6. ディス・イズ・ハードコア
四月もあっという間に下旬となった、ある金曜日の昼休み。俺は相変わらずコンビニで買ったパンを口に詰め込んでいる。いつもなら正面にリョウがいるはずだが、今日は先生に呼び出され不在だ。目の前にいつもののっぽがいないと、随分と見晴らしがいい。
「ヒロトってハードコアは聴くんだっけ」
常日頃、昼休みは教室にいないはずのミホがいつのまにか戻ってきていて、自分の席から声をかけてきた。あまりの唐突さに唖然としていたが、なんとか口に含んでいた物を飲み込んで口を開く。
「まあまあ聴くよ。積極的にライブ行ったりはしないけど」
言いながら体の向きを変えると、スマホを操作するミホが視界に入った。
こいつ自分から話しかけておいてスマホかよ……。と思ったが、話はちゃんと聞いているらしい。返事はすぐに返ってきた。
「ガチなハーコーイベントとか怖いよね」
会話を始めた俺たちに、少ないながらもクラスメイトからの視線が集まる。あの日以来、教室で簡単な雑談をするようになった俺たちを、腫れ物を扱うようにクラスメイトは眺めるようになってしまった。
とはいえ、これくらいならもう慣れた。
「特にジャパコアとかおっかないイメージ」
俺は古典的なモヒカン鋲ジャケットのパンクスを想像しながら言った。
それに対し彼女は、
「確かに。ハードコアだと、私はユースクルー系結構好きかな」
と話題を展開する。
かっこいいよねストレートエッジ。手の甲にバッテン描きたくなるね。冗談でやったらはっ倒されそうだけど。
「意外と男臭いやつ好きなんだな。俺結構ビートダウン系好きだよ。宿題やってるときに流すとめっちゃ捗る」
「モッシュやばいやつじゃん」
「サイコビリーのレッキングよりマシでしょ」
「あー。アレは確か殴り合いなんだっけ」
ああ、打てば響くような会話が気持ちいい。最早ヨウちゃんと共通点があるとかないとか関係なく他愛のない会話が楽しい。
気がつけば、間に土日を挟んだりしたので厳密ではないが、この一週間ほど結構会話が弾んでいた。
例えば、
「俺もエモリバイバルとか、リアルスクリーモとか好きだな」
「わざわざリアルってつけなきゃいけないのダサいよね」
「わかるー。スクリーモ? セイオシンとか? 合ってるけどちげーよってなる」
「クソわかる」
「まあセイオシンかっこいいよね。アンダーオースとかも好きだわ」
など。
また別の日は、
「第一回ジミー・イート・ワールドはエモかエモじゃないのか会議ィー。イエーイ」
「やめろ死人が出る」
「まあ、エモだけどエモじゃないって感じだよな」
「複雑な心境だよね」
「まあカッケーからいいんだけどさ」
「それな」
などと。
思っていた以上に、馬が合うらしい。積極的に深い交友関係を築こうとしなかったせいか、言いたいことを適当に言える環境が存外に心地よかった。
何かしらスマホを操作していたミホが再び口を開く。口角が若干上がっている。なんか企んでるのか?
「あ、そうそう。ロシアのバンドなんだけど、レテニェ・ヴォイニ? ってやつ知ってる?」
そう言いながら彼女はスマホの画面を見せてくる。見知らぬアートワークだ。残念ながら、俺はキリル文字なんて読めないし、このバンドも知らない。
「は? ロシア? なにそれ」
「勝ったな」
「はぁ? 勝った? なにが勝ったじゃい、いきなり知識マウントかよ」
目の前の目隠れ女が渾身のドヤ顔を披露している。なお、ほとんどドヤれて無い模様。あれって『目』が大事なんだな。前髪で隠れていなければ、あの黒目がちな瞳を得意げに輝かせているのを拝めたかもしれない。
「中々かっこいいからおすすめ。音作りとか北欧叙情系っぽさがある」
「叙情系かあ、あんまり知らねえな」
初めの頃は俺から話しかけることがほとんどだったが、最近はこうやって向こうからちょっかいを出してくることも増えた。ただ、こんな具合で脈絡がなかったり、いちいち突っかかってくる感じが多いのが玉に瑕である。
だから友達いないんじゃねえ?
少し胸が痛む気がするが気のせい気のせい。
まあ、マニアックなバンドって、知ってるだけでなんか特別感あっていいよね。わかるわかる。しかしどこでそんな非英語圏のバンド見つけてくるんだろうか。
明らかに表情のバリエーションが増えた彼女が、さっきのバンドの聴きどころをつらつらと述べているのを受け流しながら、食べ終わったパンの袋を畳んでいく。少し、手元に意識をやった時、ふと思い出した。
「あ、そういや、バンドどうすんの? イエスかヤーどっち?」
視線を上げれば、彼女は『完全に忘れていた』という顔をしている。少しの間眺めていると、小さく開いたままの口が、モニョモニョと歯切れの悪い言葉を紡ぎ始めた。
「い、いや、あの……。バンド、ね……」
「イエス、オア、ダー、どっち」
「いや、なんというか……」
ツッコミがない。選択肢が無い系の冗談だったんだが、わかりにくかったか。
「や、やってもいい……」
「お……マジか。スパシーバ」
「すぱしーば? ま、まあ、その。あんたのベース聴かせてよ。それで次第でやってもいい……」
ベースかあ。ネットでいろいろ探してるけど、微妙にピンと来なくてまだ買ってないんだった。今度は俺がすっかり忘れていたようだ。
「あー、そういやまだベースねえや」
ん、ポロリしちゃった。ヤバいかも……。
一瞬、彼女の頭上にハテナマークが見えた気がするがすぐに答えに辿り着いたようだ。なんとも言えない表情になる。
「はああ!? あんた楽器無いの!? 経験は!?」
おそらく過去最大級の大音声だろう。教室に残っていた数人がギョッとしてこちらを見る。
「ないんだなぁこれが」
全てを諦め言い切ると、ミホは驚くべき素早さで俺の左手を取り、指先を確かめ始めた。
なんだか、女性に指先を弄ばれるのはムズムズするな、とぼんやり考えていた。
「マジだ……素人の指だ……」
前髪の奥に隠れた目が、所謂ジト目になっているのを感じる。うわはは、笑うしかない。
「あんた、これで私にバンドやろうやろう言ってたわけ? あんなに自信満々で?」
「あっ、じゃあ明日買いに行こうぜ。そんときに判断してよ」
「楽器舐めんな」
「……ごもっともでございます」
しかし、多分弾けるだろうという確信がある。宅録でベースを弾いていた前世の経験があるからだ。それに。ベーシストを侮辱するわけじゃないが、ギターとベースを比較すれば圧倒的に後者の方が習得が容易だ。まあ、突き詰めればどんな楽器も修羅の道なので、あくまで一般論だが。指先こそ純真無垢なままだが、いけるいける。
「なんにせよ、楽器買わなきゃいけないんだからさ、ちょうどいいじゃん」
ゴリ押しである。さっきまであんなに和気藹々としていたはずが、彼女の表情や声音が氷点下だ。それでも、明日は付き合ってくれるらしい。ただ、了承を告げる態度が妙に白々しい。こりゃもう、『やっぱやめる』的なことを決意しているんだろうな。
俺は作り笑いでやり過ごすことにした。要は明日よ。最近左手のストレッチの成果が出てきたんだ。ビビらせたる。
****
待ち合わせの時間から、すでに20分が過ぎていた。
駅前広場、待ち合わせ場所の定番だ。次々と人が訪れ、待ち合わせの目的を果たし次の場所へ去って行く。
あいつめっちゃ待たせるやん。向こうから友達に追加されたラインには既読すらつかない。さっきなんて、俺より後に来た人が先に待ち人来てましたね。
なんだこれ、すっぽかされた?
どうしたもんか。楽器店の場所は調べてあるので、一人でもなんの問題もない。
問題はないけどね! 普通に何も言わずに予定すっぽかすのは、失礼じゃないかな!
おにいさんそういうのどうかと思うよ! なんかあったのかとか心配になるじゃん!
「……アホくさ」
ひとりやきもきしていてもしょうがないので、先に楽器店へ向かう旨のメッセージでも送ろう。そう頭を切り替えて、スマホを取り出したタイミングで見覚えのある癖っ毛頭が視界の隅に現れた。
向こうも俺に気が付いたらしく、軽く片手をあげると、若干早歩きで隣までやって来た。
「おーもじゃもじゃきたきた」
「やっぱあんた殺すわ」
「……まずはラインの無視と遅刻を謝ろうか」
遅刻は癖になるからね、気をつけようね。
「ぐぬぬ。ご、ごめんなさい」
なんとなく、申し訳なさげな空気を醸し出す彼女の頭に手を置いた。チャコールグレーのパーカーに、黒いスキニージーンズを履いた彼女の姿が、ヨウちゃんと重なったせいだろうか。身長を追い越した頃から、よくこうやって揶揄っていた。
「死ね」
パッと、手を払われた。
「ああ……悪い。なんか従兄弟ん家の猫みたいでつい」
咄嗟に嘘をつく。また、あの喪失感がやってきた。
「うし、ちゃちゃっといくべ」
「クソが」
やっぱこの子めっちゃ口悪いよね。絶対ヨウちゃんの方が言葉遣い丁寧だったわ。
そして、今までピンと来なかったことが嘘のように、ドンピシャの楽器が見つかった。まさかの一軒目、入店から五分のことだ。
「これいいじゃん」
青緑色をしたフェンダージャガーベースだ。中古ではあるが、その分若干お求めやすいお値段になっている。
「えー、ジャガーベース? もっと普通のにしたら?」
意外にもミホが横から口を挟んできた。いや、俺はジャガー愛好家だぞ。独特のオフセットボディーがスケべでいいじゃないか。それはギターもベースも変わらない。
「うるへえ。これでもピックアップレイアウトはPJタイプだし、音は十分正統派なはずだろ」
「未経験の癖によく言うわ」
「ビグスビー付きSGのフロントに無理やりP90載せた奴に普通を説かれてもなあ」
よし、これと決まれば試奏して状態確認アンド俺が弾けることの証明だ。手頃な店員を捕まえなければ。
「私、ギターの話したっけ」
してないな。完全に、気を抜いていた。音色によって確信はしていたが、ギターの詳細について話しをした記憶はない。これは完全にヨウちゃんの先代ギターのつもりで話をしていた。
「……シテタヨ」
「したかな……」
見える見える。前髪の下、胡乱な目が。
「店員サァン! これ、このベース、試奏お願いします!」
三十六計逃げるに如かず。幸いにも記憶があやふやのようだ。俺は逃げるね!
「——どうぞ」
「ありがとうございます」
店員から、チューニングを済ませた楽器を手渡される。最近の店員って、これ見よがしに弾きまくったりしないんだね。俺、割とあの威嚇みたいなアピールみたいな時間好きだったんだけどな。
「これで弾けなかったら、私帰るから」
「ええーんマジで? めっちゃドライじゃん」
相も変わらず刺々しい。まあ、最近はこういう辛辣さを求めてる感あるけどね。一応まだ変態さんじゃないよ。フツーフツー。
脳内のくだらない感想を一段落させると、ネックの第一ポジションのあたりを握り込む。親指以外のそれぞれの指先に、冷たい金属の感触が伝わる。ギターの弦よりも太く、存在感のある四本のそれは、適切に調整されているのか軽い力で押弦できる。
しかし、俺の柔らかな指先には、少し荷が重いだろう。しばらく弾けば、すぐに痛み出すことが予想できる。まあ、それくらい覚悟のうえだ。
最も太い四弦から一弦まで、右手で握ったピックで弾けば、アンプから程よいアタック感のある低音が響いた。
うーん極上の普通な音。フェンダー系大好き。まあ、アンプ直でこの音なら問題ないでしょう。ネックの握り心地もいい。
「それで弾けるなんて言うつもり?」
「まあまあ」
せっかちちゃんめ。ちょいと待ってくれよ。
俺はアンプ側の設定を変えて、もう少しアタック感の強い、ドンシャリ気味の音作りに変えて行く。
——まあ、こんなもんか。
音作りに納得すると、いくつかスケールを試す。うん。問題なく指も動くし、楽器の不具合もない。
隣で腕を組む彼女の様子を横目で窺えば、真剣な雰囲気に変わっている。まあ、スケールだけでもどれだけ弾けるかなんとなくわかるよね。
一度、息を吸って吐き出した。頭の中でテンポを刻み、曲の出だしをイメージする。
「いくぜー」
かつてのバンドで作り上げた曲——今はミホがデモとしてアップしている曲——を奏で始めた。アレンジなんかはみんなで加えたのだ、ルート弾きと少しのオカズくらいなら、俺でも弾ける。
果たして、無事ワンコーラス分を弾ききることができた。ぶっつけ本番にしては、よかったのではないだろうか。
ミスがなかった訳ではない。むしろ、もう少しなんとかなったのでは感があるが、運指やピッキングなど、イメージトレーニングしかしていない状態でこれだけ弾ければ上出来か。
それでも、隣に佇むはずのミホに向き合うことが、不思議と緊張した。
「どや? 弾けてるっしょ……?」
「……嘘でしょ? 耳コピ? ド素人が?」
してやったぜ。
「んじゃ、バンド、よろしく」
俺が握手を求め左手を差し出すと、若干呆けたような、混乱した様子のミホが、ゆっくりと手を差し出し、手を握り返してくる。
たったのワンコーラスで、指先はジンジンと痛む。すっかり赤くなった指で触れる彼女の体温は、熱湯のように熱く感じた。
楽器は即決、あとは小物とエフェクターがあれば問題ない。店員にこのベースを購入することを伝え、準備してもらう間に店内を物色する。
「シールドはまあ、おいおい買い換えるとして安物でいいか」
「本当にあんたヒロト? 別人じゃないの」
さっきからこの調子だ。笑えるくらい狼狽えている。学校のクラスメイトが、こんな彼女を見たらどう思うだろうか。なかなか愉快である。
「見ろよこの指。まっかっか。これが経験者に見える?」
「いや、痛そうだけど……。でも、あんな弾けるとかおかしいって」
まあ、おかしいよな。ペーペーの素人が、初めて触る楽器をバリバリに弾けばそりゃおかしく思うわ。
でもしょうがない。これであとドラムがいればトリオでバンドが組める。そのためにベースに転向しようと決心したのだ。そんな些細なこと、どうだっていいじゃん。
のらりくらりと追求を避け、エフェクターコーナーにたどり着く。ガラス製のショーケースの中には、色とりどりのエフェクターが陳列されている。
男の子はツマミとスイッチが好き。つまり俺はエフェクターが好き。
しかし、ベース用のエフェクターにはそこまで造詣が深くない。定番のものでいいだろう。
「ん、MXRのベースDIでいいか」
「サンズじゃだめなの?」
再びの横槍。意外と人の機材に口を出す質のようだ。
「サンズは、全部同じ音になるから……」
これはうちのベーシストの受け売り。
「あ、なるほど」
どうやら同意を得ることができたようだ。
俺は購入用のカードを一枚抜き取り、レジに向かった。