいる。
木々のさざめきや小鳥たちの合唱を耳元で遊ばせながら、木々の呼吸を肌で浴びながら、俺は足を弾ませていた。
疲弊しきった心や脳に、冷涼なエネルギーが注ぎ込まれる。
それは、何気ない登校時間の一部分に過ぎなかった。
けれども、この学校前の細長い緑道をひとたび通れば、そんな自然のエステを満喫できた。
日常の心の曇りや霞さえ、ありとあらゆる負の要素を洗い流してくれそうな木々。小鳥たち。
そう、俺にとっては登校時間などという枠を凌駕していたのだ。
瑞々しく、清々しい時間。
自然からのエネルギーを一身に受け、疲弊しきった心や脳を洗濯する時間だった。
しかし、そんな至福の時間も束の間。長くは続かなかった。
「松添くん、おはよう」
突如、背後から殺人鬼の柔らかい声が掛かったのだ。舐めるような、柔らかい少女の声。
立ち止まる。
凍てつく背筋。
痙攣する心臓。
頬をつたう汗。
背後に、ねばねばとした視線を感じる。
気持ち、悪い……。
破裂せんばかりに、痙攣する心臓を押し殺し……深呼吸。
ふう……。
息を整え、背後を振り返った、視線の先には……。
セーラー服に身を包んだ殺人鬼が、緑色にまどろみながら、冷たい笑顔を浮かべていた。
瞬間、背筋を不快な寒気がなぞった。
どこからか、木々のさざめきと小鳥たちの合唱。
その合唱の割れ目を縫うかのように、殺人鬼の、ズルズルと地を這うような足音。
再び、痙攣に侵される心臓。
心臓が、皮膚を蹴破って飛び出さんばかりに苦しんでいる。
いつの間にか、目の前に咲く、殺人鬼の愛くるしい笑顔。
怖い……。
来るな……!!
心臓が破裂するのを必死に堪えた後、俺も慌てて言葉を紡ぎ出す。
「おっ……おはよう。……ええっと? も、萌奈?」
「もーう、何度言ったらわかるの? 松添くん。私は杏奈だって言ったでしょ!」
殺人鬼は口を尖らせ、風船のように頬を膨らませた。
ピンと張っていた体内の神経が、急速に緩和されていく。
鼓動のうねりも収束を迎えたようだ。
俺は、どうやら落ち着きを取り戻したようだ。
「あ……。悪い悪い」
「高校に入学して1ヵ月も経つのに、覚えてくれないなんてひどいな」
「昔、双子の友達がいなかったからよ。すまんな」
俺は苦笑をこぼす。
杏奈はぷいとそっぽを向いた。
高校入学からの1ヵ月。
つまり、杏奈が殺人鬼だと知ってからの、この1ヵ月。
正直、心が痛かった。
こんなに無垢な少女が、自らの両親を殺めていたなんてこと……。
血の部屋。
脳内に衝撃が走る。
血の海に埋もれた、少女の笑顔。
……やめろ。
信じたくなかった。
でも、逃れられない事実だった。
杏奈は、殺人鬼……。
それは、決して揺るがない事実だ。
でも、俺は、殺人鬼と友達になったんじゃないっ!!
杏奈という、1人の女の子と友達になったんだっ!!
そう、信じたかった。
信じたい……!!
これからも、ずっと。
俺は、杏奈という1人の女の子と友達になった、ということを……!!
突如、木々の隙間から、横暴な水滴がパラパラと降り注いだ。
雨……?
空が、鼠色に汚れていた。
「天気予報では晴れるって言ってたのに……しゅんっ!」
かわいらしいくしゃみを零す杏奈。杏奈は、キッと灰黒の雲に支配された空を睨みつけた。
ここは、学校の昇降口。
突然の降雨に見舞われた。
眼前に広がる校庭は、びちゃびちゃと不快な怪音を発しながら、無数の水溜りを造成していた。
何とか学校の玄関に辿り着いたものの、俺も杏奈も全身ずぶ濡れになってしまった。
制服と素肌がピッタリとへばりつく。革靴と冷え切った足先とがへばりつく。
……不愉快だ。
募る苛立ち。
催眠的な春の日差しを、至福の時間を奪われてしまい、俺の脳内もどろどろとした曇天が支配していた。
ああ、この苛立ちをどう発散すればよいのか。
ザーーッと小気味よいソプラノを奏でながら、水滴の軍団はそんな俺たちを嘲り笑っているようだった。
「いいや、行こうぜ。杏奈」
「よくないよー!」
杏奈は、タオルを被りながら口を尖らせた。
陰鬱な気分のまま、俺と杏奈は校舎内に吸い込まれていった。
薄暗い階段。
鈍い黄色の蛍光灯が点滅をしている。
キュッキュッ……。
階段をのぼるたびに、啜り泣きのような悲鳴を上げる上履き。
そして、階段をのぼり終えた途端に、視界に飛び込んできたのは、細長い廊下だった。
普段ならば、ぽかぽかとした太陽光が、燦々と降り注ぐ贅沢な廊下だ。
しかし、今日のように、どろどろとした曇天では薄暗く陰気な、ジメジメとした廊下が広がっていた。
気持ち悪いな……。
手前の教室が、俺と杏奈の教室だった。
俺が扉を強引に開け放った瞬間、突如おぞましい光景が眼に飛び込んできた。
「キャッ!?」
杏奈から発せられる、空気を切り裂くような悲鳴。
植えつけられる恐怖の種。
戦慄が走る。
暴れだす鼓動。
血の気が引いていく。
当然だ。
見知らぬ男が、首を吊っていたのだから。
力なく伸びきった手足。
縦横無尽に広がる、茶色い嘔吐物。
吐き気を催す光景に、俺は言葉を失った。
「またか……」
零れる溜息。すっかり見飽きたような光景。
しかし、クラスメイトたちは、男になど目もくれず、談笑の花を咲かせているだけだった!!
素っ頓狂な悲鳴を上げていた杏奈も、それきり怖がることはなかった。それどころか、友人たちの輪の中に元気良く飛び込んでいった。
殺人鬼たちの輪の中で、殺人鬼は愛くるしい笑顔を見せつけていた。
やっぱりな……。
死体なんて「彼ら」には……。
恐怖の種が芽をひらいた。
鼓動がトクトクと鳴り響く。
不穏な空気が漂う教室内。
俺は、恐る恐る男を見上げた。
苦しいのか。それとも、恨めしいのか。しわくちゃに歪んだ形相。殺人鬼たちを見下ろす、鬼のような形相。焦点のブレた瞳が、捲れ上がった目蓋の下から覗く。
クルシイ……。クルシ……。
悲痛な呻き声が、脳内にとめどなく響き渡る。
しかし、そんな呻き声も掻き消されてしまった。
クスクス……。アハハハハハハッ……。
殺人鬼たちの囁きや下品な笑い声が、脳内に響き渡りはじめる。
ザーーッ……。
灰黒の空から吐き出された液体もまた、容赦なく教室の窓ガラスを叩きつけている。
まるで、この男の運命を嘲り笑うかのように。
様々な音が、脳内で不可解に交わり合い、こびりついて離れない。
ドロドロに汚染される脳内。
脳が頭蓋骨を締め付ける。脳が頭蓋骨を叩く。
緑色にまどろむ、殺人鬼の冷たい笑顔。
そう、死体など「彼ら」には……ほんの装飾品にしか過ぎないのだ。
何故なら、この世界には「子ども」しか存在してはいけないのだから……。